← 資料一覧へ · EPUBをダウンロード

神のみ前に生きる

ご復活のラウレンシオ修道士(ブラザー・ローレンス)

表紙

目次

序文

三百年以上も前、フランスのある修道院で、一人の人が喜びに満ちて生きるための秘訣を見いだしました。その人、ニコラ・エルマンは十八歳のとき、自然が教える素朴な一つの真理を通して、神の力と摂理を垣間見ました。その後の十八年間を、軍務と公職に携わって過ごします。やがて人生の半ばにしばしば訪れる「心の乱れ」を覚え、修道院に入りました。そこで共同体の料理係となり、サンダル作りにも従事しました。

しかし何より大切なのは、彼がそこで、喜びのうちに生きる素朴な道を見いだすまでの三十年にわたる歩みを始めたことです。今日と同じように困難の多い時代に、後にラウレンシオ修道士と呼ばれるようになったニコラ・エルマンは、絶えず神の現存のうちを歩む、まっすぐで簡素な生き方を見いだし、それを実践しました。

ラウレンシオ修道士は穏やかで、明るい心の持ち主でした。人の注目を浴びることを避け、外からの気晴らしは「すべてを台なしにする」と知っていました。彼の手紙のうち、わずかなものが集められたのは、彼の死後のことです。当地の大司教代理であったジョゼフ・ド・ボーフォール師は、その手紙と、ラウレンシオ修道士との四度の対話の記録とを一冊にまとめ、『神の現存の実践』という小さな本を刊行しました。

この本の中でラウレンシオ修道士は、頭で考え出したものではなく、心から生まれる姿勢をもって、いつも神とともに歩むにはどうすればよいかを、素朴に、また美しく語っています。彼が遺したのは、神の平和と現存を知りたいと願うすべての人に開かれた生き方です。年齢や置かれた境遇を問わず、だれでも、どこにいても、いつでも実践することができます。

『神の現存の実践』のすばらしさの一つは、そこに一つのまとまった道が示されていることです。四つの対話と十五通の手紙――その多くは、親しくしていた一人の修道女に宛てられたものです――を通して、神の現存のうちに生きるためのまっすぐな道を知ることができます。それは三百年を経た今もなお、日々の生活の中で実践できる道なのです。

第一の対話

私が初めてラウレンシオ修道士に会ったのは、一六六六年八月三日のことであった。彼は、十八歳で回心したとき、神から格別の恵みを受けたと語った。

冬の日、葉をすべて落とした一本の木を見て、ほどなく新しい葉が芽吹き、やがて花が咲き、実を結ぶことを思った。そのとき彼の心に、神の摂理と力についての深い悟りが与えられた。それは生涯、彼の魂から消えることがなかった。この体験によって世への執着からすっかり解き放たれ、神への大きな愛が燃え上がった。その愛はあまりに深く、それから四十年を経た今も、初めのころより増したとは言えないほどであった。

彼は以前、会計官のフュベール氏に仕えていたが、ひどく不器用で、何を手にしても壊してしまったという。その後、修道院に迎え入れてもらいたいと願った。そこなら、自分の不器用さや過去の過ちを、より目覚めた生活へと改めることができると考えたからである。自分の一生とその楽しみを、神へのいけにえとして献げるつもりだった。ところが神は、その予想を裏切られた。修道生活の中で彼が見いだしたのは、喜びばかりだったからである。

私たちは、神が現にともにおられるという確かな真理の上に生活を据え、絶えず神と語り合わなければならない。取るに足りないことや愚かなことに気を奪われ、神との語らいをやめてしまうのは、恥ずべきことである。神についての気高い思いで魂を養い、力づけるなら、神に身を献げる大きな喜びに満たされる。

私たちは信仰を強め、それにいのちを吹き込まなければならない。人の信仰がこれほど乏しいのは嘆かわしい。信仰に日々の行いを導かせる代わりに、毎日のように形を変える、取るに足りない信心業に心を奪われているからである。信仰の道こそ教会の精神であり、それだけで人を高い完成へと導くことができる、とラウレンシオ修道士は語った。

また、現世のことにも霊的なことにも、すべてにおいて自分を神に委ね、ただ神のみ旨が行われることのうちに満足を見いだすべきだという。神が苦しみを通して導かれるときも、慰めを通して導かれるときも、同じように受け入れなければならない。真に神へ身を委ねた魂にとっては、どちらも等しいからである。

霊的な渇き、何も感じられないとき、倦怠のときにも、祈りに忠実であることが必要である。神はそれらを通して、私たちの神への愛を試される。そのようなときこそ、真実で実りある自己奉献を行う好機である。霊的に前進するためには、それをたびたび新たにするとよい。

彼は日々、世にある悲惨と罪について耳にしていたが、それに驚くことはなかった。それどころか、人がどれほどの不正を行い得るかを思えば、悪がもっと多くないことのほうが不思議だと語った。彼自身は罪人たちのために祈っていた。しかし神が望まれるときには、彼らのもたらす害を正すことがおできになると知っていたので、そのことに心を奪われはしなかった。

神が求めておられる自己奉献に至るには、霊的な事柄にも、より粗野な性質の事柄にも入り込んでくる、あらゆる情念の動きを注意深く見張らなければならない、と彼は言った。私たちが真心から神に仕えたいと願うなら、神ご自身がそれらについて光を与えてくださる。

この最初の対話の終わりに、ラウレンシオ修道士は私に言った。神に仕える道を真剣に語り合うために来るのであれば、迷惑ではないかと案じることなく、何度でも訪ねてきてよい。しかし目的がそうでないなら、もう訪ねてきてはならない、と。

第二の対話

ラウレンシオ修道士は、自分はいつも愛に導かれてきたのであって、そこに利己的な思いはなかった、と語った。すべての行いの目的を神への愛に置こうと決心して以来、この道に深い満足を覚えていた。神を愛するために地面から一本のわらを拾うだけでも喜びであった。彼が求めていたのは神だけであり、神の恵みさえ求めてはいなかった。

彼は長い間、自分は滅びに定められていると思い込み、心の苦しみに悩まされていた。世界中の人がどれほど説得しても、その思いを変えることはできなかっただろう。だがついに、こう考えるようになった。

「私が修道生活に入ったのは、ただ神への愛のためだった。私は何をするにも、神のためだけに行おうと努めてきた。この先、私が滅びようと救われようと、変わらず純粋に神への愛のために行い続けよう。少なくとも、死ぬまで全力を尽くして神を愛したという、この一つの善だけは残るだろう」

この心の苦しみは四年間続き、その間、彼は大いに悩んだ。しかしその時期を過ぎてからは、完全な自由と絶えることのない喜びのうちに生きていた。自分の罪をありのまま神のみ前に置き、恵みを受けるに値しない者だと申し上げた。それでも神は、あふれるほど豊かに恵みを注ぎ続けてくださると信じていた。

絶えず神と語り、することの一つひとつを神に申し上げる習慣を身につけるには、初めのうちは多少の努力をもって自分を神に向けなければならない。しかししばらく続ければ、やがて神の愛が内から人を動かし、何の苦もなくできるようになる、と彼は言った。

神から穏やかな日々を与えられた後には、痛みと苦しみの時が訪れるだろうと、彼は考えていた。しかし、それを心配してはいなかった。自分の力では何一つできないとよく知っていたし、神が必ず、耐える力を与えてくださると信じていたからである。

何かよい行いをする機会が訪れると、彼は神に向かってこう言った。「主よ、あなたが力をくださらなければ、私にはこれをすることができません」。すると、必要を超えるほどの力が与えられた。自分の務めを果たせなかったときには、ただその過ちを告白して、こう申し上げた。「自分の力だけに任されたなら、私はいつもこのようにしか振る舞えません。私が倒れないようにし、間違ったものを正してくださるのは、あなたです」。そう告白した後は、起きてしまったことを思い煩わなかった。

神に対しては、どこまでも単純でなければならない。率直に、飾らずに神と語り、すべてのことについて助けを願い求めるのである。神は彼を助けることを一度もお拒みにならなかった。彼はそれを幾度となく経験していた。

少し前、共同体のために葡萄酒を買い付けるよう、ブルゴーニュへ遣わされたと話してくれた。商売事にはまったく向いていなかったうえ、足が不自由で、船の中では樽の上を這うようにして移動しなければならなかったので、ひどく気の進まない仕事だった。それでも彼は不満を抱かず、この旅と葡萄酒の買い付けを神に委ねた。そして神が取り計らってくださり、すべてがうまくいった。前年にも同じ用事でオーヴェルニュへ遣わされていた。どうしてそうなったかは自分でも説明できなかったが、そのときもすべてがよい結果に終わったという。

生まれつきひどく嫌っていた台所仕事についても同じだった。すべてを神への愛のために行うことを身につけ、祈りながら、神の恵みに動かされて働いた。台所で働いた十五年の間、何もかもが楽になった。今の務めには大いに満足していたが、以前の仕事に戻るよう命じられれば、いつでも戻るつもりだった。どのような境遇にあっても、小さなことを神への愛のために行い、神を喜ばせることができたからである。

彼にとって、決められた祈りの時間は、ほかの時間と変わらなかった。長上の指示に従って祈りのために退いたが、そうした時間を欲しがることも、自分から求めることもなかった。どれほど忙しく働いていても、神の現存から心をそらされることがなかったからである。

あらゆることにおいて神を愛する義務があると知り、そのために努めてきたので、霊的指導者から事細かに指図される必要はなかった。ただ、自分の罪をゆるしてくれる聴罪司祭を必要としていた。彼は自分の過ちにはとても敏感だったが、それに落胆はしなかった。言い訳をせず神に告白し、その後は平安のうちに、いつもの愛と礼拝の実践に戻った。

心の悩みについて、だれかに相談することもなかった。信仰の光によって神がともにおられると知り、すべての行いを神に向けようと自分自身と向き合った。何をするにも神を喜ばせたいという望みに動かされ、その結果がどうなろうと受け入れた。

役に立たない思いがすべてを台なしにし、そこから災いが始まる、と彼は語った。そのような思いの空しさに気づいたら、すぐ退け、神との交わりに戻らなければならない。初めのころ、祈りの時間の大半を、さまよう思いを追い払いながら、またその思いに落ち込むことに費やしていた。ある人々のように、決まった方法で信心を整えたことはなかった。初めのうちはしばらく黙想を行っていたが、やがて、ほとんど自分でも説明できないまま、それを離れた。

愛によって神と一致するために役立たないなら、身体の苦行も、ほかの修練もすべて無益である、と彼は強く語った。このことを十分に考え抜いた末、神へまっすぐ向かう最も短い道は、絶えず愛を働かせ、すべてを神への愛のために行うことだと分かったのである。

知性の働きと意志の働きには、大きな違いがあるとも言った。知性の働きには、比較すればわずかな価値しかない。大切なのは意志の働きである。私たちのただ一つの務めは、神を愛し、神を喜びとすることなのだ。

神への愛を欠いているなら、どれほどの苦行も、ただ一つの罪さえ消すことはできない。心を騒がせず、イエス・キリストの御血によって与えられる罪のゆるしを待ち望み、ただ心を尽くして主を愛するよう努めるべきである。神は、最も大きな罪人にこそ最大の恵みをお与えになるように見えた。それは、彼らを神のいつくしみの記念とするためであるかのようだった。

この霊的な状態で味わった苦しみと喜びは、この世で経験する最も大きな苦しみや喜びとさえ比べられない、と彼は言った。そのため彼が願うことはただ一つ、神を悲しませないことだけだった。彼は過ちをいつまでも引きずらなかった。

「務めを果たせなかったときには、すぐそれを認めて言います。『私は放っておけば、いつもこのように振る舞う者です。自分の力では決して変われません』。果たせたときには、それが神から来たものだと認め、神に感謝します」

第三の対話

ラウレンシオ修道士は、彼の霊的生活の土台となったのは、信仰によって神をいと高く仰ぎ、その偉大さを深く心に刻むことだった、と語った。ひとたびその確信を得てからは、神への愛のためにすべてを行えるよう、ほかのあらゆる思いを忠実に退けることだけを心にかけた。

しばらく神を思わずに過ごしてしまっても、心を乱さなかった。その至らなさを神のみ前で認めた後には、以前にも増して深い信頼をもって神に立ち帰った。

神に寄せる信頼は、主に大きな誉れを帰し、豊かな恵みを私たちの上に注がせるという。神を欺くことができないのは言うまでもない。また、完全に神に身を委ね、神への愛のためなら何でも耐え忍ぶと決めた魂を、神がお見捨てになり、その魂がいつまでも苦しみ続けるということもあり得ない、と語った。

彼はこのようにして、神の恵みによる速やかな助けを、幾度となく経験していた。その経験があったので、何か仕事をしなければならないときにも、前もってあれこれ考えることはしなかった。行うべき時が来ると、澄んだ鏡に映るものを見るように、神のうちに、なすべきことを見いだしたのである。

外の仕事に気を取られ、神に向けた思いが少しそれると、神ご自身から新たな呼びかけが訪れ、彼の魂を満たした。そのたびに心は燃え上がり、我を忘れるほどになって、自分を抑えるのが難しいほどであった。信心のために仕事を離れて退くときより、外の仕事に携わっているときのほうが、神と深く結ばれていると語った。

いつか心か体に大きな苦しみが訪れることを、彼は知っていた。長い間味わってきた、神がともにおられるという感覚を失うことこそ、起こり得る最悪のことだと考えていた。しかし神のいつくしみが、決して彼を完全には見放さず、神が許されるどのような苦難が訪れても、それに耐える力を与えてくださると確信させていた。そのため、何も恐れてはいなかった。

自分の霊的状態について、人に相談する機会はなかった。一度そうしようとしたときには、かえって以前より心が迷った。神への愛のためなら命さえ献げる覚悟があると自覚していたので、危険を恐れることもなかった。

神に完全に身を委ねることは、天国へ至る確かな道であり、その道では、どう歩むべきかを知るための光がいつも十分に与えられるという。霊的生活で最も大切なのは、日々の務めを忠実に果たし、自分を捨てることである。そうするなら、言葉にできない喜びを味わう。困難の中では、ただイエス・キリストのもとへ行き、その恵みを願えばよい。その恵みによって、すべては容易になる。

多くの人がキリスト者として成長しないのは、個々の償いや修練には熱心でも、すべての目的である神への愛をないがしろにしているからである。それは彼らの行いを見れば明らかであり、確かな徳を備えた人がこれほど少ない理由もそこにある。

神へ向かうために、特別な技術も学識もいらない。ただ、神のほかには何ものにも自分を献げず、神への愛に生き、神だけを愛すると、固く決意した心があればよい。

第四の対話

ラウレンシオ修道士は、神へ至る道について、しばしば心を開いて私と語り合った。その一部はすでに述べたとおりである。

すべては、神へ向かうのを妨げるものを、心から手放すことにかかっているという。そうすれば、飾らず自由に、絶えず神と語り合う習慣を身につけることができる。神が今ここにともにおられることを、心の深いところで認めさえすればよい。そして、どうすべきか迷うときにはみ旨を知るための助けを願い、神が明らかに求めておられると分かったことは、正しく行えるよう助けを願うのである。

神との語らいの中で、その限りないいつくしみと完全さのゆえに神を賛美し、礼拝し、愛さなければならない。どれほど多くの罪を犯したかに気落ちすることなく、完全な信頼をもって恵みを願い求め、主イエス・キリストの限りない功徳により頼むべきである。神はいつも絶えることなく、私たちに恵みを差し出しておられる。

ラウレンシオ修道士は、このことを非常にはっきりと悟っていた。彼が神の助けを受け損ねることがあったとすれば、それは自分の思いをさまよわせ、神の現存を見失ったとき、あるいは神の助けを願うのを忘れたときだけだった。神を喜ばせることのほかに人生の目的を持たないなら、迷いの中で、神はいつも光を与えてくださる。

私たちが聖なる者となることは、仕事を別のものに替えることではなく、ふだん自分のためにしていることを、神の栄光のために行うことにかかっている。多くの人が手段と目的を取り違えているのは嘆かわしい、と彼は考えていた。人間的な思惑や利己心のために、ある種の行いに熱心になりながら、それをまことに不完全にしか果たしていないからである。

神へ至るために彼が見いだした最も優れた道は、ごくありふれたことを、人に喜ばれようとしてではなく、ただ神への愛のために行うことだった。

祈りに献げる時間と、そのほかの時間とは別のものだと考えるのは、大きな思い違いである。働くときには働くことによって、祈るときには祈ることによって、神と結ばれていなければならない。

彼の祈りは、ただ神の現存を覚えていることだった。そのとき魂は神の愛のほかには何も感じなかった。決められた祈りの時間が終わっても、何の違いもなかった。彼はそのまま神とともにいて、力の限り神を賛美し、ほめたたえた。こうして絶え間ない喜びのうちに生きながら、もっと強くされた暁には、神が何らかの苦しみをお許しになるだろうと待っていた。

私たちは一度ですべてを神に信頼し、完全に身を委ねるべきである。神は決して私たちの信頼を裏切られない。小さなことを神への愛のために行うのに、倦んではならない。神がご覧になるのは、行いの大きさではなく、それを行う愛の深さだからである。

初めのうち、たびたび失敗しても驚く必要はない。やがて一つの習慣となり、意識して努めなくても自然に行えるようになって、大きな喜びをもたらす。

信仰生活のすべては、信仰と希望と愛にある。この三つを実践するなら、神のみ旨と一つになる。そのほかのものは、これに比べれば重要ではない。それらは目的へ至るための手段として用いられ、やがて信仰と愛のうちに溶け込んでいくべきものである。

信じる者にはすべてが可能である。希望する者には困難が軽くなり、愛する者にはさらに容易になる。そして、この三つの徳をたゆまず実践する者には、いっそう容易になる。

私たちが目指すべきことは、この世にいる今から、できる限り完全に神を礼拝する者となることである。それは、永遠にわたってそうありたいと望んでいる姿でもある。

この霊的な道に入ったなら、自分が何者であるかを、深く見つめ、吟味しなければならない。そうすれば、自分はどれほどさげすまれても当然で、キリスト者と呼ばれるにも値しない者であり、あらゆる弱さを抱えていることが分かる。健康や気分、内と外の状態を絶えず揺さぶり、悩ませる無数の出来事にさらされている。ああ、私たちは、神が内にも外にも、さまざまな苦しみと労苦を通してへりくだらせることのおできになる者なのである。

そうであるなら、人から試され、反対され、言い逆らわれても驚くべきではない。むしろそれを受け入れ、神がお望みになる間、耐え忍ばなければならない。それは私たちにとって、きわめて大きな益となる。魂が望み得る最高の完成とは、神の恵みにまったくより頼むことである。

共同体の一人から――彼には心を開く義務があった――どのようにして神の現存を絶えず覚えるようになったのかと尋ねられたとき、彼はこう答えた。

修道院に入って以来、あらゆる思いと望みの目的を神に置いてきた。すべては神を目指し、神のうちに終わらなければならないと考えたのである。修練期の初めには、個人の祈りに定められた時間を、神について思うことに費やした。難しい論証や複雑な黙想によってではなく、信仰が与える光に従い、敬虔な心をもって、神がまことにおられることを自分の心に確信させ、深く刻みつけようとした。

この素朴で確かな方法によって、神を知り、愛する修練を積んだ。神が現にともにおられることを絶えず意識して生き、できる限り神を忘れないために、全力を尽くそうと決心した。

無限である神への思いで心を満たすと、台所へ仕事に出ていった。彼は共同体の料理係だった。そこでまず、務めとして求められている一つひとつのことを考え、いつ、どのように行うべきかを確かめた。そして仕事を始める前に、子が父に寄せる信頼をもって神に申し上げた。

「ああ、私の神よ、あなたは私とともにおられます。そして今、私はあなたの命に従い、心を外の仕事に向けなければなりません。どうか、あなたの現存のうちにとどまり続ける恵みをお与えください。そのために助けをもって私を支え、私のすべての働きを受け入れ、私の心をことごとくあなたのものとしてください」

働いている間も、造り主との親しい語らいを続け、恵みを願い、すべての行いを神に献げた。

仕事が終わると、自分がどのように務めを果たしたかを省みた。よくできていたなら、神に感謝した。よくできなかったなら、ゆるしを願った。そして落胆することなく心を整え直し、一度も道を外れたことがないかのように、再び神の現存のうちに生きる修練を続けた。

「私はこのように、過ちを犯すたびに立ち上がりました。信仰と愛の行いをたびたび新たにするうち、初めは神を思うことに慣れるのが難しかったのに、今では神を思わずにいるほうが難しいほどになりました」

神の現存のうちを歩むことから、ラウレンシオ修道士はこれほど大きな恵みを受けていたので、ほかの人々にも熱心に勧めるのは当然だった。しかしさらに驚くべきことに、彼の示す模範は、どのような言葉よりも強く人を励ました。穏やかで静かな信心がその顔に表れており、見る人の心を動かさずにはいなかった。

台所仕事が最も慌ただしいときにも、心と望みを天に向けたままでいることは、だれの目にも明らかだった。急いで取り乱すことも、手を休めて怠けることもない。一つひとつをなすべき時に行い、心の落ち着きと平安を決して失わなかった。

「私にとって、働く時間と祈る時間に違いはありません。台所の騒音と混乱のただ中で、何人もの人から同時に違う用事を頼まれているときにも、御聖体の前にひざまずいているかのように、神のうちに深い静けさを見いだしています」

第一の手紙

あなたは、神のいつくしみによって私に与えられた、神がいつもともにおられるという感覚に、どのようにして至ったのか、その道をぜひ知らせてほしいと熱心に願っておられます。そのたび重なる願いに動かされて、こうしてお伝えすることにしました。ただし、この手紙はだれにも見せないという条件があります。ほかの人に見せると分かっていたなら、あなたの成長をどれほど願っていても、書く気にはなれなかったでしょう。

私がお伝えできるのは、次のようなことです。

神へ至るためのさまざまな方法や、霊的生活のいろいろな修練を、多くの本の中に見いだしました。しかしそれらは、私が求めていたこと――自分のすべてを神のものとすること――を容易にするどころか、かえって私を迷わせるように思われました。

そこで私は、自分をまったく神に献げようと決心しました。すべてを神に委ね、自分の罪についてできる限りの償いをした後、神への愛のために、神でないすべてのものを手放しました。そしてこの世には神と私しかいないかのように生き始めました。

あるときには、裁判官の足もとにひれ伏す哀れな罪人のように、神のみ前に立ちました。またあるときには、心のうちで神を、私の父、私の神として仰ぎました。できる限りたびたび神を礼拝し、心をその聖なる現存のうちに保ちました。心がいつの間にかさまよい、神を思っていないと気づけば、すぐに神へ引き戻しました。

この修練には、少なからぬ苦労が伴いました。それでも、どのような困難が起きても続け、心が思わずさまよってしまったときにも、心配しませんでした。

これは仕事をしている一日を通しても、祈りの時間にも変わらず、私の務めとなりました。いつでも、毎時間、毎分、最も忙しく働いているときにも、神への思いを妨げるものを心から退けました。

修道生活に入って以来、私はこの実践を続けてきました。まことに不完全な仕方ではありましたが、それでも大きな益を受けました。すべては、ただ神のいつくしみと恵みに帰さなければならないと、よく分かっています。神なしには、私たちは何もできないからです。実に、何もできないどころではありません。

神の聖なる現存のうちに忠実にとどまり、いつも神を目の前に置いているなら、神を悲しませ、み旨に背くことができなくなります。またそこから、聖なる自由が生まれます。あえてこう言うなら、神との親しさが生まれ、必要な恵みを願うと、神がそれを与えてくださるようになります。

このような行いをたびたび繰り返すうちに、それは習慣となり、神の現存のうちにいることが、私たちにとって自然なものとなります。

どうか私とともに、神が私に示してくださった大きないつくしみに感謝してください。私はそのいつくしみに、いつも驚かずにはいられません。この私のような哀れな罪人に、神は数えきれない恵みを与えてくださいました。

すべてのものが神を賛美しますように。アーメン。

第二の手紙

霊的生活における私の歩み方について、私自身には何の迷いもありません。しかし、このようなことを記した本を見たことがないので、さらに確かなものとするために、あなたのお考えを伺いたいと思います。

数日前、信仰の深いある人と話をしました。その人によれば、霊的生活とは恵みによる生活であり、まず罰を恐れる心から始まり、永遠のいのちへの希望によって成長し、純粋な愛によって完成されるとのことでした。そしてそれぞれの段階には、あの幸いな完成へ至るまでに通る、いくつもの歩みがあるというのです。

私はそのような方法をたどりませんでした。なぜなのか自分でもはっきりとは分かりませんが、かえって気力をくじかれるように感じたからです。そこで修道生活に入ったとき、自分を神に献げ、罪の償いのためにできる限りを尽くし、神への愛のために罪をすべて捨てようと決心しました。

初めの数年間、信心のために定められた時間には、死、裁き、地獄、天国、そして自分の罪について考えることがほとんどでした。それが何年か続きました。しかしその間も、一日のほかの時間には、仕事のただ中にあってさえ、神が現にともにおられることへ注意深く心を向けました。神はいつも私とともに、しばしば私の内におられると考えていたのです。

やがて、ほとんど気づかないうちに、祈りの時間にも同じことをするようになりました。そこに大きな喜びと慰めを見いだしました。この実践から、私の内に神への非常に大きな愛が生まれ、信仰だけで心が満たされるようになりました。

これが私の歩みの始まりでした。しかし、初めの十年間はたいへん苦しんだことも、お話ししなければなりません。望んでいるほど自分を神に献げられていないのではないかという恐れ、絶えず心に浮かぶ過去の罪、そして神から与えられる、身に余る大きな恵み――これらが苦しみのもとでした。

その間、何度も倒れましたが、すぐまた立ち上がりました。すべての被造物も、理性も、神ご自身さえも私に逆らい、ただ信仰だけが味方しているように思われました。このような恵みを受けたと思うこと自体、思い上がりではないか。ほかの人が苦労してたどり着くところへ、あまりに早く行こうとしているのではないか。あるいは、すべては意図して自分を欺いているだけで、私には救いなどないのではないか。そのような思いに悩まされることもありました。

この苦しみが生涯続くとしても仕方がないと思っていました。それでも神への信頼は少しも弱まらず、かえってこの苦しみが信仰を強めました。するとあるとき、突然すべてが変わりました。それまで苦悩に沈んでいた魂に深い内的な平安が訪れ、安息の中心そのものに入ったかのようでした。

それ以来、私はただ信仰と謙遜と愛をもって、いつも神のみ前を歩んでいます。そして神を悲しませることは、何も行わず、何も考えないよう、心を尽くしています。自分にできることを果たした後は、神がお望みのように私を扱ってくださると、信頼して待ちます。

今、私の内に起きていることは、ほとんど言葉にできません。苦しみも困難も感じません。神のみ旨のほかに、自分の意志を持たないからです。あらゆることにおいてそのみ旨を果たそうと努め、すっかり身を委ねています。神の命に反するなら、地面から一本のわらさえ拾いません。何をするにも、ただ神への愛のために行います。

私は、自分の身分から義務づけられているものを除き、決まった形の信心や祈りをすべて手放しました。ただ神の聖なる現存のうちにとどまり続けることだけに努めています。それは、単純に神へ注意を向け、心をことごとく神に献げることによって保たれます。これを神の現実の現存と呼んでもよいでしょう。いや、もっと適切に言えば、魂と神との、習慣となった、沈黙の、ひそかな語らいです。

この語らいは、しばしば私を喜びで満たし、内面をすっかり捕らえます。ときにはそれが外に表れるほどになるので、感情を抑え、ほかの人に気づかれないようにしなければなりません。

一言で言えば、この三十年の間、私の魂は神とともにあったと確信しています。長くなりすぎないよう多くのことは省きますが、私が王である神のみ前で、自分をどのように見ているかは、お知らせしておくべきでしょう。

私は自分を、人のうちで最も悪い者、傷と腐敗に覆われ、王に対してあらゆる罪を犯した者と見ています。心から悔い改め、すべての悪を神に告白し、ゆるしを願い、自分を御手に委ねて、み旨のままにしていただきます。

ところが、いつくしみと慈愛に満ちたこの王は、私を罰するどころか、愛をもって抱きしめ、ご自分の食卓に着かせ、ご自身の手で給仕してくださいます。宝の蔵の鍵を与え、絶えることなく、千もの仕方で私と語り、喜びをともにし、あらゆる点でお気に入りの者のように扱ってくださいます。私はときおり、神の聖なる現存のうちで、自分をこのように見ています。

私がいつも行っているのは、この単純なまなざし、愛情をことごとく注いで神を観想することです。そこで私はしばしば、母の胸に抱かれた幼子の喜びにもまさる、言葉にできない甘美さと喜びのうちに、神と結ばれている自分を見いだします。あえてこの表現を用いるなら、この状態を「神の懐」と呼びたいほどです。そこで味わい、経験する甘美さは、言い表すことができません。

必要に迫られたり、弱さのために思いがそれたりして、この甘美な状態を離れることがあっても、すぐに内なる心の動きがそれを思い出させます。その魅力と喜びは、とうてい言葉で語ることができません。

あなたには、私のように恩知らずでふさわしくない者へ神が与えてくださる大きな恵みよりも、あなたがよくご存じの、私の深い惨めさのほうを、畏れをもって思っていただきたいのです。

私の祈りの時間は、同じ実践がそのまま続くだけです。ときには自分を、彫刻家の前に置かれ、これから像に刻まれる一つの石のように見ます。神のみ前に身を差し出し、私の魂に神の完全な似姿を刻み、私をことごとくその似姿へ造り変えてくださるよう願います。

またあるとき、祈りに入ると、私の霊と魂のすべてが、自分では何の努力もしないまま引き上げられるのを感じます。そして自らの中心であり安息の場である神のうちに、宙に支えられ、しっかりと据えられたようにとどまります。

この状態を、何もしないこと、自己欺瞞、利己心と呼ぶ人がいるのを知っています。確かにそれは聖なる無為です。そして、その状態にある魂が利己的になり得るのなら、幸いな利己心と呼べるかもしれません。しかし実際には、この安息のうちにある魂は、以前は慣れ親しみ、頼りにしていた働きに心を乱されることがありません。かつての行いは今や、助けになるより、妨げとなるからです。

けれども、これを自己欺瞞と呼ぶことには同意できません。このように神を喜びとする魂は、神以外には何も望まないからです。もし私が欺かれているのなら、それを正すのは神にお任せします。神がみ旨のままに私を扱ってくださいますように。私が望むのは神だけです。すべてを神に委ねたいと願っています。

どうかあなたのお考えをお聞かせください。私はそれをいつも大切に受け止めます。私に寄せてくださるあなたのお心を、ことのほか尊んでいるからです。私はあなたのものです。

第三の手紙

私たちの神の恵みは限りなく、神は私たちのあらゆる願いをご存じです。神はあなたを、思いがけないほど完全に苦しみから解放してくださるでしょう。あなたが予想もしないとき、神の定められた時に来てくださいます。これまで以上に神を待ち望んでください。

神があなたに与えてくださる恵みについて、私とともに感謝しましょう。とりわけ苦しみの中で与えられている、力と忍耐について感謝してください。それは神があなたを心にかけておられるしるしです。神のうちに慰めを見いだし、すべてについて感謝してください。

私もまた、M――の強さと勇気に感心しています。神は彼に、よい性質と、まことによい意志をお与えになりました。しかし彼にはまだ、世俗への思いと若さがかなり残っています。神がお送りになったこの苦しみが、それらを癒やすよい薬となり、彼の霊的生活を深めるよう願っています。

この出来事は、いつも彼とともにおられる神に、すべての信頼を置くよう呼びかけるのに、まことにふさわしいものです。できる限りたびたび、神を思うようにしてください。とりわけ大きな危険のただ中で、そうするように。

ほんの少し心を神へ上げるだけで十分です。神をわずかに思い起こすこと、心の内で礼拝することは、行軍の途中で、剣を手にしていてもできる祈りです。それは短い祈りですが、神にたいへん喜ばれます。危険の中で兵士の勇気を弱めるどころか、むしろその勇気を強く支えるでしょう。

ですから彼には、できる限り神を思い、この小さいけれど聖なる行いに、少しずつ慣れるよう勧めてください。だれにも気づかれません。一日のうちに、この短い内的な礼拝を何度も繰り返すほど容易なことはありません。

どうか彼に、今お伝えしたように、できる限り神を思うよう勧めてください。日々、いのちの危険にさらされている兵士には、まことにふさわしく、必要なことです。

神が彼とご家族の皆様を助けてくださるよう願っています。私は皆様にお仕えする者、皆様のもの、そしてあなたのものです。

第四の手紙

この機会に、神の現存によって驚くべき働きと絶え間ない助けを受けている、私たちの共同体のある一人の心の内を、あなたにお知らせしたいと思います。あなたも私も、そこから益を得られますように。

彼が修道生活を始めてから四十年以上になります。その間ずっと心にかけてきたのは、いつも神とともにいること、そして主を悲しませるようなことは何も行わず、何も言わず、何も考えないことです。ただ神への純粋な愛のため、また神が限りなく愛されるにふさわしいお方であるために、そうしてきました。

今では神の現存のうちにいることがすっかり身につき、あらゆる機会に絶えずそこから助けを受けています。およそ三十年の間、その魂は絶えることのない喜びに満たされてきました。ときには喜びがあまりに大きく、外に表れないよう、抑えなければならないほどです。

神の現存から少し離れてしまうことがあれば、神はすぐ、彼の魂にご自身を感じさせて呼び戻されます。それは外の仕事に最も熱中しているとき、たびたび起こります。彼はこの内なる促しに、細やかな忠実さをもって応えます。心を神へ上げることによって、穏やかに愛をこめて神を見つめることによって、あるいはそのとき愛が生み出す短い言葉によってです。

たとえば、「私の神よ、私はここに、すべてをあなたに献げています。主よ、私をみ心にかなう者にしてください」と申し上げます。するとそのわずかな言葉を喜ばれた愛の神が、再び魂の深み、その中心に安らってくださるのを、実際に感じるのです。

この経験によって、神はいつも魂の奥深く、その底におられると確信しています。そのことを疑わせるものは何もありません。

あなたご自身で、彼の満足と喜びがどれほどのものか考えてみてください。自分の内に、絶えずこれほど大きな宝を見いだしているのです。もう不安に駆られて探し回る必要はありません。宝は目の前に開かれており、望むままにそこから受け取ることができます。

彼は私たちの盲目を大いに嘆きます。人はこれほどわずかなもので満足しているのだから、もっと神を慕う心を持つべきだ、とたびたび訴えます。神は私たちに与えるため、限りない宝を用意しておられる。それなのに私たちは、ほんの一時、わずかばかり心をこめて信心を行っただけで、もう十分だと考えてしまう。私たちは盲目で、神の働きを妨げ、恵みの流れをせき止めている、と彼は言います。

しかし神は、生きた信仰に満ちた魂を見いだすと、その魂へ恵みとたまものを豊かに注がれます。それは、自然な流れを力ずくでせき止められていた急流が出口を見いだし、激しく、豊かに流れ出すようなものです。

この流れをせき止めているのは、恵みを軽んじている私たちです。もう止めるのはやめましょう。自分の内へ立ち帰り、流れを阻む堤を壊しましょう。恵みのために道を開き、失った時を取り戻しましょう。残された時は、わずかかもしれません。死はすぐ後ろまで迫っています。よく備えていましょう。死ぬのは一度だけであり、そこでの失敗は取り返しがつかないからです。

もう一度言います。自分の内へ立ち帰りましょう。時は迫っています。先延ばしにしている余裕はありません。私たちの魂が懸かっているのです。

あなたはすでに確かな手立てを取り、突然その時が来ても慌てることはないと思います。そのことをうれしく思います。必要なのは、ただ一つ、このことだけです。それでも、絶えず励まなければなりません。霊的生活では、前へ進まないことは後ろへ退くことだからです。

しかし聖霊の風を受けている人は、眠っている間にも前へ進みます。私たちの魂という舟が、なお風と嵐に揺さぶられているなら、その内に憩っておられる主をお起こししましょう。主はすぐ、海を静めてくださいます。

私はあえて、このすぐれた心のありようをあなたにお伝えしました。ご自分の心と比べていただくためです。万一、あなたの愛が少しでも、あるいは大きく冷めているなら――そのような大きな不幸を神が退けてくださいますように――再び火をつけ、燃え上がらせる助けとなるでしょう。

あなたも私も、初めに受けた恵みを思い起こしましょう。この兄弟の模範と心から学びましょう。彼は世にはほとんど知られていませんが、神には知られ、ことのほか愛されています。

あなたのために祈ります。どうか私のためにも祈ってください。私は主において、あなたのものです。

第五の手紙

今日、M――修道女から二冊の本と一通の手紙を受け取りました。彼女は終生誓願を立てる準備をしており、このことについて、あなたの聖なる共同体の祈り、とりわけあなたの祈りを願っています。彼女がその祈りをどれほど頼りにしているかが伝わってきます。

どうか彼女が落胆しないよう祈ってください。ただ神への愛のためにその奉献を行い、自分のすべてを神に献げる固い決意を持てるよう、神に願ってください。

神の現存について書かれた、あの二冊のうち一冊をお送りします。私には、この主題のうちに霊的生活のすべてが含まれているように思われます。それを正しく実践する人は、ほどなく霊的な人となるでしょう。

神の現存を正しく実践するためには、心をほかのすべてのものから空にしなければなりません。心を占めるのは神だけでなければならないからです。しかし心がすべてのものから空にならなければ、神がそこを占めることはできません。心をまったく神に明け渡さなければ、神はそこで働き、み旨のままに整えることがおできになりません。

絶えず神と語り合う生活ほど、甘美で喜びに満ちた生活は、この世にありません。それを理解できるのは、実際に行い、味わった人だけです。

けれども、その喜びを得るために行うよう勧めているのではありません。この実践で求めるべきものは、楽しみではないからです。ただ愛のため、神がそこに私たちを望んでおられるために行うのです。

もし私が説教者であったなら、何より先に、神の現存を実践することを説いたでしょう。もし霊的指導者であったなら、すべての人にそうするよう勧めたでしょう。それほど必要なことであり、同時に、それほど簡単なことだと思っています。

ああ、私たちは神の恵みと助けをこれほど必要としているのですから、神を一瞬たりとも見失ってはなりません。どうか信じてください。自分の意志で神を忘れることは二度としないと、今すぐ聖なる固い決意をしてください。この先の日々を神の聖なる現存のうちに過ごし、たとえそれがみ旨なら、神への愛のために、何の慰めもないまま生きると決めてください。

心を尽くしてこのことに励んでください。正しく行うなら、すぐにその実りを味わうと確信してよいでしょう。

ささやかなものですが、私の祈りによってあなたを助けます。私のことを、あなたと、あなたの聖なる共同体の皆様の祈りに、心からお委ねします。

第六の手紙

あなたが私のために託してくださったものを、――夫人から受け取りました。お送りした小さな本は、もう届いているはずです。それについてのお考えを知らせてくださらないので、驚いています。

今、この年齢になられたのですから、神の現存を実践できるよう、心をこめて祈ってください。遅くても、始めないよりははるかによいのです。

修道生活を送る人が、この実践なしにどうして満ち足りて生きられるのか、私には想像できません。私はできる限り、魂の奥、その中心に退いています。そこで神とともにいる間は、何も恐れません。しかし神からほんのわずか離れることさえ、私には耐え難いのです。

この修練は、体をひどく疲れさせるものではありません。ただ、ときには――いや、むしろたびたび――害がなく許されている小さな楽しみの多くを手放すのがよいでしょう。自分のすべてを神に献げたいと願う魂が、神以外のものを楽しみとすることを、神はお許しにならないからです。それはまことに道理にかなっています。

だからといって、自分を乱暴に抑えつけるべきだというのではありません。決してそうではありません。聖なる自由をもって神に仕えなければなりません。

心配や不安に駆られず、日々の務めを忠実に果たしましょう。心が神からそれたと気づくたびに、穏やかに、静かに、もう一度神へ向けるのです。

とはいえ、すべての信頼を神に置き、人生についてのほかの思い煩いを手放す必要があります。また、それ自体はたいへんよいものであっても、度を越して夢中になりやすい、特定の信心の形も手放さなければならないことがあります。それらの信心は、目的へ至るための手段にすぎないからです。

神の現存を実践することによって、目的そのものである神とともにいるなら、再び手段へ戻る必要はありません。神の聖なる現存のうちにとどまり、愛をこめた交わりを続ければよいのです。

あるときには賛美によって、礼拝によって、神を慕うことによって。またあるときには自分を捨てること、感謝することによって。そのほか、心に浮かぶあらゆる仕方で、神と交わることができます。

生来の性質から、この実践に抵抗を覚えても、落胆しないでください。自分を献げる必要があります。初めのうちは、時間を無駄にしているように思うことがたびたびあります。それでも続けてください。どのような困難が起きても、死ぬまでやり通すと決意してください。

私のことを、あなたの聖なる共同体の祈り、とりわけあなたの祈りにお委ねします。私は主において、あなたのものです。

第七の手紙

あなたのことを思うと、深い同情を覚えます。ご自分の用事をM――に任せ、残りの生涯をただ神を礼拝して過ごすことができれば、どれほどよいことでしょう。

神は私たちに、大きなことを求めてはおられません。ときどき少し神を思い起こし、ほんのしばらく礼拝するだけです。あるときには恵みを願い、あるときには苦しみを献げる。また心配事のただ中で、これまで神から受け、今も受けている恵みに感謝しながら神へ立ち帰り、できる限りたびたび、神のうちに慰めを見いだすのです。

食事をしているときにも、人と一緒にいるときにも、心を神へ上げてください。神へ向けられたほんのわずかな思いさえ、喜んで受け入れてくださいます。

声を上げて叫ぶ必要はありません。神は、私たちが思っているよりも近くにおられます。

神とともにいるために、いつも聖堂にいる必要はありません。自分の心を小さな祈りの場とすることができます。そこへ折々退き、柔和と謙遜と愛をもって、神と語り合うのです。

だれでも神と親しく語り合うことができます。多くできる人も、少ししかできない人もいますが、神は私たちにできることをご存じです。

ですから始めましょう。おそらく神が待っておられるのは、私たちの思い切った決断だけです。勇気を出してください。

私たちに残された時間はわずかです。あなたはもう六十四歳近く、私は八十歳に近づいています。神とともに生き、神とともに死にましょう。神とともにいるなら、苦しみも甘美で喜ばしいものとなります。神なしには、この上ない楽しみさえ、残酷な苦しみとなるでしょう。

すべてのものが神をほめたたえますように。アーメン。

少しずつ、神を礼拝することに慣れてください。恵みを願い、仕事のただ中で、ときどき心を神に献げてください。できるなら、一瞬ごとにそうしてください。

ある規則や特定の信心の形に、良心を縛られたように固執してはいけません。神への大きな信頼と、愛と謙遜をもって行ってください。

ささやかながら、私があなたのために祈っていることを信じてください。私は皆様にお仕えする者、とりわけあなたにお仕えする者です。

第八の手紙

あなたがお知らせくださったことは、私には少しも目新しいことではありません。さまよう思いに悩まされているのは、あなただけではありません。私たちの心は、実に落ち着きなくさまようものです。

しかし意志は、私たちのすべての力を治めるものです。意志がさまよう思いを呼び戻し、あらゆる思いの究極の目的である神へ連れていかなければなりません。

心に、あちこちさまよい散らばる悪い習慣がついているなら、それに打ち勝つのは難しいでしょう。意志に反してさえ、この世のものへ引かれてしまうからです。

そのための一つの治療は、自分の過ちを告白し、神のみ前でへりくだることだと思います。

祈りの中で多くの言葉を使うよう勧めているのではありません。多くの言葉と長い話は、しばしば心をいっそうさまよわせるからです。口のきけない人や体の動かない物乞いが、富む人の戸口に立つように、神のみ前で祈りのうちにとどまってください。心を主の現存のうちに保つことを、ご自分の務めとしてください。

ときに心が散り、神から離れてしまっても、そのことに動揺してはいけません。心配と不安は、心を神へ戻すよりも、かえってさらに散らしてしまいます。

意志によって、心を静けさのうちへ連れ戻してください。このように行い続けるなら、神はあなたをあわれんでくださいます。

祈りのとき、さまよう心を容易に呼び戻し、静かに保つ一つの方法は、ふだんから心をさまよわせるままにしないことです。心をしっかり神の現存のうちに置いてください。たびたび神を思うことに慣れれば、祈りのときに心を静かに保つことが容易になります。たとえ完全に保てなくても、さまよった心を呼び戻しやすくなります。

以前の手紙で、神の現存を実践することから得られる恵みについてお伝えしました。このことを真剣に受け止め、互いのために祈りましょう。

第九の手紙

ここに書いたものは、――から届いた手紙への返事です。どうか彼女に送ってください。

彼女はよい意志に満ちていますが、恵みよりも先を急ごうとしているように思われます。人は一度に聖なる者となるのではありません。

この姉妹のことを、あなたに託します。私たちは互いに戒め合うことによって助け合わなければなりませんが、それ以上に、よい模範を示すことによって助け合うべきだからです。彼女はたいへん熱心で従順ですから、ときどき様子を知らせていただければ幸いです。

この世で私たちに与えられたただ一つの仕事は、神を喜ばせることであり、そのほかのことは、おそらく愚かさと空しさにすぎないと、たびたび思い起こしましょう。

あなたも私も、四十年以上を修道生活のうちに過ごしてきました。いつくしみによって私たちをこの身分へ、この目的のために召してくださった神を愛し、神に仕えるために、その年月を用いてきたでしょうか。

神が私に与えてくださり、今も絶えず与え続けてくださる大きな恵みを思い、それをどれほど粗末に扱い、完成への道をどれほどわずかしか進んでいないかを省みると、恥ずかしさと戸惑いでいっぱいになります。

神がいつくしみによって、なお少しの時を与えてくださっているのですから、失った時を熱心に取り戻し始めましょう。いつでも優しく迎え入れようと待っておられる、あわれみの父のもとへ、揺るぎない信頼をもって立ち帰りましょう。

神への愛のために、神でないすべてのものを、惜しみなく手放しましょう。手放しましょう。神は限りなく、もっと大きな愛にふさわしいお方です。

絶えず神を思い、すべての信頼を神に置きましょう。そうすればほどなく、豊かな恵みを受けることを疑いません。その恵みによって私たちはすべてを行うことができます。それなしには、罪のほか何一つできません。

人生に満ちている危険を免れるには、神の現実の、絶え間ない助けが必要です。その助けを絶えず願いましょう。

神とともにいないで、どうして神に祈ることができるでしょうか。絶えず神を思わないで、どうして神とともにいられるでしょうか。そして、聖なる習慣を身につけずに、どうして絶えず神を思うことができるでしょうか。

あなたは、私がいつも同じことばかり言っているとおっしゃるでしょう。そのとおりです。これこそ私が知っている最もよい、最も簡単な道であり、私はほかの道を用いていないからです。ですからすべての人に、このことを勧めています。

愛するためには、まず知らなければなりません。神を知るためには、たびたび神を思わなければなりません。そして神を愛するようになれば、さらにたびたび神を思うようになります。私たちの心は、その宝のあるところにあるからです。

第十の手紙

M――に手紙を書くよう自分を仕向けるのは、かなり難しいことでした。今こうして書いたのは、ただあなたと奥様が望んでおられるからです。どうか宛名を書き、彼に送ってください。

あなたが神に寄せている信頼を、私はたいへんうれしく思います。神がそれを、ますます大きくしてくださいますように。この世でも来世でも決して私たちを見捨てることのない、これほど善良で忠実な友に、どれほど信頼しても、信頼しすぎることはありません。

M――が今回の喪失を生かし、すべての信頼を神に置くなら、神はやがて、もっと力があり、もっと喜んで助けてくれる別の友を与えてくださるでしょう。神はみ旨のままに、人の心を動かされます。

おそらくM――は、失ったものに執着しすぎていたのでしょう。友を愛さなければなりません。しかし何より大切であるべき神よりも、その友を上に置いてはなりません。

昼も夜も、仕事のときにも楽しみのときにも、たびたび神を思うよう、私が勧めたことを覚えていてください。神はいつもあなたの近くに、あなたとともにおられます。神をひとりにしてはいけません。

訪ねてきた友をひとり置き去りにするのは失礼だと思うでしょう。それなら、どうして神を顧みずにいてよいでしょうか。

神を忘れないでください。たびたび神を思い、絶えず礼拝し、神とともに生き、神とともに死んでください。これこそキリスト者の栄えある務め、この世における私たちの召命です。まだ知らないのなら、学ばなければなりません。

私の祈りによって、あなたを助けるよう努めます。私は主において、あなたのものです。

第十一の手紙

あなたが苦しみから解放されるようにとは祈っていません。神がお望みになる間、それに耐えられる力と忍耐を与えてくださるよう、熱心に祈っています。

神があなたを十字架につないでおられる間、神のうちに慰めを見いだしてください。ふさわしいと思われる時に、神が解き放ってくださいます。神とともに苦しむ人は幸いです。

そのように苦しむことに慣れ、神があなたに必要だと判断される苦しみを、その大きさのまま、その期間の間ずっと耐えられる力を、神に求めてください。

世の人々は、この真理を理解しません。それを不思議に思う必要もありません。彼らは世の人として苦しみ、キリスト者として苦しんでいるのではないからです。

彼らは病を、神から与えられた恵みとしてではなく、自然の苦痛としてだけ見ます。その見方しかしないので、そこには悲しみと苦悩しか見いだせません。

しかし病が神の御手から来るもの、そのいつくしみの表れであり、救いのために神がお用いになる手段であると受け止める人は、そこにしばしば、大きな甘美さと慰めを見いだします。

健康なときより病のときのほうが、神はしばしば私たちのすぐ近くに、いっそう確かにともにおられるのだと、心から信じていただきたいのです。

ほかの医者を頼りにしてはなりません。神があなたを癒やすことを、ご自分のために取っておかれるのだと私は思っています。すべての信頼を神に置いてください。その信頼によって、やがて回復するでしょう。

私たちは神よりも薬に信頼を置くために、自分の回復をたびたび遅らせています。どのような治療を受けるにしても、神がお許しになる限りでしか役に立ちません。

苦しみが神から来るなら、それを癒やすことができるのは神だけです。神は魂の病を癒やすために、しばしば体に病をお送りになります。魂と体の双方の医者である、最高の医者のうちに慰めを見いだしてください。

あなたはきっと、私が落ち着いていられるのは、主の食卓で食べ、飲むことができるからだ、とおっしゃるでしょう。そのとおりです。

しかし考えてみてください。この世で最も重い罪を犯した者が、王からゆるされたかどうか確信できないまま、王の食卓に着き、王ご自身に仕えられ、このような恵みを受けるとしたら、それは苦しいことではないでしょうか。その人は非常に大きな不安を覚え、王のいつくしみへの信頼のほか、何ものもそれを静めることができないだろうと思います。

私もまた、王の食卓で数えきれない喜びを味わっています。しかし目の前から消えることのない自分の罪と、ゆるされたかどうかの不確かさが、私を苦しめます。もっとも、その苦しみそのものが、実は喜ばしいものなのです。

神があなたを置かれた状態に満足してください。私がどれほど幸せであろうとも、あなたをうらやましく思います。神とともに苦しめるなら、痛みと苦しみは私にとって楽園でしょう。神なしに味わうなら、この上ない楽しみも地獄でしょう。神への愛のために何かを苦しむことが、私の慰めのすべてとなるでしょう。

私はまもなく、この世を去って神のもとへ行かなければなりません。この世で私を慰めるのは、今すでに信仰によって神を見ていることです。それほどはっきりと見ているので、ときにはこう言えるほどです。「もはや信じているのではありません。見ているのです」

信仰が教えるものを私は感じています。この信仰を確かに保ち、実践しながら、神とともに生き、神とともに死ぬでしょう。

ですから、いつも神とともにいてください。それだけが、あなたの苦しみを支え、慰めます。神があなたとともにおられるよう祈ります。私はあなたにお仕えする者です。

第十二の手紙

神の現存を実践することに慣れているなら、どのような体の病にあっても、大きな支えを見いだすでしょう。

神は私たちの魂を清め、ご自分とともにとどまらせるために、しばしば、少し苦しむことをお許しになります。

勇気を持ってください。苦しみを絶えず神に献げ、それに耐える力を願ってください。

何より、たびたび神とともに時を過ごす習慣を身につけ、できる限り神を忘れないでください。病の中で神を礼拝し、ときどき自分を神に献げてください。

苦しみが最も激しくなったときには、子が父に願うように、謙遜と愛をもって、神の聖なるみ旨に自分を合わせることができるよう願ってください。ささやかながら、私の祈りによって、あなたを助けるよう努めます。

神はさまざまな道によって、私たちをご自分へ引き寄せられます。ときには、私たちから身を隠されることもあります。そのとき私たちを支えるのは、信仰だけでなければなりません。

信仰は私たちの信頼の土台です。その信頼をすべて神に置かなければなりません。神は必要なとき、私たちを見捨てられません。

神が私をどうなさるのか、私には分かりません。私はいつも幸せです。だれもが苦しんでいます。それなのに、最も厳しい懲らしめを受けて当然の私は、抑えるのが難しいほど、絶えることのない大きな喜びを味わっています。

できることなら、あなたの苦しみの一部を私に与えてくださるよう、神に願いたいと思います。

私は自分の弱さを知っています。それはあまりに大きく、神がほんの一瞬でも私を自分の力だけに任されたなら、私は生きている者のうちで最も惨めな者となるでしょう。

それでも、神は私をひとりにはなさらないと知っています。信仰が、五感によるのと変わらないほど確かな確信を与えてくれるからです。私たちのほうから先に神を捨てない限り、神は決して私たちをお見捨てになりません。

神から離れることを恐れましょう。いつも神とともにいましょう。神の現存のうちに生き、神の現存のうちに死にましょう。

私があなたのために祈るように、あなたも私のために祈ってください。

第十三の手紙

あなたがこれほど長く苦しんでおられるのを思うと、心が痛みます。その苦しみが、神のあなたへの愛のしるしであると思うことに、いくらかの安らぎと甘美さを覚えています。

その光のもとで苦しみを見てください。そうすれば、もっと容易に耐えることができるでしょう。

人の手による治療を手放し、自分をすっかり神の摂理に委ねるべきだと、私は思います。おそらく神は、あなたを癒やすために、その自己奉献と、神への完全な信頼だけを待っておられるのでしょう。

これまでどのような治療も役に立たず、病が重くなってきたのですから、すべてを神の御手に委ね、神だけに望みを置くことは、神を試すことにはなりません。

前の手紙でお伝えしたとおり、神は魂の病を癒やすために、ときには体の病をお許しになります。

勇気を持ってください。避けられないものを、徳を積む機会としてください。

苦しみから解放してくださるよう神に願うのではなく、神への愛のために、神がお許しになるすべてを、神がお許しになる間、固い心で耐える力を願ってください。

このような祈りは、人間の本性に逆らうものですから、確かに献げるのが難しいものです。しかし神にはたいへん喜ばれ、神を愛する人には甘美なものとなります。

愛は苦しみを和らげます。神を愛する人は、神への愛のために、喜びと勇気をもって苦しみます。どうかそのようにしてください。

すべての病を癒やすただ一人の医者である神のうちに、慰めを見いだしてください。神は苦しむ者の父であり、いつでも私たちを助けようと待っておられます。私たちには想像もできないほど、限りなく深く私たちを愛しておられます。

ですから神を愛し、ほかのところに慰めを求めないでください。あなたがほどなく、その慰めを受けるよう願っています。

さようなら。ささやかながら、私の祈りによってあなたを助けます。私はいつも主において、あなたのものです。

第十四の手紙

あなたの願いどおり、苦しみをいくらか和らげてくださったことを、主に感謝します。

私は何度も死の間際まで行きました。しかし、そのときほど満ち足りていたことはありません。そのため苦しみを和らげてくださるようには祈らず、勇気と謙遜と愛をもって苦しむ力を願いました。

ああ、神とともに苦しむことは、何と甘美なのでしょう。どれほど大きな苦しみであっても、愛をもって受け入れてください。苦しみながら神とともにいることは、楽園です。

この世にいながら楽園の平和を味わいたいなら、神と親しく、謙遜に、愛をこめて語り合うことに慣れなければなりません。

どのようなときにも、心がさまよい、神から離れないようにしなければなりません。心を霊的な神殿とし、そこで絶えず神を礼拝しましょう。

神を悲しませることを何も行わず、何も言わず、何も考えないよう、いつも自分を見守らなければなりません。

このように心を神で満たすなら、苦しみは恵みと慰めに満ちたものとなります。

この状態に至るには、初めはたいへん難しいと知っています。ただ信仰によって行わなければならないからです。

しかし難しくても、熱心に願う人に神が決してお拒みにならない恵みによって、すべてを行うことができます。

戸をたたいてください。たたき続けてください。ふさわしい時に神が戸を開き、長い年月、与えるのを延ばしておられたものを、一度にすべて与えてくださると、私は申し上げます。

さようなら。私のために神へ祈ってください。私もあなたのために祈ります。まもなく神にお会いできることを願っています。

第十五の手紙

私たちに何が必要かは、神がだれよりもよくご存じです。そして神のなさることは、すべて私たちのためになります。

神がどれほど私たちを愛しておられるか知っていたなら、甘いものも苦いものも、神の御手から等しく、分け隔てなく受け取る用意が、いつもできているでしょう。神から来るものは、すべて喜ばしいものとなるでしょう。

最も激しい苦難も、誤った光のもとで見るとき、耐え難いものに思われます。

苦難を神の御手から来るものとして見るとき、私たちをへりくだらせ、苦しみにあわせておられるのが、愛に満ちた父であると知るとき、苦しみは苦さを失い、慰めの源にさえなります。

神を知ることを、私たちのただ一つの務めとしましょう。神を知れば知るほど、さらに知りたいと望むようになります。

ふつう、知ることの深さが、愛の深さを決めます。神についての知識が深く広くなるほど、私たちの愛も大きくなります。

神への愛がまことに大きいなら、苦しみの中でも喜びの中でも、同じように神を愛するでしょう。

神がこれまで、あるいはこれから与えてくださる恵みのために――それがどれほどすばらしいものであっても――神を求め、愛することに心を奪われてはなりません。そのような恵みは、どれほど大きくても、信仰によるただ一つの素朴な行いほどには、私たちを神へ近づけることができません。

信仰によって、たびたび神を求めましょう。神は私たちの内におられます。ほかの場所に探してはいけません。

神をひとり残し、神に喜ばれず、もしかすると神を悲しませる取るに足りないことに心を奪われるなら、私たちは思いやりがなく、責められて当然ではないでしょうか。このような取るに足りないことが、いつか大きな代価を私たちに払わせることにならないか、恐れなければなりません。

真剣に、自分を神に献げ始めましょう。心の中にあるものを、すべて投げ捨てましょう。ただ神だけに、心のすべてを占めていただくのです。

この恵みを神に願いましょう。自分にできることを果たすなら、私たちが願っている変化が、自分の内に起こるのをほどなく見るでしょう。

神があなたの苦しみを和らげてくださったことを、どれほど感謝しても足りません。あと数日のうちに神にお会いできることを願っています。

互いのために祈りましょう。


底本スペイン語訳 Eduardo B. Coria
二〇〇二年一月

← 資料一覧へ · EPUBをダウンロード