主の祈り
イエスの心で祈る
2026-10-24
はじめに
「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。〈父よ、……〉』」(ルカ11・1–2)「主の祈り」は、数ある祈りの一つというだけではありません。イエスの弟子たちの祈りです。師であるイエスが教え、ご自分に従う者のしるしとして残された祈りです。この祈りのうちに、イエスの心の奥にある願いと、最も深い望みを見いだすことができます。
キリスト者がいつの時代も、この祈りを福音の要約と考えてきたのも不思議ではありません。テルトゥリアヌスはこれを Breviarium totius evangelii、すなわち「福音全体の要約」と呼びました。「主の祈り」には、イエスの教えの核心、救いの知らせ、生きる道が示されています。イエス・キリストの福音が、わずかな言葉に凝縮され、生きた祈りの言葉となっているのです。その内容と息吹をよく受け止めるなら、イエスに固有のメッセージと、その最も深い精神を受け止めることができます。
1 「主の祈り」の構成
構成は簡潔です。まず「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけによって、だれに向けて祈っているのかを明らかにします。それに続く二つの部分は、はっきりと分かれています。祈る人の基本的な二つの姿勢を示すものなので、区別して捉えるとよいでしょう。
前半には三つの願いがあり、スペイン語では接続法で表されます。「聖とされますように」「来ますように」「行われますように」という短い言葉に、神を中心とした三つの大きな望みが込められています。神の名、神の国、神のみ旨にかかわる願いです。それに対して後半には、願い求める祈りにふさわしく、命令形で表される四つの願いがあります。こちらは少し長い言葉で、人間が必要としているものに目を向けます。「パンをお与えください」「わたしたちの罪をおゆるしください」「誘惑に陥らせないでください」「悪からお救いください」。
つまり前半では、神ご自身に心を向けます。祈る人は、三つの大きな望みを神に向かって叫びます。「父」という名があがめられますように。そのご支配が世界に刻まれていきますように。人間を救おうとするみ旨が、一日も早く実現しますように。後半では、人々の具体的な生活に目を向け、いのちにかかわる四つの願いを神にささげます。わたしたちのいのちはもろく、悪の力に脅かされ、絶えず危険にさらされています。祈る人は、人間の具体的な生を父に委ね、パンとゆるし、誘惑に直面したときの助け、悪からの解放を願うのです。
この二つの部分は、一つの祈りを成しているので、決して切り離してはなりません。同じ人が、天の父に向かって祈っています。まず、父の救いのわざが実現することへの熱い望みを伝え、次に、人類の最も差し迫った必要を差し出します。前半の崇高な願いが実現するのは、人間が不安定な境遇と罪と悪から救われたいという求めに、具体的な答えを得るときなのです。
2 詩編
イエスの心で「主の祈り」を祈りたいなら、イエスの父への祈りが生まれた霊的な雰囲気に、できるだけ近づく必要があります。そのためには、詩編の祈りの伝統を深く味わうのが何よりもよいでしょう。詩編は、イエスの霊性が育った土壌です。そして、「主の祈り」に結晶した、あれほど気高く、しかも簡潔な祈りを養ったものです。
詩編の霊性を深く味わう信仰者は、イエスのように「主の祈り」を祈ることを学ぶでしょう。そして、これまで幾度となく習慣的に、心を留めず唱えてきた祈りが、いのちと希望の尽きない泉となることを経験できる。わたしはそう確信しています。
3 本書の使い方
本書は二つの部分から成っています。第一部では、「主の祈り」を形づくる一つ一つの願いについて、その内容をよりよく理解する助けとなる短い黙想、あるいは解説を示します。第二部には、詩編から選んだいくつかの願いの祈りを収めました。「主の祈り」のそれぞれの願いが、わたしたちの心に、いっそう深く響くための助けとなるでしょう。
まず「主の祈り」の解説から読み始めてもよいでしょう。イエスの祈り全体を見渡すために通して読んでも、一つ一つの願いに立ち止まり、その内容を深めながら読んでもかまいません。
第二部は、「主の祈り」の呼びかけや願いのどれかを、ゆっくり祈るために使えます。まず「み国が来ますように」「み旨が行われますように」「悪からお救いください」など、一つの願いを選びます。次に、心を整えるための短い導入を読み、ゆっくり味わいたい詩編を一つ、あるいはいくつか選びます。最後に、イエスの願いの言葉を、繰り返し口にすることができます。
宗教への無関心と信仰の危機が広がり、霊的な生ぬるさに誘われ、新たな課題と困難に直面する今、わたしたちキリスト者は、イエスが教えてくださった祈りを、唇と心で唱え続けなければなりません。そこには、イエスの最も尊い遺産が込められています。「天におられるわたしたちの父よ」。
第一部 主の祈り
一 天におられるわたしたちの父よ
「主の祈り」は、祈り全体に独特の響きを与える呼びかけから始まります。何よりもまず、神を、愛する身近な父として経験し、心のうちに全き信頼を呼び覚まし、神の子であるすべての人と兄弟姉妹であると感じることです。最初の父への叫びは、さまざまな願いに先立つ単なる導入ではありません。その後に続く祈りのすべてに行き渡る、親しさと信頼の雰囲気を、わたしたちのうちに生み出すものです。わたしたちにとって神は、話し合いや議論の対象となる理論上の問題ではありません。生きておられ、身近にいてくださる方、愛する父、親しい友として語り合える方です。
1 神を父として経験する
多くの民族が、神を「父」、あるいは「母」と呼んできました。その呼び名によって、神に全面的に依存していること、そして神への畏敬と信頼を表そうとしたのです。アッシリア、エジプト、ギリシア、ローマの宗教で神が「父」と呼ばれるのは、神が「生み出す方」、いのちの源として経験され、また「主」、権威の根源として受け入れられていたからです。カルデアのウルに伝わる非常に古い賛歌も、このように理解すべきでしょう。そこでは神に「恵みと憐れみに満ちた父よ、その手には全地のいのちがある」と呼びかけています。一・1
こうした多くの民族の宗教的直観は、イスラエルの歴史の中で新たな光を受けました。ただし、聖書の民が神を父として思い描くようになったのは、ゆっくりとした歩みの末のことでした。古代近東のある種の宗教のように、人間を男神や女神の子と安易に考えて、超越的な神の経験を曇らせたくはなかったのです。ヤハウェは身近な神であり、イスラエルを導き、その民との緊密な契約のうちに生きておられます。しかし、いかなる像によっても表せず、その名も神秘に包まれています。モーセが神にその名を尋ねると、神はこう答えられます。「わたしはある。わたしはあるという者だ。……これこそ、とこしえにわたしの名これこそ、世々にわたしの呼び名。」(出エジプト3・14–15)
それでも、選ばれた民であるという経験から、神を父と呼ぶことのできる信仰の雰囲気が生まれていきます。イスラエルは、民の父ヤハウェによっていのちへと呼び出された、大きな家族のようなものです。イザヤ書第三部には、新しい言葉遣いが見られます。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らずイスラエルがわたしたちを認めなくても主よ、あなたはわたしたちの父です。」(イザヤ63・16)少し先では、預言者はこう語ります。「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(イザヤ64・7)神は父としての愛をもって、イスラエルの歴史をともに歩まれます。「父が子を背負うように、あなたを背負ってくださった」と語られ(申命記1・31)、その歩みをともに進み、「人が自分の子を訓練するように」訓練されました(申命記8・5)。預言者ホセアによれば、初めからそうであったのです。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」(ホセア11・1)
選ばれた民が、このことからいくつかの帰結を引き出したのも当然でしょう。神の父としての愛は、応答を求めています。「子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるならわたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるならわたしに対する畏れはどこにあるのか」(マラキ1・6)申命記にも同じ嘆きが響きます。「愚かで知恵のない民よこれが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父あなたを造り、堅く立てられた方。」(申命記32・6)神の父としての愛が、何よりも求めるのは兄弟愛です。「我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。なぜ、兄弟が互いに裏切り我々の先祖の契約を汚すのか。」(マラキ2・10)
これらの箇所があるとはいえ、旧約聖書では、神を「父」と呼ぶことが決定的な位置を占めているわけではありません。「主」「裁き主」「王」「創造主」といった、もっと頻繁で重要な多くの呼び名の一つにすぎません。神を父と呼ぶことに秘められた意味を明らかにするのは、イエスなのです。
キリスト者が祈り始めるとき、まず父である神のみ前に立ちます。わたしたちにとって神は、超越的で聖なる神秘ですが、同時に、一人一人に向けられた具体的な愛の神秘です。祈るとき、わたしたちは「何か」に向かうのではありません。すべてを動かす「宇宙エネルギー」に没入したり、「宇宙の神秘的な全体」と融合したりするのでもありません。人間の心の願いや必要に目を留めてくださる、人格を持つ「ある方」に向かいます。わたしたちの存在の源であり、いのちの究極の行き先である父と語り合います。「父よ」と口にするとき、わたしたちは全存在を、愛し、理解し、ゆるしてくださる唯一の方へと向けます。わたしたちはその方の子なのです。
2 子としての信頼をもって
祈るとき、イエスはいつも神に「アッバ」と呼びかけられます。たしかに、たとえ話では、神は王、主人、裁き主などとしても登場します。しかし神と語るときは、ただ「アッバ」と呼ばれます。それが神の固有の呼び名なのです。
わたしたちに伝えられているイエスの祈りのすべてで用いられるこのアラム語は、とりわけ小さな子どもが父親に呼びかける際に使う言葉でした。「パパ」に近い親愛の呼び名であり、それまで、神に向かってそのように呼びかける勇気を持つ人はいませんでした。一・2 この「アッバ」には、イエスが愛する父である神と生きておられる、親密な関係の秘密が込められているに違いありません。J・エレミアスが述べるように、イエスは「子が父に話すように、同じ素直さ、同じ愛情、同じ確信をもって神と語られた。神をアッバと呼ぶことによって、イエスは神との関係の核心を明かされた」のです。一・3 神のみ前でのイエスの姿勢は、小さな子どもの信頼と愛情、優しさから語る者の姿勢です。
しかしイエスは、神を愛する父と呼ぶことをご自分だけのものになさいません。同じ信頼と確信をもって弟子たちも神に呼びかけるよう、教え、招かれます。「主の祈りを弟子たちに授けたとき、イエスは、ご自分のように『アッバ』と言うことのできる力を伝えられた。それは、弟子たちをご自分と神との関係にあずからせたということである。」一・4 初代教会は、神の子に従う人々が神に呼びかける、その新たな信頼の核心として、イエスのこの言葉をアラム語のまま守り伝えました。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマ8・15)「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。」(ガラテヤ4・6–7)
「主の祈り」を祈るには、この「子としての霊」を自分のうちに呼び覚ます必要があります。子としての確信と信頼をもって神と語り、あらゆる恐れを退け、愛する父である神に、喜びをもって身を委ねるのです。これがイエスのもたらす大きな新しさです。「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1・12)今日では「当たり前」のように聞こえるかもしれないこのことを、初期のキリスト者の共同体は、喜びと驚きをもって強調しました。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」(一ヨハネ3・1)たしかに、「神の子」であることは、今はまだ、わたしたちのうちに十分現れていません。しかし、いつの日か、その意味のすべてを経験するでしょう。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(一ヨハネ3・2)
わたしたちは、子としての全き信頼をもって、アッバである神に祈ることを学ばなければなりません。これこそ、何も恐れずに守り、深め、育てるべき、基本となる本質的な姿勢です。神はわたしたちのアッバであり、計り知れない愛で愛してくださる父です。イエスは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われます(マタイ6・8)。
3 兄弟姉妹であると知って
「主の祈り」は、初めから終わりまで複数形で祈られます。イエスは「わたしの父よ」ではなく、「わたしたちの父よ」と言うよう教えられます。一・5 そのように神に呼びかける人は、ほかの人に無関心ではいられません。他の人々とかかわりなく、自分の問題や心配事だけを抱えて神のみ前に出ることはできません。「主の祈り」では、自分だけのために何かを願うのではなく、すべての人のために願います。この祈りは、広く、すべての人に開かれた心でしか祈れません。神は「わたしたちの」、すべての人の神です。だれ一人、除かれてはならないのです。
神は、イエスに従う者から成る家族全体の父です。しかしまた、いかなる差別も排除もなく、すべての人の父です。「天の父」であり、特定の聖なる場所に縛られず、特定の民族や人種に属しません。どの宗教の枠にも収まりません。すべての人の神です。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方(マタイ5・45)、「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」方です(ルカ6・35)。「主の祈り」を祈るとは、すべての人を兄弟姉妹と認め、だれをも退けず、どの民族をも見下さず、どの人種をも差別せず、すべての男女との交わりを感じることです。
4 天の父
神はわたしたちの愛する父であり、すべての人に善く、一人一人のそばにいてくださいます。しかし、地上のどの父親とも同じだと考えてはなりません。イエスご自身が警告しておられます。「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。」(マタイ23・9)親しく身近な父でありながら、超越的な父、「天におられる」父なのです。
聖書の世界観では、「地」は人間の住むところ、「天」は神の居場所です。詩編の祈り手は言います。「天は主のもの、地は人への賜物。」(詩編115・16)天は、神の超越性と限りなさの象徴です。エルサレムにヤハウェのための最初の神殿を建てた後、ソロモン王はこう言いました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(列王記上8・27)一・6
神は「天におられます」。わたしたちが必要に応じていつでも利用できるよう、ここ地上におられるのではありません。わたしたちは、人生の厳しさから守ってもらい、問題を解決してもらうために神に祈るのではありません。神の恵み、善、真理に根ざして行動し、生きることができるよう願うのです。
よく知られているように、ジークムント・フロイトにとって宗教は「集団的な幼児神経症」です。人間は神のうちに「父親の代わり」、自分を受け入れ、守ってくれる存在を求めるというのです。そのため宗教は、幼児的で神経症的な依存を生む、と彼は考えました。成熟して大人になるには「父を殺し」、自ら自分の父とならなければならないのと同じように、人間は神から解放されてこそ、自分の責任を引き受け、自分自身の主人となれるというのです。
しかし、天の父に祈ることは、人を幼児化しません。イエスは、神の慰めと保護を求めて生きる弱く幼稚な子どもとは、まったく違います。父への従順は、イエスを幼児化するどころか、自らの使命を最後まで引き受ける責任ある方とします。神は愛する父ですが、地上ではなく天におられます。わたしたちに代わって問題を解決するため、ともにおられるのではありません。天におられ、世界を築くことをわたしたちの手に委ね、自分の責任へと立ち返らせてくださいます。ですから、天の父への呼びかけは、幼児的な依存を生まず、人格を「去勢」することもありません。むしろ信仰者は、その神のうちに、すべての人との兄弟愛を責任をもって生きるための、最高の励ましと土台を見いだします。「天の父」は、より人間らしく、兄弟愛に満ちた世界を築く、自立と自由と責任の源なのです。
5 父であり母である神
神を父と呼ぶとき、わたしたちは何らかの性別を考えているのではありません。「父と呼ばれるからといって神は男性ではなく、母と呼ばれるからといって女性なのでもない」のです。一・7 神について語るとき、女性形より男性形を用いるほうが適切だという根拠はありません。父なる神が、女性性を表す母なる女神に対して、男性性を表しているのではありません。神を父と呼ぶとき、ただ表したいのは、神がわたしたちの存在の原理であり源であること、そして宇宙を生み、支え、成り立たせる究極の神秘が、計り知れない愛の神秘だということです。一・8
したがって、神を女性的なイメージで表すことは、男性的なイメージで表すのと同じく正当です。聖書の伝統そのものが、家父長制の社会の中でさえ、神を女性的なイメージで描くことをためらいません。イザヤ書第二部、第三部には、こうあります。「わたしに聞け、ヤコブの家よイスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ胎を出た時から担われてきた。」(イザヤ46・3)「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49・15)「母がその子を慰めるようにわたしはあなたたちを慰める。」(イザヤ66・13)ですから、ヨハネ・パウロ一世の言葉は多くの人を驚かせたかもしれませんが、実際には特別に新しいものではありませんでした。教皇はこう言われたのです。「神は父です。それ以上に、母です。わたしたちの不幸を望まず、ただすべての人の幸せを望んでおられます。」一・9
今も男性によって形づくられている社会の中では、家父長的な言葉遣いを、当然のようにほとんど唯一の表現として用いるあり方を乗り越える必要があるのかもしれません。それによって、神を経験する幅が狭まり、貧しくなるおそれがあるからです。神はいかなる人間の言葉も超えています。それでも、どのような名で呼ぶかは重要です。神がわたしたちにとって何を意味するかは、その呼び名に大きく左右されるからです。母のように深い慈しみを抱く神に自分を委ねることが、今日、多くの人にとって、神の神秘をより豊かに、より親しく経験する助けとなるでしょう。
二 み名が聖とされますように
最初の呼びかけに続いて、三つの大きな願いが述べられます。その第一は、短く簡潔に表されます。「み名が聖とされますように」。これは、ただほかの願いと並ぶ一つの願いではありません。イエスの心から最初に生まれる望み、「その魂の第一の関心、最も熱烈な願望」なのです。二・1 イエスにとって、すべての目標は神の「栄光」、すなわち「神の名」が聖とされることです。一見なじみにくいこの言い回しの深い内容を見いだしてこそ、イエスの心で「主の祈り」を唱えられます。
1 神の名
聖書の文化では、名は、人や物を指すための単なる言葉ではありません。その人、その物の存在、内なる本性そのものを示します。二・2 神の名は、神がご自分を現し、知らせようとされたとおりの神の存在、その言い尽くせない神秘を表します。イスラエルの人々にとって神の名は、神が民にとってどのような方であるかを思い起こさせます。友なる神、民を心から愛する神、救い、解放し、懲らしめ、ゆるす、忠実な神です。神の名は、なお神秘のままです。「わたしはある。わたしはあるという者だ。……これこそ、とこしえにわたしの名」(出エジプト3・14–15)しかしイスラエルの民は、神が救いの愛であることを経験していきます。「主は御自分の民に贖いを送り契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。」(詩編111・9)
神の名は、とりわけその善を思い起こさせます。「主の御業はすべて良く、……『これはあれよりも悪い』と言ってはならない。どんなものも時が来ればその良さが証明される。さあ、心から、声高らかに賛美の歌をうたえ。主の御名をほめたたえよ。」(シラ39・33–35)その名を思い起こすなら、感謝が湧かずにはいられません。「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」(詩編103・1–2)この聖書の霊性を生きるマリアも、こう感謝を歌います。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、」(ルカ1・49)
こうして神の名は、人々のただ中における神の愛の働き、救いと解放をもたらす現存を表します。だからこそ信仰者は、ただその名を頼りにします。「わたしたちの助けは天地を造られた主の御名にある。」(詩編124・8)また、その名を呼び求めます。「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けてあなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出しわたしたちの罪をお赦しください。」(詩編79・9)真の信仰者は、神の名に全幅の信頼を置きます。その名こそ、その人にとってすべてなのです。「御名に望みをおきますあなたの慈しみに生きる人に対して恵み深いあなたの御名に。」(詩編52・11)「恵み深いあなたの御名に感謝します。」(詩編54・8)
神の名に込められた善のすべて、救いの愛、人を幸せにする慈しみは、キリストにおいて決定的に現されました。「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」(ヨハネ17・26)この神の聖なる名が、聖とされ、告げ知らされ、認められることを、わたしたちは願います。
2 神の聖性
わたしたちが「聖性」と言うとき、普通は、人が高度に達した「道徳的な完全さ」を考えます。しかし聖書の伝統では、聖性とは何よりも、神に固有のあり方です。真に「聖」であるのは神だけです。神は、存在するあらゆるものと異なり、比べることができません。神であって、人ではありません(ホセア11・9参照)。この世界の延長ではなく、まったく異なる、計り知れない超越的な方です。二・3 その存在と働きは、何ものとも、だれとも比べられません。具体的に言えば、神ほど愛し、正義を求める方はいません。不義を憎み、弱い人々を守り、その憐れみは果てしなく、救いの働きは測り知れません。したがって神の聖性は、わたしたちが聖く生きる根拠であり、そのように生きよとの呼びかけなのです。
初期のキリスト者の共同体でも同じことが語られます。「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです。」(一ペトロ1・15–16)イエスの教えも同じです。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5・48)
3 神がご自分の名を聖とされるように
この願いが生まれるのは、神の名「アッバ」が、聖とされず、栄光を受けていないからです。神がすべての人の父であられることが妨げられ、「父」という名が認められていません。その息子、娘である人々への暴力によって、神は辱められています。世界に憎しみと不正が増すとき、父という名は見下され、無視され、拒まれているのです。
信仰者は、神ご自身がご自分の名を聖とし、すべての人に認められるようにしてくださることを願います。二・4 神の栄光は、わたしたちだけの力で実現するには、あまりにも大きなことです。父という聖なる名が知られ、認められ、敬われ、感謝され、ほめたたえられるようにという熱い望みを、わたしたちは父に伝えます。何よりもまず、その名を聖とされるのは、わたしたちではなく神ご自身です。預言者エゼキエルにも、すでにこうあります。「わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。」(エゼキエル36・23)
ですから、わたしたちは神に言います。「愛する父よ、あなたの名を聖としてください」。こうして、イエスの祈りを繰り返すのです。「父よ、御名の栄光を現してください。」(ヨハネ12・28)これがわたしたちの最初の願いです。神の栄光が地に満ち、神が神であられ、その善、愛、救いをもたらす正義が、すべてに行き渡りますように。人間によって汚された父という名が、あがめられますように。互いにますます兄弟姉妹となっていく人々の間に、父としての愛が行き渡りますように。
4 わたしたちのかかわり
神の聖なる名が認められ、聖とされることへの熱い望みは、自分自身も「聖なる生き方」をしたいと願うのでなければ、生まれません。自分の生活によって神に栄光を帰し、「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」と望むのです(フィリピ1・11)。イエスもこう考えておられます。わたしたちは「善い行い」によって、父の名を聖とし、栄光を帰します。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5・16)
具体的に「神の名を聖とする」とは、神を敬い、自分の内におられる神の神秘的な現存を受け入れることです。神を操作しようとせず、神が神であられるようにすること。わたしたちのうちに働く救いを妨げず、生活にも思いにも感情にも行動にも、神のための場所をあけること。神を自分の存在の源、究極の行き先として迎え、アッバ、愛する父として愛することです。ですから、ほかの神々を造らず、すべての偶像崇拝を退け、神だけを主と認めることです。金銭、権力、性、その他どんな偶像にも自分を明け渡さず、ただ神にのみ希望を置き、その名だけに信頼することなのです。
しかし、神の具体的な名は、アッバ、父です。ですから、その名を聖とするとは、真の子として生き、すべての人を兄弟姉妹として迎えることです。世界に、より聖く、正しく、人間らしい関係を築き、人間の尊厳と権利を壊すものすべてに立ち向かい、だれもがより尊厳と幸せのある生活を送れるよう働くことです。「神に栄光を帰すのは、いのちに満ちた人間」だからです。二・5
それでも、この地上で、神が父として迎えられ、人々が兄弟姉妹として完全に愛し合う、聖く完全で正しい世界を見ることはできません。切に望む愛と正義と平和が、すべて実現するのを見ることはないのです。だからこそ「み名が聖とされますように」と祈るとき、その願いは、「神がすべてにおいてすべてとなられる」ときへの、究極の決定的な希望に開かれます(一コリント15・28)。
三 み国が来ますように
「み国が来ますように」というこの叫びは、先の「神の名が聖とされるように」との望みを、より具体的に理解する助けとなります。イエスにとって、神の国の到来はすべてです。その知らせの核心、最も深い確信、すべての行動の目標、生涯を貫く情熱です。弟子たちに祈りを教えるとき、存在の奥底から「父よ、み国が来ますように」と願わずにはいられなかったのも当然でしょう。この王制を思わせる表現は、今日のわたしたちには少し奇異に感じられるかもしれず、誤解することさえあります。しかし、「主の祈り」を正しく理解するには、この表現を深く受け止めなければなりません。
1 誤った考えを避ける
神の国を、報いを受け、神とともに永遠の喜びを味わう場所である天国と、同一視してはなりません。三・1 イエスが考えておられるのは、死の向こうの来世で実現する神の支配ではありません。神の支配は、今、進みつつある出来事です。たしかに、み国が完成するのは終わりのときです。しかし、神の国の成長、それを迎えること、その中に入ることは、今ここで起こります。ですから「み国が来ますように」と言うとき、天国に行けるようにと願っているのではありません。神の国がわたしたちの間に実現し、その正義が訪れ、その主権が世界に確立することを叫び求めているのです。
また神の国を、恵みによって信仰者の魂の中に実現する、内面的なものと理解してもなりません。三・2 それは、生活全体を変えていく歩みです。もちろん、神の国への回心には内的生活が伴います。しかし「み国に入る」ようにとの呼びかけは、霊的生活を充実させるようにとの招きというより、人間の全体をかけた決断への招きです。「み国が来ますように」と言うとき、心の内で神が治めてくださることだけでなく、世界の現実のすべてと、人間の物質的、霊的、社会的な生活を変え、父である神のご計画に、よりかなったものにしてくださるよう願っています。
神の国と教会を混同してもなりません。神の国は教会制度の内側だけで実現し、教会が成長、発展するのに応じて成長、発展するものではありません。教会は神の国に仕え、それを告げ知らせ、広めようとします。キリストによって、キリストにおいて始まった、人々の間における神の現存の「秘跡」、すなわちしるしだからです。しかし、神の国は目に見える教会の境界と一致しません。神の愛と正義が治めるところで、神は治めておられます。ですから「み国が来ますように」と言うとき、教会の成長や拡大を願うのではなく、神の国が世界全体に、そして教会にも来るよう願うのです。
2 神の国という理想
イスラエルに王制が成立しても、神が民の主権者、イスラエルの真の王でなくなったわけではありません。そこで、このような賛歌で神をたたえました。「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。」(歴代誌上29・11)イスラエルの王たちは神に従属し、そのみ旨を行わなければなりませんでした。
ですから、王たちも正義と善をもって行動しないと分かったとき、民の中に、いつか神ご自身が、ダビデ王家の子孫である「油注がれた者」、メシアを遣わされるという希望が生まれたのも不思議ではありません。その方が真の「神の支配」を打ち立て、人間の心と同じほど古くからある理想を実現してくださる。悪、不正、抑圧、苦しみ、死がなくなる、という希望です。
「神の国」は、真の正義と平和、救いと幸福をもたらします。そのとき、罪と不正は消え、すべての人の解放と尊厳が進められます。イザヤの預言の「慰めの書」が告げるのは、このことです。「いかに美しいことか山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え救いを告げあなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ52・7)
神の国は、何よりも貧しい人、不当に虐げられている人にとっての良い知らせです。地上の王たちさえ正義を行わない人々のために、神が正義を行わずに治めるということはありえません。弱い人々の守りを確かにできるのは、神だけです。「苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。暴虐な者はうせ、不遜な者は滅び」(イザヤ29・19–20)詩編の祈り手も歌います。「王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ乏しい人の命を救い不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。」(詩編72・12–14)
このように「神の国」の到来を望むことには、神だけがもたらすことのできる新しい秩序へのあこがれが込められています。人々の間に真の正義を確立できるのは、神だけです。世界に平和と救いをもたらせるのも、罪を滅ぼし、不義を取り除けるのも、神だけなのです。
3 神の国は来つつある
イエスの活動はすべて、この神の国の到来に集中しています。三・3 イエスは、ご自分と、その知らせ、働きによって、神の国が実現し始めているとの確信をもって生きておられます。神はすでに来ておられます。神の国は、人々の間に道を開き始めています。いのちは、神の救いの力によって耕されています。これこそ、わたしたち皆に変わることを迫る大きな知らせです。福音記者聖マルコは、イエスの中心的な知らせをこう要約しています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)
この神の支配は、イエスと同時代の多くの人が期待したような華々しさを伴ってではなく、へりくだった、素朴で、ほとんど隠れた仕方で訪れます。メシア、すなわち神から遣わされた方は、政治的な強国を築くために来られるのではありません。人々の生活に正義、真理、癒やし、ゆるしをもたらすことで、神の国を現されます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10・45)
ですから神の支配は、世界に蒔かれ、育っていく「種」(マルコ4・26–32)、人間の歴史の中に入れられ、それを変えていく「パン種」に似ています(マタイ13・33)。神の救いの力はすでに働いています。しかし、それは見つけ出さなければならない「隠された宝」(マタイ13・44)、ほかのすべてをかけても得るに値する「高価な真珠」のようです(マタイ13・45)。一見、この「神の国」は、小さな「からし種」のように、まだ取るに足りないものに見えるかもしれません(マルコ4・31)。失敗しているようにさえ見えるかもしれません。種は、落ちた土地の受け入れ方や抵抗によって、さまざまな運命をたどるからです(マルコ4・3–9)。しかしイエスは、人間の歴史の最も深いところで、すでに世界を救いへと導いている、へりくだっていながら力強い神の働きを見いだすよう、従う人々を招かれます。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」(マルコ4・11)
イエスご自身が、癒やしのわざと、悪や苦しみとの闘いによって、神の支配が来つつあることのしるしを示されます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(マタイ11・5)イエスが悪を追い出し、人々の生活をより健やかで、自由で幸せなものにしておられるなら、それは、神が善をもって悪に打ち勝ち、み国を打ち立てておられるしるしです。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。〔ルカでは「神の指で」〕」(マタイ12・28、ルカ11・20)
神の国の到来は、世界が聞くことのできる最も喜ばしい知らせです。人々の間で治めようとされるのは独裁者ではなく、ただすべての人の善と幸せを求める父なる神、アッバだからです。神が治められるなら、人々の間には兄弟愛、交わり、友情が行き渡ります。神を唯一の絶対者として迎えることは、不正、抑圧、互いの破壊をもたらしません。むしろ、兄弟姉妹としての共生と、すべての人への正義へと人類を導けるのは、それだけなのです。
イエスによれば、み国の福音を最初に聞くべき人々は、貧しい人たちです。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」(ルカ4・18)神の国の到来から最初に恵みを受けるのは、身を守れない人、権力者の犠牲となった人、片隅に追いやられた人、社会にも他人の心にも居場所を持たない人たちです。ほかの人より優れているために、特別に神の国を受けるに値するのではありません。理由はただ一つ、貧しく、正義と愛を必要としているからです。だからこそ、神の支配とその正義が行き渡ることは、その人たちにとって善いことなのです。
神が世界を治めるなら、その分だけ、強い者は弱い者を支配しなくなり、富む者は貧しい者を虐げなくなり、男性は女性を支配しなくなり、第一世界の国々は第三世界を搾取しなくなります。また、神とその正義が治めるなら、金銭、武力、武器、豊かさ、権力が、絶対的な主人として人々を支配することもなくなります。神のものを、いかなる皇帝にも渡すことはできません(ルカ20・25参照)。神と富とに、同時に仕えることはできないのです。
4 み国に入る
神の国は、なお実現の途上にあります。「すでにここにあるが、まだ完成していない。地上に蒔かれ、成長していかなければならない。始まりは小さく、ほとんど取るに足りないが、全世界に及ぶことを目指している。善はすでに世界で働いているが、まだ悪に完全には勝っていない。み国は、すでに受けた賜物であると同時に、実現を待ち望む約束でもある。」三・4 だからこそ、わたしたちは「み国が来ますように」と叫びます。「種」が育ち続け、「パン種」が発酵し続け、キリストにおいて始まったことが、さらに発展していきますように。
この願いを心の底から叫べるのは、み国の働きに身を投じる覚悟のある人だけです。み国を待ち望むなら、イエスの招きに耳を傾けなければなりません。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6・33)神の国に入るには、父、アッバを迎える「子ども」の姿勢が必要です。「天の国はこのような者たちのものである」からです(マタイ19・14)。また、真福八端の心で生きる必要があります。「神の国はあなたがたのものである」だからです(ルカ6・20)。さらに、神の国へのあこがれは、その国が迎えられるよう働くことへとわたしたちを駆り立て、責任を負わせます。より兄弟愛と連帯に満ちた世界のために働き、より人間らしい関係を築き、平和を打ち立て、和解を進め、不正に立ち向かい、悲観や絶望に陥らず、神への希望を絶えず生き生きと保ち、み国の到来を熱心に願うことです。
イエスに従うわたしたちも、苦しむ人々が良い知らせとして受け止められるような、解放といのちを生む行いへと招かれています。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10・7–8)その行いはさまざまです。この社会から何も期待できない人に希望を差し出すこと。どこにも居場所や受け入れてくれる人のない人を迎えること。権力者を前に身を守れない人を守ること。不当な扱いを受ける人に正義を行うこと。忘れられ、疎外された人を心に留めること。罪を犯した人に、ゆるしと立ち直る可能性を差し出すこと。この心で生き、働くところには、神の国が来つつあるのです。
み国を待ち望む人は、希望を失わず、感謝も忘れません。「今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。」(黙示録11・17)望むようなみ国の実現が見えなくても、神がすべてを最後の救いへと導いておられると、わたしたちは知っています。神は「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」です(黙示録1・4)。
四 み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように
この願いは、マタイによる福音書だけにあります。実際には、先の二つの願いに新しいものを付け加えるわけではありませんが、まだ名指されていなかった「神のみ旨」を表しています。神の支配が道を開くには、人々が、その間で治めようとされる神のみ旨に、素直に従わなければなりません。
この願いを正しく理解する必要があります。ある人は神のみ旨を、神が課し、人間が守らなければならない法律や規則の集まりと理解するかもしれません。その場合、神が啓示された道徳から世界が離れないようにと願うことになるでしょう。またある人は、知ることは難しいが、信仰をもって受け入れなければならない、神秘的で計り知れない計画を考えるかもしれません。あるいは、神の意志が自分の意志と一致するかを知りたくて、それを解き明かそうとすることもあるでしょう。「主の祈り」で、わたしたちは実際には何を願うのでしょうか。神が真に望んでおられることとは、何でしょうか。
1 救いを望む神のみ旨
「神のみ旨」とは、神が成し遂げられ、実現することを望んでおられるものです。四・1 聖書の伝統には、契約に伴う要求や、民が忠実に歩むよう神が望まれる「道」について、たびたび語られています。しかし、そのすべては、神がすべての人のために望まれる救いに向かっています。それこそ、イエス・キリストにおいて完全に現された「み旨の神秘」です(エフェソ1・5)。神は「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(一テモテ2・4)。
ヨハネによる福音書は、これが父のみ旨だと繰り返し述べます。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり……」(ヨハネ6・39–40)神の計画は、ただ一つです。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3・17)
「み旨が行われますように」という願いによって、わたしたちは先の「み国が来ますように」を繰り返し、強めます。神の国が成長し、一日も早く完成に達するように。神の救いの計画が実現するように。これが、何度も繰り返す大きな望みです。だれも、ことに小さな人々が失われませんように。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」からです(マタイ18・14)。
2 父が救いの計画を実現してくださるように
自分が何を願っているか、はっきり意識しなければなりません。神が変わって、わたしたちの願いをかなえてくださるよう呼び求めるのではありません。祈るのは、まさに神の願いに耳を傾け、わたしたち自身が変わるためです。自分の意志を実現するために、神に意志を変えてくださるよう求めるのではありません。結局はわたしたちの真の善である、「神のみ旨が行われる」ことを願うのです。
それは、決定的なものは自分の意志ではないと認めることです。わたしたち人間の、存在に対する理解や計画は限られ、時には誤ってさえいます。大切なのは、神の救おうとするみ旨です。父である神への信仰は、「一人一人と被造物すべてを包み込む、より超越的な計画への、へりくだった自己奉献」を呼び覚まします。四・2 それは、自分の意志や望みを手放し、時には神秘に包まれた神の道を受け入れることとなります。理解できない出来事や経験、期待と一致しないことも、引き受ける用意を持つということです。
しかし神のみ旨を行うとは、自分の意志をなくしたり、弱めたりすることではありません。真の善へと方向づけることです。神はわたしたちを愛されるとき、ご自分の利益ではなく、ただわたしたちの善と幸せを求めておられます。それを忘れてはなりません。神が心をかけておられるのは、ただわたしたちです。愛だけによって、わたしたちの善を求めて創造されます。人間が生き、十全ないのちに達すること、それが神の栄光です。四・3
ですから「み旨が行われますように」と言うとき、自分の利益や善を放棄しているのではありません。自分の救い、すべての人の救いを願っているのです。
3 天に行われるとおり、地にも
聖書の言葉で「天と地」と言うとき、存在するものの全体、すべての被造物を指しています。四・4 ですから、わたしたちは神に、あらゆる所で、いつも、み旨が行われるよう願います。何も除かれず、だれも神の計画に心を閉ざさず、その救いのみ旨が、すべてを包みますように。
ただし、初めの呼びかけで見たように、「天」は神に固有の場所であり、「地」は人間の領域です。この見方では、神においてすでに成っていることが、人々の間でも実現するよう願っています。「天」、つまり神において、決定はすでになされています。しかし「地」、つまり人々の間で、実行されなければなりません。わたしたちが言おうとするのは、こういうことです。天でお定めになった計画が、地にも実現しますように。父よ、アッバ、あなたの心ですでに決められたことが、わたしたちの間でも成し遂げられますように。四・5 オリゲネスの有名な解説があります。「神のみ旨が天で行われるとおり地にも行われるなら、地はもはや地ではなくなり……そのとき、わたしたちは天となるだろう。」四・6
4 父への忠実な従順のうちに
日々の生活で父に従う姿勢を取らずに、心から「み旨が行われますように」と言うことはできません。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7・21)その模範は、イエスご自身です。
イエスの生涯の目的は、まさに父のみ旨を行うことでした。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」(ヨハネ6・38)日々、イエスが求められるのは、それだけです。「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネ5・30)父のみ旨は、義務として耐えなければならない重荷や、のしかかる掟ではなく、いのちを養い、存在を生かすものです。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4・34)父へのこの忠実さによって、イエスはいつも父との交わりにとどまられます。「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」この従順は、いつも容易とは限りません。父のみ旨に忠実であり続けることが時にどれほど厳しいか、イエスはご自身の身をもって経験されました。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と記されています(ヘブライ5・8)。それでも苦しみのただ中で、従う姿勢を堅く保たれました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」(マタイ26・42)
イエスこそ、わたしたちの従う道です。父のみ旨を行うことは、イエスとの新たな、特別な関係にわたしたちを導き入れます。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12・50)父のみ旨を生きるには、神の道を識別し、今ここで、具体的に何がみ旨なのかを問わなければなりません。聖パウロは、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と勧めます(ローマ12・2)。「“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り」という言葉の実現を目指すのです(コロサイ1・9)。
これらすべては、わたしたちの努力だけから生まれるものではありません。わたしたちのうちに実現できるのは神です。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」と記されています(フィリピ2・13)。すべての始まりに神がおられます。自分の力だけでは何もできません。「御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり」という祈りが向けられる方、それは神です(ヘブライ13・21)。ですから、ご自身がわたしたちのうちにみ旨を成し遂げてくださるよう願います。マリアと同じ心で、「お言葉どおり、この身に成りますように」と祈るのです(ルカ1・38)。
五 わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください
この願いから、「主の祈り」の後半が始まります。これまでは、「あなたのみ名」「あなたのみ国」「あなたのみ旨」と、神に心が向けられていました。ここからは、「わたしたちのパン」「わたしたちの負い目」「誘惑に陥らせないでください」「悪からお救いください」と、わたしたち自身に目を向けます。神のみ前で表してきた大きな望みは、人間の最も基本的な必要に応えるこうした願いを排除せず、むしろ呼び覚まします。
一見、最初の願いは最も分かりやすいように思えます。しかし、その解釈にはいくつもの難しさがあり、豊かな内容が凝縮されています。イエスの心で父に祈るには、その内容を受け止めなければなりません。
1 パン
パンを乞い求めるのは、生きるために必要なものを持たない、貧しい人のしぐさです。イエスの母語では、パンは「食べ物」一般を意味しました。イスラエルの人々にとって、基本となる欠かせない食物だったからです。いのちはパンにかかっています。人間は、食べずに生きていくことはできません。「人は体だけを超えた存在だが、体なしには存在しない。人間のいのちはパンだけを超えているが、パンなしには何もできない。」五・1
ですから父に願うのは、生きるために必要なもの、いのちを支える欠かせない食物です。わたしたちは、自分だけでは足りません。絶えず食物が必要です。こうして、物質的な養いにおいてさえ、根本的に神に依存していることを認めます。いのちと、それを養うものはすべて、究極的には神から来ます。わたしたちは神に信頼します。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。……まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7・9–11)父である神にパンを願うとき、わたしたちは、善い、必要なもの、生きるために要るものを願っているのです。
2 わたしたちのパン
願うのは「わたしの」ではなく、「わたしたちの」、すべての人のパンです。神に向かわせるのは、自分だけの個人的な必要ではありません。兄弟姉妹である地上のすべての男女の必要です。皆の愛する父、アッバである神に、ほかの人を忘れたり顧みなかったりしながら、自分のパンを願うことは、イエスの心から遠く離れています。わたしたちの祈りは、いつも複数形です。一人一人の人間が生きるために必要とするパンを、神に願います。
すべての人のパンを願うことは、回心を迫ります。自分のパンだけを気にかけることはできません。生きるために必要なものさえ持たず、飢えと栄養失調に苦しむ何百万もの人々を忘れて、自分の満足や物質的な豊かさだけを考える権利はありません。貧しい人を搾取し、飢えた人を忘れて食べるパンは、神に祝福されたパンではありません。兄弟姉妹であると知る者にふさわしい尊厳を欠いています。飢えた人と分かち合わないかぎり、それは父である神のパンではありません。飢え続け、食べるものが何もない人がいるかぎり、自分のために取っておき、蓄えるパンは、不正なパンなのです。
ですから、この願いをささげるとき、預言者の呼びかけを無視できません。「更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与えさまよう貧しい人を家に招き入れ裸の人に会えば衣を着せかけ同胞に助けを惜しまないこと。」(イザヤ58・7)イエスのたとえも同じです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、……」(マタイ25・35)
3 日ごとのパン
わたしたちは、今日のためのパン(マタイ)、日ごとのパン(ルカ)、今このときを生きるために必要な、欠かせないパンを願います。五・2 ですから願うのは、明日のためではなく、今日のためだけです。毎日必要であることを知りながら、将来のために財産を蓄えようと思い煩わないのです。イエスはこう戒められます。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。……だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6・31–34)箴言の知恵ある人が、すでにささげていた祈りです。「貧しくもせず、金持ちにもせずわたしのために定められたパンでわたしを養ってください。」(箴言30・8)
神に求めるのは富や豊かな暮らしではなく、基本的な必要を満たし、日々食べていくためのものです。この願いを正しく理解すれば、それは一日分のパンを求めることをはるかに超えています。つつましく生き、父に全面的に信頼する、生き方全体を含んでいます。神の国を唯一の絶対的なものとして見いだし、富を増やすためには生きられなくなった人の姿勢なのです。
この願いには、福音の内容が深く凝縮されています。心から唱えられるのは、富ではなく神に仕えて生きる人(ルカ16・13)、「これらのものはみな加えて与えられる」と知り、「神の国と神の義を求め」て生きる人(マタイ6・33)、み国の価値を見いだし「すべてを売る」人(マタイ13・44–45)、み国を告げながら「財布も袋も履物も持って行くな」との言葉に従って歩む人です(ルカ10・4)。この生き方をする人は、日ごとのパンを求める願いを理解します。
4 人はパンだけで生きるのではない
神にパンを願うとき、物質的な養いの面だけでなく、全面的に神に依存していることを認めます。わたしたちの霊を養う、神の言葉というパンも必要です。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」からです(マタイ4・4)。日ごとのパンを願うとき、日々の生活を養う福音、神の言葉をも願っています。
しかしキリスト者にとって、真のパンはキリストご自身です。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6・35)人間の心の飢えを満たせるのは、キリストだけです。願いは、さらに具体的にもなります。キリストはとりわけ、聖体のパンによってわたしたちを養われるからです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6・51)
こうしてパンを求める願いは、非常に豊かなものとなります。父に日ごとのパンを願う人は、そのさまざまな意味を同時に響かせ、受け止め、生きることができます。物質的な養いと霊的な糧、人間として生きるために必要なすべてを願うのです。
5 永遠のいのちのパン
ギリシア語の epiousios は、普通、日ごとのパン、今「存在している」日のためのパンと解されますが、「明日の」パンとも訳せます。その場合は、将来のパン、終わりの宴のパン、永遠のいのちのパンを神に願うことになります。
この表現の正確な意味を知るのは容易ではありません。五・3 たしかに、イエスが永遠のいのちのパンを指しておられた可能性はあります。イエスは、いくつものたとえで、完成した神の国を宴にたとえられます(マタイ22・1–14、ルカ14・16–24)。今飢えている人は、いつか満たされるから幸いだと言われます(ルカ6・21)。あらゆる所から人々が来て、神の国でアブラハム、イサク、ヤコブと「食卓に着く」と告げられます(マタイ8・11)。試練の中でもともに踏みとどまる弟子たちには、「わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし」と約束されます(ルカ22・30)。だからある日、イエスと食事をしていた人の一人が叫びました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(ルカ14・15)
わたしたちの願いにも、完成したみ国へのこのあこがれを含めることができ、また、含めるべきです。今から、み国のパン、終わりの祝宴のパンを望みます。「どうか、もうお与えください」「神の国が、もう決定的に来ますように」。わたしたちは今すぐにも、永遠のいのちのパンを味わいたいのです。
6 神の賜物と人間の労働
いのちと、それを養うすべては、神の賜物であり、同時に人間の労働の実りです。パンは、奇跡的に天から降って来るわけではありません。神はいのちの源におられ、すべてを動かす力と活力は神から来ます。しかし、人間の労働が必要です。いのちは神の賜物であり、わたしたちは無から造り出せません。それでも、それを耕し、変え、より良くするために働くよう招かれているのは、わたしたちなのです。
そのため、いのちとそれを養うものの象徴であるパンは、多くの民族や文化において、敬意と尊崇をもって扱われる聖なるものです。五・4 いのちの神秘と結びついているので、投げ捨てたり、粗末に扱ったりしません。パンは、息子、娘である人々のいのちを養う神の愛のしるしです。同時に、努力と汗によって初めて大地からパンを得る、男女の労働の象徴でもあります。
六 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします
このゆるしの願いは、福音書の本文では別の言い方になっています。マタイは負債を表す言葉を使います。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6・12)一方、ルカは、ギリシア語を話す読者に分かりやすくするため、「負い目」を「罪」に変えています。「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」(ルカ11・4)この願いをよく理解するには、神に対するわたしたちの「負い目」を深く考えなければなりません。
また、父である神に願うゆるしは、わたしたちが兄弟姉妹に与えるゆるしと、密接に結びついています。この関係を、どう理解すればよいのでしょうか。他者をゆるすことが、神もわたしたちをゆるしてくださるための必要不可欠な条件なのでしょうか。それとも、まさに神のゆるしの実りであって、神のゆるしが、他者をゆるす力を与え、そのように導くのでしょうか。
1 神に対する負い目
聖書の伝統は、罪を多様な仕方で語ります。神への反抗、神の道から離れること、命令への不従順、契約への不忠実、愛の拒絶、み旨からの離反、掟への違反などです。「主の祈り」では、罪は「負い目」、空白、神の計り知れない賜物への応答の欠如と見なされます。
わたしたちは、神に負い目を持っています。全人類の大きな罪は、その父としての愛に応えていないことです。イエスにとって、真の罪とは、すべきことをしないことである。そのことを、キリスト者はいまだ十分に受け止めていません。タラントンのたとえの僕が責められるのは、悪事を働いたためではなく、受けたものを実らせなかったためです(マタイ25・14–30)。「実のならないいちじくの木」(ルカ13・6–9)や、「実を結ばない」枝も同じです(ヨハネ15・2)。最後の日、人々は、犯した悪事によってではなく、飢えた人、渇いた人、旅人、裸の人、病人、牢にいる人に対して「しなかったこと」によって裁かれます。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」(マタイ25・45)
これがわたしたちの罪です。行わないこと、応えないこと、「神からいただいた恵みを無駄にして」しまうことです(二コリント6・1)。この罪は、法律への違反ではありません。すべてを与えてくださる父に対する、人格的な侮辱です。その父は、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」愛されることを待っておられます(申命記6・5、マルコ12・30および並行箇所)。父がただ願い、求めておられるのは、わたしたちが真の兄弟姉妹として愛し合うことなのです。
ゆるしを願えるのは、自分の罪と負い目を認めるときだけです。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」(一ヨハネ1・8)だれにも害を与えていないから、自分は正しく、罪がないと考える人は、ゆるしの必要を感じず、自分の本当の姿も知りません。神のみ前で自分を聖なる者と思い込む、たとえ話のファリサイ人のような錯覚の中に生きています。自分の罪を認める人だけが、徴税人のように叫びます。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(ルカ18・13)
わたしたちが、なお複数形で祈っていることを忘れてはなりません。全人類の罪のゆるしを、神に願っています。だれもがゆるしを必要としています。一人一人が、自分と他者のためにゆるしを願います。神への莫大な負い目を、皆で負っています。「主の祈り」を祈る人は、神に負い目を持つ人類のただ中に、自分を見いだします。ホセアも自国を見て、こう言いました。「この国には、誠実さも慈しみも神を知ることもないからだ。」(ホセア4・1)救いをどこに求められるでしょうか。神の憐れみとゆるしにしか、求められません。
2 おゆるしください
その深い確信から、願いが生まれます。「おゆるしください」。アッバである神、愛する父は、ゆるしの神です。それが聖書の伝統全体を通して、信仰者の経験してきたことです。「あなたは罪を赦す神。」(ネヘミヤ9・17)「赦しはあなたのもとにあり」(詩編130・4)イスラエルが経験した神は、信頼へと招かれます。「主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなくとこしえに怒り続けられることはない。……天が地を超えて高いように慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように主は主を畏れる人を憐れんでくださる。主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。」(詩編103・8–14)
イエスは、父の限りなく計り知れないゆるしを告げ、実現するため、神から遣わされた方として現れます。「イエス」という名そのものが、「自分の民を罪から救う」方であることを示します(マタイ1・21)。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われます(マルコ2・17)。「世の罪を取り除く神の小羊」です(ヨハネ1・29)。その血は、「罪が赦されるように、多くの人のために流される」(マタイ26・28)。イエスについて驚くべきことは、預言者たちや洗礼者ヨハネ自身とも異なり、神のゆるしを、まったく無償で、無制限の贈り物として差し出されることです。神は、悔い改める罪人だけでなく、徴税人や娼婦、異邦人や異教徒をも、限りなくゆるされます。しかも、先に償いをすることを求めずにゆるされます。そのゆるしは、純粋な恵みです。それがファリサイ派の人々をつまずかせます。イエスは批判に答え、放蕩息子、見失った羊、なくした銀貨のたとえを通して、父である神の計り知れない善を繰り返し強調されます(ルカ15・1–32)。この神に、わたしたちは「おゆるしください」と叫びます。
3 わたしたちも人をゆるします
神のゆるしは、わたしたちが兄弟姉妹をゆるすことと結びついています。しかし、この関係はどう理解すべきでしょうか。わたしたちのゆるしが、神にゆるしていただくための不可欠な条件なのでしょうか。それとも、神が先に与えてくださったゆるしの結果、実りなのでしょうか。
神のゆるしを受けるには、兄弟姉妹をゆるすことが必要だと、イエスが警告されたのは明らかです。祈りについて語る際、強調されます。「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」(マルコ11・25)しかし、この考えは、その宣教に幾度も現れます。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6・37)真福八端にも見いだされます。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」(マタイ5・7)
マタイは「主の祈り」を記す際、兄弟姉妹をゆるす必要を、とりわけ強調しています。この祈りのすぐ後で、イエスは宣言されます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6・14–15)しかも、弟子が父に祈るときには、すでに兄弟姉妹をゆるしていなければならないと言われます。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6・12)六・1 献げ物についても、同じことが語られます。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタイ5・23–24)
こうしたことは、誤解を招くかもしれません。兄弟姉妹をゆるすのは、神のゆるしに値する者となるために、あらかじめ行うことではありません。父のゆるしは完全に無償であり、こちらの功績によるものではないのです。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、——あなたがたの救われたのは恵みによるのです—— キリスト・イエスによって共に復活させ、……」(エフェソ2・4–6)また、神がわたしたちをゆるすときに、わたしたちの兄弟姉妹へのゆるしを手本とする、ということでもありません。反対に、神のゆるしが、ゆるす力をわたしたちのうちに呼び覚まし、父がわたしたちに示されるのと同じ姿勢を、兄弟姉妹に向けて再現させるのです。初期のキリスト者への勧めは、こう理解できます。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソ4・32)「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(コロサイ3・13)
4 ゆるしを求める願いの意味
この願いをよく理解するためには、いくつかの点を心に留める必要があります。
憐れみのない僕のたとえが役に立ちます(マタイ18・23–35)。この僕は、何の功績もないまま、計り知れない額、一万タラントンを主人に免除してもらいます。しかし、自分のためにゆるしを求めながら、心は憐れみに開かれていません。実際、ごくわずかの百デナリオンを貸している仲間に会っても、ゆるしません。主人は言います。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(マタイ18・32–33)こうして、ゆるしは取り消されます。たとえの結論は明確です。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ18・35)
「主の祈り」を祈る人は、神がキリストにおいてすでに、無償で完全なゆるしを差し出してくださったと知っています。ただし、神のゆるしと、自分の内から罪が取り除かれることは、純粋な愛によってしか起こりえない出来事です。そのゆるす愛に心を開き、自分の内に同じ姿勢を育てなければ、神のゆるしを受け入れることはできません。神のゆるしを受け入れる人は、変えられ、ゆるしながら生きます。反対に、恨みを抱き、他者に負債を取り立て続ける人は、変えられておらず、神のゆるしを受け入れていないのです。
祈りが偽善であってはなりません。自分への神の憐れみを願っているまさにそのときに、非情になり、ゆるすのを拒むことはできません。父である神のみ前では自分のためにゆるしと憐れみを願い、兄弟姉妹の前では一切のゆるしを拒む。そのような二つの異なる姿勢は取れません。ゆるさないなら、心が愛に閉ざされているしるしであり、それと同じだけ、神のゆるしを受けることにも閉ざされているのです。
実際には、わたしたちのゆるしは、神のゆるしに先立つのではなく、わたしたちのゆるしの願いに先立ちます。神がゆるしてくださるための条件ではなく、願いが誠実であるための条件です。「わたしたちもゆるします」と言えるのは、すでに神のゆるしを受けたからです。父にゆるされたから、兄弟姉妹をゆるせます。そして兄弟姉妹をゆるせるからこそ、神の決定的なゆるしを、心から願うことが許されるのです。
この願いを誠実に唱えるには、実際にゆるす姿勢で生きなければなりません。あらゆる復讐を手放し、「七の七十倍までも」たゆまずゆるし(マタイ18・22)、敵をさえ愛し、迫害する人のために祈るのです。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」というイエスの言葉を生きるためです(マタイ5・45)。
七 わたしたちを誘惑に陥らせないでください
ここで、唯一、否定形で述べられる願いに至ります。自分の弱さを知り、罪に陥らないための助けと力を父に願います。しかし、正しく理解しなければなりません。日々の誘惑から解放してほしいと願うのではなく、神の国を拒み、イエス・キリストへの信仰を捨てるという、根本的で決定的な誘惑に陥らせないでくださいと願うのです。七・1
1 わたしたちの弱さ
人間は自由です。少なからぬ要因に制約されながらも、自分の人生の方向を決められます。しかし同時に、根本的に弱い存在でもあります。内からも外からも脅かされ、人生の構想を崩しかねない、あらゆる危険にさらされています。
実際、どの人にも、深く相反する二つの傾向があります。一方には、善を行い、正義を求め、愛し、兄弟姉妹として交わりのうちに生きようとする傾向。他方には、悪に引きずられ、利己主義と他者への無関心に閉じこもり、不正や暴力によって行動する傾向です。そのため聖パウロは、「肉」に動かされるわざと、「霊」から生まれる行いを語ります(ガラテヤ5・19–22)。
「悪の神秘」は、いつもわたしたちを脅かします。いつでも、利己主義や不忠実に陥るおそれがあります。聖パウロは、だれもが自分の内に経験できる、個人的な体験を語っています。「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」(ローマ7・21–23)この弱く、絶えず脅かされるあり方から、助けを求める願いが生まれます。
2 誘惑
原文のギリシア語 peirasmós は、「試練」を意味することがあります。厳しく困難であっても、善へと成長する助けとなる経験です。聖書の伝統は、こうした試練をたびたび語ります。神ご自身が、民を四十年間、荒れ野で導き、試し、その心を知ろうとなさいます。「こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」と記されています(申命記8・2)。イスラエルの信仰者は、この種の試練を積極的に受け止めます。ユディトは言います。「そして、これらすべてにまして神なる主に感謝いたしましょう。主は、わたしたちの先祖になさったように、今わたしたちに試練を与えておられるのです。」(ユディト8・25)また、ある祈り手は、神にこうまで願います。「主よ、わたしを調べ、試みはらわたと心を火をもって試してください。」(詩編26・2)
しかし同じ原語は、「誘惑」、すなわち悪への誘いも意味します。この意味では、罪へと陥れようとする状況や経験を指します。「主の祈り」の願いで考えられているのは、間違いなく、この悪しき性質の誘惑です。
ただし、日々の小さな誘惑ではありません。神を拒み、その愛、国、正義に心を閉ざし、それらを自分の利己主義に置き換えてしまう誘惑です。七・2 イエスは「終わりの誘惑」、サタンや闇の力の時が来て、すべてを疑い、投げ出す誘惑に陥りうるときについて、多く語られます。その勧めは明確です。「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21・36)
この終末的な、最後の誘惑は、一人一人の具体的な生涯に、いわば凝縮され、現実のものとなります。イエスご自身も、受難のとき、民の拒絶、弟子たちの不忠実、神からさえ見捨てられる経験の中で、これを生きられました。
3 陥らせないでください
原文では、文字どおりには「わたしたちを誘惑の中に入らせないでください」と神に願います。まるで、神ご自身が悪へ誘われるかのようです。しかし、今述べたような誘惑を神が引き起こすことはありえません。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」(ヤコブ1・13–14)むしろ神は、試練のただ中で、それを乗り越える力を与える方です。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(一コリント10・13)
わたしたちが神に願うのは、まさにこのことです。元の表現は誤解を招きうるものの、意味は明らかです。七・3 「誘惑に屈するままにしないでください」と願います。誘惑されないことではなく、屈服せず、誘惑に仕掛けられた罠に陥らないことを願うのです。誘惑に打ち勝てますように。誘惑が来たとき、神が力を与え、敗れて倒れないよう守ってくださいますように。イエスの祈りにも、同じ思いが現れます。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」(ヨハネ17・15)
こうして「主の祈り」を祈ることで、イエスの招きに従います。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(マルコ14・38)わたしたちは、小さくもろい信仰を絶えず脅かす悪の力を知っています。それでも信頼して神のもとへ行き、その善い守りを願います。誘惑と悪のただ中でも、愛する父である神と、悪に打ち勝つその大きな力を頼りにできるのです。
4 目を覚まし、祈る
イエスによれば、誘惑を前にした信仰者の姿勢は、「目を覚ますこと」と「祈ること」の二つです。それは、何よりも自分の弱さを自覚することです。高慢や独りよがりに陥らず、無自覚でいることも避けます。目を覚まし、祈る必要があると知ること、つまり、自分の自由を生かし続け、父である神の恵みに信頼することです。
目を覚ますとは、物事を明らかに見て、眠り込まず、注意深く生きることです。イエスは「絶えず目を覚ます」よう呼びかけられます。神は、わたしたちの責任に取って代わる方ではありません。悪に対して決して気を緩めず、全力で闘い、幾度も信仰に立ち返って生きなければなりません。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マルコ13・13)
しかし、この目覚めた姿勢には、祈りが伴わなければなりません。わたしたちの弱さは大きいからです。自分の内に働く神の力によってしか、勝てません。この信頼から祈りが生まれます。悪に最後の決定権はありません。「世にある悪は、より高い計画、わたしたちの父の計画に従属したままである」のです。七・4 悪は、神にも制御できないほど強いものではありません。
八 悪からお救いください
最後の願いは、父である神への救いを求める叫びです。短く、切迫した叫び。「悪からお救いください」。この願いを加えているのはマタイだけです。固有の意味を持つものの、先の願いと深くつながっているのは確かです。八・1 天の父への最後の叫びを、正しく理解しなければなりません。日々の災いや問題、困難を取り除き、より平穏で気楽に暮らせるよう願うのではありません。神の国といのちから、わたしたちを引き離しかねない「悪」から、父が救ってくださるよう願うのです。
1 悪
原語は、人格的に「悪い者からお救いください」とも、非人格的に「悪からお救いください」とも理解できます。八・2 正確には、どちらなのでしょうか。
福音書には、神の支配と闘う「悪い者」がたびたび登場します。「誘惑する者」(マタイ4・3)、「敵」(マタイ13・39)、「人殺し」「偽り者」(ヨハネ8・44)、「この世の支配者」と呼ばれます(ヨハネ12・31)。人々の心に蒔かれた神の言葉を「奪い取る」者(マタイ13・19)、み国の麦の間に「毒麦を蒔いて行った」者です(マタイ13・25)。この悪い者の存在は、神秘的で、二面性を帯びています。一方では、その力は打ち破られています。イエスは、それが「稲妻のように天から落ちる」のをご覧になります(ルカ10・18)。他方では、「残された時が少ない」とはいえ、今もわたしたちの間にいるのです(黙示録12・12)。
「主の祈り」では、もともと、この悪い者の敵対する力と支配から解放してくださるよう、神に願っていたと考えられる、さまざまな手がかりがあります。八・3 しかし、現在の一般的、典礼的な訳のように、非人格的にも理解できます。「悪から、罪から、神の国に逆らうものから、お救いください」。また、この悪い者を、今日、具体的な一つの存在と捉えるべきか、悪の諸力の人格化、あるいは体現と捉えるべきか、判断するのは容易ではありません。八・4
2 悪から引き離してください
いずれにせよ、願いの意味を理解するのは難しくありません。被造物は善いものだと、わたしたちは知っています。父の手から、そのように生まれたのです(創世記1・31)。しかし、悪の暗い存在を、痛みをもって認めます。罪、不正、飢え、不幸、病、死。人間が自由意志によって引き起こす悪、世界の有限性に由来する悪、世界と歴史に染み込む、神秘的で広がりのある悪。なぜ、この悪があるのでしょう。どこから来るのでしょう。どのような意味がありうるのでしょう。これこそ、人間が答えられない大きな問いです。「主の祈り」では、思索にふけることはしません。まず心に生まれるのは、父への信頼に満ちた叫びです。「悪からお救いください」。
わたしたちは、世にある罪の責任を負う者であると同時に、犠牲者でもあると知って祈ります。罪や邪悪さは、人の心だけにあるのではありません。罪はすでに、構造や、人間の歴史そのものの動きに組み込まれています。悪は、制度、不正な仕組み、文化、道に外れた習慣の中で持続します。一人一人の手に余りながら、神の国と人間に逆らって働く罪を語ることができます。聖ヨハネは、それを「世の罪」と呼びます(ヨハネ1・29)。八・5
神に悪から救ってくださるよう願うのは、厳密には、悪の捕囚や奴隷状態から解放されることを願うのではありません。ギリシア語のより正確な意味によれば、待ち伏せする悪から引き離し、手遅れになる前に危険から救い、歴史に広がってすべてに入り込むかに見える悪の力に、引き渡さないでくださいと願っているのです。
悪は、その全力をもって存在します。しかし信仰者の姿勢は、恐れではなく、父への大きな信頼です。神がすでに働かれたことを知っています。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1・13–14)わたしたちはすでに救われています。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」(ガラテヤ1・4)しかし、悪に最後の決定権はないとはいえ、なお働いています。被造物は、今も「神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」。わたしたちは、いつか「滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」ことを希望して生きています(ローマ8・19–21)。その間も、救いをもたらす父の守りを願い続けます。
3 悪に対するわたしたちの闘い
父の助けを願うのは、自分たちだけのためではなく、全人類のためです。信頼をもって、責任ある者として願います。
悪からの解放を願う人は、全力で悪と闘う覚悟を持たなければなりません。イエスに従うのです。イエスは、悪について理論的な教えを示すのではなく、善を行い、人々を苦しみ、不正、罪から解放するために身をささげられました。聖パウロにとって、悪と闘う方法は一つ、「善を行う」ことです。こう勧めています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12・21)「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」(一テサロニケ5・15)「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」(ローマ6・13)
信仰者は、父なる神に信頼して悪と闘います。神は「すべての悪から人を救う方」です(知恵16・8)。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(一コリント1・9参照)。「主の祈り」を祈る人は、こう確信しています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8・31)
原文の「主の祈り」の最初の言葉は「父」、最後の言葉は「悪」です。この祈りは、悪に脅かされていると知った子が、父にささげる信頼の祈りです。「父よ、悪からお救いください」。この叫びが、心の内に響き続けます。H・シュールマンが言うように、「主の祈り」は終わりのない祈りへとなっていきます。八・6 最後の願いを心から唱える人は、再び初めの大きな望みを父に伝え始められます。「み名が聖とされますように。み国が来ますように……」。イエスは、弟子たちが毎日唱える祈りとして、この祈りを考えられました。真にイエスに従う者が生きるべき精神を、そこに集め、表しておられるからです。
九 アーメン
伝統的に、「主の祈り」は「アーメン」で終えますが、この言葉は福音書の原文にはありません。九・1 会堂の礼拝で用いられたこの言葉は、真実、確実さ、堅固さ、信頼を示すヘブライ語の語根に由来します。わたしたちは時に、「そうなりますように」という単なる願いの表現と理解しますが、実際には「確かに」「真実に」「そのとおりです」「そのようであるべきです」といった意味です。
「主の祈り」の最後の「アーメン」は、唇から出たことを強め、再確認するものです。わたしたちは、イエスの教えてくださった祈りを心の内から唱えました。終わりにこう言います。「はい。そのとおりです。そのようになりますように。いつもこのように祈りたい。このように生きたい。父である神に全面的に信頼し、その名をあがめ、み国を迎え、み旨を行い、パンとゆるしと、悪に打ち勝つ力を神から受けながら。アーメン。はい、アーメン」。
第二部 「主の祈り」を祈るための詩編
一 天におられるわたしたちの父よ
わたしたちには天に父がおられます
孤独を感じることがあります。だれも本当には理解してくれず、愛してもくれないように思えます。しかし、そうではありません。神は、あなたのすぐそばを歩んでおられます。一瞬たりとも忘れません。信仰をもって申し上げましょう。「地上であなたを愛していなければ天で誰がわたしを助けてくれようか。……わたしは、神に近くあることを幸いとし主なる神に避けどころを置く。」(詩編73・25,28)「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」(詩編16・2)
その天の神は、心の底からあなたを愛しておられます。
「父がその子を憐れむように主は主を畏れる人を憐れんでくださる。」(詩編103・13)神は、あなたの父です。いつもそう感じてください。その愛を喜びましょう。ゆっくり祈ってください。
「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。」(詩編63・4)
しかし神は、あなただけの父ではありません。すべての男女の父です。「主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、」(詩編100・3)。イエスが教えられたように、いつも複数形で呼びかけてください。「わたしたちの父よ」。「主はすべてのものに恵みを与え造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」(詩編145・9)信仰を新たにし、自分の思いを伝えましょう。「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。」(詩編18・2)
地上であなたを愛していなければ
天で誰がわたしを助けてくれようか。
……
わたしは、神に近くあることを幸いとし
主なる神に避けどころを置く。詩編73・25,28
神よ、守ってください
あなたを避けどころとするわたしを。
主に申します。
「あなたはわたしの主。
あなたのほかにわたしの幸いはありません。」詩編16・1–2
あなたの慈しみは命にもまさる恵み。
わたしの唇はあなたをほめたたえます。
命のある限り、あなたをたたえ
手を高く上げ、御名によって祈ります。詩編63・4–5
父がその子を憐れむように
主は主を畏れる人を憐れんでくださる。
主はわたしたちを
どのように造るべきか知っておられた。
わたしたちが塵にすぎないことを
御心に留めておられる。詩編103・13–14
父母はわたしを見捨てようとも
主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。詩編27・10
神よ、慈しみはいかに貴いことか。
……
命の泉はあなたにあり詩編36・8,10
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
……
知れ、主こそ神であると。
主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、詩編100・1,3
御恵みはいかに豊かなことでしょう。
あなたを畏れる人のためにそれを蓄え
人の子らの目の前で
あなたに身を寄せる人に、お与えになります。詩編31・20
山々が生まれる前から
大地が、人の世が、生み出される前から
世々とこしえに、あなたは神。詩編90・2
主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
主はわたしの岩、砦、逃れ場
わたしの神、大岩、避けどころ
わたしの盾、救いの角、詩編18・2–3
主はすべてのものに恵みを与え
造られたすべてのものを憐れんでくださいます。詩編145・9
見よ、神はわたしを助けてくださる。
主はわたしの魂を支えてくださる。詩編54・6
味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。詩編34・9
わたしの魂を、幼子のように
母の胸にいる幼子のようにします。詩編131・2
神の慈しみの絶えることはない
詩編52・3
この方に信頼を置きます
神が怖いのでしょうか。神のもと以上に、どこに安心できる所があるでしょう。だれが、神以上に愛してくれるでしょう。信頼を呼び覚ましましょう。天の父への祈りを、いつも信頼の叫びで始めてください。「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望みわたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように」(詩編25・1–2)。
神を、遠く離れた方と決して感じないでください。神は神殿に閉じ込められておられません。だれかの所有物でもありません。天におられます。神はすべての人の神です。どこからでも、いつでも、信仰をもって呼び求められます。「命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」(詩編23・6)
信頼して生きてください。何が起ころうとも、人に何をされようとも、「主はわたしの魂を支えてくださる。」(詩編54・6)あなたの父なのです。つらいときにも叫ぶことができます。「御顔をわたしに隠さないでください。……朝にはどうか、聞かせてくださいあなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。」(詩編143・7–8)
我らの魂は主を待つ。
主は我らの助け、我らの盾。
我らの心は喜び
聖なる御名に依り頼む。
主よ、あなたの慈しみが
我らの上にあるように
主を待ち望む我らの上に。詩編33・20–22
主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
わたしの神よ、あなたに依り頼みます。
どうか、わたしが恥を受けることのないように詩編25・1–2
主に向かって声をあげれば
聖なる山から答えてくださいます。詩編3・5
主に、信頼します。
慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。詩編31・7–8
あなたに向かって両手を広げ
渇いた大地のようなわたしの魂を
あなたに向けます。
主よ、早く答えてください
わたしの霊は絶え入りそうです。
御顔をわたしに隠さないでください。
朝にはどうか、聞かせてください
あなたの慈しみについて。
あなたにわたしは依り頼みます。詩編143・6–8
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
……
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。詩編23・4,6
見よ、神はわたしを助けてくださる。
主はわたしの魂を支えてくださる。詩編54・6
わたしたちは皆、兄弟姉妹です
自分の利害という小さな世界に閉じこもって、「主の祈り」を祈らないでください。心を広げましょう。人類の家族全体と深く結ばれていると感じながら、天の父に呼びかけてください。わたしたちは皆、同じ父の子、兄弟姉妹です。自分だけのために願わず、すべての人のために神に願ってください。「主よ、わたしたちを御心に留め祝福してください。……主を畏れる人を祝福し大きな人も小さな人も祝福してください。」(詩編115・12–13)
神の目で、世界を見てください。「主は天から見渡し人の子らをひとりひとり御覧になり御座を置かれた所から地に住むすべての人に目を留められる。」(詩編33・13–14)主は人々を知り、愛しておられます。「人の心をすべて造られた主は彼らの業をことごとく見分けられる。」(詩編33・15)すべての人への愛を呼び覚ましましょう。皆、あなたの家族です。
何よりも、苦しむ人、独りで生きる人、守ってくれる人のいない人、飢えと貧困のために死んでいく人、パンも友情も知らない人を思ってください。神の心に、自分の心を合わせてください。「あなたは必ず御覧になって御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。」(詩編10・14)
主は天から見渡し
人の子らをひとりひとり御覧になり
御座を置かれた所から
地に住むすべての人に目を留められる。
人の心をすべて造られた主は
彼らの業をことごとく見分けられる。詩編33・13–15
あなたは必ず御覧になって
御手に労苦と悩みをゆだねる人を
顧みてくださいます。
不運な人はあなたにすべてをおまかせします。
あなたはみなしごをお助けになります。
……
主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け
その願いを聞き、彼らの心を確かにし詩編10・14,17
貧しい人よ、これを見て喜び祝え。
主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。
主の民の捕われ人らを
決しておろそかにはされないでしょう。
天よ地よ、主を賛美せよ詩編69・33–35
わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。
主は御座を高く置き
なお、低く下って天と地を御覧になる。
弱い者を塵の中から起こし
乏しい者を芥の中から高く上げ詩編113・5–7
いかに幸いなことか
ヤコブの神を助けと頼み
主なるその神を待ち望む人
天地を造り
海とその中にあるすべてのものを造られた神を。
とこしえにまことを守られる主は
虐げられている人のために裁きをし
飢えている人にパンをお与えになる。
主は捕われ人を解き放ち
主は見えない人の目を開き
主はうずくまっている人を起こされる。
主は従う人を愛し
主は寄留の民を守り
みなしごとやもめを励まされる。
しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。詩編146・5–9
主よ、あなたに並ぶものはありません。
貧しい人を強い者から
貧しく乏しい人を搾取する者から
助け出してくださいます。詩編35・10
主よ、わたしたちを御心に留め
祝福してください。
主を畏れる人を祝福し
大きな人も小さな人も祝福してください。詩編115・12–13
御憐れみを速やかに差し向けてください。
わたしたちは弱り果てました。詩編79・8
主よ、お救いください。
主の慈しみに生きる人は絶え
人の子らの中から
信仰のある人は消え去りました。
人は友に向かって偽りを言い
滑らかな唇、二心をもって話します。詩編12・2–3
二 み名が聖とされますように
すべての人が神の偉大さを認めますように
神に、どんな名を付けられるでしょう。どの名も、神を表すには小さすぎます。イエスのように、ただ「父よ」と呼んでください。それ以上は何も言わず、計り知れない偉大さを礼拝しましょう。ゆっくりと申し上げてください。わたしたちの父よ、「あなたは偉大な神驚くべき御業を成し遂げられる方ただあなたひとり、神。」(詩編86・10)
すべての人が神を認めているわけではありません。多くの人が忘れ、かなりの人が疑い、ある人は拒んでいます。しかし、時には自覚のないまま、神を探し求める人も少なくありません。魂の願いを神に伝えましょう。「あなたを尋ね求める人があなたによって喜び祝い、楽しみ御救いを愛する人が主をあがめよといつも歌いますように」(詩編40・17)。
喜びに心を満たしてもらいましょう。あなたは、神の果てしない偉大さを知っています。喜んで告げてください。「今よりとこしえに主の御名がたたえられるように。」(詩編113・2)生涯のすべてが、父である神への、たゆまぬ賛美となりえます。「絶えることなくあなたをたたえ世々限りなく御名を賛美します。」(詩編145・2)
わたしと共に主をたたえよ。
ひとつになって御名をあがめよう。詩編34・4
今よりとこしえに
主の御名がたたえられるように。
日の昇るところから日の沈むところまで
主の御名が賛美されるように。詩編113・2–3
主よ、あなたがお造りになった国々はすべて
御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます。
あなたは偉大な神
驚くべき御業を成し遂げられる方
ただあなたひとり、神。詩編86・9–10
絶えることなくあなたをたたえ
世々限りなく御名を賛美します。
大いなる主、限りなく賛美される主
大きな御業は究めることもできません。詩編145・2–3
主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。
天に輝くあなたの威光をたたえます詩編8・2
主に感謝をささげて御名を呼べ。
諸国の民に御業を示せ。
……
聖なる御名を誇りとせよ。
主を求める人よ、心に喜びを抱き
主を、主の御力を尋ね求め
常に御顔を求めよ。詩編105・1,3–4
あなたに感謝をささげます。
神よ、あなたに感謝をささげます。
御名はわたしたちの近くにいまし
人々は驚くべき御業を物語ります。
山々が生まれる前から
大地が、人の世が、生み出される前から
世々とこしえに、あなたは神。詩編75・2、詩編90・2
あなたを尋ね求める人が
あなたによって喜び祝い、楽しみ
御救いを愛する人が
主をあがめよといつも歌いますように。詩編40・17
主を賛美せよ、恵み深い主を。
喜ばしい御名をほめ歌え。
……
わたしは確かに知った
主は大いなる方
わたしたちの主は、どの神にもまさって大いなる方。詩編135・3,5
すべての人が神の善を経験しますように
あなたは幾度、神の愛情と慈しみを経験したことでしょう。神があなたに善くしてくださることを知っています。生涯で出会った、最も善い方です。神の名を聞くだけで、その善を思い出します。喜んで告白してください。「賛美せよ、主の御名を……主を賛美せよ、恵み深い主を。」(詩編135・1,3)
すべての人が神の善を知ってくれたら、と、どれほど願うことでしょう。神を最高の友、わたしたちを救うことのできる唯一の方として経験してほしい。み名を聞くとき、父と感じてほしい。「主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。」(詩編96・2)
賛美せよ、主の御名を
……
主を賛美せよ、恵み深い主を。詩編135・1,3
我らの魂は主を待つ。
主は我らの助け、我らの盾。
我らの心は喜び
聖なる御名に依り頼む。詩編33・20–21
新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。詩編96・1–2
世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。
あなたが計らってくださいますから
とこしえに、感謝をささげます。
御名に望みをおきます
あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い
あなたの御名に。詩編52・10–11
主よ、わたしの神よ
心を尽くしてあなたに感謝をささげ
とこしえに御名を尊びます。
あなたの慈しみはわたしを超えて大きく詩編86・12–13
主の慈しみに生きる人々よ
主に賛美の歌をうたい
聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
ひととき、お怒りになっても
命を得させることを御旨としてくださる。詩編30・5–6
わたしたちの神、主よ、わたしたちを救い
諸国の中からわたしたちを集めてください。
聖なる御名に感謝をささげ
あなたを賛美し、ほめたたえさせてください。詩編106・47
神がご自分の名をお守りくださいますように
「主の祈り」を唱えるとき、自分の小さな利益を考えないでください。神の栄光を求めましょう。神ご自身が、愛で地を満たしてくださるように。そのとき、神の偉大さが見えるでしょう。「わたしたちではなく、主よわたしたちではなくあなたの御名こそ、栄え輝きますようにあなたの慈しみとまことによって。」(詩編115・1)
神は、だれにもまさってわたしたちを愛しておられます。ほかに並ぶ方はいません。ひそかに神の善に包まれる世界を見つめましょう。すべての人がそれに気づけるよう、願ってください。「あなたの慈しみは大きく、天に満ちあなたのまことは大きく、雲を覆います。」(詩編57・11)
今、わたしたちは問題と苦しみに囲まれて生きています。いのちを十全に生きるとはどういうことか、知りません。しかし、いつか神の救いの力を知るでしょう。あなたの空想ではありません。信仰をもって叫んでください。「わたしたちの神、主よ、わたしたちを救い……聖なる御名に感謝をささげ」(詩編106・47)。
わたしたちではなく、主よ
わたしたちではなく
あなたの御名こそ、栄え輝きますように
あなたの慈しみとまことによって。詩編115・1
あなたの慈しみは大きく、天に満ち
あなたのまことは大きく、雲を覆います。
神よ、天の上に高くいまし
栄光を全地に輝かせてください。詩編57・11–12
神よ、天の上に高くいまし
栄光を全地に輝かせてください。
右の御手でお救いください。
それを我らへの答えとしてください。詩編108・6–7
栄光のうちに顕現されます。
主はすべてを喪失した者の祈りを顧み
その祈りを侮られませんでした。詩編102・17–18
わたしたちの神、主よ、わたしたちを救い
諸国の中からわたしたちを集めてください。
聖なる御名に感謝をささげ
あなたを賛美し、ほめたたえさせてください。詩編106・47
主は御自分の民に贖いを送り
契約をとこしえのものと定められた。
御名は畏れ敬うべき聖なる御名。詩編111・9
主はすべてのものに恵みを与え
造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し
あなたの主権の栄光を告げ詩編145・9–11
三 み国が来ますように
み国が来ますように
み国が来ますように。これがイエスの最大の望みだったことを、あなたは知っています。父への最も熱い願いでした。神が世界を治め、人々の間に正義、愛、慈しみをもたらされるのを、イエスは望まれたのです。「主の祈り」を唱えるたびに、あなたの内にも、その願いが育たなければなりません。
「主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き諸国の民を公平に裁かれる。」(詩編98・9)
しかし、あなたの目には、世界を治めているのは不正、横暴、偽りと映ります。わたしたち人間は憎み合い、傷つけ合い、殺し合っています。神を父として迎えず、互いを兄弟姉妹として扱いません。こうした現実を前に、あなたはどう感じますか。神に心を打ち明けましょう。「御救いを待って、わたしの目は衰えましたあなたの正しい仰せを待って。」(詩編119・123)
父である神に、呼びかけ続けてください。悪の強さを見るとき、悲しみを伝えましょう。「主はとこしえに突き放し再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか」(詩編77・8–9)。より正しい世界のために闘う男女を見るとき、希望を呼び覚ましましょう。「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り」(詩編13・6)。
主はとこしえに突き放し
再び喜び迎えてはくださらないのか。
主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。
約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
神は憐れみを忘れ
怒って、同情を閉ざされたのであろうか。詩編77・8–10
御救いを待って、わたしの目は衰えました
あなたの正しい仰せを待って。詩編119・123
あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び躍り詩編13・6
目覚めて御力を振るい
わたしたちを救うために来てください。
神よ、わたしたちを連れ帰り
御顔の光を輝かせ
わたしたちをお救いください。詩編80・3–4
神よ、力を振るってください
わたしたちのために行動を起こしてください。詩編68・29
恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。
主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。詩編4・7
とどろけ、海とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものよ。
潮よ、手を打ち鳴らし
山々よ、共に喜び歌え
主を迎えて。
主は来られる、地を裁くために。
主は世界を正しく裁き
諸国の民を公平に裁かれる。詩編98・7–9
王権は主にあり、主は国々を治められます。
命に溢れてこの地に住む者はことごとく
主にひれ伏し
塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。詩編22・29–30
主は国々の計らいを砕き
諸国の民の企てを挫かれる。
主の企てはとこしえに立ち
御心の計らいは代々に続く。詩編33・10–11
神が貧しい人々のために正義を行ってくださいますように
あなたは、なんとたやすく貧しい人々を忘れることでしょう。「主の祈り」を唱えるときでさえ。だれにも守られない人を守るためにこそ、神が世界を治めようとされると知らないのでしょうか。「王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ乏しい人の命を救い不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。」(詩編72・12–14)その人たちを忘れて、どうして神の国を願えるでしょう。
父である神に祈るとき、自分だけのために願わないでください。友人や愛する人たちだけのためにも願わないでください。最も不幸な人々の名において、神に呼びかけることを学びましょう。心から申し上げてください。わたしの神よ、たとえわたしが忘れても、「あなたの貧しい人々の命を永遠に忘れ去らないでください。」(詩編74・19)その人たちが失望に終わりませんように。「貧しい人、乏しい人が御名を賛美することができますように。」(詩編74・21)
神と語るとき、ご自分の問題や心配事だけに、神がかかりきりになっていると想像しないでください。父としての心に入りましょう。だれに心を傾けておられるか、見てください。「あなたは必ず御覧になって御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。」(詩編10・14)あなたには、その父なる神に似たところがあるでしょうか。貧しい人に近づいているでしょうか。
すべての王が彼の前にひれ伏し
すべての国が彼に仕えますように。
王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を
助けるものもない貧しい人を救いますように。
弱い人、乏しい人を憐れみ
乏しい人の命を救い
不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。
王の目に彼らの血が貴いものとされますように。詩編72・11–14
山々が民に平和をもたらし
丘が恵みをもたらしますように。
王が民を、この貧しい人々を治め
乏しい人の子らを救い
虐げる者を砕きますように。詩編72・3–4
神は従う人々の群れにいます。
貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても
主は必ず、避けどころとなってくださる。詩編14・5–6
主は裁きのために御座を固く据え
とこしえに御座に着いておられる。
御自ら世界を正しく治め
国々の民を公平に裁かれる。
虐げられている人に
主が砦の塔となってくださるように
苦難の時の砦の塔となってくださるように。詩編9・8–10
あなたの貧しい人々の命を
永遠に忘れ去らないでください。
契約を顧みてください。
地の暗い隅々には
不法の住みかがひしめいています。
どうか、虐げられた人が再び辱められることなく
貧しい人、乏しい人が
御名を賛美することができますように。詩編74・19–21
貧しい人よ、これを見て喜び祝え。
主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。
主の民の捕われ人らを
決しておろそかにはされないでしょう。
天よ地よ、主を賛美せよ詩編69・33–35
あなたは必ず御覧になって
御手に労苦と悩みをゆだねる人を
顧みてくださいます。
……
主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け
その願いを聞き、彼らの心を確かにし詩編10・14,17
主よ、あなたに並ぶものはありません。
貧しい人を強い者から
貧しく乏しい人を搾取する者から
助け出してくださいます。詩編35・10
いかに幸いなことか
ヤコブの神を助けと頼み
主なるその神を待ち望む人
とこしえにまことを守られる主は
虐げられている人のために裁きをし
飢えている人にパンをお与えになる。
主は捕われ人を解き放ち
主は見えない人の目を開き
主はうずくまっている人を起こされる。
主は従う人を愛し
主は寄留の民を守り
みなしごとやもめを励まされる。
しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。詩編146・5–9
四 み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように
神が救いの計画を成し遂げてくださいますように
神がご自分の計画を忘れ、あなたの意志を行うようにと願うのではありません。まったく逆のことを願います。あなたの利益や小さな気まぐれを顧みず、父としての心に秘めておられる、あの熱い願いが実現するようにと願うのです。それこそ、神に願える最も大きなことです。「主よ、慈しみをわたしたちに示しわたしたちをお救いください。」(詩編85・8)
諸国の民は神のみ旨に耳を傾けず、その道に従いません。神と語りましょう。神には、地に住む男女の心を変えることができます。「御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますようにあなたの道をこの地が知り御救いをすべての民が知るために。」(詩編67・2–3)
み旨が行われるよう、神に願うことを恐れないでください。それが、あなたにもすべての人にも、最も善いことです。神が望まれるのは、ただわたしたちの善と幸せだからです。「あなたを尋ね求める人があなたによって喜び祝い、楽しみ御救いを愛する人が主をあがめよといつも歌いますように。」(詩編40・17)
神がわたしたちを憐れみ、祝福し
御顔の輝きを
わたしたちに向けてくださいますように
あなたの道をこの地が知り
御救いをすべての民が知るために。詩編67・2–3
目覚めて御力を振るい
わたしたちを救うために来てください。
神よ、わたしたちを連れ帰り
御顔の光を輝かせ
わたしたちをお救いください。詩編80・3–4
あなたを尋ね求める人が
あなたによって喜び祝い、楽しみ
御救いを愛する人が
主をあがめよといつも歌いますように。詩編40・17
救いは主のもとにあります。
あなたの祝福が
あなたの民の上にありますように。詩編3・9
わたしたちの救いの神よ
わたしたちのもとにお帰りください。
……
再びわたしたちに命を得させ
あなたの民があなたによって
喜び祝うようにしてくださらないのですか。
主よ、慈しみをわたしたちに示し
わたしたちをお救いください。詩編85・5,7–8
しかし主よ、わたしの主よ
わたしは力を奮い起こして進みいで
ひたすら恵みの御業を唱えましょう。詩編71・16
主に従う人の救いは主のもとから来る
災いがふりかかるとき
砦となってくださる方のもとから。
主は彼を助け、逃れさせてくださる
主に逆らう者から逃れさせてくださる。
主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。詩編37・39–40
どうか、わたしの魂に言ってください
「お前を救おう」と。詩編35・3
み旨を行うことを教えてください
神のみ旨を行いたいという大きな望みを抱かずに、「主の祈り」を祈ることはできません。しかし、神からあまりに多くを求められるのではないかと、恐れます。自分を弱く感じ、その道に従う力がないと思います。魂の奥で、神に耳を傾けてください。信頼しましょう。「あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしは心を尽くしてそれを守ります。あなたの戒めに従う道にお導きください。」(詩編119・34–35)
自分の過ちや罪によって、決して気落ちしないでください。神はあなたのもろさをご存じです。そのままのあなたを愛しておられます。み旨を行いたいという望みが、決して消えませんように。「わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望みあなたの教えを胸に刻み」(詩編40・9)。誠実に伝えてください。「心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから迷い出ることのないようにしてください。」(詩編119・10)
間違えるのが怖いこともあります。何が神のみ旨なのか分からず、正しく選びたいのに、どうすればよいか分かりません。父である神を頼りにしてください。「行くべき道を教えてください」(詩編143・8)。自分を欺かないでください。「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。」(詩編86・11)忠実でいられるよう願いましょう。「あなたのまことにわたしを導いてください。」(詩編25・5)
あなたの律法を理解させ、保たせてください。
わたしは心を尽くしてそれを守ります。
あなたの戒めに従う道にお導きください。
わたしはその道を愛しています。詩編119・34–35
主よ、あなたの道をわたしに示し
あなたに従う道を教えてください。
あなたのまことにわたしを導いてください。
教えてください
あなたはわたしを救ってくださる神。
絶えることなくあなたに望みをおいています。詩編25・4–5
主よ、あなたの道をお教えください。
わたしはあなたのまことの中を歩みます。
御名を畏れ敬うことができるように
一筋の心をわたしにお与えください。詩編86・11
わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み
あなたの教えを胸に刻み詩編40・9
心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。
あなたの戒めから
迷い出ることのないようにしてください。
……
わたしはあなたの掟を楽しみとし
御言葉を決して忘れません。詩編119・10,16
わたしの目の覆いを払ってください
あなたの律法の驚くべき力に
わたしは目を注ぎます。詩編119・18
偽りの道をわたしから遠ざけ
憐れんで、あなたの律法をお与えください。詩編119・29
行くべき道を教えてください
あなたに、わたしの魂は憧れているのです。
……
御旨を行うすべを教えてください。
あなたはわたしの神。
恵み深いあなたの霊によって
安らかな地に導いてください。詩編143・8,10
五 わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください
父は、わたしたちのいのちを養われます
「主の祈り」を唱えるとき、神に求めるのは、富や豊かな暮らしではなく、生きるために必要なものです。あなたは、自分にいのちを与えられません。生かしてくださるのは、父である神です。いのちのパンを与えてくださいます。「すべて肉なるものに糧を与える方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編136・25)
あなたは多くのことに励んでいます。計画を立て、働き、将来を整えます。当然のことです。しかし、内にあるいのちは、神の賜物です。決して忘れないでください。神から受けるすべてに感謝して生きましょう。「主御自身が建ててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい。……朝早く起き、夜おそく休み焦慮してパンを食べる人よそれは、むなしいことではないか主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」(詩編127・1–2)
主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。
……
家畜のためには牧草を茂らせ
地から糧を引き出そうと働く人間のために
さまざまな草木を生えさせられる。
ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ
パンは人の心を支える。
……
彼らはすべて、あなたに望みをおき
ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
あなたがお与えになるものを彼らは集め
御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。詩編104・1,14–15,27–28
主御自身が建ててくださるのでなければ
家を建てる人の労苦はむなしい。
主御自身が守ってくださるのでなければ
町を守る人が目覚めているのもむなしい。
朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。詩編127・1–2
主は恵み深く憐れみに富み
主を畏れる人に糧を与え
契約をとこしえに御心に留め詩編111・4–5
主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
主に養われる群れ、御手の内にある羊。詩編95・7
すべて肉なるものに糧を与える方に感謝せよ。
慈しみはとこしえに。詩編136・25
見よ、主は御目を注がれる
主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
彼らの魂を死から救い
飢えから救い、命を得させてくださる。詩編33・18–19
神がわたしたちにいのちを与えてくださいますように
毎朝起き上がれるのは、神があなたのいのちを生かしておられるからです。夜明けの光を見られるのは、神が目覚めさせてくださるからです。すべてのいのちの源である神を賛美しましょう。わたしたちは皆、その愛に支えられて生きていると、喜んで認めてください。「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る」(詩編36・10)。
ひどくつらい日もあります。打ち沈み、生きる力が出ません。これまで以上に神を必要とし、いのちで満たしていただく必要があります。力の限界に立つすべての人と結ばれていると感じましょう。信仰をもって神のもとに行ってください。「わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり命を得させてください。」(詩編119・107)わたしたちに、いのちをお与えください。
あなたは、このいのちに固くしがみつきます。知っている唯一のいのちだからです。しかし、まことの「いのち」は、このいのちを超えています。あなたは永遠のいのちを慕っています。希望を呼び覚ましましょう。神に信頼してください。「わたしは信じます命あるものの地で主の恵みを見ることを。」(詩編27・13)
あなたの家に滴る恵みに潤い
あなたの甘美な流れに渇きを癒す。
命の泉はあなたにあり
あなたの光に、わたしたちは光を見る。詩編36・9–10
命のある限り、わたしは主を賛美し
君侯に依り頼んではならない。
人間には救う力はない。
霊が人間を去れば
人間は自分の属する土に帰り
その日、彼の思いも滅びる。詩編146・2–4
死の綱がわたしにからみつき
陰府の脅威にさらされ
苦しみと嘆きを前にして
主の御名をわたしは呼ぶ。
「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」詩編116・3–4
命は嘆きのうちに
年月は呻きのうちに尽きていきます。
罪のゆえに力はうせ
……
脅かすものが取り囲んでいます。
主よ、わたしはなお、あなたに信頼し
「あなたこそわたしの神」と申します。
……
慈しみ深く、わたしをお救いください。詩編31・11,14–15,17
わたしの魂は
あなたの救いを求めて絶え入りそうです。
あなたの御言葉を待ち望みます。
わたしの目はあなたの仰せを待って衰えました。
……
慈しみ深く、わたしに命を得させてください。詩編119・81–82,88
わたしは甚だしく卑しめられています。
主よ、御言葉のとおり
命を得させてください。詩編119・107
命あるものの地にある限り
わたしは主の御前に歩み続けよう。詩編116・9
わたしは信じます
命あるものの地で主の恵みを見ることを。
主を待ち望め
雄々しくあれ、心を強くせよ。
主を待ち望め。詩編27・13–14
六 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします
父よ、わたしたちはあなたに罪を犯しました
わたしたちは皆、罪人です。あなたもそうです。神のみ前で、身を守ったり、言い訳したりする必要はありません。いつも、へりくだって「主の祈り」を祈ってください。自分の罪を告白して、神のもとに行きましょう。「あなたに背いたことをわたしは知っています。……あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し」(詩編51・5–6)。神は聞いてくださいます。「打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩編51・19)
世界には悪と不正があります。時には、あなた自身も悪の力に押しつぶされそうに感じます。父である神に信頼してください。皆の名において、申し上げましょう。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら主よ、誰が耐ええましょう。」(詩編130・3)父としての愛に信頼してください。「罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちをあなたは贖ってくださいます。」(詩編65・4)
罪があなたを神から引き離すことがありませんように。神を父と呼ぶ妨げとなりませんように。あなたは罪人ですが、神は愛し続けておられます。今こそ、神に身を委ねるときです。「主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。わたしの救い、わたしの主よすぐにわたしを助けてください。」(詩編38・22–23)そのゆるしを感じられるでしょう。「神はわたしの声を聞いてくださる。……わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。」(詩編55・18–19)
わたしたちは先祖と同じく罪を犯し
不正を行い、主に逆らった。詩編106・6
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。詩編51・19
すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。
罪の数々がわたしを圧倒します。
背いたわたしたちを
あなたは贖ってくださいます。詩編65・3–4
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。詩編130・3–4
あなたに背いたことをわたしは知っています。
わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し
御目に悪事と見られることをしました。詩編51・5–6
主よ、憐れんでください。
あなたに罪を犯したわたしを癒してください。詩編41・5
わたしの罪悪は頭を越えるほどになり
耐え難い重荷となっています。
……
わたしは自分の罪悪を言い表そうとして
犯した過ちのゆえに苦悩しています。
……
主よ、わたしを見捨てないでください。
わたしの神よ、遠く離れないでください。
わたしの救い、わたしの主よ
すぐにわたしを助けてください。詩編38・5,19,22–23
わたしは神を呼ぶ。
主はわたしを救ってくださる。
神はわたしの声を聞いてくださる。
わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。詩編55・17–19
父よ、おゆるしください
神は、わたしたちとは違います。憎しみも復讐もご存じありません。その父としての心からは、愛とゆるしと慈しみだけが湧き出ます。その善を黙想してください。「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなくわたしたちの悪に従って報いられることもない。……主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。」(詩編103・10,14)
「主の祈り」を唱えるとき、だれに呼びかけているのかを考えましょう。心の奥から申し上げてください。「主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に豊かな慈しみをお与えになります。」(詩編86・5)ゆっくり繰り返してください。「主よ思い起こしてくださいあなたのとこしえの憐れみと慈しみを。」(詩編25・6)
神のゆるしは完全です。罪を取り去り、滅ぼし、内から新しくし、清らかさを取り戻させてくださいます。神に清めていただきましょう。「わたしの咎をことごとく洗い罪から清めてください。……わたしの罪に御顔を向けず咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し新しく確かな霊を授けてください。」(詩編51・4,11–12)
神のゆるしは、あなたを喜びで満たします。その喜びを知れるよう願ってください。「あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは主よ、あなたなのです。……主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。」(詩編86・4–5)「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ」(詩編51・14)。すべての男女のことを思ってください。皆が、その喜びを知れますように。「いかに幸いなことでしょう背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」(詩編32・1)
主は憐れみ深く、恵みに富み
忍耐強く、慈しみは大きい。
永久に責めることはなく
とこしえに怒り続けられることはない。
主はわたしたちを
罪に応じてあしらわれることなく
わたしたちの悪に従って報いられることもない。
天が地を超えて高いように
慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
東が西から遠い程
わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
父がその子を憐れむように
主は主を畏れる人を憐れんでくださる。
主はわたしたちを
どのように造るべきか知っておられた。
わたしたちが塵にすぎないことを
御心に留めておられる。詩編103・8–14
わたしは主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望みます。
……
慈しみは主のもとに
豊かな贖いも主のもとに。詩編130・5,7
あなたはわたしの神
主よ、憐れんでください
絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。
あなたの僕の魂に喜びをお与えください。
わたしの魂が慕うのは
主よ、あなたなのです。
主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。
あなたを呼ぶ者に
豊かな慈しみをお与えになります。詩編86・2–5
主よ思い起こしてください
あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず
慈しみ深く、御恵みのために
主よ、わたしを御心に留めてください。
……
主よ、あなたの御名のために
罪深いわたしをお赦しください。詩編25・6–7,11
神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。
わたしの咎をことごとく洗い
罪から清めてください。
……
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。
喜び祝う声を聞かせてください
わたしの罪に御顔を向けず
咎をことごとくぬぐってください。
神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ詩編51・3–4,9–14
主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく
慈しみとまことによって
いつもわたしをお守りください。
わたしは自分の罪に捕えられ
何も見えなくなりました。
主よ、走り寄ってわたしを救ってください。
主よ、急いでわたしを助けてください。詩編40・12–14
知らずに犯した過ち、隠れた罪から
どうかわたしを清めてください。
そうすれば、重い背きの罪から清められ
わたしは完全になるでしょう。詩編19・13–14
どうか、わたしたちの昔の悪に御心を留めず
御憐れみを速やかに差し向けてください。
わたしたちは弱り果てました。
わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて
あなたの御名の栄光を輝かせてください。
御名のために、わたしたちを救い出し
わたしたちの罪をお赦しください。詩編79・8–9
いかに幸いなことでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いなことでしょう
主に咎を数えられず、
……
わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。詩編32・1–2,5
主よ、あなたは御自分の地をお望みになり
御自分の民の罪を赦し
彼らの咎をすべて覆ってくださいました。詩編85・2–3
七 わたしたちを誘惑に陥らせないでください
父よ、弱さの中から呼び求めます
人間は弱く、移り気です。たやすく愛と正義を忘れ、利己主義と憎しみの道をたどる誘惑に陥ります。全人類のために、神に願いましょう。「神よ、わたしたちを連れ帰り御顔の光を輝かせわたしたちをお救いください。」(詩編80・4)「立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。」(詩編44・27)
あなたも英雄ではありません。自分の弱さをよく知っています。心に善い望みを抱いても、また同じ過ちに何度も陥ります。神に寄りかかり、身を寄せてください。「あなたの仰せによりすがらせ命を得させてください。……わたしを支えてください」(詩編119・116–117)「あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。」(詩編70・6)
独りだと感じることもあります。だれを頼ればよいのか、どこから力を得ればよいのか分かりません。神があなたを心にかけておられることを思い出してください。あなたの父なのです。信頼しましょう。「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。……命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」(詩編23・4,6)
目覚めて御力を振るい
わたしたちを救うために来てください。
神よ、わたしたちを連れ帰り
御顔の光を輝かせ
わたしたちをお救いください。詩編80・3–4
なぜ、御顔を隠しておられるのですか。
我らが貧しく、虐げられていることを
忘れてしまわれたのですか。
……
立ち上がって、我らをお助けください。
我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。詩編44・25,27
主よ、わたしはあなたを呼びます。
速やかにわたしに向かい
あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。
……
主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け
あなたを避けどころとします。
わたしの魂をうつろにしないでください。詩編141・1,8
あなたはわたしの隠れが、わたしの盾
御言葉をわたしは待ち望みます。
……
あなたの仰せによりすがらせ
命を得させてください。
わたしを支えてください
そうすればわたしは救われます。詩編119・114,116–117
神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。
速やかにわたしを訪れてください。
あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。
主よ、遅れないでください。詩編70・6
見よ、神はわたしを助けてくださる。
主はわたしの魂を支えてくださる。詩編54・6
主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
人間がわたしに何をなしえよう。
主はわたしの味方、助けとなって
人間に頼らず、主を避けどころとしよう。詩編118・6–8
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
……
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。詩編23・4,6
主よ、わたしは貧しく身を屈めています。
わたしのためにお計らいください。
あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。
わたしの神よ、速やかに来てください。詩編40・18
逃れ場は失われ
命を助けようとしてくれる人もありません。
主よ、あなたに向かって叫び、申します
「あなたはわたしの避けどころ詩編142・5–6
わたしたちを陥らせないでください
あなたは、いつでも倒れるおそれがあります。神を忘れ、自分の道に従うことは、一度や二度ではなかったでしょう。しかし神は、あなたの父です。ともにおられ、目を覚まして見守ってくださいます。「どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにしまどろむことなく見守ってくださるように。……主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守りあなたの魂を見守ってくださるように。」(詩編121・3,7)信頼してください。「わたしの力の神よ今すぐにわたしを助けてください。」(詩編22・20)
すべてを忘れて、利己的な心の傾きに従うのは、たやすいことです。豊かさ、名声、自分の利益に、すぐ心を奪われます。今、呼びかけているその方に、助けを願ってください。「わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。」(詩編141・4)「どのような悪もわたしを支配しませんように。」(詩編119・133)
日々の中で、あなたは、本当の罠となる状況に出会うでしょう。自分のいのちを損ないかねない危険です。注意を怠らず、目を覚ましていてください。父である神のもとに、信頼して行きましょう。「その道を行けばそこには罠が仕掛けられています。……わたしの叫びに耳を傾けてください。」(詩編142・4,7)「苦しむわたしに急いで答えてください。……わたしの魂に近づき、贖い敵から解放してください。」(詩編69・18–19)「瞳のようにわたしを守り」(詩編17・8)。
御顔をわたしに向け、憐れんでください
仰せのとおり
わたしの足どりを確かなものにしてください。
どのような悪もわたしを支配しませんように。詩編119・132–133
傲慢な者がわたしに罠を仕掛け
綱や網を張りめぐらし
わたしの行く道に落とし穴を掘っています。
主にわたしは申します
「あなたはわたしの神」と。
主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。詩編140・6–7
主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け
あなたを避けどころとします。
わたしの魂をうつろにしないでください。
どうか、わたしをお守りください。
わたしに対して仕掛けられた罠に
悪を行う者が掘った落とし穴に陥りませんように。詩編141・8–9
わたしがどのような道に行こうとするか
あなたはご存じです。
その道を行けば
そこには罠が仕掛けられています。
……
わたしの叫びに耳を傾けてください。
わたしは甚だしく卑しめられています。詩編142・4,7
主よ、わたしはあなたを呼びます。
速やかにわたしに向かい
あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。
……
わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。詩編141・1,4
まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。
わたしを贖ってください。
主に、信頼します。
あなたはわたしの苦しみを御覧になり
わたしの魂の悩みを知ってくださいました。詩編31・6–8
あなたの僕に御顔を隠すことなく
苦しむわたしに急いで答えてください。
わたしの魂に近づき、贖い
敵から解放してください。詩編69・18–19
あなたを呼び求めます
神よ、わたしに答えてください。
わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。
……
瞳のようにわたしを守り
あなたの翼の陰に隠してください。
主よ、あなただけは
わたしを遠く離れないでください。
わたしの力の神よ
今すぐにわたしを助けてください。詩編17・6,8、詩編22・20
主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き
まっすぐにあなたの道を歩ませてください。
わたしを陥れようとする者がいます。詩編5・9
あなたはわたしの隠れが。
苦難から守ってくださる方。
救いの喜びをもって
わたしを囲んでくださる方。詩編32・7
御覧ください
わたしの内に迷いの道があるかどうかを。
どうか、わたしを
とこしえの道に導いてください。詩編139・24
どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることもない。
……
主がすべての災いを遠ざけて
あなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださるように。詩編121・3–4,7
しかし、神はわたしの魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。詩編49・16
足がよろめく」とわたしが言ったとき
主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。詩編94・18
八 悪からお救いください
父よ、あなたに信頼します
人間は、世にある罪の責任を負う者ですが、同時に犠牲者でもあります。悪は、心の中だけにあるのではありません。構造や制度、人を形づくる文化、吸っている空気のような環境の中にもあります。悪から救ってくださるよう、神に願ってください。「どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。」(詩編60・13)「わたしたちの神、主の喜びがわたしたちの上にありますように。」(詩編90・17)
父である神に、信頼して自分のいのちを委ねながら、「主の祈り」を終えてください。神がそばにおられれば、安心です。自分の恐れに向き合えます。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。……あなたはわたしの苦しみを御覧になりわたしの魂の悩みを知ってくださいました。」(詩編31・6,8)「わたしにふさわしいときに、御手をもって追い迫る者、敵の手から助け出してください。」(詩編31・16)
父に深く結ばれ、その愛に包まれて、祈りを終えましょう。心の奥から申し上げてください。「わたしはあなたのもの。どうかお救いください。」(詩編119・94)「あなたの慈しみにふさわしくわたしを救ってください。」(詩編6・5)「恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。」(詩編71・2)「慈しみ深く、わたしをお救いください。」(詩編31・17)
どうか我らを助け、敵からお救いください。
人間の与える救いはむなしいものです。詩編60・13
わたしたちの神、主の喜びが
わたしたちの上にありますように。詩編90・17
主よ、慈しみをわたしたちに示し
わたしたちをお救いください。詩編85・8
主よ、わたしを見捨てないでください。
わたしの神よ、遠く離れないでください。
わたしの救い、わたしの主よ
すぐにわたしを助けてください。詩編38・22–23
まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。
わたしを贖ってください。
主に、信頼します。
慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。
あなたはわたしの苦しみを御覧になり
わたしの魂の悩みを知ってくださいました。詩編31・6–8
主よ、わたしは貧しく身を屈めています。
わたしのためにお計らいください。
あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。
わたしの神よ、速やかに来てください。詩編40・18
主よ、わたしの神よ
御名のために、わたしに計らい
恵み深く、慈しみによって
わたしを助けてください。
わたしは貧しく乏しいのです。
……
わたしの神、主よ、わたしを助けてください。
慈しみによってお救いください。詩編109・21–22,26
わたしの魂は
あなたの救いを求めて絶え入りそうです。
あなたの御言葉を待ち望みます。
わたしの目はあなたの仰せを待って衰えました。
……
慈しみ深く、わたしに命を得させてください。詩編119・81–82,88
御救いを待って、わたしの目は衰えました
あなたの正しい仰せを待って。
慈しみ深く
あなたの僕のために計らってください。詩編119・123–124
わたしはあなたのもの。どうかお救いください。
詩編119・94
わたしは神を呼ぶ。
主はわたしを救ってくださる。
神はわたしの声を聞いてくださる。
わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。詩編55・17–19
恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください
憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。
あなたの僕に御顔を隠すことなく
苦しむわたしに急いで答えてください。
わたしの魂に近づき、贖い
敵から解放してください。詩編69・17–19
主よ、いつまでなのでしょう。
主よ、立ち帰り
わたしの魂を助け出してください。
あなたの慈しみにふさわしく
わたしを救ってください。詩編6・4–5
わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。
わたしを助け、追い迫る者から救ってください。詩編7・2
主よ、御もとに身を寄せます。
恵みの御業によって助け、逃れさせてください。
あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。
常に身を避けるための住まい、岩となり
わたしを救おうと定めてください。
あなたはわたしの大岩、わたしの砦。詩編71・1–3
主よ、わたしはなお、あなたに信頼し
「あなたこそわたしの神」と申します。
わたしにふさわしいときに、御手をもって
追い迫る者、敵の手から助け出してください。
あなたの僕に御顔の光を注ぎ
慈しみ深く、わたしをお救いください。詩編31・15–17
著者について
ホセ・アントニオ・パゴラ(1937年生まれ)はスペインの司祭です。ローマのグレゴリアン大学で神学のリセンシアートを取得し(1962年)、ローマ教皇庁立聖書研究所で聖書学のリセンシアートを取得(1965年)、エルサレムの聖書研究所で聖書学のディプロマを取得しました(1966年)。サン・セバスティアンの神学校、およびビトリアにある北スペイン神学部で教え、前者の校長も務め、さらにサン・セバスティアン教区の総代理を務めています。長年、毎週「J・A・パゴラによる主日の福音解説」を発表しており、バスク地方で広く読まれています。1968年の『四旬節典礼における福音の本文についての黙想』以来、約二十冊の著書を刊行する多作な著者として知られています。『イエス――歴史的なアプローチ』(2007年)は、激しい議論を呼びました。歴史研究への取り組みとキリスト者としての信仰との間に、矛盾を感じたことはないと述べています。ただし、「歴史上のイエスと、信仰のキリストとは、区別すべきである。このすべてについて混同して語ることは、後退であり、イエスに関する具体的な知識にも、キリスト教信仰にも役立たない」と、明確に指摘しようとしました。
注
第一章
一・1
J. JEREMÍAS, Abbá. El mensaje central del Nuevo Testamento, Sígueme, Salamanca, 1981, p. 19 に引用。
一・2
この幼児の表現については、J. JEREMÍAS, 前掲書、pp. 65–73を参照。J・エレミアスの説には、後にJ・バーなどから補足や修正が加えられている。それでも、通常は神の名を口にすることさえしなかった社会の中で、イエスが用いられたこの言葉には、特別で異例の意味がある。A. TORRES QUEIRUGA, Repensar la cristología, Verbo Divino, Estella, 1996, p. 353, 注83参照。
一・3
J. JEREMÍAS, 前掲書、p. 70。
一・4
J. JEREMÍAS, 前掲書、p. 71。
一・5
「アッバ」は、単数にも複数にも用いることができる。マタイが「わたしたちの父」と訳したのは、祈り全体が複数形なので、まったく適切である。
一・6
福音記者たちは、祈る際に目を天に上げるイエスの習慣を伝えている(マルコ7・34、ヨハネ11・41、17・1)。当時、より一般的だったのは、神殿に目を向けて祈る習慣だったと思われる。
一・7
S. DEL CURA ELENA, “Dios Padre/Madre. Significado e implicaciones de las imágenes masculinas y femeninas de Dios”, Dios es Padre, Secretariado Trinitario, Salamanca, 1991, p. 307。
一・8
L. BOFF, El rostro materno de Dios, Ed. Paulinas, Madrid, 1981。I. GÓMEZ ACEBO, Dios también es madre, San Pablo, Madrid, 1994。D. SÖLLE, “Dios, madre de todos nosotros”, Selecciones de Teología 25(1986)。F. ELIZONDO, “Diosa-Madre”, X. PIKAZA / N. SILANES編, Diccionario teológico. El Dios cristiano, Secretariado Trinitario, Salamanca, 1992, pp. 346–355。L. GONZÁLEZ-CARVAJAL, ¡Noticias de Dios!, Sal Terrae, Santander, 1997, pp. 215–232。
一・9
JUAN PABLO I, Enseñanzas al Pueblo de Dios, Libreria Editrice Vaticana, Ciudad del Vaticano, 1978, p. 5。
第二章
二・1
H. SCHÜRMANN, 前掲書、p. 28。
二・2
神はアブラムの名を変え、「多くの民の父」となるので、アブラハムと呼ばれた(創世記17・5)。イエスはヨナの子シモンの名を変え、「岩」であり、その上に教会を建てるので、ペトロと呼ばれた(マタイ16・18)。
二・3
セム語の qodes(聖なる)は、「切る」「分ける」を意味する語根に由来する。
二・4
「聖とされますように」という受動形は、神を明示的に名指すことなく、その行為の主体が神であることを示す表現である。
二・5
聖イレネオの有名な言葉は、こうである。Gloria Dei, vivens homo; vita autem hominis visio Dei(『異端反駁』IV, 20, 7)。「神の栄光は生きた人間であり、人間のいのちは神を見ることである」。
第三章
三・1
聖マタイは「天の国」と言うが、神の名を明示的に使うことを避けながら、「神の国」を指している。
三・2
神の国を人の内面にあるものとする考えは、主に、教父の多くがルカ17・21を「神の国は、すでにあなたがたの内にある」と解したことから来ている。今日の釈義では、「神の国は、すでにあなたがたの間にある」と理解される(La Casa de la Biblia版聖書)。また、スペイン語新版『エルサレム聖書』は「あなたがたの内に」と訳しながらも、「それを選び取らなければならない。単に外的な出来事ではない」と理解している。
三・3
神の国に仕えるイエスの活動については、拙著 Jesús de Nazaret. El hombre y su mensaje, Idatz, San Sebastián, 1981, pp. 81–154で扱った。
三・4
A. BORRELL, 前掲書、p. 46。
第四章
四・1
名詞 thélema は、望むという行為(thélesis)ではなく、その対象、望まれるものを指す。
四・2
L. BOFF, 前掲書、p. 93。
四・3
J. A. PAGOLA, Dios amigo, Idatz, San Sebastián, 1997, pp. 12–16参照。
四・4
そのため、主は「天地を造られた」方(詩編124・8)、あるいは「天地の主」(マタイ11・25)と言われる。
四・5
この解釈については、J. MATEOS / F. CAMACHO, El evangelio de Mateo. Lectura comentada, Cristiandad, Madrid, 1981, p. 68を参照。
四・6
De oratione, PG 11, pp. 489–549。A. HAMMAN, La prière, Tournai, 1959, p. 68による訳。
第五章
五・1
A. BORRELL, 前掲書、p. 59。
五・2
マタイは「今日」を意味するギリシア語 semeron を用いる。一方、ルカは「日々」「毎日」を意味する kath’emeran という表現を使う。
五・3
実際、この語はギリシア語文献のほかの箇所には見られない。語源について複数の説明が可能で、さまざまに解釈できる。
五・4
母がパンを分ける前に、その上に十字を切っていたことを覚えている。もし床に落ちると、拾い上げて、敬意をもって接吻するよう、わたしたちに教えたものだった。
第六章
六・1
ルカが「わたしたちもゆるします」と現在形を用いるのに対し、マタイは「わたしたちもゆるしました」とアオリストを用いる。
第七章
七・1
ユダヤ人の祈りは、ほとんどいつも神への賛美で終わる。それに対して、「主の祈り」は父への救いを求める叫びで終わり、その叫びがわたしたちの生活に響き続ける。
七・2
本文は、複数の「誘惑」ではなく、単数の「誘惑」について語っている。
七・3
アラム語では、「する」と「させておく」を区別しない。ここでの意味は、誘惑に入ったり陥ったりしないようにしてください、あるいは、より自然なスペイン語で言えば、誘惑に陥ったり屈したりするままにしないでください、ということである。J. MATEOS / F. CAMACHO, 前掲書、p. 69参照。
七・4
H. SCHÜRMANN, 前掲書、p. 99。
第八章
八・1
「誘惑に陥らせず、悪からお救いください」という二つの部分から成る一つの願いと考える聖書学者もいるが、「陥らせないでください」「お救いください」という二つの命令形があるため、多くは異なる二つの願いと考える。
八・2
ギリシア語の属格 tou ponerou は、男性の主格 ho ponerós(悪い者)にも、中性の主格 ho ponerón(悪いもの、悪)にも対応しうる。
八・3
母語の細かな意味合いを、よりよく知るギリシアの教父たちは、皆そのように理解してきた。
八・4
この問題については、H. HAAG, El diablo. Su existencia como problema, Herder, Barcelona, 1978、R. SCHWAGER, “¿Quién o qué es el diablo?”, Selecciones de Teología, 130(1994), pp. 136–140参照。
八・5
P. SCHOONENBERG, “El pecado del mundo”, Mysterium salutis II, Cristiandad, Madrid, 1977, pp. 684–694。
八・6
H. SCHÜRMANNは、「主の祈り」を循環する永続的な祈りと呼ぶ。その終わりは、すぐにまた初めから祈り直すよう招く。前掲書、p. 105。
第九章
九・1
ミサの「主の祈り」の後には、ある点を展開するために付け加えられる祈り、すなわち「副文」も続く。「主よ、わたしたちをお救いください」と始まる祈りは、最後の「悪からお救いください」を解説し、展開するものである。
原著紹介・書誌事項
原著紹介
「主の祈り」は、数ある祈りの一つというだけではありません。イエスの弟子たちの祈りです。師であるイエスが教え、ご自分に従う者のしるしとして残された祈りです。この祈りのうちに、イエスの心の奥にある願いと、最も深い望みを見いだすことができます。キリスト者がいつの時代も、この祈りを福音の要約と考えてきたのも不思議ではありません。「主の祈り」には、イエスの教えの核心、救いの知らせ、生きる道が示されています。イエス・キリストの福音が、わずかな言葉に凝縮され、生きた祈りの言葉となっているのです。その内容と息吹をよく受け止めるなら、イエスに固有のメッセージと、その最も深い精神を受け止めることができます。
書誌事項
書名 主の祈り――イエスの心で祈る
著者 ホセ・アントニオ・パゴラ(José Antonio Pagola)
原題 Padre nuestro. Orar con el espíritu de Jesús
原著年 2002年
底本 依頼者提供のスペイン語EPUB。底本の電子版表記:ePub r1.1、titivillus、2022年1月4日。電子編集:titivillus。初代電子編集:JAS。ePub base r2.1。
日本語版 私的読書用翻訳、2026年10月24日。翻訳・編集:ChatGPT。
聖書引用 依頼者提供の『聖書 新共同訳』本文を使用。聖書の直接引用と、著者による祈り・言い換えは区別した。引用の省略は「……」で示し、詩編の章節は新共同訳に合わせた。本文の祈りの見出しは、原著の表現を文脈に即して訳した。
『聖書 新共同訳』©共同訳聖書実行委員会・日本聖書協会 1987, 1988。