主の祈り――信仰・祈り・生活
エミリアノ・ヒメネス・エルナンデス
この訳について
原文『PADRENUESTRO — FE, ORACION Y VIDA』の巻頭、序論、第1章〜第8章、および原注全140項を収録しています。
全章訳出済み・引用照合前の確認用原稿です。 構成、節の順序、原注の対応と用語を確認しています。聖書・教会文書の引用は、原文に基づいて訳出したもので、日本語の既刊訳からの引用ではありません。引用の既刊訳との全件照合、および原文に見られる参照番号の誤記の確定は未了です。原文の参照番号は原則として残しています。
目次
- 巻頭のことば
- 主の祈り
- 序論
- 第1章 天におられるわたしたちの父よ
- 第2章 み名が聖とされますように
- 第3章 み国が来ますように
- 第4章 み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように
- 第5章 わたしたちの日ごとの糧を、今日、お与えください
- 第6章 わたしたちの罪をおゆるしください――わたしたちも人をゆるします
- 第7章 わたしたちを誘惑におちいらせず
- 第8章 悪からお救いください
- 注
巻頭のことば
信仰の神秘は、信者がそれを信じ、祝い、生きることを求めます。 生けるまことの神との、生き生きとした人格的な関わりのうちに。 この関わりこそが祈りです。
『カトリック教会のカテキズム』2558項
主の祈り
天におられるわたしたちの父よ、 み名が聖とされますように。 み国が来ますように。 みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。 わたしたちの罪をおゆるしください。 わたしたちも人をゆるします。 わたしたちを誘惑におちいらせず、 悪からお救いください。
『カトリック教会のカテキズム』2759項参照
序論
a 祈り――神との人格的な出会い
信条の中で、わたしたちは父と子と聖霊への信仰を告白します。しかし実際には、多くの信者の信仰は「理神論的」なものにとどまっています。父の心をまだ見いだしていないのです。父を知らない人は子をも知りません。まして、父と子を結ぶ愛のきずなである聖霊を知ることはできません。神を信じ、「わたしの神よ」と呼びかけていても、その相手は人格を持たない、抽象的で遠い存在なのです。それは「有神論」の神であり、その否定として「無神論」を生むに至った神です。第二バチカン公会議は、無神論への応答として、神のまことの顔を世界に示そうとしました。そのために、神が父であることを語りました。神が父であることによって、人は神の子という比類のない尊厳に高められます。これこそ、人間の尊厳の究極の根拠です。永遠の昔から選ばれた人々について、「父は前もって知っておられた人々を、御子の姿に似た者とするように、あらかじめお定めになった。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためである」(ローマ8・29)と述べられています(『教会憲章』2)。
キリスト者が信じる神は、人格を持たない神ではありません。わたしたちの神は、主イエス・キリストの父です。御子はわたしたちの間に来られ、御子としてご自身を現すことによって、神の内奥を明かしてくださいました。それは、父と子からの賜物である聖霊を与え、ご自身と同じく父の子であることに、わたしたちをあずからせるためでした。キリストを通して、その霊においてご自身を与えてくださる神は、「わたしたちの父」です。「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天におられる方おひとりだからである」(マタイ23・9)。「キリスト教の祈りは、キリストにおける神と人との契約の関わりです。それは神の働きであると同時に人の働きでもあります。聖霊とわたしたちから生まれ、人となられた神の御子のみ旨と結ばれて、ひたすら父へと向かいます」(『カトリック教会のカテキズム』2564項。以下、CEC)。「新しい契約において、祈りとは、神の子らと、限りなく善い父、その御子イエス・キリスト、そして聖霊との生きた関わりです」(CEC 2565)。「父に祈るとは、父がそのままにおられる神秘、御子が啓示されたとおりの神秘の中に入ることです」(CEC 2779)。
聖書をひもとくと、すでに族長たちの時代から、生きておられる人格的な神に出会います。この神は、人の手で造られ、「口があっても話せない」、命のないほかの「神々」とは異なります。聖書にご自身を現す神は、語り(創世記1・3)、聞き(出エジプト記16・12)、笑われます(詩編2・4)。目(アモス9・4)、手(詩編138・5)、足(ナホム1・3)を持ち、嫌悪を覚え(レビ記20・23)、ねたまれます(出エジプト記20・5)。聖書はこのように神を人の姿にたとえることばで、歴史の中で働き、人々と親しく関わる、生ける人格的な神への信仰を伝えています。
しかし、神が人格的な方であることが最も明瞭に示されるのは、新約聖書においてです。人となった御子が、一人の方としてわたしたちの間におられることは、父なる神ご自身の完全な現れです。キリストにおいて、神と人は人格的に出会いました。イエスにおいて、わたしたちは神を見、神と語り、神を感じ、神に触れたのです(一ヨハネ1・1―5)。独り子イエス・キリストにおいて、神は「わたしの父であり、あなたがたの父」(ヨハネ10・17)として、ご自身を啓示してくださいました。イエス・キリストは、御子であるご自身のあり方にわたしたちをあずからせ、わたしたちが神の子であることを証しする霊を伝えてくださいます。父は、わたしたちをご自分の子とするようあらかじめ定め、イエス・キリストを通してこのわざを成し遂げ、永遠の相続財産を受け継ぐ保証として霊を与えてくださいます(エフェソ1・3―4)。「キリストによって、わたしたちは一つの霊において父に近づくことができるのです」(エフェソ2・18)。キリストとの命の交わりは、人を三位一体のいのちの神秘へと導き入れ、キリストの父、キリストの霊との人格的な関わりへと招きます。父なる神がキリストにおいてご自身を与え、キリストがご自身の霊を与えてくださるのです。洗礼によってキリストと一体となったわたしたちは、聖霊の働きによって、御子が父の子であるそのあり方にあずかり、父の子とされます。
イエスがもたらした驚くべき啓示は、「父」でした。イエスの口において、「ヤーウェ」「神」という呼び名は、「父」に道を譲ります。イエスはいつも、親しい家庭のことばであるアッバを用いて神に呼びかけ、ご自身が御子であることに弟子たちをあずからせます。それによって弟子たちもまた、同じアッバということばで神に呼びかけられるようになるのです。
現代の人間は、果てしない宇宙の中で道を失ったと感じている孤児です。猿から生まれ、無へ向かう存在だと教えられてきました。家庭でも社会でも、父であることは抑圧の象徴だと思い込まされ、その結果、父を殺すように仕向けられました。しかし、それによって得たのは自由ではなく、孤児であることでした。「父なる神」は自分の自由の敵だと教えられたのです。多くの人がそれを信じ、人格的な関わりを持たないアジアの霊性の中に、身を寄せる懐を求めました。ほかの人々は、環境主義や自然主義によって、母なる大地の懐を求めています。それでもなお、孤児のままです。父の不在を示す二つのしるし、近親相姦と同性愛が、わたしたちの社会を苦しめています。父の死は、他者への恐れと不信となって現れます。
現代世界はあらゆるものを持っています。科学と技術は何でもできるかのようです。しかし、この世界には父が欠けています。そのため、わたしたちは父のぬくもりのない、冷たい世界に生きています。神を父として見いだすとは、自分が神の子であることを認め、神の子であるすべての人と兄弟姉妹であることを認めることです。孤独を破り、人生の冷たさに打ち勝つ道は、これしかありません。「父よ、人々があなたを知るように」(ヨハネ17・3)。これこそ、イエスご自身の願いです。
母である教会は、人にことばを教え、「アッバ、父よ」と言えるようにします。霊が、わたしたちは神の子であり、神はわたしたちの父であると証ししてくださるなら、それは、わたしたちが孤児ではなく、この世の力や制約の中に迷い、見捨てられた者でもないということです。わたしたちの起源は、空間と時間の外にあります。母の胎に宿る前に、わたしたちは父なる神の心に宿っていました。御子とともに、「父のふところ」に生まれたのです。御子とともに、その同じ霊によって、わたしたちはあえて「アッバ、父よ」と、たどたどしく口にします。
わたしたちはしばしば、放蕩息子のような自分を感じるかもしれません。父の財産を娼婦たちと浪費し、豚を飼い、いなご豆で腹を満たしたいと願う息子です。それでも、父がいつもわたしたちを待っておられることを知っています。そればかりか、父は自ら迎えに来て、抱きしめ、ゆるし、衣を着せ、宴を用意し、わたしたちの帰りを祝ってくださるのです。
b 信仰・祈り・生活
聖アウグスティヌスの教会、ヒッポでは、洗礼を志願して登録した人々、すなわちコンペテンテスに、四旬節第5主日に主の祈りが授けられていたことが知られています。これを主の祈りの授与――Traditio Orationis Dominicaeといいました。授与に際しては、祈りの奥義へと導く詳しい教えが行われました。志願者たちは祈りを暗記し、8日後の四旬節第6主日に、公に唱えました。これが主の祈りの返唱――Redditio Orationis Dominicaeです。そして洗礼によって新たに生まれた後、「至聖なる復活徹夜祭」の感謝の祭儀で、初めて信者たちとともにこの祈りを唱えたのです。
主の祈りの授与は、信条の授与に続いて行われました。聖アウグスティヌスは、聖パウロのことばを引いてこう語っています。「信じていない方を、どうして呼び求めることができるでしょうか(ローマ10・13―15)。あなたがたは、祈りを先に受け、その後に信条を受けたのではありません。まず信条を受け、何を信じるべきかを学びました。その後で祈りを受け、どなたを呼び求めるべきかを学んだのです。信じつつ呼び求める人は、聞き入れられます」。「あなたがたは、まず何を信じるべきかを学びました。今日は、自分たちが信じた方を呼び求めることを学んだのです」。「ですから、信仰の信条を受け、それを心に保ち、返唱したあなたがたは、今日、主の祈りを受けなさい。今日から8日後に、今日学んだこの祈りを唱えなければなりません」。
主の祈りを授けること、すなわちトラディツィオは、神のいのちへの新しい誕生を意味します。キリスト者の祈りは、神のことばそのものを用いて神と語ることだからです。「生ける神のことばによって新たに生まれた人々」(一ペトロ1・23)は、父がいつも聞き入れてくださる唯一のことばによって、父を呼び求めることを学びます。今やそれができるのは、聖霊の塗油の刻印が、その心にも、耳にも、唇にも、子としての存在全体にも、消えることなく刻まれているからです(CEC 2769)。
主の祈りは、キリスト教入信の歩みを一つにまとめています。洗礼志願者はこの祈りの中に、キリスト教の信仰が表されているのを見いだしました。その信仰は、いくつかの真理を知ることには尽きません。御子の啓示において父として見いだされた神と交わり、聖霊の賜物によって御子が父の子であることにあずかるよう、人を導きます。こうして信仰は祈りとなります。しかし、信じられ、祝われる信仰は、生活から切り離された信仰ではありません。歴史の中に現れ、キリスト者としての生き方となる信仰です。信仰と祈りとキリスト者の生活は、入信の歩みにおいて、切り離せない一つの輪をなしています。主の祈りは信仰と生活を結ぶ橋となり、あまりにも頻繁に見られる両者の分裂を解消します。
祈りとキリスト者の生活は切り離せません。そこには同じ愛があり、その愛から生まれる同じ自己放棄があるからです。父の愛の計画に、子として愛をもって心を合わせる、その同じ姿勢があります。聖霊のうちに人を造り変え、ますますキリスト・イエスに似た者としてゆく、その同じ一致があります。イエスがわたしたちを愛してくださった愛、すべての人へのその同じ愛があります。「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものを、父が与えてくださるようになるためです。互いに愛し合いなさい。これが、あなたがたに命じることです」(ヨハネ15・16―17)。「祈りを行いに結び、行いを祈りに結ぶ人は、絶えず祈っています。こうして初めて、絶え間ない祈りという原則を実行できるのです」(オリゲネス。CEC 2745)。
イエスの宣教は主の祈りの意味を明らかにし、主の祈りはイエスの宣教を理解する鍵となります。福音を聞き、受け入れた人だけが、イエスの心で主の祈りを祈ります。福音を生きることと、主の祈りをもって祈ることは、一つのことです。イエスの弟子たちの祈りである主の祈りによって神に呼びかける人の中では、生活と祈りが結ばれます。イエスは、神の子として祈るために、どのような者となり、どのように生きればよいかを教えてくださいます。主の祈りとは、キリスト教の信仰が祈願となったものです。
信仰の神秘を、信者は信じ、祝い、生けるまことの神との、生き生きとした人格的な関わりのうちに生きます(CEC 2558)。
主の祈りは、神の国を求め、神のみ旨に生き、父の配慮に自分のいのちを委ねる、キリストに従う人々の祈りです(マルコ3・14、ルカ12・31)。マリアのように、「ただ一つ必要なこと」、すなわち主のことばを聞くことに心を注ぐ弟子たちの祈りです(ルカ12・31)。一つの霊のうちに集められ、キリストの兄弟姉妹であることを知り、天におられる父を呼び求める、神の子らの祈りです。したがってそれは教会の祈りです。父、糧、罪、ゆるし、誘惑について語られる「わたしたち」の中に自分も含まれていると知る人々の、共同の祈りなのです。これらはすべて、キリストに従う者がともに分かち合うものです。聖ヨハネ・クリゾストモはこう述べています。
主は、すべての兄弟姉妹のために、ともに祈ることを教えてくださいます。主が「天におられるわたしの父」とは言わず、「わたしたちの父」と言われるのは、教会のからだ全体のために、わたしたちの祈りが一つの心からささげられるためです。
ですから、主の祈りを理解する最善の道は、イエスのことばを聞くことです。イエスご自身以上に、この祈りをよく説き明かせる方はいません。神を父として啓示し、父へと導いてくださるのは、イエスだからです。イエスのことばの中に、主が教えてくださった祈りの独自性が見いだされます。初代のキリスト者が主の祈りに見ていた「隠された宝」「高価な真珠」は、イエスのことばの中でしか発見できません。そのことばを聞き、心に保つ人は、キリストの「兄弟姉妹」であることを知り、喜んで神を父と呼び求めるようになります。
しかし、反対の道も歩まなければなりません。主の祈りを祈ることから、福音を内側から理解するのです。主の祈りの中には、イエスの最も深い願いが見いだされます。祈りを通して、キリストの生涯と宣教の奥底にある思いを探るのです。すでにテルトゥリアヌスは、主の祈りを「ブレウィアリウム・トティウス・エウァンゲリイ」、すなわち「福音全体の要約」と呼んでいました。1 主の祈りは、聖書にあるあらゆる祈りをも含んでいます。聖アウグスティヌスはこう表現しています。「聖書にあるすべての祈りをたどってみてください。主の祈りに含まれていないものは、何一つ見つからないと思います」。
教父たちによる主の祈りの解説を読むと、彼らにとって神学することが祈ることであり、祈りが生活そのものであったことが分かります。彼らの中では、祈りと生活と考察、あるいは信仰の教えが、少しも分裂していません。皆、祈りの人であり、祈りの師です。ことばと自らの生活の証しによって、信仰を教えています。2 テルトゥリアヌスはこう語ります。
わたしたちの主イエス・キリストは、新しい律法に生きる新しい弟子たちに、新しい祈りの形を与えてくださいました。このことにおいても、新しいぶどう酒を新しい革袋に入れ(マタイ9・16以下、マルコ2・21以下、ルカ5・36以下)、新しい布に縫い付けることが必要だったからです。神の新しい恵みは、福音を通してすべてを新しくしました。祈りは、わたしたちが神にささげる、み心にかなう供え物です。神の祭壇に運ぶこの供え物は、心の底から神にささげられ、信仰によって形づくられ、真理のうちに整えられ、罪のない生活によって欠けるところなく、貞潔によって清く、アガペーの冠をいただき、善い行いの喜ばしい列に伴われるならば、神に喜ばれます。そのような祈りは、神からあらゆるものを得ることができるのです。
主の祈りは、祈りの形で福音全体を含んでおり、信仰のしるしとしての役割を果たします。それによって、キリスト者はユダヤ人や異教徒から、また洗礼者ヨハネの弟子たちからも区別されます。主の祈りには、同じ父の御子に結ばれた子らとしての、わたしたちの信仰と希望、そして兄弟愛の核心が含まれています。
福音全体を要約する主の祈りの中には、イエスの知らせの響き、宣教の核心と鍵が見いだされます。だからこそ、主の祈りは教会の祈りの土台であり、キリスト者の祈りの最たるものなのです。これは、キリスト者に固有で、その人らしさを示す祈りです。人に見られることを求める者とも、ことばの多さを頼みにする者とも異なり、ユダヤ人や異教徒の祈りから区別されます。そのいずれに対しても、イエスは弟子たちにこう言われます。「彼らのようであってはならない。あなたがたは、こう祈りなさい」(マタイ6・8―9)。
c 主の祈りを伝える最初の証言
主の祈りを伝える最初の三つの証言、マタイ、ルカ、そして『ディダケー』は、それぞれ異なる信仰の教えの文脈で、この祈りを伝えています。『ディダケー』は洗礼と感謝の祭儀について、マタイはユダヤ人と異教徒の祈りに対するキリスト者の祈りについて、ルカはキリスト者の祈りの本質と、そのあり方について教えています。『ディダケー』は新受洗者に、マタイは信者に、ルカは異教から入信する洗礼志願者に向けて教えます。『ディダケー』が強調するのは、いつ祈るかです。朝、昼、夕方、一日に三度です。マタイが重んじるのは、どのように祈るかです。人目を避け、ことばを重ねず、短く祈ります。ルカはまだ信仰に入っていない人々に、いつ、どれほど祈り続けるか、すなわち、しつこいほど根気よく祈ること、また何を願うか、すなわち聖霊を願うことを教えます。
この三つの教えは互いを補い、主の祈りがキリスト者に固有の、特徴ある祈りであることを示しています。新受洗者の洗礼の祭儀における会衆の祈りであり、信者の感謝の祭儀の祈りであり、キリスト者の日々の祈りなのです。
マタイは、主の祈りを山上の説教の中に置いています(6・5―15)。主の祈りは山上の説教の中心にあり、説教全体の心臓のようなものです。したがって主の祈りは、まず、弟子が「隠れたところで」天の父に呼びかける短い祈りです。ファリサイ派の祈りに見られる人前での誇示や虚栄、異教徒の祈りに見られることばの多さや自己への過信を避けます。「あなたは、むしろ」と言われるとおりです。同時にそれは、「だから、あなたがたはこう祈りなさい」と教えられる、イエスの弟子たちの共同の祈りでもあります。弟子たちはともに天の父に向かい、呼びかけ、賛美し、願います。これは賛美と祈願へのあこがれを満たす、キリスト者の祈りです。
自分の部屋と心の奥で、父を信頼して呼び求め、賛美し、願う子の祈りです。その父はすべてを知り、最も隠れたところまで見ておられます。「父は、子らが願う前から、何を必要としているかをご存じだからです」(6・8)。「祈るとき、役に立つのはことばではなく、神を敬う心です」(聖アウグスティヌス)。またこれは、天におられる共通の父への、子らの共同の祈りでもあります。み名が聖とされ、み国が来て、み旨が行われることを、ともに願い、父を賛美します。そして、日ごとの糧、負い目のゆるし、試練に屈しないための守り、悪い者からの解放という、皆に共通する必要を、ともに願います。
山上の説教というこの文脈によって、主の祈りは「心の貧しい人々」の祈りとなります。その人々は、自分の貧しさの中で、日ごとの糧も、負い目のゆるしも、誘惑に屈しないための助けも、誘惑する悪い者からの解放も、すべてを父に期待します。動詞の受動形は、聖とするのも、み旨を行う賜物を与えるのも、神であることを示しています。
初めの三つの願いにある「あなたの」という所有を表すことばは、祈る一人ひとりと神との人格的な関わりを示しています。この「あなたの」ということばによって、わたしたちは初めから神へと引き上げられます。み名が聖とされ、み国が来て、み旨が行われることを願うからです。続く願いの「わたしたちを」「わたしたちの」は、地上に目を向けてくださるよう神に願うと同時に、神を父とする祈り手たちの間に生まれた交わりを表しています。マタイが七つの願いに分けているのは、主の祈りが祈願の全体を含むという意味です。何一つ付け加えることも、取り去ることもできません。
祈りの福音記者であるルカは、ガリラヤからエルサレムへの旅の間に、イエスが弟子たちに与えた詳しい教えの中に、主の祈りを位置づけています(9・51―19・27)。この旅は、天に上げられる時(9・51)へと向かう歩みです。すなわち、死(13・33、17・25)、復活、そして昇天によって、ご自身のわざを完成されること(13・31)へと向かう歩みです。その文脈でルカは、祈りについての二つの教えを記しています(11・1―13、18・1―14)。
ルカは、弟子たちの祈りと師の祈りとの結びつきを示しています。「イエスがある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人が、『主よ、わたしたちにも祈ることを教えてください』と言った」。ほかのどの福音記者にもまして、ルカはイエスの祈りの生活を伝えています。イエスは祈るために「人里離れた所」に退かれました(ルカ5・16)。「祈ることを教えてください」という弟子たちの願いを引き起こしたのは、イエスが実際に祈っておられる、その姿でした。そして祈る方であるイエスは、ご自身の祈りとして、主の祈りを教えてくださいます。
弟子の願いに答えて、主は弟子たちと教会に、キリスト者の根本の祈りを委ねられます(CEC 2759)。キリストの弟子が祈りたいと望むのは、何よりも、師が祈っておられる姿を見つめるときです。そのとき、祈りの師から学ぶことができます。御子を見つめ、そのことばを聞くことによって、子らは父に祈ることを学びます(CEC 2601)。
弟子たちはすでに、イエスが神を父と呼んで祈られるのを聞いていました。「イエスは聖霊によって喜びにあふれ、こう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼い者たちにお示しになりました。そうです、父よ、これはみ心にかなうことでした』」(ルカ10・21)。ルカは、そのほかにも多くの場面で、この御子としての呼びかけを記しています。ゲツセマネの祈りでは、「父よ、み心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(22・42)。十字架の上から敵のゆるしを願われるときは、「父よ、彼らをおゆるしください」(23・34)。息を引き取られるときには、「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」(23・46)。ルカが伝えるイエスの最初の祈りと最後の祈りは、ともに「父よ」という同じ呼びかけで始まっています。それは、イエスが生涯を通じて絶えずささげておられた祈りを映しています。弟子たちはそのことに驚き、「わたしたちに祈ることを教えてください」と願ったのです。そこでイエスは言われました。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ』」。御子と子らは、同じ父に祈るのです。
ほかの称号を何も付けない「父よ」という呼びかけは、ルカにおいて、イエスのことば(22・42、23・34、36)にも、弟子たちのことば(15・12、18、21)にも特徴的です。弟子たちは、イエスと同じ呼びかけで父に向かいます。それは、同じ霊を受けていること(使徒言行録10・38、44)、御子と結ばれた子らとして、神の子であることを分かち合っていることを前提とします。これこそ、ルカがキリストに回心した異邦人に伝える、キリスト者の祈りです。根気強く、しつこいほどに願い(ルカ11・5―10)、「気落ちせずに絶えず祈る」(18・1―8)祈りです。しかし同時に、ファリサイ派の人のように自分を正しいと思い込まず、徴税人のように、罪人としてへりくだって神のみ前に立ちます(18・9―14)。
したがって、主の祈りの教えは、「わたしたちに祈ることを教えてください」という弟子たちの願いから始まっています(11・1)。イエスの教えは、この弟子たちに向けられています。何を願うか(11・11―13)、いつ、どのように祈るか(11・5―10)という、キリスト者の祈りに固有のあり方を教えるのです。それは、洗礼者ヨハネの弟子たちの祈りとは異なる、キリスト者に固有の祈りです。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」(11・1)。また、ファリサイ派の人々の祈りとも異なります(5・33、18・9―14)。「あなたがたは祈るとき、こう言いなさい」(11・2)。こうしてイエスは、主の祈りを教えられます。
しかしイエスが残されたのは、機械的に繰り返すための定型文ではありません。あらゆる祈りにおいてそうであるように、聖霊は神のことばを通して、神の子らに父と語ることを教えてくださいます。イエスは子としての祈りのことばを教えるだけでなく、そのことばをわたしたちの中で「霊であり、いのちである」ものとする霊をも与えてくださいます(ヨハネ6・63、CEC 2766)。主のことばと、それを信者の心の中で生かす聖霊。この切り離せない賜物を、教会は初めから受け取り、生きてきました(CEC 2767)。
d 主の祈り
テルトゥリアヌスは、主の祈りを「福音全体の要約」と呼びます。これは「主の祈り」です。主が教えてくださった祈りであるとともに、主ご自身が父にささげておられた祈りだからです。主が人となり、生き、十字架上で死なれたのは、父のみ名を聖とするためでした。そのために主は、「父よ、み名の栄光を現してください」と祈られました。主は天の国を告げ知らせ、主とともに、神の国はわたしたちのもとに来ました。その生涯も、その糧も、その死も、天で永遠に行っておられたように、地上でも「神のみ旨を行う」こと以外の何ものでもありませんでした。主の「糧」は、父の口から出る一つひとつのことばです。主は毎日、父から糧をいただくことを待ち望み、石をパンに変えるよう神を試すことはされません。
それでは、罪のない方、少しの罪もない方が、どうして「わたしたちの負い目をおゆるしください」と願われたのでしょうか。「罪を知らなかった方を、神はわたしたちのために罪とされました」(二コリント5・21)。わたしたちの負い目は、実際に主の負い目であり、わたしたちの罪は主の罪でした。主がそれを犯したからではなく、わたしたちの罪を担われたからです。だからこそ、「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしますから、わたしたちの負い目をおゆるしください」と、まったく真実に祈ることができたのです。そして「悪からお救いください」。主がこの世に来られたのは、まさにそのため、悪い者に打ち勝つためでした。
ヨハネが記すイエスの「大祭司の祈り」もまた、主の祈りの大きな願いを、内側から息づかせています。父のみ名への思い(ヨハネ17・6、11―12、26)、み国への願い――すなわち栄光への願い(ヨハネ17・1、5、10、23―26)、父のみ旨と救いの計画の実現(ヨハネ17・3、6―10、25)、そして悪からの解放です(ヨハネ17・15)。
テルトゥリアヌスによれば、神がどのように祈ってほしいと望んでおられるかを教えられるのは、神おひとりだけです。主の祈りは、神からしか来ることができませんでした。「主イエス・キリストのこの祈りは、神である方の唇から語られ、その霊によって生かされ、恵みによって天へと上り、御子が教えてくださったことを父に委ねます」。祈りはわたしたちの信仰を守る城壁です。周囲を取り囲む敵に対する武器です。十字架上のキリストの両腕が世界を守るように、祈りは信仰を守ります。だから主の祈りを唱えるとき、「わたしたちは父に向かって手を上げるだけでなく、その両手を広げます(一テモテ2・8)。こうして主の受難にならい、祈りによってキリストへの信仰を告白するのです」。また、聖キプリアヌスはこう語っています。
わたしたちに命を与えてくださったキリストは、祈ることをも教えてくださいました。主が教えてくださったとおりに父に祈ることによって、いっそうよく聞き入れられるためです。主はすでに、「まことの礼拝者たちが、霊と真理のうちに父を礼拝する」時が近づいていると言われていました(ヨハネ4・23)。今、その約束を果たしてくださいます。主の聖化のわざによって霊と真理を受けたわたしたちが、霊と真理のうちに礼拝するためです。霊による祈りとは、キリストが教えてくださった祈りにほかなりません。聖霊もまた、キリストから来られるからです。父にとって、真実な祈りとは、真理である御子の口から出た祈りだけです。神ご自身のことばによってささげる祈り、キリストの祈りそのものを神のみ前に差し出す祈りは、親しく、身近な祈りです。わたしたちが祈るとき、父はそこに御子のことばを聞き取られるはずです。わたしたちの心の中におられる方が、わたしたちの唇にもおられますように。父のもとには、「わたしたちの罪のための弁護者」である主がおられます(一ヨハネ2・1―2)。ですから、罪人であるわたしたちが自分の罪のために祈るときには、この弁護者と同じことばで祈りましょう。主は、「わたしたちがその名によって父に願うものは、すべて得られる」と言われました(ヨハネ16・23)。キリストご自身の祈りによって願うなら、キリストの名によって求めるものを、いっそう確かに得ることができるでしょう。
七つの願いの一つひとつは、真実に祈られるなら、口にされたその瞬間から実現し始めます。父なる神の名を唱えるとき、わたしたちはすでにそのみ名をたたえています。み国がわたしたちのもとに来るようにと望むなら、その願いそのものが、すでにみ国に属していることを証ししています。み旨が行われるようにと願うとき、わたしたちは信頼してそのみ旨に身を委ねています。日ごとの糧を真実に願うかぎり、神がその日ごとに与えてくださるものを受け入れています。自分に負い目のある人をゆるすなら、わたしたち自身もすでに神にゆるされています。そして最後に、誘惑と悪い者の襲撃に対して神の助けを願うことによって、すでにすべての敵に対する勝利を確かなものとしているのです。
e 主の弟子たちの祈り
主の祈りは、イエスが弟子たちに伝え、教会がまたわたしたちに伝える祈りです。こうして教会はわたしたちをキリストへと導き、キリストはわたしたちを父に引き合わせてくださいます。これが祈りの道です。
キリスト者は、キリストと結ばれ、キリストとともに、「キリストの名によって」神に向かい、父として呼び求めます。聖パウロとともに、「生きているのは、もはやわたしではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです」と言えるなら、同じように、「祈っているのは、もはやわたしではなく、キリストがわたしのうちに祈っておられるのです」とも言えます。「二人が、一つの声で」と聖アウグスティヌスは言います。夫と妻は二人であって、一つのからだです。キリストと教会は二者であって、一つの声で祈ります。わたしたちの心に注がれた御子の霊は、わたしたちの霊に、わたしたちが神の子であることを証しします。そして、わたしたちの中で「アッバ、父よ」と叫び、わたしたちにもそう叫ばせてくださいます(ガラテヤ4・6、ローマ8・15)。
イエスは「大きな叫びと涙をもって」父に祈られます(ヘブライ5・7―8)。キリスト者の中におられる霊もまた、「アッバ、父よ」という同じことばで「叫び、うめき」ます(ガラテヤ4・6―7、ローマ8・14―16)。洗礼によって子としての霊が注がれて初めて、キリスト者は「アッバ、父よ」と言えるようになります(ローマ8・26―27、二コリント3・18)。入信の歩みにおいて、御子の霊を受けた者に、主の祈りが伝えられます。そして霊が、「アッバ、父よ」と叫ばせてくださるのです。『ディダケー』もまた、洗礼について述べた後、感謝の祭儀へと話を進める前に、主の祈りを置いています。
教会は、エッファタによって洗礼志願者の耳を開きます。そのときから志願者は、「家族の秘められた奥義」を聞くことができ、主の祈りを受け取れるようになります。この「秘義を守る」規律は、異教徒や洗礼志願者が主の弟子となるまでは、主の祈りを明かすことを禁じていました。イエスがこの祈りを教えられたのは弟子たちに対してでした。それゆえ教会は、洗礼によって神の子に造り変えられた信者たちのために、この祈りを保っていたのです。キリスト者に固有の祈りである主の祈りは、洗礼前の教えの中で授けられました。そして洗礼を受け、神の子とする霊を受けた後、人々はあふれる喜びをもって、初めて「アッバ、父よ」と叫びました。パウロは、この叫びを二度記しています(ガラテヤ4・1―6、ローマ8・14―17)。
教父たちの証言から、主の祈りを受けたときの洗礼志願者たちの感動を思い描くことができます。異教の世界から来た彼らは、神について、本来とは異なる考えを持っていました。洗礼前の教えにおいて、神の神秘を覆っていた幕が開かれたのです。自分たちが愛されていることを知りました。そればかりか、洗礼によって本当に神の子となり、神を父と呼べるようになると告げられました。彼らの存在は根本から変えられ、新しい生き方が始まりました。「聖霊は、『信じ、祈る教会』(『神の啓示に関する教義憲章』8)の中で、生きた伝承を通して、神の子らに祈ることを教えてくださいます」(CEC 2650)。
主の祈りは教会の祈り、声を合わせる共同体の祈りです。「わたしたちの父」「わたしたちにみ国が来ますように」「わたしたちの糧をわたしたちにお与えください」「わたしたちの罪をおゆるしください」「わたしたちを誘惑におちいらせず」「悪からわたしたちをお救いください」。子に父を認めさせ、「お父さん」と言うことを教えるのは母です。神を父と認めることを教え、主の祈りを授けるのは教会です。教会は、あえて神を父と呼ぶ会衆の声に、自分の声を合わせるよう、わたしたちを招きます。テルトゥリアヌスはこう述べています。
神を父と告白する人は、御子への信仰をも告白しています。父と子への信仰を告白する人は、母である教会をも告げ知らせています。教会なしには、そこに子も父もおられません。
神と語るには、へりくだりと大胆さが必要です。これは、信仰におけるわたしたちの父、アブラハムの姿勢です。塵と灰にすぎないアブラハムは、主に語りかけることを大胆な振る舞いと考えます。「塵と灰にすぎないわたしですが、あえて主に申し上げます」(創世記18・27)。そして、もし神の御子ご自身がそうするよう励ましてくださらなかったなら、神を父と呼ぶのは思い上がりだったでしょう。教会は感謝の祭儀の中で、このことを思い起こさせます。「救い主のことばに従い、また、その教えを守り、あえて申し上げます。わたしたちの父よ」。聖パウロもこう述べています。「わたしたちの主キリスト・イエスによって、わたしたちは信仰を通して、大胆に、信頼をもって神に近づくことができます」(エフェソ3・12)。
聖ヨハネ・クリゾストモの典礼と呼ばれる典礼では、主の祈りの前に、次の招きが置かれています。「主よ、どうかわたしたちにお与えください。喜びをもって、思い上がることなく、天の神であるあなたを、あえて父と呼び、こう申し上げることを。わたしたちの父よ……」。
聖キプリアヌスはまた、目を覚まし、自分の口にすることに心を尽くして注意するようにと招きます。「自分自身さえ聞いていないのに、どうして神に聞いてくださるよう願えるのでしょうか」。神が聞かれるのは、口先のことばではなく、心の声です。教会のかたどりであるハンナは、心の奥で神に祈りました。口よりも心で語ったのです。そうすれば、主が祈る者の声を聞いてくださると知っていたからです。こうして彼女は、信仰をもって願ったものを得ました。聖書にはこうあります。「彼女は心の中で語っていたので、唇はかすかに動いていたが、声は聞こえなかった……そして主は彼女の願いを聞き入れられた」(一サムエル1・13)。詩編にも、「心の中で語りなさい」(詩編4・5)と記されています。
第1章 天におられるわたしたちの父よ
a 生きている者の神
わたしたちの信仰の信条は、「わたしは父なる神を信じます」と始まります。キリスト者が神への信仰を告白するとき、それは「生きている者の神」、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」(出エジプト記3・6、マタイ22・32)、イスラエルの神を指しています。3 この神こそ、「わたしたちの主イエス・キリストの父」(二コリント1・3)です。わたしたちは、神が人々とともに歩まれる救いの歴史を通して、神を知ります。その歴史の中で、神はご自身を現されます。神は道を開き、人々の「信仰の巡礼」に伴ってくださいます。信仰とは、神に支えられ、神をよりどころとして――アーメン――ともに道を歩むことにほかなりません。神は「火の柱、雲の柱」となって、先を進んでくださいます(出エジプト記13・21)。
超越的で目に見えない神は、愛によって近しい方となり、ご自分の民イスラエルと契約を結ばれました。葦の海を渡るとき、荒れ野を通ってシナイへ向かうとき、約束の地を与えられるとき、ダビデの王国が成立するとき……。イスラエルは繰り返し、「神はともにおられる」と体験します。自分たちが不忠実であっても、神はそれを越えて契約に忠実でいてくださるからです。イスラエルは、神に「鷲の翼に乗せて」運ばれていると感じます(出エジプト記19・4)。したがってイスラエルの神は、遠く離れた、心を動かすことも語ることもない神ではありません。解放し、救う、生ける神です。歴史に介入し、導き、新しい歴史への道を開く神です。信じ、希望を置き、信頼し、自分を委ねることのできる神なのです。
燃える柴の顕現において(出エジプト記3章)、神はモーセにみ名を知らせ、ご自身を啓示されます。み名を明かすことによって、ヤーウェは人格的な関わりを望む、人格的な神としてご自身を示されます。人に名を付けるのは、その人がそれ自体として何であるかを述べるためではなく、名を呼べるようにするためです。つまり、呼びかけ、関わりを結べるようにするためです。名があるから、その人を呼び、語りかけ、交わりに入ることができます。固有の名は、呼ばれることを可能にします。神はみ名を知らせることによって、人がその名を呼び、呼び求めることのできる方となられました。み名を啓示することによって近づき、近づくことのできる方となり、ご自身との交わりへ入ることを許してくださったのです。「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、彼らもわたしたちのうちに一つとなりますように」(ヨハネ17・21)。
神には名があります。人格を持たない何かではなく、「わたし」であり、「あなた」である、人格的な方です。口も耳も利かない神ではなく、語り、語りかけることのできる神です。聖書の中で神は、絶えず「わたし」として語りかけられます。
わたしは、あなたをエジプトから導き出した、主、あなたの神である。
出エジプト記20・2、ホセア12・10
わたしは神。ほかにはいない。わたしのような神はいない。
イザヤ46・9
神が「わたし」としてご自身を示されるので、わたしたちは神を「あなた」と呼び求めることができます。神について語るだけでなく、神に語りかけるのです。
神よ、わたしはあなたを呼び求めます。 あなたは答えてくださいます。 耳を傾け、わたしのことばを聞いてください。
詩編17・6
深い淵の底から、主よ、あなたに叫びます。 主よ、わたしの声を聞いてください。 わたしの願いの声に、 耳を傾けてください。
詩編130・1―2
神のまことのみ名を真に明かしてくださる方は、イエスです。新約聖書において、ヨハネはイエスを「神のみ名を啓示する方」として示しています。「あなたがわたしに与えてくださった人々に、み名を現しました……み名によって彼らを守ってください……わたしは彼らとともにいた間、み名によって彼らを守りました……わたしは彼らにみ名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようになるためです」(ヨハネ17・6、11、12、26)。イエスにおいて、神は本当に呼び求めることのできる方となられます。イエスとともに、神は人間の歴史の中へ、決定的に入られます。
神のみ名は、もはやわたしたちが受け入れるだけのことばではありません。わたしたちと同じ肉、わたしたちと同じ骨です。神はわたしたちの一人なのです。燃える柴が意味していたことは、人として神であり、神として人である方において、現実に成就します。イエスにおいて、神はインマヌエル、わたしたちとともにおられる神です。
先祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神。モーセにみ名を示すことによって、近くにおられ、呼び求めることのできる方であることを明かされた、人格的な神。大地や豊穣や国家の神々に対する、唯一の神。預言者たちを通してご自身を啓示された神。この神こそ、わたしたちの主イエス・キリストの神であり父です。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」。ペトロは最初の手紙を、このように始めています。
b アッバ、父よ
わたしたちが神を真に、十分に知るのは、その御子イエス・キリストにおいてだけです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにおられる独り子が、神を知らせてくださった」(ヨハネ1・18)。唯一の神への信仰だけでは、神に対するキリスト教の信仰の新しさは、まだ言い尽くされていません。「わたしは父なる神を信じます」と述べて、信仰の表明を完成させる必要があります。神という名に最初に付け加えられるこの「父」の一語に、キリスト教の信条全体が要約されています。このことばが、三位一体としての神の啓示を信じるキリスト教信仰の、驚くべき新しさへと、わたしたちを導き入れます。
あらゆる宗教で神は父と呼ばれますが、それは創造者であるという意味においてです。旧約聖書では、神が父であることは、すでに独自の意味合いを帯びています。しかし古代オリエントでもイスラエルでも、神が父と呼ばれたのは民との関係においてであり、民の起源が神にあることを告白するためでした。父という名によって、神は創造者、力強く憐れみ深い主としてあがめられ、人に敬いと従順を求めます。ただしイスラエルでは、神に父としてのあり方が認められるのは、ほかの宗教のように神が人を生み出したからではありません。神がイスラエルを長子として選ばれたことによって、父と呼ばれるのです。4
イスラエルの人にとって、「父」ということばには、ほかのどの宗教よりも豊かな意味があります。神は、奴隷の境遇から解放することによって民を形づくり、その民と契約を結ばれた創造者です。イスラエルは選ばれた民です。神と民との間には、人格的な関わりが結ばれます。ヤーウェはイスラエルを「わが長子」と呼び(申命記14・1―2)、民は神を父と呼び求めます。5 ヤーウェがイスラエルをご自分の民として選ばれることによって、両者の間に特別な関係が生まれます。救い、守る神の働きゆえに、神は父という名にふさわしい方なのです。こうしてヤーウェは、貧しい人、頼る者のない人の父、「みなしごの父、やもめの保護者」(詩編68・6)とたたえられます。6
預言者たちは、神のこの父としての愛を力強く描きます。ホセアは、神を最も優しい父として描きます。イスラエルが幼子であったとき、ヤーウェは彼を愛しました。歩くことを教え、母が幼い子に注ぐような世話を惜しみなく与え、頬のところまで抱き上げ、身をかがめて食べさせました。反抗しても、見捨てることはできません。はらわたが揺り動かされます。いや、イスラエルを滅ぼすことはないのです(ホセア1・4、11・8―9)。
イスラエルは、父の愛が始まったころを懐かしく思い出します。イスラエルが幼子だったとき、神は彼を愛し、エジプトから子として呼び出されました(ホセア11・1、エゼキエル16章、知恵14・3―4)。父が子を支えるようにヤーウェが支えてくださった、その子への父としての配慮を思い起こします(申命記1・31、ホセア11・3―4)。しかし、その愛に応える日々は長く続きませんでした(エレミヤ3・19―20)。預言者たちは、イスラエルの信じがたい不忠実を責めるモーセのことばを伝えます。「愚かで知恵のない民よ、このようにして主に報いるのか。主はあなたを造られた父ではないか。あなたを造り、堅く立たせてくださったのではないか」(申命記32・6―7)。罰を与えるときでさえ、ヤーウェは愛に満ちた父であり続け(申命記8・5、箴言3・12)、その後には父の憐れみを示されます。7 しかし、これらすべての箇所で、父という名は常に比喩的に理解されていました。神はイスラエルに対して、父のように振る舞われるのであって、それによってイスラエルの人々が真に神の子となるわけではなかったのです。
旧約聖書全体を通して、神は民の父として現れ、それに対応するのは、複数形の「子ら」です。民の代表である王を例外として、個人の父であるとは語られません。『シラ書』は、保護者として神を父と呼び求めます。「主よ、わたしの命の父、主よ、わたしを見捨てないでください」(シラ23・1、51・10)。保護とともに、神の父としての第二の働き、民を教育することも現れます。8 そのため神は、民の不忠実を前に父のように嘆かれます。9 しかし父であるがゆえに、民をゆるす用意があり、ゆるしたいと望んでおられます。10 これらの箇所ではすべて、神が父であることは、民全体との関係において考えられていました。ですから、イエスが神を「アッバ、父よ」と呼ばれたとき、それはかつて聞いたことのない、まったく新しい呼びかけとして響いたのです。
新約聖書では、イエスの口から絶えず「父」ということばが語られます。聖ヨハネにおいて、「父」は「神」と同じ意味を持ちます。イエスが父として神に呼びかけるために用いられたアッバという語は、ユダヤの文献全体の中でもあまりに異例なものでした。それは「神との関わりにおける子としての従順を表すだけでなく、神との唯一無二の関係を表すことば」なのです。すでにルカの受胎告知の物語では(1・32―35)、いと高き方の力によって宿られるイエスは、当然のこととして神の子と呼ばれています。聖書全体の中で、ほかの誰についても、このようなことは語られていませんでした。
聖ルカの福音書にある「父よ」という短い呼びかけは、イエスが神に向かって用いられたアラム語のアッバを訳したものです。このアラム語は、ゲツセマネにおけるイエスの祈りを伝えるマルコのギリシア語本文にも、そのまま残されています。「アッバ、父よ、あなたには何でもおできになります」(マルコ14・36)。マルコがアラム語を残したのは、弟子たちの記憶の中で、このことばが、かつて聞いたことのないものを前にした驚きと結びついていたからです。同じようにパウロが、キリスト者は「アッバ、父よ」と言えるのだと喜びの声を上げるのも、このことばが用いられる驚きから、まだ覚めきっていないからなのです。
福音記者たちもパウロも、ギリシア語で書きながら、このことばをアラム語のまま残しました。ギリシア語を話すキリスト者は、イエスに特有の呼びかけであったからこそ、「父よ」という呼びかけを、その元のアラム語の形で保っています。パウロは、キリスト者についてこのことを確証しています(ガラテヤ4・6、ローマ8・15)。初代のキリスト教共同体では、このアラム語の形が、神を呼び求める普通の形になっていたのでしょう。人々はイエスの口から、神を父と呼ぶことを学んだのです。ユダヤ人は、ときに神をアービーと呼び求め、地上の父はアッバと呼んでいました。一方の父と他方の父とを区別するため、実際に注意を払っていました。ところがイエスは、驚くべきことに、神をアッバと呼び始められます。神に対して用いられるこのアラム語があまりに驚くべき、聞き慣れないものなので、パウロはギリシア語で書きながらも、まるで翻訳できないことばであるかのように、残さずにはいられないのです。
イエスは祈ることを教えるに当たって、まず神をどのように呼び求めるかを示されます。「父よ」。これはあまりに異例なことなので、これほど親しく、家庭的なことばで神を呼ぶためには、イエスが許し、励ましてくださることが必要でした。それまで誰も、子どもが父親に呼びかける素朴で親しいことば、「お父さん」を意味するアッバで、神に呼びかけようとはしませんでした。祈りでは、アラム語の場合でさえ、父として神に呼びかけるのに、荘厳なヘブライ語の形であるアーブを用いていました。ヘブライ語の文献では、人間の父にはアッバを用い、天の父を指すアーブ、あるいは「わたしの父」を意味するアッビーと区別していました。11 当時のあらゆる慣習に反して、イエスは、親しい子としての呼びかけであるアッバをもって神に向かわれます。オリゲネスはこう述べています。
旧約聖書の中に、誰かが神を父と呼び求める祈りがあるかどうか、調べてみる価値があります。わたしたちは熱心に探しましたが、見つけることができませんでした。神が父と呼ばれなかったとか、神を信じた人々が神の子と呼ばれなかったと言っているのではありません。救い主が示された、神を父と呼び求めるあの信頼が、祈りの中で表されている箇所を、どこにも見いだせなかったということです。
旧約聖書の多くの箇所で確かめられるように、神は父と呼ばれ、神のことばを受け入れた人々は子と呼ばれています。「あなたは自分を生んだ神を捨て、自分を養った神を忘れた」(申命記32・18)。その少し前には、「主こそあなたを育てた父、あなたを造り、形づくった方ではないか」(申命記32・6)。さらに同じ箇所で、「彼らはまったく誠実さのない子らだ」(申命記32・20)。イザヤには、「わたしは子らを育てたが、彼らはわたしを侮った」(イザヤ1・2)。マラキには、「子は父を、僕は主人を敬う。わたしが父なら、わたしへの敬いはどこにあるのか」(マラキ1・6)。
これらすべての箇所で神は父と呼ばれ、神への信仰のことばによって生まれた人々は子と呼ばれていますが、この子としての身分を明瞭に断言することばは見当たりません。しかし、わたしたちの主イエス・キリストの到来とともに、時は満ちました。今や、人は自由に、子として迎えられる賜物を受けることができます。聖パウロが教えているとおりです。「あなたがたは、子とする霊を受けたのです。この霊によって、わたしたちは『アッバ、父よ』と叫びます」(ローマ8・15)。聖ヨハネの福音書にもこうあります。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じる人々には、神の子となる力を与えた」(ヨハネ1・12)。この子とする霊によって、わたしたちは次のことを知っています。「神から生まれた者は皆、罪を犯しません。神の種がその人の内にあるからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」(一ヨハネ3・9)。
c 父を啓示するイエス
イエスは、神が父であることを完全に啓示する方です。イエスの知らせの中心は、父を啓示することにあります。イエス以前には誰も、神を「わたしの父」と呼ぼうとはしませんでした。子どものことばであり、信頼に満ちた「アッバ、お父さん」をもって神に呼びかけられたのは、イエスが初めてです。イエスは、子どもが父に向かうように神に向かわれます。これほど親しい「お父さん」という語を用いられるのは、神の子だからです。「すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う人のほかには、父を知る者はいません」(マタイ11・27)。
御子の生涯と祈りと宣教は、「父の啓示」にほかなりません。その生涯は、父がイエスをご自分の愛する子と認める荘厳な宣言によって開かれ、いのちを父のみ手に委ねる、最も子らしい祈りによって閉じられます。そして生涯全体が、この父と子の関係を表しています。「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」。ペトロがイエスを「生ける神の子」と告白したとき、キリストは言われます。「シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに示したのは、血肉ではなく、天におられるわたしの父だからです」(マタイ16・17)。同じようにパウロも、ダマスコへ向かう道での回心について、こう述べます。「母の胎内にいるときからわたしを選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御子を異邦人に告げ知らせるために、わたしの内に御子を示そうとなさったとき……」(ガラテヤ1・15―16)。「そして、すぐに諸会堂で、イエスこそ神の子であると宣べ伝え始めた」(使徒言行録9・20)。イエスは最高法院の前で、ご自身が神の子であることを荘厳に宣言されます。12 それ以前にも、ほかの機会にご自身をそのように示しておられました。13 父は、洗礼と変容のとき、イエスをご自分の「愛する子」と宣言されます(マタイ3・17、17・5)。使徒たちは、こう告白することができます。「わたしたちはその栄光を見た。それは、恵みと真理に満ちた、父の独り子としての栄光であった」(ヨハネ1・14)。14
福音書で、イエスがご自身の内面を親しく打ち明けられることは、そう多くありません。イエスが祈りのために退かれたと語られていても、祈りの内容は伝えられないことがあります。しかし、マタイ11・25―27とルカ10・21―22は、イエスが聖霊の実りとして、内側からあふれ出る喜びに満たされたことを伝えています。そのときイエスは、喜びを隠しておくことができず、声を上げ、ご自身の内奥をあふれ出させます。ご自分の意識の最も深いところ、最も高いところ、存在と使命の核心を知らせてくださるのです。それは、父なる神の子であるということです。
ルカの幼年物語は、すでに、12歳のイエスが神殿におられた出来事で結ばれています。「両親は毎年、過越祭にはエルサレムへ行った。イエスが12歳になられたときも、祭りの慣習に従って、上って行った」(ルカ2・41―42)。最後には、「両親とともにナザレに下って行かれた」(51節)とあります。上ってから下るまでの間に、イエスの啓示が行われます。神殿で聞く人々(47節)も両親(48節)も驚きに満たされますが、両親は「イエスのことばの意味が分からなかった」(50節)のです。15 この啓示は、「なぜわたしを捜したのですか。わたしが父のことにかかわっていなければならないと、ご存じなかったのですか」(49節)ということばに要約されます。これは、福音書が伝えるイエスの最初のことばです。初めからイエスは、生涯の根本となる「わたしの父」ということばを口にし、ご自身の存在と使命の神秘を示されます。
その最初のことばは、永遠に御子を生み、マリアの胎に人とならせるために遣わされた父に向けられています。そして最後のことばも、天の父に向けられます。「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」(ルカ23・46)。復活の後も、最後のことばは父についてです。「わたしの父が約束された霊を、あなたがたに送ります」(ルカ24・49)。
しかしイエスは、ご自身が神を父と呼ぶだけでなく、神が人々にとっても父であることを明かされます。イエスは絶えず、父について語られます。「敵を愛しなさい……悪人にも善人にも太陽を昇らせてくださる、天のあなたがたの父の子らとなるためです」(マタイ5・44―45)。「天のあなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)。「自分の義を人に見てもらおうとして行わないように注意しなさい。そうしなければ、天のあなたがたの父から報いを受けることはありません……施しをするときも……祈るときも……断食するときも……隠れて行いなさい。隠れたことを見ておられるあなたの父が、報いてくださいます」。16
ここに、新約聖書の大いなる新しさがあります。神は、わたしたちの主イエス・キリストの父、そしてキリストを信じるすべての人の父として、ご自身を啓示されます。したがって父ということばは、神が人と宇宙の創造者、主であるという事実を指すのではありません。独り子イエス・キリストをお生みになったという事実を指します。そのキリストは、長子として、すべての弟子たちの兄弟です。父は選ばれたすべての人を、「前もって知り、御子の姿を映す者となるように、あらかじめ定められました。それは御子が、多くの兄弟の中で長子となられるためです」(ローマ8・28―30)。
人となられた御子の生涯は、御子ご自身の永遠のいのちが肉を取ったものです。子としてのいのちが、救いをもたらす従順となったものです。同じように、地上におけるその祈りも、永遠の祈りが肉を取り、人の唇で形を与えられ、ときにはうめきをもって表されたものにほかなりません。それは、初めから存在していた方の受肉です。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。その生涯の終わりについては、「イエスは、この世から父のもとへ移る時が来たことを知っておられた」(ヨハネ13・1)と記されています。「わたしは父のもとから出て、世に来ました。今、世を去って、父のもとへ行きます」(ヨハネ16・28)。また、マリアにはこう託されます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、告げなさい。わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方のもとへ上る、と」(ヨハネ20・17)。
地上における御子の祈りは、御子と父との永遠の、子としての交わりが肉を取ったものです。ヨルダンでの洗礼の後も、変容のときも、父は語るたびに、イエスをご自分の子として公に証しされます。「これはわたしの愛する子」。イエスは父のみ手に霊を委ねられ、父はイエスを死者の中から復活させ、その特別な子としてのあり方を宣言されます。「あなたはわたしの子。今日、わたしはあなたを生んだ」(使徒言行録13・33)。キリストの復活は、その子としてのあり方が現されることであり、その肉体もこれにあずかります。「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって、力ある神の子と定められた方」(ローマ1・4)。聖ヨハネは、イエスについての父の証しを聞き、信じるようにと、わたしたちを招きます。「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにもまさります。神の証しとは、御子についてなさった証しだからです」(一ヨハネ5・9―10)。
おとめの子となられた神の御子は、人としての心をもって祈ることを学ばれました。全能の神の驚くべきわざをすべて心に留め、思い巡らしていた母から、学ばれたのです(ルカ1・49、2・19、51)。ナザレの会堂や神殿で、民の祈りのことばと、その時々のリズムを学ばれました。しかし、その祈りは、別の、秘められた泉から湧き出ています。12歳のときに、「わたしは父のことにかかわっていなければなりません」(ルカ2・49)と、その泉をかいま見せられました。ここに、時が満ちたときの祈りの新しさが現れ始めます。父が子らに待ち望んでおられた子としての祈りを、ついに独り子ご自身が、人間として、人々とともに、人々のために生きられるのです(CEC 2599)。
わたしたちに伝えられているイエスの祈りは、すべて「父よ」という呼びかけで始まります。17 福音記者たちは、「わたしの父」18 と「あなたがたの父」19 という表現によって、イエスの神に対する子としての関係と、弟子たちのそれとを区別しています。イエスと弟子たちを一緒に指して、「わたしたちの父」という表現を用いることはありません。イエスは、ご自身が特別な仕方で神の子であると自覚しておられます。常に、唯一の御子として語られます。それゆえ、「子がどのような者であるかは、父のほかに知る者はいません。また、父がどのような方であるかは、子と、子が示そうと思う人のほかには、知る者はいません」(ルカ10・22)と言えるのです。20
イエスに固有で、ほかの誰にもないこの神の子としてのあり方から、「わたしの父」という表現や、「父よ」という呼びかけが、自然にその唇から生まれます。歓喜に満ちた賛美(ルカ10・21)でも、信頼に満ちた願い(ルカ22・42、23・34、46)でも、イエスは絶えずそうして神に向かわれます。「御子」と「父」の、このまったく特別な関係は、福音書がイエスの幼少期・少年期から伝える唯一の発言を照らしています。「わたしがわたしの父のことにかかわっていなければならないと、ご存じなかったのですか」(ルカ2・49)。父を知り、父に従い、父を愛することが、父の啓示である御子の生涯全体を満たしています。開かれたラザロの墓の前で、イエスは目を天に上げ、こう言うことができます。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださったことを感謝します。いつも聞いてくださることは、分かっていました。ただ、周りにいるこの人々のために言ったのです。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるためです」(ヨハネ11・41―42)。
弟子たちは、イエスの唇からアッバということばが出るのに驚きました。しかし、それ以上に驚いたのは、自分たちにもそのことばで神を呼び求めるよう教えられたことでした。福音全体を通してイエスは、神が彼らの父であること、ご自身を信じる者は神の子であり、ご自身と同じように「アッバ、父よ」と呼べることを明かされます。テルトゥリアヌスはこう述べています。
この呼びかけによって、わたしたちは神に祈るとともに、自分の信仰を告白します。「信じた人々には、神の子と呼ばれる力を与えた」(ヨハネ1・12)と書かれています。「父なる神」という呼び名は、かつて誰にも啓示されていませんでした。モーセが神に、あなたはどなたですかと尋ねたとき、聞いたのは別の名でした。わたしたちには、この名が御子において啓示されました。御子という名は、父という新しい名を含んでいるからです。
驚くべきことは、イエスが弟子たちに、「祈るときには、『父よ』と言いなさい」(ルカ11・2)と語られることです。このように祈れるのは、あらかじめ、何らかの仕方でイエスの神の子としてのあり方にあずかった人々です。御子との命の交わりに入った人々だけが、その父に、同じ呼びかけで向かうことができます。そのためにイエスは、ご自身を満たしていた聖霊(ルカ4・1)を賜物として与えてくださいます。この霊は、聖霊降臨の日に弟子たちの上に注がれ(使徒言行録2・1―4、33)、その後、みことばの告知を受け入れた人々の上に注がれたように(9・17―18、10・44―48)、洗礼においてキリスト者に注がれます。21 「神の御子の霊」(ガラテヤ4・6、ローマ8・15)が、神の子としてのあり方にあずからせてくださるので、御子と同じ「父よ」という呼びかけで神に向かうことができるのです。22
パウロは回心するとすぐに、イエスは神の子であると宣べ伝え始めました(使徒言行録9・20)。手紙のあいさつでも、「わたしたちの主イエス・キリストの父」を繰り返し思い起こさせます。23 ペトロも、「わたしたちの主イエス・キリストの神であり父」を思い起こさせます(一ペトロ1・3)。キリストは父を啓示することによって、父とのご自身の子としての関わりの中に、わたしたちを迎え入れてくださいます。パウロは、倦むことなく神を「わたしたちの父」と呼びます。24
しかし、神がキリスト者にとって父であることについて、最も豊かに語ってくれるのは、愛された弟子、聖ヨハネです。25 洗礼はキリスト者を、父と子との交わりに導き入れます。「わたしたちが見、聞いたことを、あなたがたにも告げ知らせます。それは、あなたがたも、わたしたちとの交わりに入るためです。わたしたちの交わりは、父と、その御子イエス・キリストとの交わりです」(一ヨハネ3・1―3)。父と子とのこの交わりは、キリスト者が神の子であることにほかなりません。「わたしたちが神の子と呼ばれるために、父がどれほどの愛を与えてくださったか、考えなさい。わたしたちは、まさしく神の子なのです。愛する皆さん、今、わたしたちは神の子です。将来どのようになるかは、まだ明らかにされていません。しかし、その方が現れるとき、わたしたちはその方に似た者となることを知っています。その方をありのままに見るからです」(一ヨハネ3・1―3)。
d 御子において子とされる
イエスは、父から人々へと遣わされた方です。モーセが遣わされ(出エジプト記3・10)、預言者たちが遣わされ、26 洗礼者ヨハネが遣わされた(ヨハネ1・6―7)後、「時が満ちると、神は御子を遣わされました」(ガラテヤ4・4)。次々と遣わされた者たちが受け入れられなかった後、父には「まだ一人、愛する息子がいた。最後に、その息子を遣わした」のです(マルコ12・2―6)。言い換えれば、「神はかつて、預言者たちを通して、さまざまな時に、さまざまな仕方で、先祖たちに語られました。この終わりの時代には、御子を通して語られました」(ヘブライ1・1―2)。
神は御子を示すことによって、イエス・キリストの父としてご自身を啓示されます。神が父であることは、独り子との関係によってのみ定まります。人が神を父――「あなたがたの父」――と呼べるのは、イエスと父との唯一無二の関係――「わたしの父」――にあずかるかぎりにおいてです(ヨハネ20・17)。「あなたがたが神の子である証拠に、神は、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださいました」(ガラテヤ4・6)。
わたしたちが神を父として知るのは、イエスが啓示してくださるからです。これがヨハネ福音書の中心主題です。それだけでなく、栄光を受けられたイエスは、ご自身の霊を送り、わたしたちのうちに注ぎ込んでくださいます。その霊は、わたしたちを神の本性にあずからせ、父なる神との人格的な関わりに入れるようにします。キリストと結ばれて、わたしたちは神を父と呼び求めます。クォドウルトデウスが言うように、神をわたしたちの父と呼ぶのは、わたしたちが御子の兄弟姉妹だからです。「キリスト者の祈りには、キリストのほかに道はありません。わたしたちの祈りが父に届くのは、イエスの『名によって』祈る場合だけです。したがってイエスは、聖霊がわたしたちに、父なる神へ祈ることを教えてくださる道です」。27
イエスが持っておられるものはすべて、父から受けたものです。そしてイエスは、父との交わりにわたしたちをあずからせてくださいます。父の内奥を知り、それを明かすことのできる方は、イエスだけです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のもとにおられる、独り子である神が、神を知らせてくださった」(ヨハネ1・18)。モーセは神を見たいと願いましたが、その背をかいま見ることしかできませんでした(出エジプト記33―34章)。父との親しい交わりに生きるイエスは、神の内奥を明かしてくださいます。ヨブと同じように、わたしたちは神について耳で聞いて知っています(ヨブ42・5―8)。今や、イエス・キリストにおいて、神を見、神に出会うことが許されます。神について耳で聞いて知ることは、大切で必要です。しかし、それだけでは十分ではありません。その知識から、父が子を知り、子が父を知る、その知り合う関係を体験することへと踏み出す必要があります。この啓示を通して初めて、わたしたちは御子の兄弟姉妹となり、神の子となります。耳で聞いて知っていた神から、ヨブの「今、この目であなたを見ました」という告白へと進むのです。
キリストについて述べてきたことはすべて、キリスト者にも当てはめることができます。キリスト者であるとは、御子に似ること、子であることです。「わたしたちが神の子と呼ばれるために、父がどれほどの愛を与えてくださったか、考えなさい。わたしたちは、まさしく神の子なのです」(一ヨハネ3・1)。神の御子は、わたしたちを神の子とするために遣わされました。実際、「時が満ちると、神は、女から生まれ、律法の下に生まれた御子を遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い、御子を通して、わたしたちを神の子として迎えるためでした」(ガラテヤ4・1―5)。
わたしたちが受けたのは、再び恐れに陥らせる、奴隷の霊ではありません。神の子とする霊を受けたのです。その霊によって、わたしたちは「アッバ、父よ」と叫びます。この霊ご自身が、わたしたちの霊とともに、わたしたちが神の子であることを証ししてくださいます。子であれば、相続人でもあります。神の相続人、キリストと共同の相続人です。
ローマ8・15―17
これこそ、福音の驚くべきところです。イエスは、ご自身と同じ信頼をもって神に接するよう、弟子たちを招かれます。神はイエスの父であるだけでなく、イエスの弟子たちの父でもあります。「あなたがたの父です」と、イエスは言われます。28 これは、旧約聖書にすでに見られたように、神が「父らしく」振る舞われるから、というだけではありません。そこには新しい意味があります。イエスに従い、弟子となり、そのことばを聞いて心に受け入れる人は皆、イエスと同じように、神を父と呼べるのです。
イエスは、かつてないほどの信頼をもって神に語りかけられます。そして弟子たちにも、同じ親しさをもって語りかけるよう教えられます。神を幾度となく父親になぞらえ、全面的に信頼するよう励まされます。29 アッバ。イエスが父との交わりに用いられたことばは、神を呼び求めるために、わたしたちに残してくださったことばです。アッバは、幼い子どもが父に呼びかけることばです。イエス・キリスト以前には誰も、これほど家庭的で、信頼の染み込んだことばによって、神を呼ぼうとはしませんでした。『カトリック教会のカテキズム』には、次のように記されています。
わたしたちが神を父と呼び求めることができるのは、人となられた御子によって、父が啓示され、御子の霊が父を知らせてくださるからです。イエスがキリストであり、わたしたちが神から生まれたことを信じる者に、御子の霊は、その子としての関わりを分かち与えてくださいます(一ヨハネ5・1、CEC 2780)。父に祈るとき、わたしたちは父と、その御子イエス・キリストとの交わりにあります(一ヨハネ1・3、CEC 2781)。わたしたちが父を礼拝できるのは、父が独り子においてわたしたちをご自分の子として迎え、そのいのちへ新たに生まれさせてくださったからです。父は洗礼によって、わたしたちをキリストのからだに組み入れ、頭から各部分へと注がれる霊の塗油によって、わたしたちを「キリスト」、すなわち油注がれた者としてくださいます(CEC 2782)。
神がわたしたちの父であるのは、わたしたちを造られたからではなく、「神の本性にあずかる者としてくださった」(二ペトロ1・4)からです。神の子らは、「血によってでも、肉の欲によってでも、人の意志によってでもなく、神によって生まれた」(ヨハネ1・13)のです。「父」と言うとき、漠然とした、善良で力強い父性を指しているのではありません。「わたしたちの主イエス・キリストの父」という、きわめて明確な方を指しています。キリストが神を父と呼び求めるよう勧められるのは、ご自分と同じ父との交わりへ招いておられるのです。聖キプリアヌスは、この呼びかけをこう解説します。
イエスは、「このように祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ」と言われました。新しい人、恵みによって新たに生まれ、神に立ち帰った人が、まず口にするのは「父」です。すでにその子となり始めているからです。「自分の民のもとに来たが、民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、その名を信じる人々には、神の子となる力を与えた」(ヨハネ1・11―12)と書かれています。その名を信じ、それによって神の子となった人は、まず感謝し、自分が神の子であることを告白すべきです。
自分の父は天におられる神であると言うとき、その人は、洗礼の後に初めて口にすることばの一つによって、地上の父から離れ、ただ一人の父、天におられる父を知り、その父を持ち始めたことを証しします。「父母に『わたしはあなたを知りません』と言い、兄弟を認めない。彼らはあなたのことばを守り、あなたの契約を保った」(申命記33・9)と書かれているとおりです。主ご自身も福音の中で、地上の誰をもわたしたちの父と呼ばないよう命じておられます。わたしたちの父は、天におられる方おひとりだからです(マタイ23・9)。また、父が死んだことを申し出た弟子には、「死んだ者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(マタイ8・22)と答えられました。その人は父が死んだと言いましたが、信じる者には、永遠に生きておられる父がいるのです。
イエスは、ご自身と同じ親しさをもって父に接することを弟子たちに許し、そうするよう招かれます。弟子たちが呼び求める父は、イエスが絶えず「わたしの父」「天におられるわたしの父」と呼ばれる、その同じ方です。マタイ福音書だけでも、イエスは26回、そのように呼んでおられます。聖霊によって宿られたイエスは(1・18、20)、神の子、30 愛された子であり(3・17、17・5)、父からすべてを任された方です(11・27)。父は御子を通して、小さな「弟子たち」にみ国の神秘を示されます(11・25、13・11)。同じように、イエスがキリスト、生ける神の子であることを、ペトロにも啓示されます。人の子として、イエスは父の栄光に包まれて来られるのです(16・27)。
父と子との関わりは、みことばを通してわたしたちに伝えられます。父は、洗礼と変容のとき、御子を示されます。その証しにおいて、イエスがご自分の子であると宣言されることによって、神は父としてご自身を啓示されます。ペトロが「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白したときも、イエスは、「このことをあなたに示したのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」(マタイ16・16―17)と、その告白を確証されます。この証しを受け入れると、キリスト者には、自分の真のあり方が照らし出されます。「受け入れた人々には、神の子となる力を与えた」(ヨハネ1・12)。
父は御子を知らせることによって、わたしたちをご自分のもとへ引き寄せられます。父が引き寄せてくださらなければ、誰も御子のもとへ行くことができないからです(ヨハネ6・44)。そして、父に引かれてキリストへと近づいたわたしたちを、御子は子らとして父に引き合わせてくださいます。「わたしを見る者は、父を見ます」(ヨハネ14・9)。イエスが父のうちにおられ、父がイエスのうちにおられると信じる人は、キリストを見ることによって父を見ます。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。わたしを見た者は、父を見たのです。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられることを信じなさい」(ヨハネ14・7―10)。
父と子との関わりのこの神秘へ、わたしたちを導き入れるのは聖霊です。神の深みを知り、それを知らせてくださるのは、聖霊だけだからです(一コリント2・10―16)。父による御子の啓示も、御子による父の啓示も、わたしたちの霊と交わる聖霊の働きです。聖霊は、神が父であること、神の子であることを内側から知り、御子とわたしたちとの兄弟姉妹の関係も、父に対してわたしたちが子であることも知っておられます。そして、それをわたしたちの霊のうちに現し、啓示してくださいます。「霊は、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊に証ししてくださいます」。霊はわたしたちの霊に語りかけ、神の子であることを確かにしてくださいます(ローマ8・14―17)。聖霊の使命は、父を見いださせ、子として父に身を委ねる生活へと、わたしたちを駆り立てることです。聖霊はキリスト者に孝愛の賜物を注ぎ、「アッバ」と、たどたどしく口にすることを教えてくださいます。
わたしたちは、子としてキリスト者になり始めます。子であることを受けるとは、存在そのものを受けることです。わたしたちの自由の最も深い根は、神の子であることにあります(ガラテヤ4・4―7)。子であるわたしたちの相続財産は、父である神の愛を、永遠に喜び味わうことです。神の子というこの身分によって、わたしたちは、自分たちが子であることの完全な現れを待ち望みながら生きます(ローマ8・24)。
しかし、すでに今も、わたしたちは幼い子のように、ことばにならない声でうめきます。聖霊は、その弱さを助けてくださいます。わたしたちとは異なり、何を、どのように願えばよいかをご存じだからです。父なる神は、わたしたちの内奥をご存じです。必要を理解し、聖霊の声に耳を傾けてくださいます。こうしてわたしたちは、「霊と真理のうちに」(ヨハネ4・23)祈ります。「霊は、わたしたちの弱さを助けてくださいます。わたしたちは、どのように祈るべきか知りませんが、霊ご自身が、ことばに表せないうめきをもって執り成してくださるのです」(ローマ8・26―27)。
聖アウグスティヌスは、主の祈りについての多くの解説の中で、次のように説明しています。旧約聖書は、神がイスラエルの父であることを証ししていますが(イザヤ1・2、詩編81・6、マラキ1・6)、どこにも、神を父と呼んで祈るようにとの命令はありません。それはむしろ、神の新しい民に取っておかれた尊厳です。この民に属する人々は、みことばへの信仰によって、神の子となる力を神から受けます(ヨハネ1・12)。神の子とする霊を、無償で受け、「アッバ、父よ」と叫ぶのです(ローマ8・15)。
神の恵みの実りであるこの子としての身分を、まさに「わたしたちの父」と言うときに告白しています。こうして、願い求める心と、求めるものをいただけるという信頼を呼び覚まします。ご自分の子であることをすでに与えてくださった神が、願い求める子らに、何を拒まれるでしょうか。「わたしたちの父よという呼びかけは、唇の叫びではなく、心の叫びです。それはわたしたちの内に響き、神の耳に響きます」。洗礼を目前にした人々に、アウグスティヌスは、この呼びかけによって、
あなたがたは、神を父として持ち始めたことが分かります。しかし、本当に父を持つのは、生まれたときです。生まれる前から、すでに神の種によって宿されていますが、教会の胎である洗礼盤において、生み出されなければなりません。ですから、天に父がおられることを覚えていなさい。あなたがたは父アダムから、死へと生まれました。今、父なる神から生まれ、いのちへと新たに生まれるのです。口で言うことを、心に保ちなさい。
と語っています。
e わたしたちの父
誰が主の祈りを唱えることができるのでしょうか。確かにそれは、キリストが「祈るとき、あなたがたは、『わたしたちの父よ』と言いなさい」と語りかけられる人々です。この「あなたがた」とは、キリストの弟子たちです。初めからそうでした。初代教会は、洗礼を受ける前の洗礼志願者が主の祈りを唱えることを認めませんでした。「まだ生まれていない者が、どうして『わたしたちの父よ』と言えるでしょうか」と、聖アウグスティヌスは述べています。そのため、これは「信者の祈り」と呼ばれます。
聖キプリアヌスは語ります。「わたしたちの父」、すなわち信じる者たちの父です。神によって聖とされ、恵みによる新しい誕生によって新たに生まれ、神の子となり始めた者たちの父なのです。「イエスがキリストであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(一ヨハネ5・1)。信じず、キリストを拒む者は、神を父と呼ぶことができません。主はその人々に言われます。「あなたがたは悪魔を父とし、その父の欲望を行おうとしている。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていなかった。その内には真理がないからだ」(ヨハネ8・44)。罪にある民は、神の子であることができません。子であるのは、罪をゆるされた人々だけです。その人々が子と呼ばれ、永遠のいのちを約束されます。主ご自身が言われます。「罪を犯す者は奴隷である。奴隷はいつまでも家にいるわけではない。しかし子は、いつまでもそこにいる」(ヨハネ8・34―35)。
キリスト者の唇にある「父」は、みことばへの信仰と洗礼によって(ヨハネ3・5―8)、神から子として生まれた人々の、子としての身分を表します。31 「わたしたちは神の子と呼ばれ、事実、神の子です」(一ヨハネ3・1)。だからこそ、ふさわしく神を父と呼び求めます。聖アウグスティヌスが解説するように、神の独り子は、兄弟姉妹を持つこと、ご自分と同じ父を、わたしたちも父と呼ぶことを望まれました。こうして無数の人々が、神の独り子とともに、「天におられるわたしたちの父よ」と言うのです。洗礼によって母なる教会の中に生まれるとき、人は父なる神を知り、父として呼び求めます。
わたしたちの最初の両親は、アダムとエバでした。彼が父、彼女が母です。ですから、わたしたちは兄弟姉妹です。しかし、最初の起源をひとまず脇に置けば、今は神が父、教会が母です。ですから、わたしたちは兄弟姉妹なのです……神の独り子でありながら、御子は一人きりでいることを望まれませんでした。唯一の御子ですが、子であることを一人で保つことを望まず、その善によって兄弟姉妹を持つことを望まれました。ご自分と同じ父を、わたしたちが「わたしたちの父」と呼ぶことを望まれたのです。わたしたちをねたむことなく、ご自身の相続財産を、わたしたちと分かち合うことを望まれました。
弟子たちはともに、愛する子らに必要なことをすべて、すでに知っておられる天の父を呼び求めます。彼らを一つに結ぶイエスの招きが、彼らを兄弟姉妹としました。イエスにおいて、父の慈しみを知ったのです。神の御子の名において、彼らは神を父と呼ぶことが許されています。彼らは地上におり、その父は天におられます。父は彼らに目を向け、彼らは父に目を上げます。アウグスティヌスは、さらに述べます。
わたしたちには父と母がいて、苦労と死へと向かういのちを与えてくれました。しかし今、別の父母を見いだしました。父なる神と、母である教会を見いだしたのです。この父母から、永遠のいのちへ生まれるためです。
神を父という名で呼ぶことは、教会を母として受け入れることです。教会は父と子と聖霊において、すなわち洗礼において形づくられ、成立するからです。聖キプリアヌスはこう言います。
二人の人間が兄弟であるのは、同じ父の子だからです。反対に、二人のキリスト者が同じ父の子であるのは、まず兄弟であるから、キリストの兄弟であるからです。そしてキリストにおいて、わたしたちは父に近づきます。神を父と呼ぶには、神の子らの共同体、「わたしたちの父よ」と神に祈る人々の共同体に属する必要があります。教会を母としない人は、神を父とすることができません。隣人を兄弟姉妹としない人は、神を父とすることができません。
ですから、平和を教え、一致を導く主は、わたしたちが個別に、私的に、つまり自分自身のためだけに祈ることを望まれません。「天におられるわたしの父よ」とは言いません。まして、「わたしに今日、日ごとの糧をお与えください」とは言いません。自分の負い目だけをゆるしてほしいと願う者も、自分だけが誘惑に陥らず、悪から解放されることを求める者もいません。わたしたちの祈りは公の祈り、共同の祈りです。祈るときには、一人ひとりのためだけでなく、民全体のために祈ります。民全体が一つだからです。
平和の神、和合の師であり、一致を宣べ伝えられた方は、ご自身が一人であって、すべての人をご自身の内に担われたように、一人がすべての人のために祈ることを望まれました。燃える炉の中の三人の若者も、このように、祈りを一つにし、心を合わせて祈りました。「三人は、一つの口をもって賛歌を歌い、主をほめたたえた」(ダニエル3・51)。一つの口のように語ったのです。だからこそ、その祈りは大きな力を持ち、恵みをもたらしました。
主が天に昇られた後、キリストの使徒たちと弟子たちも、このように祈りました。聖書は述べています。「彼らは皆、幾人かの婦人たち、イエスの母マリア、またイエスの兄弟たちとともに、心を合わせ、ひたすら祈り続けていた」(使徒言行録1・14)。彼らは心を一つにして祈り続け、祈りにおける忍耐と和合を、ともに証ししていました。神が、ご自分の永遠の、神聖な住まいに迎え入れるのは、祈りを一つにする人々だけだからです。
わたしたちが神の子であることは、御子によって与えられます。それは、御子ご自身の子としてのあり方にあずかることです。わたしたちは御子において、神の子です。アレクサンドリアの聖キュリロスは、聖霊において御子にあずかる恵みによって、神の似姿が魂に刻まれると語ります。新たに生まれたとき、わたしたちは御子に似た者とされました。つまり、ことばでは言い表せない仕方で、わたしたちの内にキリストが形づくられるのです。したがって、わたしたちはもはや「よそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ国の民、神の家族です」(エフェソ2・19)。神と同じ本性にあずかるからです(二ペトロ1・4)。このことから、すべての人が神の子であるわけではないことも明らかになります。モプスエスティアのテオドロスには、次のようにあります。
父なる神については、二つのことを認める必要があります。父であることと、創造者であることです。父だから創造者なのでも、創造者だから父なのでもありません。父である相手の創造者なのではなく、創造者である相手の父なのでもないからです。神が父であるのは、ただ、まことの子、「父のふところにおられる独り子」(ヨハネ1・18)に対してだけです。一方、神は、ご自身の意志に従って創造され、存在するようになったすべてのものの創造者です。御子がご自身と同じ本性であるがゆえに、神は御子の父です。被造物については、無から造られたがゆえに、その創造者です。
また人々が神を父と呼ぶのは、造られたからではなく、神に近づけられ、家族の者とされたからです。したがって、すべての人が神を父と呼ぶのではなく、その家に属する者たちが呼ぶのです。「わたしは子らを育て、造った」(イザヤ1・2)と書かれています。神は、恵みによってご自分に近づけた人々に、そのように呼ばれることを許されました。32
聖ヒラリオも同じように語ります。
神の霊に導かれる人は皆、神の子です(ローマ8・14)……これは、新たな誕生の秘跡によって信じるわたしたちに与えられる名です。信仰告白が、わたしたちに神の子としての身分を与えるなら、神の霊に従ってなされる行いは、わたしたちが神の子であることを示します……わたしたちも、神の子とされたことによって、本当に神の子なのです。「怒りの子ら」(エフェソ2章)から、子とする霊によって神の子とされました。この名は、生まれながらの権利ではなく、恵みによって得たものです。何かにされたものは、そうされる前には、そうではありませんでした。わたしたちも同じです。子ではなかったのに、今ある姿へと造り変えられました。それまでは子でなく、恵みによってこの名を得てから、子となったのです。生まれながらの子ではなく、子とされたのです。 生み出されたのではなく、迎えられたのです。したがって父は神に固有の名であり、神の独り子イエス・キリストの霊が与えられることによって、わたしたちが置かれた新しい関わりを表しています。
こうして、キリスト者が神の子であることは、イエスの兄弟姉妹であることと結びついています。このようにして、独り子は長子となられます。「神は、前もって知っておられた人々を、御子の姿を映す者とするよう、あらかじめお定めになりました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」(ローマ8・29)。神の子であるなら、わたしたちは兄弟姉妹です。そして、兄弟姉妹として生きることによって、イエス・キリストとともに父へと上って行きます。隣人において神を愛し、神において隣人を愛します。「愛する皆さん、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛さない者は、神を知りません。神は愛だからです……神がこのようにわたしたちを愛されたのなら、わたしたちも互いに愛し合うべきです。互いに愛し合うなら、神はわたしたちの内にとどまってくださいます」(一ヨハネ4・7―21)。
福音では(マルコ3・33)、神のみ旨を行い、イエスの口からそのことばを聞く人々は皆、イエスの「兄弟姉妹」であると言われます。この新しいイエスの家族の父は、神です。神を父と呼び求めることは、家族を生み、共同体を生み、教会を形づくります。神を父と呼ぶ人は、同じ名で呼ぶすべての人が、自分の兄弟姉妹であることを見いだしつつあるのです。33 ステラの福者イサアクは、こう述べています。
神の御子は、多くの兄弟の中で長子です。本性によっては独り子ですが、恵みによって多くの人をご自身と結び、一つとなるようにしてくださいました。ご自分を受け入れたすべての人に、神の子となる力を与えられたからです。ご自身が人の子となることによって、多くの人を神の子とされました。独り子である方は、愛と力によって、多くの人をご自身と結ばれました。肉による誕生では多くの者である彼らも、神による新たな誕生では、御子と一つです。
キリストは一つ、頭とからだから成る、全体としてのキリストです。天においてはただ一人の神から、地上においてはただ一人の母から生まれた、一つのキリストです。多くの子であり、一人の子です。頭と各部分が、一人の子であると同時に多くの子であるように、マリアと教会も、一人の母であると同時に多くの母、一人のおとめであると同時に多くのおとめなのです。
誰が、「天におられる父」の子となれるのでしょうか。キリストにおいて新たに生まれた人だけです。聖キュリロスは秘義教話の中で、この呼びかけには、「ご自分の恵みにあずからせ、悪をゆるしてくださった人々からさえ父と呼ばれることを望まれる、神の人間に対するこの上なく大きな愛」が映し出されていると言います。アレクサンドリアの聖キュリロスによれば、神を「わたしたちの父」と呼べるのは、計り知れない賜物です。わたしたちは神から「その子となる力」(ヨハネ1・12)を受けました。神が「ご自分の意志によって、真理のことばで生んでくださり」(ヤコブ1・18)、「水と霊から」(ヨハネ3・5)生まれたからです。こうして皆が兄弟姉妹であるゆえに、あえて神を父と呼ぶのです。
f 天におられる父
父と呼び求める神の身近さ、親しさは、神のいと高き尊厳を否定しません。わたしたちの父は、あらゆる栄誉をおささげすべき、天の神です。父は同時に王であり、祈る者は、その聖性、王としての支配、み旨を願います。マタイに従って「天におられるわたしたちの父よ」と神を呼ぶとき、わたしたちは、神が父であることを、地上のすべての父親が父であることから区別しています。イエスが「お父さん」と呼ぶよう招かれるのは、天におられる、この神なのです。
近くにおられ、しかも超えておられる方。「まことに、あなたはご自身を隠される神、イスラエルの神、救い主です」(イザヤ45・15)。隠れておられても、近くにおられます。天におられても、地上におけるわたしたちの父です。地上に生きるキリスト者にとって、唯一の父なのです。「地上の誰をも、あなたがたの父と呼んではならない。あなたがたの父は、天におられる方おひとりだからです」(マタイ22・9)。カッシアヌスが『談話集』の一つで述べるように、宇宙の神、主は、わたしたちの父です。その父は、この異郷の住まいではなく、わたしたちが望むべき天の国に住んでおられます。
神は「近づくことのできない光の中に住まわれ」ますが、「人の子らとともにいることを喜び」とされます。神はヤーウェ、そこにおられる方、インマヌエル、「わたしたちとともにおられる神」です。詩編作者は歌います。「天に上っても、あなたはそこにおられます。陰府に下っても、そこにおられます。曙の翼を取り、海の果てに住んでも、そこでもみ手がわたしに届き、右のみ手がわたしを捕らえます」(詩編139・8―10)。しかしヨブは、同時にこう言えます。「東へ行っても、おられず、西へ行っても、見つからない。北に求めても、姿を現されず、南へ向かっても、見ることができない」(ヨブ23・8―9)。
わたしたちが父と呼び求める神は、天におられる神です。キリストの小さな弟子たちの天使は、「天におられるわたしの父の顔を、いつも仰いでいます」(マタイ18・10)。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」(マタイ11・25)。最後の晩餐でイエスは、「父の国で弟子たちとともに、新たに飲むその日までは、このぶどうの実から造ったものを、決してもう飲まない」と告げられます(マタイ26・29)。「わたしの父のみ旨を行う者が、天の国に入ります」(マタイ7・21)。また、「その最も小さな兄弟の一人」(マタイ25・40)におられる御子に憐れみを示した人も入ります。それは、イエスの弟子たちのことです(マタイ28・10、18・1―14)。
この人々はイエスの兄弟姉妹です(マタイ12・48以下)。父は、御子の神の子としてのあり方に彼らをあずからせ、父と呼び求める大胆さを与えてくださったからです。イエスは決して「わたしたちの父」にご自身を含められませんが、それでも、ご自身の父とわたしたちの父として、同じ方について語られます。「主の父は、わたしたちの父」です。34
「神は天におられる」ということは、逆に、「神のおられるところに天がある」とも言えます。天とは、神のこの現存です。神秘的で、隠れてはいても、遠くはない現存です。神は隠れたところにおられますが、祈る者の心の奥を見ておられます(マタイ6・4、6、18)。神を知るとは、自分の生活の中におられる神を認めることです。イスラエルは、神を自分たちの神として認めたとき、神を知りました。それは、アウグスティヌスが『告白』の中で語る体験そのものです。「主よ、あなたはわたしの内におられたのに、わたしは外にいました。そして外に、あなたを探していました。あなたはわたしとともにおられたのに、わたしはあなたとともにいませんでした」。聖キプリアヌスは言います。「天上の似姿を帯び、神がその内に住まい、歩まれる人々もまた、天なのです(二コリント6・16)」。
「天は主の天、地は人の子らに与えられた」(詩編115・16)。祈るとは、神に心を上げることです。十字架の聖ヨハネは、具体的にこう言います。「望みの口を、天に向かって開かなければなりません」。モプスエスティアのテオドロスは、新受洗者にこう語ります。「わたしたちは『天におられる』と付け加えました。あなたがたが移された、上にあるいのちを、この地上で見つめるためです。子として迎えられる賜物を受けたあなたがたは、天の国の民とされたのです。神の子らにふさわしい住まいは、そこです」。聖アウグスティヌスは、「天におられるとは、聖なる人々、正しい人々のうちにおられるということです。神はその心に、聖なる神殿に住まわれるように住んでおられます」と言います。
聖テレジアのことばでは、こうなります。「神のおられるところに、天があります。神を探しに行くのに、翼は要りません。ただ独りになって、自分の内に神を見つめればよいのです。父に話すように話しかけ、父に願うように願ってください……わたしたちの魂という、この小さな天に、神はおられます」。また、エルサレムの聖キュリロスは、「天上の世界の似姿を帯び、神がその内に住まい、歩まれる人々もまた、天と言えるでしょう」と言います。35 だからこそ、『ディオグネトスへの手紙』にはこうあります。「キリスト者は肉のうちにありますが、肉に従って生きるのではありません。地上で日々を過ごしますが、天の国の民なのです」。
「天に住まわれるあなたに、わたしは目を上げます。僕らの目が主人の手に、はしための目が女主人の手に注がれるように、わたしたちの目は、わたしたちの神、主に注がれています。その憐れみを待ち望みながら」(詩編123編)。イエスはさらに、摂理をもって計らわれる父として、神は子らを父の心で世話されると語られます。その配慮は、空の鳥を養い、野の花を装われる配慮を、はるかに超えています(マタイ6・25、34)。
ですから、子らは父のふところで安らぐことができ、自分を傷つけたり殺したりしようとする者を恐れる必要はありません。一羽の小鳥を気遣われる父が、子らには、どれほど深く心を配ってくださることでしょう。頭の髪の毛さえ、一本残らず数えておられるのです(マタイ10・28―31)。父は特に、イエスの「最も小さな」弟子たちを、父の心で見守られます。「その一人も滅びないことが、父のみ旨」だからです(マタイ18・5―14)。天の父は、子らの地上の必要に無関心ではありません。子らは父を信頼し、不安をそのみ手に委ねることができます(マタイ6・25―34)。
福音のたとえ話は、第一に道徳的な意味を持つのではなく、神について語るものです。たとえば放蕩息子のたとえで語られるのは、息子よりも父なる神です。父にとっては、息子がすべてです。散り散りになった生活から息子が帰り、心の安らぎとぬくもりを見いだす温かな家へ戻るまで、いつも待ち続けています。そして、財産をすべて使い果たした、失われた息子を、家にとどまっていた兄から守られます。
イエスがたとえの中で示される父は、人を捜し、待ち、心を配り、招き、正し、罰し、愛する方です。人の小ささを気遣い、その苦しみを見守り、罪を越えてなお父であり続け、その人を待っておられる方です。しかし聖アンブロジオが新受洗者に語るように、「洗礼によって、無償の賜物によって、あなたを生んでくださった方」に「わたしたちの父よ」と言うことは、いつも「聖なる大胆さ」です。神は天におられるからです。すなわち、「罪がすでに終わったところ」におられるのです。
モプスエスティアのテオドロスは、主の祈りについての講話で、これをよくまとめています。神を父と呼べるのは、聖霊の恵みによって子として迎えられ、その霊によって「アッバ、父よ」と叫ぶ人々だけです(ローマ8・15)。こうして、復活によって不死とされた人々に固有の、自由な身分を受けます。したがって、それからは神の子として、霊に導かれて生き、天のいのちにふさわしい振る舞いを身に付けなければなりません。
わたしたちが「わたしたちの父」と呼ぶのは、一人の父のみ手の下で、兄弟姉妹として和合して生きる人々の、共通の父である方です。この父が天におられると言うことによって、わたしたちはここで、天のいのちを見つめるよう招かれます。それは、神の子であるがゆえに、天の国の民へと変えられた人々のために、備えられているいのちです。
g 子は、父の生きたイコン
イエス・キリストのわざはすべて、父の愛から始まります。いのちを分かち与える愛です。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が一人も滅びず、永遠のいのちを得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3・16―17)。この愛は、わたしたちのための御子の死において頂点に達します。「友のためにいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はありません」(ヨハネ15・13)。そして父は、敵である者たちのために、御子のいのちを与えてくださいます。
イエスは、わたしたちにご自分のいのちを伝えるために、最後の息を引き取られます。カイアファは、不思議な仕方でこのことを証ししています。「その年の大祭司であったカイアファは言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民のために死に、国民全体が滅びない方が、あなたがたにとって得策だと考えもしないのか』。これは、自分から言ったのではなく、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死ぬことを預言したのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためでもあった」(ヨハネ11・49―51)。またパウロは宣言します。「ご自分の御子さえ惜しまず、わたしたちすべてのために引き渡された方が、御子とともに、すべてのものを恵みとして与えてくださらないはずがあるでしょうか。誰がわたしたちを罪に定めるのでしょうか。死んだ方、いや、復活して神の右におられ、わたしたちのために執り成してくださるキリスト・イエスでしょうか」(ローマ8・31―32)。良い羊飼いであるイエスは、羊のためにいのちを与えられます。「父がわたしを愛してくださるのは、わたしがいのちを与えるからです」(ヨハネ10・17)。36
父は世を愛し、御子を引き渡されます。イエスはご自身を差し出すことによって、父に愛されます。良い子として、父から任されたことを行い、自ら進んでそれをなさいます(ヨハネ14・29―31)。心が騒ぐことを体験しても、イエスは父のみ旨の中に入ってゆかれます。「今、わたしの心は騒いでいます。何と言えばよいのでしょう。『父よ、この時からお救いください』と。しかし、わたしがこの時に至ったのは、そのためなのです。父よ、み名の栄光を現してください」(ヨハネ12・27―28)。「御子であられたにもかかわらず、苦しみを通して従順を学ばれました」(ヘブライ5・8)。
イエスは真実に、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10・30)と言うことができます。それゆえ、「わたしを見る者は、父を見ます」(ヨハネ14・9―10)。御子として、イエスは父なる神の像、イコンです(二コリント4・4、コロサイ1・15)。イエスにおいて、神は人間の顔を持つ神として、見える方となられます。イエス・キリストにおいて、神は最終的に、完全にご自身を現されました。そして御子において、聖霊によって、わたしたちは神が永遠の昔から父であることを知ります(ヨハネ1・1―3)。
神は永遠の昔から、ご自身を与え、伝える愛です。父は永遠に、ご自身のすべてを御子に伝えられます。父は御子との関わりに生き、ご自身を御子に与えられます。同じように御子も、父との関わりに生きられます。父から生まれ、愛をもって父に向き直られるからこそ、御子なのです。「父」は、常に他者、すなわち子との関係を表すことばです。「父と呼ばれるのは、ご自身に対してではなく、御子に対してです。ご自身においては、神です」と、聖アウグスティヌスは言います。他者に向かう存在としては父であり、ご自身においては、ただ神です。
「子」ということばにも、同じことが言えます。子であるのは、父との関係においてです。ここから、独り子キリストが全面的に父へ向かっておられることが分かります。「子は、自分からは何もできません」(ヨハネ5・19、30)。子であるがゆえに、ご自分の源である方に依り頼んで働かれます。このことは、キリストによって神の子とされた弟子たちにも当てはまります。「わたしを離れては、あなたがたは何もできません」(ヨハネ15・5)。したがって、キリスト者としての存在は、関わりにおいて理解されます。
子は皆、父の生きた似姿です。イエスは、子として父の完全さを生きるよう、わたしたちを招かれます(マタイ5・48)。キリスト者一人ひとりが、イエスと同じように、「わたしを見る者は、父を見ます」(ヨハネ14・8)と言えるようになるためです。だからパウロは語ります。「愛されている子らとして、神にならう者となりなさい。キリストがわたしたちを愛し、わたしたちのために、神への供え物、いけにえとしてご自身をささげられたように、愛のうちを歩みなさい」(エフェソ5・1―2)。「何よりも神を愛する」ことは、神の子らの第一のおきてです。しかし、もはや奴隷のように、従順ゆえに愛するのではありません。子にふさわしく、愛ゆえに従うのです。
父の生きたイコンとなるために、キリスト者は、目に見えない神の、目に見える似姿であるイエスが、父なる神との子としての関わりをどのように生きておられるかを見つめなければなりません。福音書が伝えるイエスの最初のことばは、神殿でイエスを見つけたマリアへの答えです。母は「あなたのお父さんとわたしは」と言います。イエスは別の父を指して、「なぜわたしを捜したのですか。わたしが父の家にいなければならないと、ご存じなかったのですか」(ルカ2・41―52)と答えられます。
イエスはヨセフとマリアに従っておられますが、使命においては、全面的に天の父に従っておられます。最初の公の行いは、ご自身を神の子と明かし、神がご自分の父であることを示すことです。この出来事は、未来を先取りしています。イエスが、最後の、過越の旅において、再び巡礼者としてエルサレムに上られるとき、律法の教師たちと厳しい論争をなさるとき、父の家を清められるとき、そしてこの世から、栄光のうちにある父の家へ旅立たれるときへと、つながっています。
イエスは、安息日にいやしを行い、何よりも神を「自分の父」と呼ぶという理由で迫害するユダヤ人たちと、向き合われます。「イエスが安息日にこのようなことをしたので、ユダヤ人たちはイエスを迫害した。しかしイエスは言われた。『わたしの父は今も働いておられる。だから、わたしも働く』。このため、ユダヤ人たちはますますイエスを殺そうとした。安息日を破るだけでなく、神を自分自身の父と呼び、自分を神と等しい者としていたからである」(ヨハネ5・16―18)。イエスとユダヤ人たちとの対立を引き起こすのは、父とのこの特別な関係です。
しかしイエスは言われます。「はっきり言っておきます。子は、自分からは何もできず、父がなさることを見て、行うだけです。父がなさることは何でも、子もそのとおりに行います。父は子を愛し、ご自分のなさることをすべて、子に示されるからです」(ヨハネ5・19―20)。イエスは、父の仕事を見習いとして見守り、そのわざを引き継ぐ子です。父から任される仕事を果たすために、父から学ばれます。父は子に何一つ隠さず、子は父がなさるのを見たとおりに行います。では、父が子に託す仕事とは何でしょうか。「父が死者を復活させ、いのちを与えられるように、子もまた、与えようと思う者にいのちを与える」(ヨハネ5・21)ことです。
イエスは、ご自分のいのちを与えることによって、父から任された仕事を果たされます。それは、受け取ろうとする人々に、永遠のいのちを与えることです。「わたしのことばを聞き、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、裁かれることなく、死からいのちへと移っています」(ヨハネ5・24)。御子として、「自分の意志ではなく、遣わされた方のみ旨を行うこと」(ヨハネ5・30)を求められるのです。
教父たちの教えが目指したのは、受洗者に、子としての身分を明かし、それにふさわしい生き方を教えることだけでした。「新しい人は、真に神を父と呼ぶことができます」と、聖キプリアヌスは語ります。御子における子として、信者は兄弟姉妹とともに、「わたしたちの父よ」と神に呼びかけることができます。しかし、子であるがゆえに、自分に閉じこもり、自分のためだけに生きることはできません。全面的に父へと開かれ、父から受けた使命へと開かれて生きます。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」。37
子として世に遣わされる人々は、父の愛を映す、唯一無二の「並外れた」愛の中に、父なる神を見えるものとします。世において、神のイコンとして生きているからです。聖レオ大教皇はこう述べています。
子どもたちの内に先祖の誉れが輝くのを見ることが、人間にとって称賛すべきことなら、神から生まれた人々にとって、創造者の似姿を映し、自分たちを生んだ方をその身に表して輝くことは、どれほど栄光あることでしょう。主が言われるとおりです。「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの善い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」(マタイ5・16)。
イエス・キリストのように、「血によってでも、肉の欲によってでも、人の意志によってでもなく、神によって生まれた」(ヨハネ1・12―13)人々は、みことばを受け入れ、「父のみ旨を行う」(マタイ12・48―50)ことによって、「イエスの兄弟姉妹」です。彼らは神の子として世に輝き、人々の間に父の愛を輝かせます。「わたしは言います。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためです。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます。自分を愛してくれる人を愛したからといって、何の報いがあるでしょうか。徴税人も、同じことをしているではありませんか。自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、何か特別なことをしたことになるでしょうか。異邦人も、同じことをしているではありませんか。だから、天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・44―48、ルカ6・27―36)。聖アンブロジオは、新受洗者にこう勧めます。
人よ、あなたは天に目を向けることもできず、地面を見つめていました。それなのに、一瞬のうちにキリストの恵みを受け、すべての罪をゆるされました。「悪い僕」(マタイ25・26)であったあなたが、良い子に変えられたのです。ですから、自分の行いではなく、キリストの恵みを信頼しなさい。「あなたがたは恵みによって救われたのです」(ガラテヤ2・5)。ここにあるのは思い上がりではなく、ただ信仰です。受けたものを誇ることは、高慢のしるしではなく、子としての愛のしるしです。ですから、洗礼によってあなたを生んでくださった父に(テトス3・5)、御子によってあなたを贖ってくださった父に、目を上げて言いなさい。「わたしたちの父よ」。
聖ペトロ・クリソロゴも、こう強調します。
自分が奴隷であるという自覚は、わたしたちを地の下に潜り込ませ、地に属する存在は塵となって崩れてしまうでしょう。もし父ご自身の権威と御子の霊が、「アッバ、父よ」(ローマ8・15)という叫びを上げるように、わたしたちを駆り立ててくださらないならば。死すべき者の弱さが、いつ、神を自分の父と呼ぶほど大胆になれるでしょうか。人間の内奥が、いと高きところからの力によって生かされるとき以外には、あり得ません。38
ニュッサの聖グレゴリオは、『主の祈りについて』の五つの説教の中で、「罪に支配されている者にとって、神は父ではあり得ない」と、信者たちに注意を促します。したがって、神を父と呼び求めることには、「自分の生活を清めたこと」が前提となります。放蕩息子のように「故郷」へ戻り、「神に従う生活を通して、天の父に似ること」(マタイ5・48)が必要です。ですから、「このことばをあえて口にするために、自分の内に神の子にふさわしいものがあるかどうか、吟味しなければなりません」。
思慮ある人なら、父に似ていないのに、父ということばを使おうとはしないでしょう。完全そのものである方が、罪に支配されている者たちの父であることはできません。自分の良心が悪徳で汚れていると気づき、自ら罪人と認めながら、先に過ちを清めずに神を父と呼ぶ者は、思い上がり、神を冒瀆する者です。神を自分の罪の父と呼ぶことになるからです。したがって、自分の生活を清める前に、この祈りを唱え、神を父と呼ぶことは危険です。
父の家を離れた若者の告白、「父よ、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました」(ルカ15・18)こそが、彼を父へと近づけました。父は走り寄り、彼を抱きしめ、口づけしました。こうして、彼は父の慈しみを体験したのです……キリストは、神を呼び求め、父と呼ぶことを教えられたとき、同時に、天の父に似るよう命じられました。「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)。
しかし、ねたみ、憎しみ、中傷、高慢、貪欲の特徴を帯びた人が、父を呼び求めるなら、どの父が聞くのでしょうか。当然、その人が似ている父です。その祈りは、悪魔への呼びかけなのです。そのような生活を捨て、善い生活を生きるようになって初めて、善である父を、そのことばで呼び求めることができます。ですから、神に近づく前に、自分の内に神の子にふさわしいものがあるかどうかを吟味しなければなりません。大胆な信頼をもって、「天におられるわたしたちの父よ」ということばを口にできるためです。
モプスエスティアのテオドロスも、新受洗者に同様のことを語ります。
何よりも、あなたがたは、自分が何者であったか、また神から受けた大きな賜物によって、何者となったかを知らなければなりません。あなたがたは、子として迎える賜物を与えてくださる聖霊の恵みを受けました。それによって、神を父と呼ぶ、子としての信頼を得たのです。「あなたがたは、再び奴隷と恐れの中に置く霊を受けたのではありません。子とする霊を受け、その霊によって神を父と呼ぶのです」(ローマ8・15)。
これからは、上にあるエルサレムで務めを持ち、この自由な身分を受けて、すでに今から天に生きています。しかし、霊を受けた者は、それからは霊によって生き、霊に自らを合わせ、霊に導かれる人々の尊い位に、まったくふさわしい良心を持つべきです。あらゆる罪を避け、天のいのちにふさわしい行いに従って生きるべきなのです。
わたしたちが神を父と呼ぶのは、「もはや僕ではなく、神から生まれた子」(ヨハネ1・12―13)だからです。だからこそ、その霊によって「アッバ、父よ」と呼び求め(ガラテヤ4・6)、それにふさわしく「神の子として」歩むことができます。アクイレイアの聖クロマティウスは、この「自由を表す呼びかけ」によって、「神の子、キリストの兄弟姉妹であり得るような生き方へ、わたしたちは招かれています」と解説します。
イエスが招かれるのは、この完全さです。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためです。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます……だから、天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・44―48)。この愛によって、子らは、高く掲げられた光のように、人々の前で父の栄光を現します(マタイ5・13―16)。ほかの人々は、子らの内に父を見て、たたえるのです。イエスはこの人々を、父のみ前で兄弟姉妹として認められます(マタイ10・32以下)。「そのとき、彼らは父の国で太陽のように輝く」のです(マタイ13・43)。
h 誰をも父と呼んではならない
神は、キリストを信じる者たちの父です。したがって、その間では、ほかの誰にも「父」という称号を与えることはできません(マタイ23・8以下)。イエスの弟子たちの唯一の父は、「わたしたちの主イエス・キリストの神であり父」です。39 彼らを父へと導くのは、イエスです。「わたしを通らなければ、誰も父のもとへ行くことはできません」(ヨハネ14・6)。イエスは、父へと通じる道です。先に進み、場所を用意し、戻って来て、手を取って父の家へ連れて行ってくださいます。ご自身のおられるところに、わたしたちもいるためです(ヨハネ14・1―6)。子らが一人でも欠けているかぎり、父の家は完成していないかのようです。
だからこそ今、父は人々をご自分の御子へと引き寄せ、導いておられます。「父がわたしに与えてくださる人は皆、わたしのもとに来ます。そして来る人を、わたしは決して追い出しません。天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしを遣わされた方のみ旨を行うためだからです。父のみ旨とは、御子を見て信じる者が皆、永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日に復活させることです。わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることはできません。父から聞いて学ぶ人は皆、わたしのもとに来ます」(ヨハネ6・37―45参照)。
父は、信仰と聖体によって、より高いいのちの糧をもって、子らを養ってくださいます。40 イエスご自身というパンと聖体は、永遠のいのちのための糧です。そのいのちは、すでにわたしたちの中に植えられ、完成に向かって育っています。「わたしを知っているなら、父をも知ることになります……わたしは父のうちにおり、父はわたしのうちにおられます」(ヨハネ14・7―11)。「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10・30)。「その日、あなたがたは、わたしが父のうちにおり、あなたがたがわたしのうちにおり、わたしがあなたがたのうちにいることを知るでしょう」(ヨハネ14・20)。キリスト者であるわたしたちが神の子なのは、新しいいのちを受け、神から生まれたからです。「受け入れたすべての人に、神の子となる力を与えた」(ヨハネ1・12)。
子としての身分は、父の独り子であるキリストを通して、わたしたちに与えられます。イエスが父に向かって用いられたアッバということばは、聖霊の働きによって、すべてのキリスト者の心へと伝えられました。このことばは、イエスと父との子としての関わり、わたしたちと父との子としての関わり、そしてキリストとわたしたちとの間、またわたしたち相互の間にある、兄弟姉妹としての関わりを表しています。「父なる神と、父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちに、わたしたちとともにあります……教えのうちにとどまる人は、父をも子をも持っています」(二ヨハネ3、9)。「わたしたちは、父と、その御子イエス・キリストとの交わりにあります」(一ヨハネ1・3)。
イエスは、父が教えられることを教えられます。偽預言者たちのように、何かを自分で作り出すことはありません。父から聞いたことを伝えてくださいます。「わたしの教えは、自分のものではなく、わたしを遣わされた方のものです。その方のみ旨を行おうとする人なら、この教えが神からのものか、わたしが自分で話しているのかが分かります。自分で話す者は、自分の栄光を求めます。しかし、遣わされた方の栄光を求める者は真実で、その内に偽りはありません」(ヨハネ7・14―18)。
神はかつて、父が子を教えるように、ご自分の民を教えられました(申命記8章)。今や父は、御子を通して、わたしたちを教えられます。イエスの知らせに従おうとする人は、その知らせが父から来ていることを見いだします。真理は、生活の中で体験されます。信じない人は、初めから受け入れることを拒んでいるので、自分を正当化しようとします。「わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。父はその人を愛し、わたしたちはその人のもとへ行き、ともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞くことばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです」(ヨハネ14・23―24)。「もはや、あなたがたを僕とは呼びません。僕は主人のしていることを知らないからです。わたしは、あなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたに知らせたからです」(ヨハネ15・15)。
大祭司の祈りの中で、イエスは宣言されます。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17・3)。御子を認めない人は、父を知りません。「わたしを遣わされた父が、わたしについて証ししてくださいます」。人々は、「あなたの父はどこにいるのか」と尋ねました。イエスは答えられます。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。わたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたはずです」……ユダヤ人たちは言いました。「お前はサマリア人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは当然ではないか」。イエスは答えられます。「わたしは悪霊に取りつかれてはいません。父を敬っているのです……自分で自分の栄光を現すのなら、わたしの栄光は何の価値もありません。わたしに栄光を与えてくださるのは父です。あなたがたが『わたしたちの父である』と言っている方です。しかし、あなたがたはその方を知りません。わたしは知っています。もし知らないと言えば、あなたがたと同じ偽り者になるでしょう。しかし、わたしはその方を知り、そのことばを守っています」(ヨハネ8・18―19、48―55)。
イエスの生涯全体は、父のみ旨を行うことにあります。「わたしのおきてを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまります。わたしが父のおきてを守り、その愛にとどまっているのと同じです」(ヨハネ15・10)。従順は、子としての愛の表現です。従順の行いは、一つひとつが愛の行いです。交わりであり自己の贈与である愛は、不従順と両立しません。
神を父と呼ぶことのできるのは、キリストの弟子たち、キリストにおける兄弟姉妹です。しかし、誰がキリストの弟子なのでしょうか。聖パウロは、キリストの霊を持つ人々だと答えます。「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」(ローマ8・9)。聖アウグスティヌスは、聖ヨハネの第一の手紙を解説して、こう述べます。
神の子らを悪魔の子らから区別するのは、ただ愛だけです。皆が十字架のしるしをしても、皆がアーメンと答えても、皆がアレルヤを歌っても、皆が洗礼を受けても、それだけではありません。結局、神の子らと悪魔の子らを見分けるのは、ただ愛だけです。愛を持つ人は、神から生まれています。愛を持たない人は、神から生まれていません。
キリストへの愛を通して、キリスト者は父の愛の中に入ります。「わたしのおきてを受け入れ、それを守る人こそ、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は、父に愛されます」(ヨハネ14・21)。「父ご自身が、あなたがたを愛しておられます。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たと信じているからです」(16・27)。イエスの兄弟姉妹となることによって、父なる神の子となり、子としてその愛を喜びます。「わたしたちが神の子と呼ばれるために、父がどれほどの愛を示してくださったか、考えなさい。わたしたちは、まさしく神の子なのです……今、わたしたちは神の子ですが、将来どのようになるかは、まだ明らかにされていません。しかし、その方が現れるとき、わたしたちはその方に似た者となり、その方をありのままに見ることを知っています」(一ヨハネ3・1―2)。
洗礼によって新たに生まれ、神の子となり、すでに神を父と呼べる人々に向けて、聖キプリアヌスは語ります。新たに生まれ、すでに「その子であり」「子として行う」人々は、神を父と呼び求めます。「神をわたしたちの父と呼ぶときには、神の子として振る舞わなければならないことを、心に留める必要があります」。
恵みによって新たに生まれ、神のもとに戻された新しい人が、まず口にするのは父です。すでに子となり始めているからです。「自分の民のもとに来たが、民は受け入れなかった。しかし、受け入れた人々、その名を信じる人々には、神の子となる力を与えた」(ヨハネ1・12)とあります。ですから、その名を信じ、神の子となった人は、まず感謝し、神の子であることを告白しなければなりません。天におられる神を父と呼ぶからです。また、霊的な誕生の最初のことばから、地上の、肉による父を離れ、天におられる方以外の父を認めず、持たないことを証ししなければなりません(マタイ23・9)……。
悪魔を父とする者たちは、主を父と呼べません。「あなたがたは父である悪魔から生まれ、その父の欲望を行おうとしている。悪魔は初めから人殺しで、真理にとどまらなかった。その内には真理がないからである」(ヨハネ8・44)。主の憐れみは、何と大きく、その恵みと善は、何と計り知れないことでしょう。神のみ前でしばしば祈り、父と呼ぶことを望まれたのです。キリストが神の子であるように、わたしたちも神の子と呼ばれることを望まれました。主ご自身が許してくださらなかったなら、わたしたちの誰も、祈りの中でその名を口にしようとはしなかったでしょう……。
ですから、神を父と呼ぶとき、神の子として行うのが当然であると考えなければなりません。父を持つことをわたしたちが誇りとするように、父もわたしたちを誇りとすることができるためです。神の神殿として振る舞い、主がわたしたちの内に住まわれることを、その生き方で示さなければなりません。受けた霊と、わたしたちの行いが食い違うことがないようにしましょう。天に属する、霊に生きる者となり始めたわたしたちが、霊と天に属することだけを思い、行うためです。
オリゲネスも、さらにこのことを説きます。神を父と呼ぶ子としての信頼は、「神の子となった」(ヨハネ1・12)人々、霊によって「アッバ、父よと叫ぶ」(ローマ8・15)人々に固有のものです。そのためには、「その行いにおいて」神の「まことの子」として生き、「栄光を受けられたキリストに似た者」とされ、そのために「天に属する者となっている」ことが前提となります。
聖ヨハネ・クリゾストモも、これを繰り返します。「残酷で人間らしさを失った心を抱きながら、あらゆる善の神を自分の父と呼ぶことはできません。そのような場合、あなたがたの内には、もはや天の父の善のしるしがないからです」。すでに聖ペトロも、その第一の手紙で、天に父を持つがゆえに、この世で寄留者として生きる人々に(1・1)、こう勧めています。「従順な子として、以前、無知であったころの欲望に従ってはなりません。むしろ、召し出してくださった方が聖なる方であるように、あなたがたも、すべての行いにおいて聖なる者となりなさい。神を父と呼び求めるなら、寄留の時を、畏れをもって過ごしなさい。あなたがたが先祖から受け継いだむなしい生き方から贖われたのは、金や銀のような朽ちるものによってではなく、傷も汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によると知っているからです」(一ペトロ1・14―19)。第二の手紙でも、「欲望によって世にある滅びを免れ、神の本性にあずかる」ようにと勧めています(1・4)。
パウロも、ガラテヤの人々に、あなたがたはもはや律法の下の奴隷ではなく、神の子であると語ります(4・1―5)。そして、「あなたがたが子である証拠に、神は、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださったのです」(4・6)。ローマの信者たちにも、同じように語りかけます。「キリストによって、罪と死の律法から解放されたあなたがたは、肉ではなく、霊のうちに生きています。神の霊が、あなたがたの内に住んでおられるからです。神の霊に導かれる人は皆、神の子です。あなたがたは、再び恐れに陥らせる奴隷の霊ではなく、『アッバ、父よ』と叫ばせる、神の子とする霊を受けたのです。霊ご自身が、わたしたちの霊とともに、わたしたちが神の子であることを証ししてくださいます」(ローマ8・2―16)。
反対に、人を殺そうとする憎しみが支配するところには、悪魔を父とする関係が現れます。「イエスはユダヤ人たちに言われた。『あなたがたがアブラハムの子孫であることは、分かっている。しかし、わたしのことばがあなたがたの内に根を下ろさないので、わたしを殺そうとしている。わたしは父のもとで見たことを語っている。あなたがたは、自分の父のもとで聞いたことを行っている……あなたがたは自分の父の行いをしている。あなたがたは父である悪魔に属し、その父の欲望を行おうとしている。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていなかった。その内には真理がないからである。偽りを語るときには、自分の内から語っている。悪魔は偽り者であり、偽りの父だからである。神に属する者は、神のことばを聞く。あなたがたが聞かないのは、神に属していないからである』」(ヨハネ8・31、37―38、44、47)。
世を愛する人には、父の愛がありません。世にあるものは、父から来るものではありません。「世も、世にあるものも、愛してはなりません。世を愛する人がいれば、その人の内に父の愛はありません。世にあるすべてのもの、肉の欲、目の欲、富を誇ることは、父からではなく、世から出るものだからです。世とその欲は過ぎ去ります。しかし、神のみ旨を行う者は、永遠にとどまります」(一ヨハネ2・15―17)。エルサレムの聖キュリロスは、洗礼志願者にこう語ります。
神が本性によって父であるのは、キリストに対してだけです……わたしたちが神の子であるのは、迎え入れられたことによってであり、神の賜物です。聖ヨハネが、「受け入れた人々、その名を信じる人々には、神の子となる力を与えた」(ヨハネ1・12)と言うとおりです。神の子となる力を受けたのは、信仰の前ではなく、信仰によってです。このことを知ったうえで、霊に生きる人として振る舞い、神の子にふさわしくなりましょう。「神の霊に導かれる人は、神の子です」(ローマ8・14)。行いが伴わなければ、キリスト者という名を帯びても、何の役にも立ちません……。「人を分け隔てせず、それぞれの行いによって裁かれる方を父と呼ぶのであれば、この世に寄留する間を、畏れをもって過ごしましょう……わたしたちの信仰と希望が、神にあるようになるためです」(一ペトロ1・17―21)。そして、「世と、世にあるものを愛してはなりません。世を愛する人がいれば、その人の内に父の愛はありません」(一ヨハネ2・15)。
神を父と呼ぶこの呼びかけは、イエスの弟子たちの祈りの冒頭に置かれ、一つひとつの願いに先立っています。信仰をもって祈る人は、どの願いにおいても、父のみ前に立っています。父のみ前にいると知ることが、願うことは何でも聞き入れられるという信頼を、いや、むしろ確信を与えるのです。
第2章 み名が聖とされますように
a 父よ、み名が聖とされますように
ルカ福音書では、主の祈りは、呼びかけと願いを一つにした叫びで始まります。「父よ、み名が聖とされますように」。自分が神の子であると知る人の心から、感謝とともに湧き出る、最初の願いです。神が偉大で、栄光に満ちた方と認められることを願うのは、自分は何ものでもないのに、神の子という賜物を恵まれたと感じる人の叫びです。父なる神に栄光が帰せられることは、神の憐れみのふところから、幼子として新たに生まれたキリスト者の、心の奥の切なる願いです。「この方こそ、わたしの神。わたしはこの方をあがめます」。あるいは、ただ、「わたしの父です」と。「み名が聖とされますように」。この願いが、祈り全体の魂です。
父なる神のみ前にわたしたちを立たせた後、子としての霊は、心から七つの願いを湧き上がらせます……。初めの願いは、わたしたちを父の栄光へと引き寄せ、父へと導きます。あなたのみ名、あなたのみ国、あなたのみ旨です。まず愛する方のことを思うのが、愛の本性だからです(CEC 2803)。
「祈るときには、ことばを数多く重ねれば聞き入れられると思っている異邦人のようであってはなりません」(マタイ6・7)。子としての願いは、すべてを父のみ手に委ねます。「アッバ、父よ、あなたには何でもおできになります」(マルコ14・36)。「父よ、み名が聖とされますように」。神に栄光が帰せられることを願うこの思いは、ほとんどことばにもならずに、心から湧き出ます。厳密には、何かを求めるのでさえありません。ただ、魂に隠されていた願いが、唇からこぼれるのです。
啓示のことばの中には、特別なことばが一つあります。それは、み名の啓示です。神は、信じる人々にみ名を託し、ご自身の人格の神秘を明かされます。み名を与えることは、親しく打ち明け、内奥を分かち合うことです。「主のみ名は聖なるもの」。ですから、人はみ名を乱用できません。愛を込めて礼拝する沈黙の中で、み名を守るべきです(ゼカリヤ2・17)。自分のことばにみだりに用いるのではなく、み名を祝し、賛美し、たたえるために用います(詩編29・2、96・2、113・1―2。CEC 2143)。
神を知り、その身にみ名が唱えられ、み名に信頼して失望させられなかった人は、何をするにも、こう叫びます。「わたしたちにではなく、主よ、あなたのみ名にこそ、栄光がありますように」(詩編115・1)。神の「栄光」や「名」は、神がご自身を現されることにほかなりません。「西からみ名が、東からその栄光が仰がれる」(イザヤ59・19)。み名を聖とすることは、神を聖とすることです。「その日、主は唯一の方となられ、そのみ名も唯一のものとなる」(ゼカリヤ14・9)。
「聖とする」とは、「大いなる方としてあがめる」ことでもあります。マリアがマニフィカトで、「わたしの魂は主を大いなる方としてあがめます」(ルカ1・46)と歌うとおりです。同じ意味を持つもう一つの動詞は、「栄光を現す」です。イエスは、「父よ、み名の栄光を現してください」(ヨハネ12・28)と願われます。これは、父がその力を明らかにしてくださることを望む、イエスの叫びです。したがって、わたしたちが願うのは、神の聖性と栄光と偉大さが、明らかになることです。神が神であられることです。神ご自身がみ名を聖とし、聖なる方としてご自身を現し、栄光を世に輝かせて示してくださらなければなりません。預言者が告げたとおりです。「わたしは、わが大いなる名を聖とする」(エゼキエル36・23)。
神の聖性とは、栄光において外に現れる、その全能にほかなりません。したがって栄光は、神性に固有の現れです。名と栄光は、ともにあります(イザヤ59・19、30・2)。「み名の栄光を現してください」は、聖書に繰り返し現れる表現で(ダニエル3・43、ヨハネ12・28)、ありのままのご自身、すなわち聖なる方として現れてください、という意味です。み名は栄光と同じく(イザヤ6・3)、ある意味で聖性の外に現れた姿です。世に対して神であることを示します。神を聖とするとは、神を賛美し(ルカ1・46)、驚くべきわざを認め、祝うことです。神を聖とするとは、そのわざゆえに栄光を帰することなのです。
これが、イエスの祈りです。「父よ、み名の栄光を現してください」。これに、「父よ、御子に栄光を与えてください」というもう一つの祈りを重ねることができます。神の栄光とは、生きている人間です。マリアは自分のうちに父の働きを体験し、宣言します。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさったからです。そのみ名は聖なるもの」(ルカ1・49)。神のみ名の聖性は、「主のはしため」に行われた、この「偉大なこと」のうちにこそ現れました。マリアを御子の母とすることによって、イエスの父は、彼女において「み名を聖とされ」ます。すでに詩編作者を喜び躍らせたことが、マリアにおいて完全に成就したのです。「主はその民に贖いを送り、契約を永遠に定められた。そのみ名は聖なるもの」(詩編111・9、99・1―3)。神の聖とする働きとともに、神に自分の生活の中へ入っていただくのでなければ、わたしたちは神のみ名を聖とすることができません。「父よ、御子に栄光を与えてください。御子があなたに栄光を帰するためです」。
最初の二つの願い、「み名が聖とされますように。み国が来ますように」は、会堂の典礼を締めくくるユダヤ教の祈り、カッディーシュとつながっています。おそらくイエスにも、幼いころから親しい祈りだったでしょう。「ご自身のみ旨によって造られた世界において、その大いなるみ名が、あがめられ、聖とされますように。わたしたちの生涯に、わたしたちの日々に、イスラエルの全家の生涯に、今もいつも、ご自身の王としての支配を行われますように」。
証聖者マクシモスは、「父」「名」「国」という流れを、三位一体の働きとして理解します。父は、御子に栄光を与えることによってみ名を聖とし、聖霊をわたしたちの心に注ぐことによって、み国をもたらされるのです。
神は、御子の到来のとき、そして何よりもその生涯の終わりに、み名を聖とされました(ヨハネ12・28、13・31、17・1、4、6)。御子は、ご自身を聖別されました。つまり、人々のためにご自身をささげられたのです(ヨハネ17・19)。主の祈りのこの願いには、栄光の主の勝利を見たいという、初代のキリスト者たちの願い全体が表されています。神が神であられ、すべての人から神として認められることです。
「いと高きところには、神に栄光」。栄光において聖性を示される神に、栄光がありますように。そして神の栄光には、神が慈しみを注がれる人々の忠実さも含まれています(ルカ2・14)。わたしたちが父に願うのは、このことです。罪の奴隷状態から贖い(ルカ4・18、1・77)、悪魔の圧政から解放することによって(ルカ13・16、使徒言行録10・38)、わたしたちの内に「み名を聖としてください」と願います。そうすれば、わたしたちも詩編作者とともに歌うでしょう。「わたしは弓を頼みにせず、剣が勝利を与えるのでもありません。敵に対する勝利を与えてくださるのは、あなたです。わたしたちは一日中、神を誇り、絶えずみ名をたたえます」(詩編44・7―9)。神のみ名は、天の典礼において聖とされ(黙示録15・4)、キリスト教共同体の典礼の集いにおいても聖とされます(ヘブライ13・15)。
神の国が完成するとき、み名は完全に聖とされ、人々は叫びます。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。全能の神である主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(黙示録4・8)。そのとき皆、王の王の足もとにひれ伏し、言うでしょう。「全能の主よ、今おられ、かつておられた方、感謝します。あなたは大いなる力をふるい、王としての支配を始められました」(黙示録11・7)。しかし、地上を巡礼する今もすでに、わたしたちはみ名の栄光を願います。「ここには永続する都を持たず、来るべき都を求めるわたしたちは、イエスを通して、絶えず神に賛美のいけにえをささげましょう。それは、み名をたたえる唇の実です」(ヘブライ13・14―15)。
聖アウグスティヌスは洗礼志願者たちに、こう語ります。父のみ名が聖とされることを願うのは、すでに聖であり、いつも聖である方のみ名が、それ自体において聖とされることを求めるのではありません。あなたの内に聖とされることを求めるのです。神のみ名こそ、わたしたちを聖とするからです。わたしたちが望み、願うのは、洗礼による聖化の賜物を保ち続けることによって、神の聖なるみ名が、わたしたちの内に聖とされることです。同時に、すべての人から聖なるものとして敬われ、最も聖なる方として、神がすべての人に知られることです。
なぜ、神のみ名が聖とされるよう願うのでしょうか。すでに聖ではないのでしょうか。聖であるなら、なぜ願うのでしょう。それに、み名が聖とされるよう願うとき、あなた自身のためではなく、神のために神に祈っているようにも見えます。実際には、何を願っているのでしょうか。それ自体として聖なるものが、あなたの内に聖とされることです。「聖とされますように」とは、何を意味するのでしょう。聖なるものとして認められることです。ですから、それを望むとき、自分自身にかかわる善を望んでいるのが分かるでしょう。神のみ名がわたしたちの内に聖とされるのは、いつでしょう。わたしたちを聖としてくださるときではないでしょうか。わたしたちは聖ではありませんでした。しかし、この聖なるみ名によって聖とされます。ですから、神のために祈っているのではありません。神の聖なるみ名がわたしたちの内に聖とされるよう、自分たちのために祈っているのです。
b 神には名がある
「み名が聖とされますように」と願うとき、わたしたちは冒頭の呼びかけ、「天におられるわたしたちの父よ」において、今しがた呼んだ、その名が聖とされることを願っています。祈りは、名を持つ神のみ前に、わたしたちを立たせます。この神は、人格的な方、交わることのできる「あなた」です。契約の神、人に近づき、愛のきずなでご自身を人に結びつけ、交わりを生み出される神です。
何かに名を付けるとは、ある意味で、それを自分のものとし、行くべき道を与えることです。神は一人の牧者を呼び、アブラハムという名を与え、それによって「多くの民の父」とされます。名を与えることは、いわば任命することです。「どうか、あなたの名を教えてください」(創世記32・30)。ヤコブは、ヤボク川のほとりで、夜通し神と格闘しながら、繰り返し願います。「あなたの名を教えてください」。とらえきれない神は、ご自分の名を知らせることを拒まれます。しかし、燃える柴の啓示において、神はみ名を知らせてくださいます。ヤーウェです。
聖書において神が呼ばれる多くの名の中に、特別なものが一つあります。ヤーウェです。「これは永遠にわたしの名である」。ヤーウェとは、「わたしは、わたしがあるであろう者」という名です。契約の神は、忠実さによってご自身を示される神です。「あなたがたは、わたしがヤーウェであることを知る」。歴史の出来事を通して、み名を知るのです。イスラエルの長い救いの歴史を経て、聖ヨハネはこれを、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と要約できるようになります。神は、絶えず訪れ、人々の生活に入って来られる方です。その訪れは、いつも同じであり、いつも新しく、いつも救いをもたらします。
聖書とは、この救いの歴史にほかなりません。わたしたちの神ヤーウェは、エジプトから導き出し、葦の海を渡らせ、シナイへ運び、約束の地へ導き、わたしたちの間に住まわれました。罪のためにバビロン捕囚という罰を与えられましたが、そこから贖い、故郷へ戻してくださいました。イスラエルのヤーウェへの信仰は、名詞や最上級の形容詞ではなく、働きを表す動詞によって告白されます。神のみ名は、長い歴史を持つ名です。生活の出来事の中で知られます。神を知るのは、「その身にみ名が唱えられる人々」です。詩編作者の宣言するとおり、「み名を知る人は、あなたに信頼します」(詩編9・11)。聖ベルナルドゥスは、「希望は名のうちにあり、希望の対象は顔のうちにある」と指摘します。
こうしてイスラエルは、自分たちの神には固有の名があり、神はその名で呼び求められることができ、また、それを望んでおられると知ります。「イスラエルの人々にこう言いなさい。『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるヤーウェが、わたしをあなたがたに遣わされた。これは永遠にわたしの名。代々、この名によってわたしは呼び求められる』」(出エジプト記3・15)。ヤーウェは、み名に対して熱情を持たれます(出エジプト記34・14)。イスラエルがほかの神々の名を呼ぶことを許されません。「あなたがたの口に、それが聞かれてはならない」(出エジプト記23・13)。41
神は、モーセを遣わして民をエジプトの奴隷状態から救う前に、み名を啓示することによって、イスラエルに恵みを示されました(出エジプト記3・13―15)。この名によって、モーセはファラオの前にも、イスラエルの人々の前にも立つことができます。杖、すなわち神の驚くべき力が伴います。「わたしはヤーウェではないか。だから行きなさい。わたしがあなたとともにいる」(出エジプト記4・11―12)。
それゆえ、イスラエルの子らに言いなさい。わたしはヤーウェである。わたしは、エジプト人が課す重い労役からあなたがたを解放し、その奴隷状態から救い出し、伸ばした腕と大いなる裁きをもって贖う。わたしはあなたがたをわたしの民とし、あなたがたの神となる。あなたがたは、エジプトの奴隷状態から導き出すわたしこそ、あなたがたの神ヤーウェであることを知るであろう。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った地へあなたがたを導き入れ、相続財産として与える。わたしはヤーウェである。
出エジプト記6・6―8
その後、契約が新たにされるとき、神はモーセに律法の新しい板を与え、み名の新たな側面を啓示されます。み名を唱えることによって、ご自身を啓示し、栄光を示されるのです。それは、モーセの「どうか、あなたの栄光をお見せください」(出エジプト記33・18)という願いに応えるものでした。神の栄光は、その現存の輝きです(出エジプト記24・16)。時が満ちると、キリストの顔に、その輝きが完全に現れます(ヨハネ1・14、11・40、二コリント4・4、6)。神を見るとは、その栄光にあずかることです。このように、顔と顔を合わせて神を見たのは、キリストだけです。時の終わり、天の至福の中で、キリストの弟子たちも神を見ます(マタイ5・8、一コリント13・12)。モーセは、神の背しか見ることができません。
わたしは、あらゆる善をあなたの前に通らせ、あなたの前でヤーウェというわたしの名を唱える。わたしは、恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。しかし、わたしの顔を見ることはできない。人は、わたしを見て、なお生きていることはできないからである。見よ、わたしの傍らに場所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。わたしの栄光が通るとき、あなたを岩の裂け目に入れ、通り過ぎるまで手で覆おう。それから手を離すので、あなたはわたしの背を見ることができる。しかし、わたしの顔は見られない。
出エジプト記33・19―23
最初のものと同じ、新しい二枚の板を携え、モーセは山に上ります。自分が砕いた最初の板にあったことばを、神に書いていただくためです。山でモーセは、ヤーウェのみ名を呼び求めました。ヤーウェはその前を通られました。姿を見せられませんでしたが、み名は聞かせてくださいました。「ヤーウェ、ヤーウェ、憐れみ深く、恵みに富む神、怒るに遅く、愛とまことに満ちる方。幾千代にも愛を保ち、過ちと背きと罪をゆるされる方。しかし、罰を免れさせることはなさらない」(出エジプト記34・1―7)。
ヤーウェという名は、神の憐れみ、恵み、愛、忠実さを表し、現実のものとします。ですからモーセは、こう願います。「主よ、もしわたしが本当にみ前に恵みを得ているなら、どうかわたしたちの中を進んでください。かたくなな民ですが、過ちと罪をゆるし、わたしたちをご自分のものとしてお受け取りください」。神はモーセの願いを聞き入れ、契約を新たにされます。民を翼の下にかくまい、現存の雲で覆い、み名の力によって救うことを受け入れられるのです(出エジプト記34・8以下参照)。
神は、ご自分の民イスラエルに、み名を知らせることによって、ご自身を啓示されました。名は、その人の本質、内奥、そして生きる意味を表します。神には名があります。名のない力ではありません。み名を伝えるとは、他者にご自身を知らせることです。ある意味で、ご自身を伝え、近づくことのできる方、より親しく知り、人格的に呼び求めることのできる方となることです(CEC 203)。
イエスは、ご自身を神の子として示すことによって、神の存在を最も深く表す名が、父であると明かされます(ヨハネ17・6、26)。神は父です。イエスはその御子です(マタイ11・25以下)。しかし、その父としての愛は、御子を信じるすべての人に及びます(ヨハネ20・17)。こうして、神の完全な啓示であるイエス・キリストは、神の聖なるみ名を知らせ、その名、父と呼んで神に向かうよう招かれました(マルコ14・36、ローマ8・15、ガラテヤ4・6)。神のみ名を敬うことは、神を呼び求めることと矛盾しません。過度な恐れは、神を遠く、近づけない、人に無関心な方と見なすことへつながりかねません。イエス・キリストにおいて、神は父として、近くにおられる方として現れます。イエス・キリストは、幼い子が父に向かうのと同じ優しさと信頼をもって、あえて神を呼び求めるよう、わたしたちを促されます。
イエス・キリストにおいても神は、ヤーウェとして、そこにおられる方、インマヌエル、わたしたちとともにおられる神として、働き続けられます。イエスは、その生涯とことばによって神を知らせ、神に真に固有の名、父を啓示してくださいました。「わたしは彼らに、み名を知らせました」(ヨハネ17・26)。しかし神に向かい、父と呼ぶには、子らの霊である聖霊を受ける必要があります。「神の霊に導かれる人は皆、神の子です。あなたがたは、再び恐れに陥らせる奴隷の霊ではなく、『アッバ、父よ』と叫ばせる、子とする霊を受けたのです」(ローマ8・14―15)。あるいは、ガラテヤの人々への手紙が語るように、わたしたちの心の中で「アッバ、父よ」と叫ぶのは、御子の霊ご自身なのです(ガラテヤ4・6)。
c 神がみ名を聖とされる
神とみ名とは、切り離せないほど一つです。み名について語るとき、神はご自身を指しておられます(レビ記24・11―16)。このみ名は、愛され(詩編5・12)、賛美され(詩編7・18)、聖とされます(イザヤ29・23)。畏るべき名(申命記28・23)、永遠の名です(詩編135・13)。「大いなるみ名のために」(ヨシュア7・9)、「み名のゆえに」(エゼキエル20・9)、神はイスラエルのために働かれます。つまり、イスラエルを救うことによって、み名に栄光を現し、偉大で聖なる方として認められるために働かれます。神は「み名を神殿に住まわせられました」(申命記12・5)。「み名をもって呼ばれる」(エレミヤ7・10、14)神殿で、信じる人は神の現存に出会います(出エジプト記34・23)。
主の祈りの最初の願い、「み名が聖とされますように」は、神の働きを表す受動形です。その行為の主体は、すでに呼び求めた天の父です。子らは、父が自分たちの内にみ名を聖とし、「世の光」としてくださることを願います。「行いによって」人々を照らし、それを見た人々が「天におられる父をあがめる」(マタイ5・14―16)ためです。こうして神は、「悪人や正しくない人をも愛し」(マタイ5・45)、「恩知らずな者や悪人をも愛される」(ルカ6・35)、憐れみ深い父として知られます。神を父と呼ぶ子らは、「敵を愛し、善を行い、何も当てにせずに貸す」(ルカ6・35)ことによって、生活の中に父の善を映し、自分たちの本来のあり方、すなわち「いと高き方の子ら」であることを示します(ルカ6・35―36)。
神は聖であり、聖とする方です。聖とすることができるのは、神だけです。聖なる方は神おひとりだからです。人は、聖とされるかぎりにおいて聖です。「イエス・キリストにおいて聖とされた者」「聖霊において聖とされた者」「召されて聖なる者となった者」、すなわち、呼びかけによって聖とされた者です。三重に聖なる神は、聖なる方としてご自身を啓示することによって、み名を聖とされます。わたしたちキリスト者は、自分たちの内に神の聖性が透けて見えるとき、み名を聖とします。「あなたがたの行いを見て、人々は、天におられるあなたがたの父をあがめます」。これが神の願いであり、ご自分の民の召命です。「わたしはヤーウェである。わたしの聖なる名を汚してはならない。わたしはイスラエルの子らの間で聖とされる。わたしは、あなたがたを聖とするヤーウェである」(レビ記22・32)。聖キプリアヌスは問います。
聖とするのは神ご自身なのに、誰が神を聖とすることができるでしょうか。イエスは父への祈りで、「父よ、み名の栄光を現してください」(ヨハネ12・28)と願われます。こうしてイエスは、神のみ名を聖とすることを教えてくださいました。み名の聖性を、わたしたちの内に現してくださるよう願うのです。そのため、洗礼で受けた聖性が、わたしたちの内にとどまるように祈ります。み名がわたしたちの内に聖とされるよう願うのです。
神は、「わたしは聖であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい」(レビ記19・2)と言われました。ですから、洗礼によって聖とされたわたしたちは、すでになり始めた者であり続けられるよう願い、懇願します。しかも毎日、これを願います。日々、聖とされる必要があるからです。毎日つまずくわたしたちは、たゆみなく聖とされることによって、罪から清められなければなりません。
使徒は、わたしたちが「主イエス・キリストの名と、わたしたちの神の霊によって、洗われ、義とされ、聖とされた」(一コリント6・9―11)と言います。主イエス・キリストの名と、わたしたちの神の霊において聖とされた者、と呼んでいます。わたしたちは、この聖化が内にとどまるよう祈ります。神の守りによって、恵みから受けた聖化といのちが内に保たれるよう、昼も夜も願うのです。42
神を父と呼び求めるのは、水と霊から新たに生まれた、キリストの兄弟姉妹です。彼らは、キリストを知らない人々の前で、キリストを告白するために選ばれました。一人の選びは、ほかの人々のためです。父と呼び求める神の子らは、人々の間で神のみ名を聖とするために選ばれ、世に生きています。「あなたがたは世の光です。山の上にある町は、隠れることができません。ともし火をともして升の下に置く人はいません。燭台に置けば、家の中のすべての人を照らします。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が善い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるためです」(マタイ5・14以下)。
自分の回心によって神があがめられるのを認めるとき、パウロはこの喜びを味わいます。「母の胎内からわたしを選び分け、恵みによって召してくださった方が、わたしの内に御子を示そうとなさったとき、ユダヤの諸教会は、『かつてわたしたちを迫害した者が、今は、以前に滅ぼそうとしていた信仰を福音として宣べ伝えている』と聞いただけで、わたしのことで神をあがめたのです」(ガラテヤ1・15―24参照)。
独り子に組み入れられることによって、わたしたちは父なる神から、その子として生まれました。父は、父親として、さらには母親にも似た細やかさで、わたしたちを世話してくださいます(民数記11・11―12)。43 父の配慮は、ぶどうを栽培する人とぶどうの木の姿に表されています。まず、この配慮があります。しかし父は、ぶどう畑から実りを得ることを待ち望んでおられます。ぶどう畑の実りにおいて、父はあがめられます。
「あなたがたは、わたしが語ったことばによって、すでに清くなっています。わたしのうちにとどまりなさい。わたしもあなたがたのうちにとどまります。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分では実を結べないように、あなたがたも、わたしのうちにとどまっていなければ、実を結べません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまっているなら、その人は豊かに実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからです。わたしのうちにとどまらない人は、枝のように外に捨てられ、枯れます。そして集められ、火に投げ込まれ、燃やされます。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となることによって、父は栄光をお受けになります」(ヨハネ15・1―8)。待ち望まれている実りは、兄弟姉妹のためにいのちを与えるまでに至る、兄弟愛です。
d イエス――神のみ名の栄光
イエスは、ヘブライ語で「ヤーウェは救う」という意味です。すでに受胎告知で、天使ガブリエルは、その方がどなたであり、何のために来られるかを、ともに表すこの名を告げました(ルカ1・31)。
イエスという名は、罪人の普遍的で決定的な贖いのために人となられた御子に、神ご自身のみ名が現存することを意味します(使徒言行録5・41、三ヨハネ7)。救いをもたらす唯一の神のみ名です(ヨハネ3・18、使徒言行録2・21)。今や誰もが、その名を呼び求めることができます。御子は受肉によってすべての人と結ばれたからです(ローマ10・6―13)。こうして、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人々に与えられていない」のです(使徒言行録4・12、9・14、ヤコブ2・7。CEC 432)。
神のみ名を聖とするとは、唯一の神として認め、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛する」ことです。44 大祭司の祈りで、イエスは、ご自身においてみ名の栄光を現してくださるよう父に願われます。「父よ、時が来ました。御子に栄光を与えてください。御子があなたに栄光を帰するためです。わたしは、あなたから託されたわざを成し遂げ、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、みもとで、わたしに栄光を与えてください。世界が存在する前に、みもとで持っていた、あの栄光を。世から選び、わたしに与えてくださった人々に、み名を現しました。真理によって彼らを聖としてください。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分を聖別します。彼らも真理によって聖とされるためです。父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、彼らもわたしたちのうちに一つとなりますように。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためです。わたしは彼らにみ名を知らせました。これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようになるためです」(ヨハネ17・1―26参照)。
一粒の麦が、豊かな実を結ぶために地にまかれるように、イエスは、ご自分が葬られる時が来ると、父に、死から復活させることによって、御子において(ヨハネ17・1、5)「み名の栄光を現してくださる」(ヨハネ12・23―28)よう願われます。こうして父は、ご自分の民を解放して「大いに栄光を現された」(出エジプト記15・1、21)とき、またラザロの復活において「栄光を示された」(ヨハネ11・9、40)ときと同じように、あがめられるのです。
神はイエスを復活させ、ご自分の右に座らせることによって、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(フィリピ2・9、エフェソ1・22以下)。それは神のみ名です(黙示録14・1、22・3以下)。御子は神の神秘にあずかっておられるからです(黙示録19・12)。こうしてキュリオス、主とされます(フィリピ2・10)。キリスト教の信仰とは、「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」こと、「イエスは主であると告白する」こと、そして「主の名を呼び求める」ことです(ローマ10・9―13)。そのため、初代のキリスト者は、「主の名を呼び求める人々」と呼ばれていました。45 イエスを主と呼び求めるには、生活のあらゆる場面で主として認めることが前提となります。ニュッサの聖グレゴリオは、こう語ります。
キリスト者の生活の完成は、ここにあります。キリスト者という呼び名によって、キリストの名にあずかったわたしたちが、思いと祈りと生活によって、この名の力を表すことです。
洗礼は、主イエスの名において、46 あるいは、キリストの名において(ガラテヤ3・27)、キリスト・イエスの名において(ローマ6・3)授けられます。新受洗者は主の名を呼び求め(使徒言行録22・16)、あるいは、その人の上に主の名が唱えられます(ヤコブ2・7)。こうしてキリスト者は、洗礼の瞬間から、主イエスの力の下にあります。その生涯は、「神の独り子の名を信じる」(ヨハネ3・17)こととなります。47 すなわち、イエス・キリストを神の子と告白して、その方に結ばれることです。それは同時に、神を父と告白することでもあります。
誰かの上にヤーウェのみ名を唱えることによって、その人の上に神の守りが招かれたように、48 キリスト者の上には、イエスの名が唱えられます。救いがあるのは、その唯一の名においてです(使徒言行録2・21)。教会の初めの時代、キリスト者は「主の名を呼び求める人々」(使徒言行録9・14、21)と呼ばれていました。キリスト者はイエスの名によって集まり(マタイ18・20)、その名によって訪れる人を受け入れます(マルコ9・37)。主イエス・キリストの名によって神に感謝し(エフェソ5・20、コロサイ3・17)、イエス・キリストの名があがめられるように生きます(二テサロニケ1・11以下)。祈りでは、御子の名によって父に向かいます。49 そのためヤコブは、「その人々の上に唱えられた尊い名を、冒瀆する」者を非難します(2・7)。
御子として、イエスは父に、み名の栄光を現してくださるよう願い(ヨハネ12・28)、同時に弟子たちにも、み名を聖としてくださいと願うよう招かれます(マタイ6・9)。神は栄光と力を現し(ローマ9・17、ルカ1・49)、御子に栄光を与えることによって(ヨハネ17・1、5、23)、み名の栄光を現されます。キリスト者がそれを認め、神のみ名を賛美し(ヘブライ13・15)、自分の振る舞いのためにみ名が冒瀆されないよう注意することを、神は望まれます(ローマ2・24、二テモテ6・1)。
イエス――「ヤーウェは救う」――は、その名の意味、すなわち救う方であることを実現して、神の栄光を現されます(マタイ1・21―25)。病人を健康にし(使徒言行録3・16)、何よりも、ご自身を信じる人々に永遠の救いをもたらされます。50 弟子たちは、イエスの名を呼んで病人をいやし(使徒言行録3・6、9・34)、悪霊を追い出し、51 あらゆる種類の奇跡を行います(マタイ7・22、使徒言行録4・30)。福音宣教とは、「その名によって、罪のゆるしをもたらす回心を宣べ伝える」(ルカ24・46―47)こと、キリストを告げ知らせることにほかなりません。52
弟子たちはイエスの名のために迫害されます(マルコ13・13)。しかし、それは喜びの理由となります。53 ダマスコへの道で、パウロはキリストから、「その名を異邦人のもとへ運ぶ」(使徒言行録9・15)使命を受けます。たとえそれが、「わたしの名のために苦しむ」(使徒言行録9・16)ことであってもです。パウロは、主イエス・キリストの名を告げ知らせることに自分を全面的にささげ(使徒言行録15・26)、その名のためには死ぬ覚悟まで持っていました。「わたしは、主イエスの名のためなら、縛られるばかりか、エルサレムで死ぬことさえ覚悟しています」(使徒言行録21・13)。
キリストの時代、み名を聖とするとは、神への敬意と賛美だけでなく、そのみ名のために血を流すまで証しすること、いのちをささげること、殉教に至ることも意味していました。イエスは、十字架に入ることによって父のみ名を聖とされました。使徒たちは、「み名のために辱めを受けるに値する者とされた」(使徒言行録5・41)ことを喜びます。「み名のために旅立ち」(三ヨハネ7)、宣教へと向かったのです。『黙示録』は、イエス・キリストの「み名のために苦しみ」(2・3)、その方に忠実に結ばれ(2・13)、否むことのない(3・8)キリスト者たちに向けられています。悪い者との戦いに勝った人には、栄光の冠とともに、「新しい名」が与えられます。キリストが「その人に神の名を刻まれる」からです(黙示録3・12)。
e 神のみ名を汚してはならない
み名が聖とされることを願うとき、わたしたちは、神の栄光が自分たちの喜びと願いのすべてであることを証ししている、とカッシアヌスは言います。そこには、わたしたちの完全さによって神が聖とされる、という意味も含まれています。アレクサンドリアの聖キュリロスは、聖なる者の中の聖なる方に、わたしたちの内に、また全世界において、み名が聖とされることを願うのだと語ります。
主の祈りの最初の願い、「み名が聖とされますように」は、第二のおきてを肯定的な形にしたものです。すでにイザヤが、「わたしの手のわざである子らを見るとき、彼らはみ名を聖とする」(イザヤ29・23)と表現していました。これは、「神のみ名をみだりに唱える」ことの反対です。み名をみだりに唱えるなら、「わたしたちのために、神の名が諸国の民の間で冒瀆される」ことになります。ですから、すでに神聖法集において、「ヤーウェの聖なる名」を敬わないことが禁じられています(レビ記20・3、22・2)。「わたしの聖なる名を汚してはならない。わたしはイスラエルの人々の間で聖とされる。わたしは、あなたがたを聖とするヤーウェである」(22・32)。
シナイの契約によって、イスラエルは「神の民」となり、「聖なる国民」となるよう召されます。神のみ名を帯びているからです。「聖なる者となりなさい。あなたがたの神、わたしヤーウェは聖だからである」(レビ記19・2)。しかし民は神から離れ、「諸国の民の間で、み名を汚しました」(エゼキエル20・36)。ところが、時が満ちると、聖なる神のみ名は、イエス・キリストにおいて啓示されました。イエスは弟子たちのために、父に祈られます。「彼らのために、わたしは自分を聖別します。彼らも真理によって聖とされるためです」(ヨハネ17・19)。
人が神のみ名を用いること自体は、もちろん許されています。神ご自身がみ名を知らせてくださったのは、人がその名によって呼び求めるためです。「ヤーウェのみ名を呼び求める」とは、神を礼拝することです。祈りの中でそのみ名を叫び(イザヤ12・14)、その名で呼びかけ(詩編28・1、99・6)、祝し、賛美し、あがめます(詩編29・2、96・2、113・1―2)。像の場合と異なり、神のみ名を用いることは禁じられていません。み名を用いてもよいのですが、「みだりに唱えてはならない」のです。
神のみ名を知ったからといって、神を人の利害や気まぐれのために、自由にできるわけではありません。神のみ名は、人が神を試し、乱用するために、神を思いどおりにさせるものではありません。それはもはや、神に仕えることではなく、神を自分のために利用することです。
み名が聖とされることを神に願うのは、「愛のうちに、み前に聖なる、汚れのない者」となるよう、神が「あらかじめお定めになった恵み深い計画」に、わたしたち自身がかかわることです(エフェソ1・9、4。CEC 2807)。
それゆえ、神のみ名を呼び求めながら、生き方では神を否定する信者は、み名が汚され、あるいは否定される原因の一つとなります。
信者にも責任の一端があります。無神論は、全体として見れば、根源的な現象ではなく、さまざまな原因から生じる現象だからです。その原因には、宗教に対する批判的な反応も含まれます。実際、世界のある地域では、特にキリスト教に対する反応です。したがって、無神論の成立には、信者自身も小さくない役割を果たし得ます。宗教教育を怠り、教えを不適切に説き、あるいは、宗教的・道徳的・社会的生活の欠陥によって、神のまことの顔を現すどころか、むしろ覆い隠してしまうからです。
『現代世界憲章』19
第二のおきてはまた、神の神秘を、概念や儀礼の中に閉じ込めようとせず、敬うよう信者に命じています。神についてのあらゆることばは、神の存在を明かす以上に覆い隠します。聖なるみ名を口にするたびに、神は、わたしたちが語り、思い描けるものよりも大きく、異なる方であると認める必要があります。「わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、あなたがたの道は、わたしの道とは異なる――ヤーウェのことば。天が地から高く離れているように、わたしの道は、あなたがたの道から離れている」(イザヤ55・8―9)。
しかし、神のみ名をみだりに唱えないことを、神から距離を置くことと取り違えてはなりません。神ご自身、十戒の中で、近しさと優しさを示されます。それは、「わたしはあなたの神、あなたを解放する者である」という所有を表すことばに、にじみ出ています。このようにご自身を示す神は、人の応答を求めておられます。「わたしの神よ、あなたはわたしの神です」。聖キプリアヌスは言います。
わたしたちに対して善と憐れみに富む主は、何と慈しみ深いことでしょう。祈るときに、主を父と呼べるようにしてくださり、キリストが御子であるように、わたしたちもその子と呼ばれることを望まれました。主が許してくださらなかったなら、わたしたちの誰も、祈りの中でこのことばを口にしようとはしなかったでしょう。ですから、神を父と呼ぶなら、その子として生きなければならないことを覚え、わきまえていなければなりません。わたしたちが父を持つことを喜ぶように、父もわたしたちを子とすることを喜ばれるためです。
神の神殿として生きましょう(一コリント5・16)。神がわたしたちの内に住まわれることが、誰の目にも明らかになるためです。行いが霊に逆らわないようにしましょう。主ご自身が、「わたしを敬う者を、わたしは敬い、わたしを侮る者を、わたしは軽んじる」(一サムエル2・30)と言われました。使徒も書いています。「あなたがたは、もはや自分自身のものではありません。高い代価で買い取られたからです。だから、自分のからだで、神の栄光を現しなさい」(一コリント6・19―20)。
教会は、世に属してはいませんが、世の中にあります。したがってキリスト者は、世俗に染まることなく、世の中に身を置いて生きるよう招かれています。世から切り離されることもできず、世と同じになることもできません。塩のように世に仕え、食べ物の中に溶け込みます。しかし塩味を失わず、むしろ、自分に固有の独自性、あらゆるものに味と意味を与える、永続する、言い尽くせない新しさを、絶えず示すのです。
聖とされた者たちの家族である教会は、聖化の力です。仲間を集めると同時に、外にいる人々を招きます。良い羊飼いであるキリストの周りに集められた群れであり、同時に、その羊飼いがいのちを与えられた、遠くにいる人々に開かれた囲いでもあります。サマリア人が道端で瀕死の状態で見つけた人々を運び込む病院であり、同時に、エルサレムとエリコを結ぶ道を、日々歩くサマリア人でもあります。兄弟姉妹の共同体であり、同時に、新しい子らを絶えず生み出す、豊かないのちを宿す母でもあります。聖ペトロ・クリソロゴは言います。
わたしたちが神に、み名を聖としてくださいと願うのは、神が聖性を通して、すべての被造物を救い、聖とされるからです……それは、滅びた世に救いを与える名です。しかしわたしたちは、この神のみ名が、自分たちの生活によって、わたしたちの内に聖とされることを願います。わたしたちが善く生きるなら、神のみ名は祝福されます。しかし悪く生きるなら、冒瀆されます。使徒のことばのとおりです。「あなたがたのために、神の名が諸国の民の間で冒瀆されている」(ローマ2・24)。54
神のみ名をみだりに唱えることも禁じられています。ヘブライ語のシャーウという語は、多くの箇所で「むなしく用いる」ことを意味します。55 したがって、儀礼だけで、まったく形式的にみ名を唱えることは禁じられています。福音の中でイエスは、第二のおきてをご自身に当てはめて、こう言い換えられます。「わたしに『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではありません。天の父のみ旨を行う者が入るのです」(マタイ7・21)。
神のみ名を乱用するとは、究極的には、神の名を口にしながら、生活では従わないこと、「主よ、主よと言いながら、み旨を行わない」ことです。神を神と認めずに、神の名を口にします。神を神として受け入れずに、み名を唱えます。唇では神を敬いながら、「心は神から遠く離れている」のです。み名の意味することに自分自身をかかわらせることなく神の名を口にするたびに、み名の中身を空しくしています。
イエスは弟子たちに、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々が善い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるためです」(マタイ5・16、一ペトロ2・12)と言い、神のみ名に栄光を帰するよう招かれます。聖パウロは、これを詳しく説きます。
神のみ前で正しいのは、律法を聞く者ではなく、行う者です……。神を誇り、み旨を知り、律法に教えられて優れたものを見分け、律法の中に知識と真理の表現そのものを持つゆえに、自分を盲人の案内人、暗闇にある人の光、無知な人の教育者、幼い者の教師と自負するあなた……。人を教えながら、自分を教えないのですか。盗むなと説きながら、盗むのですか。姦淫を禁じながら、姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を略奪するのですか。律法を誇るあなたは、それを破ることによって、神を辱めています。聖書にあるとおり、あなたがたのために、神の名が諸国の民の間で冒瀆されているのです。
ローマ2・12―24。56
神のみ名を「魔術的に」、すなわち自分の利益を求めて用いるとき、み名は乱用されます。57 神のみ名をみだりに唱えるとは、信者を名乗りながら神に自分を差し出さず、見せかけの宗教的な目的や俗世の目的のために、神を自分に仕えさせることです。「彼らはあなたについて悪意をもって語り、み名を乱用します」(詩編139・20)。自由の神を、個人的な利益のために、自分だけが使用し、消費する神に変えてしまいます。神を、魔術的な護符にしてしまうのです。
自分の利害を覆い隠すために神のみ名を用いるとき、人はみ名を乱用します。そしてその結果、ほかの人々のいのちと自由を傷つけるために、神のみ名を利用するときも同じです。主の祈りでは、「み名が聖とされますように」に続いて、「み旨が行われますように」と願います。神を父と呼び求めるとは、み旨が実現し、み名が聖とされることを望むことです。決して、自分の意志を実現したり、他人に実現させたりするために、神を利用することではありません。聖ペトロ・クリソロゴによれば、「わたしたちの神のみ名が聖であるように、魂にもそれほどの聖性を持つにふさわしい者となれるように祈る」のです。
アクイレイアの聖クロマティウスは、み名が聖とされるよう願うのは、「洗礼における最初の聖化にとどまり続けるために、わたしたちの内に」聖とされることを求めるのだと言います。そして神のみ名の聖化を求めるとき、義と信仰と聖霊の恵みによって、わたしたちの内に聖とされることを願います。ニュッサの聖グレゴリオは、ある説教でこう述べています。
聖書は、神のみ名がその人々のために冒瀆される者たちを、とがめています。「災いだ。その者たちのために、わたしの名が異邦人の間で冒瀆されている」(イザヤ52・5、ローマ2・24)。すなわち、まだ真理のことばを信じていない人々は、信仰の神秘を受けた人々の生活を見ています。ですから、名ばかりの信者で、その名に反する生活を送っていると、異邦人たちは、それを悪く振る舞う当人の意志のせいにはせず、そのようなことを教えるはずの神秘のせいにします。神の神秘に入った者は、罪が許されないのであれば、そんな悪徳に支配されているはずがない、と考えるのです。
したがって、何よりもまず、わたしの生活のために神のみ名が辱められることなく、あがめられ、聖とされるよう願い、懇願しなければならないと思います。「わたしが呼び求める、あなたの主としての支配が、わたしの内に聖とされますように」。それは、「人々が善い行いを見て、天の父をあがめるためです」(マタイ5・16)。「み名が聖とされますように」と祈る人が願うのは、とがめるところなく、正しく、敬虔な者となることにほかなりません。それ以外の仕方で、人は神をあがめることができないからです。自分の徳によって、その善の源が神の力にあることを証しするのです。
これは、主の祈りについての教父たちの解説のほぼすべてに、繰り返されることです。聖ヨハネ・クリゾストモは言います。
実際には、父という一語だけで、すべての徳を教えるのに十分なはずです。神に父という名を与えた者は、その高い尊さに背かない生活を示し、受けた賜物の大きさに釣り合う熱意を持つのが当然だからです。しかし主は、それだけで十分とはなさらず、もう一つの願いを加えられます。「み名が聖とされますように」。神を父と呼んだ者にふさわしい願いです。神の栄光に先立って何も願わず、その賛美に比べれば、ほかのすべてを二次的なものと見なすのです。「聖とされますように」とは、「あがめられますように」ということだからです。
確かに神には、ご自身の完全な栄光があり、それは永遠に続きます。それでもキリストは、わたしたちの生活によっても神があがめられるよう、祈りの中で願うことを命じられます。つまり、わたしたちがこれほど清く生き、誰もがわたしたちのゆえにあなたをあがめることができますように、と願うのです。わたしたちの生活が、あらゆる点で非の打ちどころがなく、それを見るすべての人が、その栄光を主に帰しますように。
今日の社会は、神のみ名をみだりに唱えることに加え、しばしば反対側でも罪を犯します。神のみ名を顧みずに済ませるのです。それはつまり、神を顧みずに済ませるということです。神は聖であるがゆえに、わたしたちは神を乱用し、「そのゆるしを当てにして、罪に罪を重ねる」(シラ5・5)ことはできません。同時に、世の中でみ名が響かないように、神のみ名について口を閉ざすこともできません。それは沈黙によってみ名を汚すことです。主の祈りのこの願いによって、わたしたちは根本的には、預言者を通して与えられた神のことばを、神に思い起こしていただいています。「わたしは、あなたがたが汚した、わが栄光ある名の聖性を示す」(エゼキエル36・23)。すべての人が認めますように。「大いなる、畏るべきみ名を、彼らがたたえますように。主は聖なる方」(詩編99・3)。
良い羊飼いであるキリストは、一匹一匹の羊を、その名によって知っておられます(ヨハネ10・3)。選ばれた人々の名は、天に(ルカ10・20)、いのちの書に(フィリピ4・5、黙示録3・5、13・8、17・8)記されています。栄光に入るとき、彼らは新しい、言い表すことのできない名を受けます(黙示録2・17)。神の存在にあずかり、父のみ名と御子のみ名を帯びます(黙示録3・12、14・1)。神は、彼らをご自分の子と呼ばれます(マタイ5・9)。実際にそうであるからです(一ヨハネ3・1)。
キリスト者は洗礼のとき、その上にイエスの名が唱えられることによって、聖とされました。教会において神から受けたその名によって、一人ひとりは神に個人的に知られています(イザヤ43・1、ヨハネ10・3)。天の国では、各人の額に、小羊の名と、その父の名が刻まれます(黙示録14・1)。テルトゥリアヌスは、洗礼志願者にこう語ります。
神がすべての人を聖とされるなら、そのみ名は常に聖であり、それ自体として聖とされています。天使の集いは、絶えず歌います。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」(イザヤ6・3、黙示録4・8)。ですから、天使のように生きるよう定められたわたしたちも、それにふさわしい者となりたいなら、神をあがめる天上の声を、すでに地上で学びましょう。来るべき栄光において、それがわたしたちの務めとなるからです。
第3章 み国が来ますように
「み名が聖とされますように」という叫びから、「み国が来ますように」という熱い願いが生まれます。弟子たちはイエス・キリストにおいて、神の国が地上に到来するのを体験しました。サタンは打ち破られ、世と罪と死の力は敗れました。それでもなお、神の国は苦しみと戦いのただ中にあります。信じる人々の共同体は、今も迫害と誘惑に苦しみます。神の王としての支配の下で、キリスト者は新しい義のうちにありますが、迫害も受けています。教会において始まった、地上におけるイエス・キリストの国が育ち、広がり、この世の国々を終わらせ、力と栄光に満ちたみ国を打ち立てられますように。
a 神の国は近づいた
ヤーウェはイスラエルの王です。エジプトの奴隷状態から解放してくださったからです。葦の海を渡った後のミリアムの歌は、最後に声を合わせて歌います。「ヤーウェは、とこしえに王として治められる」(出エジプト記15・18)。イスラエルは歴史を通して、神に選ばれたことを、しだいに自覚してゆきました。それは、民のために、そして民を通して、すべての国々と被造物全体のために、救いの計画を実現するための選びです。特にダビデ王朝の成立以後、イスラエルは神に王の称号を与えることによって、神の救いのみ旨を表しました(出エジプト記19・6)。神は、イスラエルをご自分の国として選ばれたのです。
この神の国の救いの展望には、あらゆる面における正義と平和の生活が含まれていました。多くの子に恵まれた家庭、健康で長い生涯、自分の所有する豊かな土地、十分な収穫などです。しかし、実際にはその願いが実現しないことを知り、イスラエルの知恵ある人々は、ヤーウェへの信仰に忠実でありながら、答えを求めました。神の国の幸いとは、聖なる神殿で主の顔を観想すること、すなわち、見て、交わりに入ることです(詩編42―43編)。あるいは、ご自分の僕が死による朽ち果てを味わうことを許されない主と、ともにいることです(詩編16編、49編、73編)。主は、苦しむ正しい人を、死の中に見捨てることはありません(詩編22編、69編)。とりわけ、「主の僕として」苦しみ、神の救いの計画の実現のために、自分のいのちをささげる正しい人々を見捨てられません(イザヤ53・11、57・2、知恵3・1―9)。そしてついにマカバイの時代、神の忠実さへの希望は、死者の復活への信仰を宣言するに至りました。
イスラエルのこの信仰は、神の約束に支えられています。神の約束は、ダビデの王国が永遠に打ち立てられるという希望を生み、それがメシアへの希望となりました。ダビデの子孫から一つの若枝、イスラエルの国を完成させる王が現れるのです。神の国、世界に対する神の支配へのこの希望は、ダニエル書では人の子、イザヤ書ではヤーウェの僕、ゼカリヤ書では王であり祭司である方の姿をもって表されます。ラビの伝承は、神が常に世の主であることを知りながら、隠れておられる神が姿を現し、公にその力を示されることを待ち望んでいます。この伝承の中に、政治的手段によってみ国の到来を早めようとする熱心党が現れます。彼らはメシアへの希望を、政治的な計画として解釈しました。またその傍らには、悔い改めによって贖いの到来、メシアの日々を早められると信じる、ほかのラビの潮流も現れます。58
すでに洗礼者ヨハネは、神の国が迫っていることを告げ、今という時、回心の時の重要さを示しています。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れ、ユダヤの荒れ野で宣べ伝えた。『回心しなさい。天の国は近づいた』。しかし、多くのファリサイ派やサドカイ派の人々が洗礼を受けに来るのを見ると、言った。『毒蛇の子らよ、迫り来る裁きを逃れられると、誰に教えられたのか。回心にふさわしい実を結べ……斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は皆、切り倒され、火に投げ込まれる』」(マタイ3・1―2、7―10)。神の国が迫るとき、「わたしたちはアブラハムの子だ」(マタイ3・9)と言うような、どのような自己正当化も役に立ちません。み国の門を開くのは、ただ回心、すなわち、罪を認め、神のゆるしを受け入れることだけです。
神の国は、イエスにおいて現実に来ています。洗礼者ヨハネは、イザヤの「主の道を備えよ」(40・3)ということばを引いて(マルコ1・2―3、マタイ3・3)、聞く人々に新しい出エジプトを示しています。荒れ野を通って約束の地へ向かう時が来たのです。だからヨハネは、荒れ野で使命を果たします。その衣服は(マタイ3・4)、ヤーウェの日に先立つ預言者エリヤのものを思い起こさせます(列王記下1・8、マラキ3・1、23、マルコ1・2)。み国に導き入れるのはヨハネではなく、ヨハネはみ国を迎える備えをする者です(マルコ1・7)。回心と清めの洗礼への招きは(マルコ1・4)、「迫り来る怒り」(マタイ3・7)、すなわち、斧と箕の姿で表される終末の裁きを免れるためです(マタイ3・10、12)。この裁きは来ます。「み国は近づいた」からです(マタイ3・2)。
b キリストがみ国を現実にもたらす
イスラエルのこの伝承の中に、イエスと、神の国についてのその知らせが現れます。イエスは神の約束の成就を告げられます。「時は満ち、神の国は近づいた。回心して、福音を信じなさい」(マルコ1・15)。「神の国」は、イエスの宣教の中心となる知らせです。59 しかし、イエスの宣教が神の国を中心としていたのに対し、使徒たちの宣教は、イエス・キリストを告げ知らせることを中心としました。これは、イエスの知らせと使徒たちの知らせとの間に、変化や断絶があることを意味するのでしょうか。むしろ、使徒たちがイエス・キリストを告げ知らせることは、イエスが神の国という表現によって告げておられたことを、はっきりと表すものなのではないでしょうか。
イエスは、わたしたちのために罪とされ、ヨハネから洗礼を受けるために水に入ることによって、罪のために閉ざされていた天を開かれます(マタイ3・16)。洗礼を受けて水から上がられるとすぐに、父と子と聖霊である神が、地上に現れます。塗油する父、油注がれた者であるイエス、そして塗油そのものである聖霊です。神の国は人々のもとに来ました。残るのは、初めから偽り者、人殺しである、この世の支配者を打ち破ることです。霊の力で油注がれたイエスは、荒れ野へ行き、敵を打ち破るまで戦われます。勝利を得て、「イエスは、『回心しなさい。天の国は近づいた』と宣べ伝え始められました」(マタイ4・17)。ナザレの会堂でイエスが宣言されたのも、このことです(ルカ4・16―21)。イザヤの預言は、イエスがそこにおられ、働かれる今日、成就したのです。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えられました。「時は満ち、神の国は近づいた。回心して、福音を信じなさい」(マルコ1・15)。「それゆえキリストは、父のみ旨を行うために、地上に天の国を始められた」(『教会憲章』3)のです。父のみ旨とは、「人々を高め、神のいのちにあずからせる」(同2)ことです。父は、人々を御子イエス・キリストの周りに集めることによって、これを行われます。この集いが教会であり、教会は地上における「この国の芽生えであり、始まり」(同5)です(CEC 541)。
成就の時が鳴り響きました。預言の告知は、60 満ちるときを迎えました。「今日、あなたがたが耳にしたこのことばは成就しました」(ルカ4・16―21)。イエスにおいて、終わりの時の救いをもたらす王が来られました(詩編17編)。その人格とことばとわざにおいて、満ちる時が現実となりました。神の国は、すでに来ています。成就の時が、まだ完成の時ではなく、「栄光と力に満ちた」神の国が、イエスの宣教においてなお未来のことであっても、それでもすでに、「神の恵みの年」、神の栄光ある到来は始まっているのです。「わたしの国は、この世に属していません」とイエスは言われます。それは「天の国」ですが、「あなたがたの内に、あなたがたの間にある」のです。
したがって、イエスの告げられる国は、すでに今、回心を求める現在の現実です(マルコ1・15)。希望をもって待つだけの、単なる未来ではありません。「み国に入るのは、信仰と回心によります」(CEC 541)。神とその国の現存であるイエスは、直ちに受け入れることを求め、その後、その力が完全に現れるのを待つ間、信仰のうちに目を覚ましていることを求められます。61 キリスト者の希望の根拠は、神がご自分の国と栄光にあずからせるために、わたしたちを呼ばれたこと(一テサロニケ2・12)、またイエスの復活、福音の広がり、聖霊の賜物のうちに、その国の力をすでに現実のものとしてくださったことにあります(ローマ5・1―5)。62 この国は、「十字架に上げられたキリストが、人々をご自分へと引き寄せる、その愛によって成長します」(ヨハネ12・32参照)。63
イエスご自身が、その人格とことばにおいて、み国の到来のしるしです。ニネベの人々に回心を説く前に、三日三晩、海の大きな生き物の腹にいたヨナのように、64 キリストは三日目に復活され、その宣教を受け入れる人々の回心を可能にされます。イエスの時代の人々は、預言者自身と、その悔い改めの宣教以外のしるしを受けなかった、ニネベの人々にたとえられます。同じように、イエスのしるしは、イエスご自身と、救いの今このときに回心を呼びかける、その宣教です。
ニネベは滅びに定められていましたが、神が預言者を遣わし、ゆるしを与えることによって、予期せず、受けるに値しない恵みが、ヨナを通して神の賜物として訪れました。ヨナが期待も望みもしなかったニネベの人々の悔い改めは、恵みとして現れます。差し出され、受け入れられた恵みです。同じようにイエスは、まさに罪人たちに、恵みとして回心を差し出しつつ、回心へ招かれます。神の国についてのこの宣教を、イエスは、ご自分のことばを信じ、ご自身を受け入れる人々に差し出されるのです。
「神の国は、すでにあなたがたの間にある」(ルカ17・20以下)と、イエスご自身が宣言されます。ここでイエスは、現在形で語っておられます。神の国は観察できるものではありませんが、まさに、語りかけられている人々の間にあります。み国は彼らの間に、イエスご自身においてあるのです。イエスその方が、神から弟子たちに与えられた、神の国の神秘です。約束の未来は、イエスにおいて今日となります。
神の国はイエスにありますが、神の「指」、すなわち霊によって行われるしるしを通してしか、認めることはできません。ご自身から出る聖霊の輝きのうちに、イエスは、ご自身とともに神の国が来たことを示されます。悪霊の支配の下にある人間の奴隷状態を打ち破る、聖霊の力によって、神の国は現実となるのです。
神の国は出来事であって、空間や、この世の領土ではありません。イエスの働き、ことば、行いにおける聖霊の力、受難と復活は、人にのしかかるこの世の支配者の力を打ち破ります。こうして人を解放し、人々の間に神の支配を打ち立てます。イエスを通して神の霊が世に働かれるがゆえに、イエスこそ神の国なのです。
神の国は、イエス・キリストにおいて、わたしたちのもとに来ます。受肉によって近づき、福音全体を通して告げられ、キリストの死と復活において到来します。イエス・キリストがみ国を父にお返しになるとき、栄光のうちに来ます(CEC 2816)。
神の国は、イエスの宣教の中心です。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに来て、神の福音を宣べ伝えられた。『時は満ち、神の国は近づいた。回心して、福音を信じなさい』」(マルコ1・14以下)。神の国の到来は、旧約聖書で与えられたすべての約束の成就を意味します(マタイ11・12以下、ルカ7・18―23、10・23以下)。「キリストは、父のみ旨を行うために、天の国を始められた」(『教会憲章』3)のであり、教会は地上における「この国の芽生えであり、始まり」(同5)です。キリストは、ことばによって、神の国を示すしるしによって、また弟子たちを遣わすことによって、人々をみもとに集め、み国にあずかるよう招かれます。そして何よりも、ご自身の過越、すなわち十字架上の死と復活によって、み国の到来を実現されます(CEC 542)。
イエスを死者の中から復活させることによって、神は死に打ち勝ち、御子において決定的にみ国を始められました。地上の生涯の間、イエスはみ国の預言者です。受難と復活と昇天の後、神の力、世界に対するその支配にあずかられます(マタイ28・18、使徒言行録2・36、エフェソ1・18―31)。復活によって、キリストの知らせと働きと使命全体は、普遍的な広がりを持つことになります。65
罪によって、「この世の支配者」は、人々を自分の力の下に置きました(ルカ11・18)。66 「地上のすべての国々」の主であり、人を虐げる者です(ルカ13・16、使徒言行録10・38)。人となられた神の御子イエスは、サタンの支配を解き、人々と、彼らに結ばれた被造物全体を、その隷属から贖うために、人々の間に来られます。こうして、父なる神の国を回復されるのです。「神の指によって」(ルカ11・20)、また霊の力によって(ルカ5・7、6・19、8・46ほか)、67 イエスはサタンに打ち勝ってゆかれます。宣教を始めるとき、イエスが告げられるのは、このことです。「イエスは、『回心しなさい。天の国は来た』と宣べ伝え始められた」(マタイ4・17)。「ほかの町にも、神の国の福音を告げ知らせなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのです」(ルカ4・43)。
父なる神の栄光は、イエス・キリストにおいて、十字架において、この上ないへりくだりのうちに成就しました。イエス・キリストは、神性を奪い取ることによってではなく、子として、死に至るまで父に従うことによって、すべての者がひざをかがめる主、神として高められました。み国の相続財産である神性は、プロメテウスのように神に逆らって勝ち取るものではありません。賜物として迎え、神の子であることを受け入れることによって、与えられます。神の国が生まれるのは、子としての振る舞いの中なのです。
み国の幸いは、小さな者、子どものようになる者に与えられます。み国は、へりくだった心で受け入れる貧しい人々と小さな者たちのものです。イエスはその人々を、「天の国はその人々のものであるから、幸い」と宣言されます(マタイ5・3)。父がみ国の神秘を示されるのは、小さな者たちです(マタイ11・25)。68 イエスはまた、罪人たちをみ国の宴に招かれます(マルコ2・17、一テモテ1・15)。その一人が回心するとき、「天には大きな喜び」があります(ルカ15・7)。69 イエスは、み国のたとえ話を通して入るよう招き、70 ことばに「奇跡、不思議なわざ、しるし」(使徒言行録2・22)を伴わせ、み国の現存を示されます。71
真福八端は、イエスの宣教の中心にあります。そこにイエスは、アブラハム以来、選ばれた民に与えられてきた約束を受け継ぎ、それを完成されます。単なる土地の所有ではなく、天の国へと向けるのです。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人々のものである……」(CEC 1716)。
キリストは、この新しい希望を信仰をもって受け入れようとする人々、貧しい人、へりくだる人、苦しむ人、心の清い人、キリストのために迫害される人に語りかけ、こうして、み国に至る驚くべき道を描かれます(CEC 1967)。
イエス・キリストにおいて、「この世に属さない」(ヨハネ18・36)神の国は、この世に入って来ます。父はこれを、神の相続財産として(マタイ25・34、ガラテヤ5・21)、与えてくださいます(マタイ21・43、ルカ12・32)。イエスは、ひたすらこれを宣言されます。ご自身とともに現れ、72 到来したのです(マタイ12・28、ルカ11・20)。時は満ち、大いなる時が来ました(マルコ1・15)。婚礼の時(マルコ2・19)、刈り入れの時です(マタイ9・37―38)。イエスのことばはみ国のことばであり、行いはみ国のしるしです。奇跡は何よりも、み国が来たことを示すしるしです。サタンとの戦いは、その到来の根本的なしるしです。
イエスがヨルダンでメシアと宣言されたときから、サタンの国は、しだいに打ち破られてゆきます(マルコ3・22―30、ルカ10・18)。このサタンの敗北は、神の国が来た証拠です。「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのもとに来ているのです」(ルカ11・20)。シュナッケンブルクは、イエスの奇跡を「行動における神の国」と呼びます。いやしと死者の復活は、もはや涙も苦しみも死もない、み国の現れです。同じようにイエスは、罪のゆるしによっても、み国の到来を示されます。ゆるしを告げるだけでなく、実際に与えられるのです。神だけが罪をゆるせるので、ユダヤ人たちはつまずきます(マルコ2・5―7)。
多くの苦しみに心を動かされたキリストは、病人に触れさせるだけでなく、その惨めさをご自分のものとされます。「わたしたちの弱さを引き受け、病を担われた」(マタイ8・17、イザヤ53・4)のです。しかし、すべての病人をいやしたわけではありません。そのいやしは、神の国の到来のしるしでした。もっと根本的ないやし、過越による罪と死への勝利を告げていたのです。十字架上で、キリストは悪の重荷をすべて引き受け(イザヤ53・4―6)、「世の罪」(ヨハネ1・29)を取り除かれました。病は、その結果の一つにすぎません(CEC 1505)。
しかし、み国は、目立つ姿を伴わずに来ます。イエスご自身において現存していながら(ルカ17・20)、多くの点で失敗しているかのように見え(マルコ4・2―9)、からし種のように小さく(マルコ4・30―32)、隠された宝のようであり(マタイ13・14)、探し求めるべき真珠のようであり(マタイ13・46)、わずかなパン種のようです(ルカ13・21)。死と復活を経て初めて、み国は「力をもって現れ始め」(マルコ9・1)、イエスは「力ある神の子と定められます」(ローマ1・4、一コリント4・20)。そのとき、サタンの国は根本的な敗北を喫しますが、73 まだ完全に打ち破られたわけではありません(二コリント4・4、エフェソ2・2)。
最後の決定的な勝利は、人の子が、天の軍勢に囲まれ、父の栄光のうちに来られるときに実現します(マルコ13・32)。そのとき、サタン(黙示録20・2)、反キリスト(一テサロニケ2・9)、敵対するすべての力(一コリント15・24)は滅ぼされ、神がすべてにおいてすべてとなられます(一コリント15・28)。キリスト者は、イエスにおいて来たみ国の「すでに」と、完成したみ国の「いまだ」との間に置かれています。すでに与えられたみ国の確かさが、その完成への切望をかき立てます。だからキリスト者は叫びます。「マラナ・タ。主イエスよ、来てください」(一コリント16・22、黙示録22・20)。日々願うのは、このことです。「み国が来ますように」。それは、霊と花嫁の叫びです。「主イエスよ、来てください」。
教父たちが語るイエス・キリストの三つの来臨に対応して、み国の三つの段階を語ることができます。死すべき肉における最初の来臨は、み国の始まりを告げました。からし種や、畑にまかれた種のたとえが、これを証ししています。最後の来臨は、刈り入れの時、み国の完成を意味します。そのとき、選ばれたすべての人のための宴をもって、終末のみ国が打ち立てられます。その二つの間、すなわち中間の時には、教会と一人ひとりのキリスト者への、絶え間ない霊の来臨が、み国の展開を刻みます。網のたとえ、麦と毒麦のたとえに示されているとおりです。
洗礼者ヨハネの告知、イエスの洗礼における天の開示、荒れ野におけるサタンとの戦いと勝利は、神とサタンとの終末の戦いを表しています。74 神の国は世に入りました。最終的な勝利は、もはや遠くありません。成長のたとえ、種をまく人とからし種のたとえ(マルコ4章、マタイ13章)は、イエスが告げるみ国の、現在と未来との間の緊張を描きます。つつましい姿のみ国の現実の始まりは、その完成の輝かしい終わりを、あらかじめ告げています。種まきと収穫の間には、連続性があるのです。同じように、ひとりでに育つ種のたとえにおける収穫の比喩も、終末を指しています(マルコ4・26―28)。
み国という終末の現実は、遠い世界の終わりまで延期されるのではありません。近づき、実現し始めます。「神の国は近づいた」(マルコ1・15)。その到来を祈り(マタイ6・10)、信仰は、奇跡(マタイ11・4―5)、悪霊の追放(マタイ12・25―28)、十二人の選び(マルコ3・13―19)、貧しい人々への福音の告知(ルカ4・18)などのしるしのうちに、すでにみ国があるのを見ます。75
c 教会――み国の芽生え
ヨハネは、み国が間もなく来ることを告げました。イエスは、約束の成就を示されます。イエスとともに神は歴史の中に入り、サタンの力は揺らぎ、その支配のしるしである病と罪は後退します。しかし、イエス・キリストにおいて始まった神の国は、時の終わりに完成します。人々の間に神の国を現存させるキリストとそのわざは、栄光ある再臨による完成を待っています。
麦と毒麦のたとえは、両者が分けられる裁きを告げます。麦はみ国に集められ、毒麦は火に投げ込まれます。網のたとえも、善い者と悪い者の分離を告げています。この分離によって今の世は終わり、来るべき世が始まります(マタイ13章)。新しい創造が、この世界に取って代わります(マルコ13・7、13、マタイ24・14)。み国の完成を成すもの、すなわち裁き、復活、永遠のいのち、あるいは永遠の死は、来るべき世に属しています。
キリストの天への昇天は、その人性をもって神の力にあずかられることを意味します。キリストは、「神がすべてをその足の下に置かれた」(エフェソ1・20―22)主とされます。主として、キリストは、そのからだである教会の頭でもあります(エフェソ1・22)。天に上げられ、栄光を受けられたキリストは、教会にとどまられます。教会には、「キリストの国が、すでに神秘のうちに現存し」、教会は、「地上におけるこの国の芽生え、始まりを成している」(『教会憲章』3、5)からです。
み国を教会から切り離すことはできません。確かに教会は、自分自身を目的とするものではなく、神の国に向けられています。み国の芽生え、しるし、道具だからです。しかし、キリストやみ国と区別されながらも、その両者と切り離せない仕方で結ばれています。キリストは、ご自分のからだである教会に、救いの善と手段を、満ちあふれるほどに与えてくださいました。76
キリストの国は、すでに教会に現存していますが、王が地上に来られるときの「大いなる力と栄光」(ルカ21・27、マタイ25・31)をもって、まだ完成してはいません。悪の力はキリストの過越によって根本から打ち破られましたが、それでも、み国は今なおその攻撃を受けています(二テサロニケ2・7)。すべてが従わされるまで(一コリント15・28)、義の宿る新しい天と新しい地が来るまで、巡礼する教会は、この時代に属する秘跡と制度のうちに、過ぎ去るこの世の姿を帯びています。教会自身も、今なお産みの苦しみにうめき、神の子らが現れるのを待ち望む被造物の中に生きています(『教会憲章』48)。だからキリスト者は、「主イエスよ、来てください」(一コリント16・22、黙示録22・17―20)と願うとき、キリストの再臨が早まることを求めるのです(二ペトロ3・11―12。CEC 671)。
したがってイエスは、多くのたとえを通して神の国を告げ、それを現在の現実、同時に未来の現実として示されました。教会は、イエス・キリストの知らせに忠実に、イエスをキリスト、霊において働く方、したがって神の国が今あるその姿として、告げ知らせました。
弟子たちは、み国がすでにイエスご自身において現存し、イエスとの神秘的なきずなを通して、人と世界の中にしだいに打ち立てられてゆくことに気づきます。実際、復活の後、弟子たちは死んで復活したイエスを告げ知らせることによって、み国を宣べ伝えました。フィリポはサマリアで、「神の国とイエス・キリストの名についての福音」(使徒言行録8・12)を告げ知らせました。パウロはローマで神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教えました(使徒言行録28・31)。初代のキリスト者も、「キリストと神の国」(エフェソ5・5、黙示録11・15、12・10)、あるいは「わたしたちの主イエス・キリストの永遠の国」(二ペトロ1・11)を告げ知らせていました。初代教会の宣教の中心は、み国と一つであるイエス・キリストを告げることにあります……。イエスが宣べ伝えられた神の国の告知と、使徒たちが宣べ伝えたイエス・キリストの出来事の告知、この二つは、互いを補い、照らし合っています。77
イエスは使徒たちをご自分とともにおらせ、使命にあずからせ(マルコ3・13―19)、権威を分かち与え、「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わされました」(ルカ9・2)。使徒たちは、永遠にキリストの国と結ばれています。キリストは彼らを通して教会を導かれるからです。「父がわたしに国をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたに国をゆだねます。あなたがたが、わたしの国で、わたしの食卓に着いて食べ、飲み、王座に座ってイスラエルの十二部族を裁くためです」(ルカ22・29―30。CEC 551)。
神のことばがまかれるところには、すでに芽生えとして神の国があります。78 「神のことばは、畑にまかれる種にたとえられます。信仰をもって聞き、キリストの小さな群れに結ばれる人々は、み国を受け入れたのです。その後、種はひとりでに芽を出し、刈り入れの時まで成長します」(『教会憲章』5)。イエスの到来によって、救いの婚礼は始まりました(マルコ2・19)。収穫は、すでに実っています(マタイ9・37以下)。待ち望まれた羊飼いは来られ、79 医者はわたしたちの間におられます(マルコ2・17)。終わりの時の宴への招きは、すでに配られています(ルカ14・16―24、マルコ2・17)。イエスは、サタンからその獲物を奪いつつあります(マルコ3・27)。未来は始まり、み国は来ました。80
神の国の夜明けに生きているというこの自覚が、キリストの弟子に、「み国が来ますように」と叫ばせます。神の栄光と支配が決定的に現れることを願います。この願いをささげるのは、「神の国だけを求め」(ルカ12・31)、ほかのすべてを二次的なものと考える弟子たちでなければなりません。
イエスが神の国は近づいたと告げられるなら、弟子たちは、み国が来ますようにと願います。み国が近いという喜びから、「み国が来ますように」という願いが生まれます。隠された宝を見つけた人は、行ってすべてを売り、み国が来ますようにと祈ります。み国に属することによって、約束の時代の偉大な人々の誰よりも大きな者となるのです(マルコ11・11)。祈る者は、み国が、神による大いなる賜物であり、約束され(ルカ6・20)、与えられたもの(ルカ12・32、マタイ21・43)であることを知っています。人は、子どものように受け取ることしかできません(マルコ2・15)。み国は「待ち望む」ものであり(マルコ15・43、ルカ2・25)、「相続財産として受ける」ものです(マタイ25・34)。それは、全面的に神のわざです。どのような人の行為も、それを実現することはできません。
教会は復活された方を見つめ、すでに起こった一つの来臨を体験し、そこから、同じ主の第二の来臨を告げます。信者たちは一方で神の国の喜びを知り、他方で迫害の中に沈みながら、み国の完成を希望をもって切望し、願います。主が近くにおられると感じています。しかし、諸国の民がみ国に入るために与えられた時が満ちるのを、主が待っておられることも知っています。それは、一粒の麦が死ぬことによって、全世界にいのちの実を結んでゆく時なのです。
教会は、キリストが栄光のうちに再び来られるとき、「天の栄光において初めて完成に達します」(『教会憲章』48)。その日まで、「世の迫害と神の慰めの間を、巡礼しつつ進みます」(聖アウグスティヌス)。地上にあっては、主から離れた異郷にいることを知り(二コリント5・6)、み国の到来をあこがれ望み、「栄光のうちに、その王と結ばれることを、全力を挙げて待ち望み、願っています」(CEC 769)。
典礼において、「教会は、主が来られるまで、その神秘を祝い」、「神がすべてにおいてすべてとなられる」ことを待ちます(一コリント11・26、15・28)。使徒たちの時代から、典礼は、教会の内にある霊のうめき、「マラナ・タ」(一コリント16・22)によって、その終着点へと引き寄せられています。こうして典礼は、イエスの願いにあずかります。「苦しみを受ける前に、この過越の食事を、あなたがたとともにすることを、どれほど切に望んだことか……神の国で成就するそのときまで」(ルカ22・15―16)。キリストの秘跡において、教会は相続財産の保証をすでに受け、永遠のいのちにすでにあずかっています。しかしなお、「幸いな希望、大いなる神、わたしたちの救い主イエス・キリストの栄光の現れを待ち望んで」います(テトス2・13)。81
聖体が主の過越の記念であり、祭壇における交わりによって、わたしたちが「恵みと祝福」に満たされるなら、聖体はまた、天の栄光を先取りするものでもあります。最後の晩餐で、主ご自身が、神の国における過越の完成へ、弟子たちの目を向けられました。「今から後、父の国で、あなたがたとともに新たに飲むその日まで、このぶどうの実から造ったものを、決してもう飲みません」。82 教会は聖体を祝うたびに、この約束を思い起こし、「来られる方」(黙示録1・4)へと目を向けます。祈りの中で、その到来を願います。「マラナ・タ」(一コリント16・22)、「主イエスよ、来てください」(黙示録22・20)、「あなたの恵みが来ますように。この世が過ぎ去りますように」(『ディダケー』10・20)。
教会は、主がすでに今、聖体において来られ、ここ、わたしたちの間におられることを知っています。しかし、この現存は覆われています。だから、「わたしたちの救い主イエス・キリストの栄光ある来臨を待ち望みつつ」、感謝の祭儀を祝います。そして、次のように願います。「み国に入ることができますように。そこで、皆ともに、あなたの栄光の永遠の充満を喜び味わいたいと望んでいます。そこであなたは、わたしたちの目から涙をぬぐってくださいます。わたしたちの神よ、あなたをありのままに仰ぎ見るとき、わたしたちは永遠にあなたに似た者となり、わたしたちの主キリストによって、いつまでもあなたをほめたたえるからです」。83
復活の聖なる三日間を光の源として、復活の新しい時は、典礼暦年全体をその輝きで満たします。この源から、一年のすべてが、典礼によって変えられます。まさに「主の恵みの年」(ルカ4・19)です。救いの営みは時間の中で働きますが、イエスの過越と聖霊の注ぎにおける成就以来、歴史の終わりは先取りされ、いわば前もって味わわれ、神の国は人類の時の中へ入り込んでいるのです(CEC 1168)。
教会は、キリストが栄光のうちに再び来られるとき、「天の栄光において初めて完成に達します」(『教会憲章』48)。栄光における教会の完成、そして教会を通しての世界の完成は、大きな試練なしには起こりません。そのとき初めて、「アダム以来のすべての義人、『正しいアベルから最後の選ばれた者まで』が、普遍教会において、父のもとに集められる」(同2)のです(CEC 769)。
教会は、その最も深く、究極的なあり方において、一、聖、普遍、使徒的です。教会には、キリストご自身において来た「天の国」「神の国」(黙示録19・6)がすでに存在し、時の終わりに完成するからです。み国は、キリストに組み入れられた人々の心の中で神秘的に成長し、終末における完全な現れへと向かいます。そのとき、キリストに贖われ、キリストにおいて「愛のうちに、神のみ前に聖なる、汚れのない者」(エフェソ1・4)とされたすべての人は、一つの神の民、「小羊の花嫁」(黙示録21・9)、「神のもとから天を降って来る、神の栄光に輝く聖なる都」(黙示録21・10―11)として集められます。そして「都の城壁は十二の土台石に支えられ、そこには小羊の十二使徒の名が刻まれている」(黙示録21・14)のです(CEC 865)。
「町や村を巡って、神の国の福音を宣べ伝え、告げ知らせておられた」(ルカ8・1)イエスは、繰り返し弟子たちを、「神の国を宣べ伝えるために」遣わされます(ルカ9・2、10・1、9、11)。収穫は多いのに、み国の働き手は少ないので、収穫の主に、働き手を送ってくださるよう祈ることを勧められます(ルカ10・2)。しかし、選ばれた人々が、天の宴の喜びの中で父とともに席に着く、84 終末の決定的な実現に先立って、み国は、小さく(マタイ13・31―33)、神秘的に(マタイ13・11)、さらには妨げられながら(マタイ13・24―30)、始まります。
現実に始まったみ国は、85 それを全世界に宣べ伝える教会を通して(マタイ16・18以下)、86 地上でゆっくりと育ちます(マルコ4・26―29)。そしてついに、キリストの栄光ある再臨とともに、87 確立され、父に返されます(一コリント15・25)。その間、み国は純粋な恵みとして与えられます。88 これを受けるのは、へりくだる人々、89 子どものようになる人々、み国のために所有するものをすべて手放す人々です。90 高慢で自己中心的な人々は、この恵みを拒みます。91
み国に入れるのは、新しいいのちという(ヨハネ6・9―10)、婚礼の衣を着ている者だけです(マタイ22・11―13)。しかも、み国は不意に来るので、目を覚ましていなければなりません。来たときに目覚めていると認められ、門が閉ざされる前に入るためです(マタイ25・1―13)。み国を待つとは、結局、その決定的な完成をもたらす、キリストの栄光ある来臨を待つことです。主の祈りのこの願いは、「主イエスよ、来てください」とも表せます。聖キプリアヌスは解説します。
み名がわたしたちの内に聖とされるよう願うのと同じように、み国もわたしたちの内に現れるよう願います。神が約束し、キリストの血と受難によって獲得された、そのみ国の到来を願います。今、地上で神に仕えるわたしたちが、来るべきいのちにおいて、王であるキリストとともに治めるためです。主ご自身が約束されたとおりです。「わたしの父に祝福された人たち、来なさい。天地創造のときから、あなたがたのために用意されていた国を、相続財産として受け継ぎなさい」(マタイ25・34)。
確かに、キリストご自身こそ神の国です。わたしたちは毎日、その方が来られることを願い、その到来を、速やかに恵み与えていただきたいと望みます。神とキリストに自分をささげる人は、地上の国ではなく、天の国を願います。神を父と呼ぶことを学んだキリスト者であるわたしたちは、神の国がわたしたちのもとに来るよう祈るのです。
d み国が来ますように
神の国は、神の栄光と王としての支配、そして人間の救いと至福を指します。祈る者は、この両方を父に願います。神の支配が実現するところには、人々の救いもあるからです。神の国は、神に選ばれた人々によって成り立ちます。聖アウグスティヌスは、洗礼を受けようとする人々に語ります。
信じて主のうちを歩むなら、わたしたち自身がみ国であることを覚えていなさい。独り子の血によって贖われたすべての信者が、み国となります。この国は、死者の復活とともに来ます。そのとき、主ご自身も来られ、右にいる人々に言われます。「わたしの父に祝福された人たち、来なさい。み国を相続財産として受け継ぎなさい」(マタイ25・34)。み国が来ますようにと言うとき、わたしたちが望み、願うのは、このことです。
この願いにおいて、神の子らは、み国へ入ることを確かにしてくれるあり方を、賜物として天の父に求めます。心の貧しさ(マタイ5・3)、迫害の中での忠実さ(マタイ5・10)、み旨を行うこと(マタイ7・21)、み国のことばを聞いて悟ること(マタイ13・13)、み国の隠された宝、高価な真珠を得るために、「持ち物すべて」を手放す力(マタイ13・44―46)などです。神を父と呼び求め、すでに今から「み国の子らとして」(マタイ13・38)生きることを許してくださいと願います。子として摂理に身を委ね、明日のことへの不安と思い煩いから自由になるためです(マタイ6・25―32)。
この祈りでみ国の到来を願うよう命じられていなかったとしても、わたしたちは希望の目標へと急ぎつつ、この願いを口にせずにはいられなかったでしょう。祭壇の下の殉教者たちの魂は、大きな声で主を呼び求めます。「聖なる、真実な主よ、いつまで裁きを行わず、地上に住む者たちに、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」(黙示録6・10)。実際、殉教者たちのために、時の終わりには正義が実現されなければなりません。主よ、どうか、み国の到来を早めてください。92
み国は、父からわたしたちのもとに来る賜物です。イエス・キリストは、それを保証してくださいました。「恐れてはならない。父は喜んで、あなたがたにみ国を与えてくださるからです」(ルカ12・32)。しかし、わたしたちが到来を願い、待ち望む国を、父が与えられるのは、み旨を行う人々に対してです(マルコ7・21)。弟子たちは、それだけを求め、到来を待ち望み(ルカ23・51)、父に願います(ルカ11・2)。「神の国は、聖霊による義と平和と喜びです」(ローマ14・17)。エルサレムの聖キュリロスは言います。
ためらいなく「み国が来ますように」と言えるのは、清い心だけです。「罪が、わたしたちの死すべきからだを、もはや支配することがありませんように」(ローマ6・12)と言うためには、パウロのもとで学ばなければなりません。行いも思いもことばも清く保つ人は、神に、「み国が来ますように」と言えるのです。
『ディダケー』の証言によれば、初代のキリスト者は、「恵みが来ますように。この世のありさまが過ぎ去りますように」と願っていました。ニュッサの聖グレゴリオは、次のように表現します。父の支配の到来を求める祈りは、「罪を通しての敵の支配」が終わることを願うものです。これを「ルカは、一部の写本によれば、さらによく説明しています。『み国が来ますように』という願いを、『あなたの聖霊がわたしたちの上に来て、清めてくださいますように』と置き換えているのです。聖霊が宿る人を清め、罪をゆるすことは、聖霊に固有のわざだからです」。93
オリゲネスもこの願いを解説し、「父のみ国の到来」を願う人々は、すでに持っている(ルカ17・20―21)「神の国が完成し」、最終的な成就に達するよう祈るのだと言います(一コリント15・24―28)。「神は一人ひとりの聖なる者の内に治めておられる」(ヨハネ14・23)からです。その人々は、すでに「この世の支配者」の圧政から解放され、その内に「罪はもはや支配していません」(ローマ6・12)。「神の国と罪の国は、共存できない」からです。
神の国が、目に見える仕方で来るのではなく、わたしたちの内にあり(ルカ17・20―21)、口に、心にあるなら(申命記30・14)、神の国が来るよう祈り願う人は、自分の内にある神の国が立ち現れ、実を結び、完成するよう祈っているのです。わたしたちの内にある神の国が完成するのは、「キリストが、すべての敵をご自身に従わせた後、み国を父なる神に引き渡し、神がすべてにおいてすべてとなられる」ときです(一コリント15・24―28)。
「義と不義、光と闇、キリストとベリアルとは、共存できません」(二コリント6・14―15)。ですから、神がわたしたちの内に治められることを望むなら、「罪を、わたしたちのからだに支配させては、決してなりません」(ローマ1・12)。むしろ、「地上の部分」(コロサイ3・5)を死なせ、霊のうちに実を結ぶべきです。そうすれば、神は、霊の楽園におけるように、わたしたちの内を歩まれ、神おひとりが、わたしたちの内に治められるのです。
「イスラエルの時」に、神が、奴隷状態から解放されて土地の賜物を受けた人々を治められたように、「イエスの時」には、罪の奴隷状態から解放され、聖霊の賜物を受ける人々を治められます。キリストの到来以前には、「罪は死を通して支配していました」(ローマ5・21)。「死を支配する者、すなわち悪魔によって、人々は一生涯、死の恐怖のゆえに奴隷にされていました」(ヘブライ2・14―15)。キリストが来られたのは、まさに、「ご自分の死によって、死を支配する者を滅ぼし、死への恐怖からその者に服従していた人々を解放する」(ヘブライ2・15)ためです。キリストを通して「恵みが支配し」(ローマ5・21)、「神の僕となる」(ローマ6・22)ためです。こうして父は、「闇の力からわたしたちを救い出し、愛する御子の国へ移してくださいました」(コロサイ1・13)。御子の霊を受け、「神の子とされ、子であれば、神の相続人、キリストと共同の相続人ともされた」(ローマ8・17)のです。ニュッサの聖グレゴリオは語ります。
人は欺かれ、善を見分けられなくなり、悪へと傾いたので、悪がその生活に入り込み、悪徳や情念の支配に服するようになりました。だからわたしたちは、神の国が来ますようにと願います。滅びの力に代わって、神の、いのちを与える力の支配が内に住まわなければ、その権力から逃れることはできないからです。神の国の到来を求める願いが意味するのは、このことです。滅びと死から解放され、罪のきずなを解かれ、死がもはやわたしたちを支配しませんように。敵が打ち勝ち、罪や悪徳によって服従させることがありませんように。むしろ神が、清めてくださる聖霊を送って、わたしたちの内に治めてくださいますように。
アクイレイアの聖クロマティウスは、神の国の到来を求める願いとは、「約束され、イエス・キリストの血によって獲得された天のみ国が、わたしたちのもとに来る」ようにという祈りだと言います。同時に、「来るべきその国にふさわしい者となれるような生き方」を、神に願っているのです。モプスエスティアのテオドロスは語ります。
子として迎えられることによって、天の国へ呼ばれ、天でいつもキリストとともにいることを望む人々にとって(一テサロニケ4・17)、み国の到来を願うことには、それにふさわしい思いを持ち、天のいのちにかなう行いを実践することが伴います。地上のものを軽く見、父の尊さにふさわしい振る舞いで生きるのです。
聖アウグスティヌスも、さまざまな箇所で、この願いを解説しています。
神の国の到来を願うときにも、前の願いと同じように、神のためではなく、自分たちのために願っています。神は世界の創造以来、地上を治めておられますが、まだ神を知らない人々の前に、特にわたしたちの間に、み国が現れるよう願うのです。すべての聖なる者に必ず来ると確信しているものが、わたしたちのもとにも来るようにと願います。ですから、神の国が来るよう祈るのは、独り子のからだの部分に属し、時の終わりに神の国を与えられる聖なる人々の一員となるためなのです(マタイ25・34)。今、目を覚ましていましょう。後に復活し、世々とこしえに治め始めるためです。
み国が来ますように。 わたしたちは、その国にいることができるように、自分たちのもとに来ることを願います。み国は来ます。しかし、あなたが左側にいるなら、何の役に立つでしょうか。だから、このように祈るときには、自分のために善を求め、自分のために祈っています。神の国を与えられる聖なる者たちの数に入るような生き方を、父に願っているのです。
来るとは、人々に現れることです。光が現存していても、目の見えない人や、目を閉じる人にとっては不在であるように、神の国も、現存していながら、知らない人々にとっては不在なのです。
神の国は、この世で実現しますが、「この世に属していません」(ヨハネ18・36)。この神の国が地上に降るとき、新しい天と新しい地を伴う、新しい創造が立ち上がります。神の栄光に満ちたこの国は、人にとっての完全な幸いです。たとえの姿で、それは王の広間(マルコ10・40)、招かれた人々が食卓に着き(マタイ8・11)、食べ、飲む宴の広間として描かれます(ルカ22・30、マルコ14・25、マタイ22・1―13)。また、門を開け閉めできる、宮殿や都にもたとえられます(マタイ16・19、23・13)。人は、そこに入ることができます。94 こうして神の国は、人にとってのいのちです。95 迫害された弟子たちは、その国で報いを受けるからです。
わたしたちが、速やかに来るよう呼び求める神の国は、実際には、この今の時の終わりを意味します(マタイ24・3)。それなのに、なぜ、今の時が長く続くことを望む人がいるのでしょうか、とテルトゥリアヌスは問います。まだ長い間仕え続けるよりも、できるだけ早く、王として治めることを望みましょう。
歴史の終わり、決定的な啓示のとき、わたしたちは歌います。「わたしたちの全能の神である主は、王として支配される」(黙示録19・6)。そのとき、最後の招きを聞いて、み国へと進んでゆくのは、わたしたちです。「わたしの父に祝福された人たち、来なさい。天地創造のときから、あなたがたのために用意されていた国を、相続財産として受け継ぎなさい」(マタイ25・34)。終わりが来るとき、御子はみ国を父なる神に引き渡されます(一コリント15・24)。「そのとき、正しい人々は、父の国で太陽のように輝く」のです(マタイ13・43)。
e み国――聖霊のわざ
人は、自律を求めるとき、神になろうとしています。それは、人の最も深いあこがれです。神は、その願いに反対されるのではなく、人の内にそれを呼び起こされます。ただ、人は神にあずかることを求める中で、道を間違えるのです。イエス・キリストは、その道を示してくださいました。聖パウロは、キリスト者に、その足跡に従うよう招きます。
キリスト・イエスが抱いておられたのと同じ思いを、互いの間で抱きなさい。この方は、神の身分でありながら、神と等しいことに固執せず、かえって自分を無にし、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順になられました。それゆえ、神はこの方を高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものが皆ひざをかがめ、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と告白し、父なる神に栄光を帰するためです。
フィリピ2・5―11
神の恵みは、世に根本的な変化をもたらします。み国に生きることは、倫理的な面では、貧しくなるという愚かさ、世の効率の規則から外れ、神の貧しさへ向かうことを意味します。そうして、神ご自身であり、また、ご自分に属する人々に与えてくださる富へと、自分を開くのです。だから神の国は、婚礼や宴のたとえが示すように、喜び、祝祭、美しさのしるしのもとに現れます。しかし、崇高なのは、からし種やパン種のたとえが示すように、その神の富が、人間の無力さ、弱さの姿で現れることです。
この逆説によって、イエスは、ラビや熱心党の伝承にある黙示的な構図から踏み出されます。イエスの示す新しいみ国の姿は、華々しさのないものの中に、受難の中に現れる神の勝利です。イエスは王ですが(ヨハネ18・33以下、マタイ27・15)、十字架の王座から治められます。その上には、すべての時代、すべてのことばに向けて、その称号が記されます(ヨハネ18・19―20)。
義と聖性の根源である父は、御子ご自身の霊によって、わたしたちの心に無償で注がれる憐れみを通して、義と聖性のみ国に入らせてくださいます。「神おひとりのほかに、善い者はいません」(マルコ10・18、ルカ18・19)。人への救いは、イエスを通し、霊において、ただ父から流れ出るものです。聖ベルナルドゥスは、力を込めてこう表現しています。
主の憐れみこそ、わたしの功徳の土台です。主がわたしを憐れみ、与えてくださるだけの功徳を、わたしはいつも持つでしょう……わたしは永遠に、主の憐れみを歌います(詩編88・1)。では、自分自身が義とされたことを、それによって祝うのでしょうか。決してそうではありません。主よ、ただあなたの義だけを、思い起こします(詩編70・14)。
もっとも、あなたの義は、わたしのものでもあります。あなたご自身が、神によって、わたしのために義の源とされたからです(一コリント1・30)。この義が、あなたとわたし、二人に十分ではないと恐れるべきでしょうか。いいえ……あなたの義は永遠だからです(詩編118・142)。永遠ほど広く、果てしないものがあるでしょうか。ですから、永遠で、この上なく広いあなたの義は、二人を十分に覆います。わたしにおいては、多くの罪を覆います。しかし主よ、あなたにおいては、何を覆うのでしょうか。憐れみの宝、善の尽きることのない富にほかなりません……神は、聖霊によって、この富を啓示されました。聖霊は、御傷という門を通して、わたしたちを神の聖所へ導き入れてくださいました。
神の国を告げ知らせるために遣わされたイエスは、弟子たちに言われます。「わたしの小さな群れよ、恐れてはなりません。わたしの父は喜んで、あなたがたにみ国を与えてくださいます」(ルカ12・32)。み国は賜物です。しかし、その賜物は、内側から実を結ぶために、受け入れられなければなりません。「天の国は、実を結ぶ民に与えられます」(マタイ21・43)。「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではありません。わたしの父のみ旨を行う者が入ります」(マタイ7・21)。「みだらな者、汚れた者、貪欲な者は誰も、キリストと神の国を相続できません」(エフェソ5・5)。「回心しなさい。天の国は近づいた」(マタイ3・2、4・17)。「水と霊から生まれなければ、天の国に入ることはできません」(ヨハネ3・5)。「子どものようにならなければ、天の国に入ることはありません」(マタイ18・3)。
神との関わりにおいて子どもになることは、み国に入る条件です(マタイ18・3―4)。身を低くし(マタイ23・12)、小さくなること、さらに、「上から生まれ」(ヨハネ3・7)、「神から生まれる」(ヨハネ1・13)ことが、「神の子となる」(ヨハネ1・12)条件です。水と霊から生まれなければなりません。「ダビデへの約束の対象であるみ国は、96 聖霊のわざです。それは、霊において貧しい人々のものとなります」(CEC 709)。
聖霊降臨の日以来、キリストが告げられたみ国は、キリストを信じるすべての人に開かれています。肉のへりくだりと信仰のうちに、その人々は、すでに至聖なる三位一体の交わりにあずかっています。聖霊は、絶えず来られることによって、世を「終わりの時」、教会の時へと導き入れます。み国はすでに受け継がれていますが、まだ完成してはいません(CEC 732)。
聖霊は、ご自分との交わりによって、わたしたちを霊に生きる者とし、楽園へ戻し、天の国と、子として迎えられる身分へ導いてくださいます。神を父と呼び、キリストの恵みにあずかり、光の子と呼ばれ、永遠の栄光を分かち合う、その信頼を与えてくださいます。97
典礼における聖霊の、造り変える力は、み国の到来と救いの神秘の完成を早めます。待望と希望のうちに、至聖なる三位一体との完全な交わりを、実際に先取りさせてくださいます。教会の聖霊降臨の祈り、エピクレーシスを聞き入れる父から遣わされた聖霊は、受け入れる人々にいのちを与え、すでに今から、その人々の相続財産の保証となられるのです(エフェソ1・14、二コリント1・22)。98
時が満ちることには、み国の到来が伴いますが、完成はまだです。だから、「み国は近づいた」と言うことができます。み国には、未来にかかわる次元が保たれており、それが信者たちの希望と祈りを養います。イエスご自身がみ国の到来を願って祈り、弟子たちにもそう祈ることを教えられます(マタイ6・10、ルカ11・2)。み国を待つことは、目を覚まして、注意深く待つことを求めます。僕たちは主人を待ちます。帰って来た主人が目覚めていると認めるなら、彼らは幸いです(ルカ12・36―38)。
この目覚めは必要です。いつ来られるかは分からず(マタイ13・33―37)、遅れることさえあるからです(38節)。盗人(ルカ12・39―40)と管理人(ルカ12・41―46)のたとえは、来るみ国を待ち、切望する間、目を覚ましている必要を強調します。遅れは管理人を試しますが、目覚めに忍耐を加える機会でもあります。
これらのたとえは皆、同じ情景を描いています。歴史を完成させる来臨を待つこと、そして、その来臨がいつかは分からないということです。だからこそ、絶えず、忍耐強く目を覚まして生きることができます。み国を現存させ、体験できるものとされたイエスは、力と栄光をもって来て、世を裁き、み国を父に引き渡す人の子として、ご自身の再臨を待つよう促されます。99 それゆえ、「今、この時に、人々の前でわたしを恥じる者を、人の子も父のみ前で恥じる」のです(マルコ8・38)。マタイの表現では、「わたしの側に立つ者の側には、わたしも立つ」(10・32―33)となります。
教会は、死んで復活されたキリストこそ、人間の贖い主であると告げます。この贖いは、わたしたちが教会においてその到来を願い、味わう、神の国の歴史です。この救いの歴史の中、ここ、信仰の巡礼において、神と信じる者は、キリストと霊を通して、互いの内に住むことに、少しずつ慣れてゆきます。人が神の場所を占めることも、神が人に取って代わり、その自由を消し去ることもありません。
父と子の愛である聖霊は、わたしたちの心に注がれ、終わりのない愛、唯一で三位一体である神の顔を、かいま見せてくださいます。「愛を見るなら、三位一体を見る」のです。今、教会の愛のうちに、わたしたちは、夜明けの初めの光でぼんやりと神を見ています。終わりには、沈むことのない日の満ちあふれる光の中で、顔と顔を合わせ、はっきりと見るでしょう。しかしすでに今、少しずつ、み国の永遠の光に慣れてゆくのです。聖イレネオは語ります。
神のことばは、人の内に住み、人の子となられました。それは、父のみ心に従って、人が神を迎えることに慣れ、神が人の内に住むことに慣れるためです。
第4章 み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように
キリストは言われました。「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではありません。天におられるわたしの父のみ旨を行う者が入ります」(マタイ7・21)。ですから、天の国に入りたいと望む者が、神にみ旨の実現を願うのは当然です。そのためキリストは、この第三の願いを、天の国を求める願いの後に置かれます。
この願いを完全な形で神にささげる祈りがあります。マリアの、「おことばどおり、この身に成りますように」という祈りです。あるいは、キリストの、「わたしの意志ではなく、み旨が行われますように」という祈りです。祈りの中で、神のみ旨が実現することを願うとき、イエスの霊が、わたしたちの上に吹いておられます。自分の意志よりも神のみ旨を望ませてくださるのは、ただイエスの霊だけだからです。
a 父のみ旨
歴史の中で、神は段階的にご自身を現されます。モーセを通してみ名を、ダビデを通してみ国を、預言者たちを通してみ旨を知らせてくださいます。神のみ旨を知ること(知恵9・10)も、行うこと(詩編143・10)も、神の知恵の賜物です。ですからキリスト者は、父が子らに「み心にかなうことを行う」(一ヨハネ3・22)力を与え、御子のことばを「聞いて、行う」生活を恵んでくださるよう祈ります。祈りによって、わたしたちは「何が神のみ旨であるかを見分け」(ローマ12・2、エフェソ5・17)、「それを行うための忍耐を得る」(ヘブライ10・36)ことができます。
イエスは弟子たちに告げられました。「わたしを遣わされた方のみ旨とは、与えられた者を一人も失わず、終わりの日に復活させることです。父のみ旨とは、御子を見て信じる者が皆、永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日に復活させることなのです」(ヨハネ6・39―40)。「この小さな者の一人でも滅びることは、天におられるあなたがたの父のみ旨ではありません」。つまり父は、貧しく、軽んじられていても、天の国にあずかるよう定められたイエスの弟子が、一人も失われることを望まれません(マタイ18・14)。知恵ある者や賢い者には隠されたみ国の神秘が、小さな者たちに示され、父のみ心が実現しているのを見て、イエスご自身も喜びにあふれます(ルカ10・21)。
イエスの喜びの祈りにある、心を打つ「はい、父よ」(マタイ11・25―27)は、その心の奥底、父の望みに対する一致を表しています。それは、苦悶の中で父に言われることを、あらかじめ示します。イエスの祈り全体は、父のみ旨の神秘に対する、人間としての心の、この愛に満ちた一致のうちにあります(エフェソ1・9。CEC 2603)。
父のみ旨は、いのちです。わたしたちの父のみ旨は、「すべての人が救われ、真理を知るに至る」(一テモテ2・3―4)ことだからです。神は、真理を知ることによって、すべての人が救われることを望まれます。この真理を託された教会は、神の普遍的な救いの計画を信じ、宣教する教会となります(CEC 851)。神は、「誰も滅びることを望まず、忍耐しておられます」(二ペトロ3・9、マタイ18・14)。御子は、父のこのみ旨を知らせるために来られました。
神は、「あらかじめ御子においてお定めになった恵み深い計画に従って、み旨の神秘」を知らせてくださいました。それは、「すべてのものを、キリストを頭として一つにする」ことです。「み旨の決定に従ってすべてを実現される方の計画により、あらかじめ選ばれたわたしたちは、キリストにおいて相続財産を受ける者となりました」(エフェソ1・9―11)。したがってわたしたちは、この恵み深い計画が、すでに天で行われているように、地上でも実現することを願います(CEC 2823)。父のみ旨、世のいのちのための救いの計画を行うために、自分たちの意志を御子の意志と一つにしてくださいと願います。わたしたちは根本的に無力ですが、イエスと結ばれ、その聖霊の力によって、自分の意志を父のみ手に置き、御子がいつも選ばれたこと、すなわち父に喜ばれることを行う道を、選ぶと決めることができます(CEC 2825)。
神のみ旨は、「誰も滅びないこと」です(マタイ18・14)。「み旨が行われますように」と言うのは、不幸を待つことではありません。わたしたちは神を父と呼び求めました。どうして、わたしたちに対するそのみ旨が、受け入れなければならない悪いものであるはずがあるでしょうか。望んだものを与えられないことは、あるでしょう。「何を願うべきか、わたしたちは知らない」(ローマ8・26)からです。しかし、「子がパンを求めるのに石を、魚を求めるのに蛇を与える父親がいるでしょうか」。神は、救いのみ旨によって、わたしたちの望みを超え、誤った望みを正されます。しかし、そのみ旨を恐れる必要は、決してありません。わたしたちの神についての考えは、あまりに狭いものです。善いことが起こると奇跡と言い、悪いことが起こると神のみ旨と言うのです。テルトゥリアヌスは解説します。
わたしたちは、天でも地でも救われるために(一テサロニケ4・5)、み旨の豊かさを神が与えてくださるよう願います。神のみ旨は、ご自分の子として迎えたすべての人の救いだからです。これが、主が宣べ伝え、働き、苦しむことによって実現された、神のみ旨です(ヨハネ4・34、5・30、6・38、ヘブライ10・9)。「み旨が行われますように」と願うとき、わたしたちは自分自身の善を望んでいます。たとえ逆境に苦しまなければならなくても、神のみ旨には、いかなる悪もあり得ないからです。
聖ヨハネ・クリゾストモは、こう説明します。
み旨の実現を願うわたしたちは、天の生き方に従い、神が望まれることを自分も望むようになることを求めています。主のことばのつながりに注意してください。主は、来るべき善を望み、天への道を急ぐよう語られました。しかし、道のりが終わらない間も、地上に生きながら、すでに天の生活を送ることを望まれます。天と天の善を願うことは必要です。しかし、天に達する前から、地上を天とし、地上にいても、行うことも語ることも、すでに天にいるかのようにしなさいと言われるのです。これは自分たちの努力ではなく、神の恵みによるわざですから、わたしたちは父に願います。「み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように」。
イエスはすでに、神の計画に逆らう強い者の家に入られました(マルコ3・24以下)。サタンが地歩を失うにつれて、神のみ旨が実現してゆきます。この願いでキリスト者は、サタンに神のみ旨の外へ引きずり出される自分を体験しつつ、サタンが「さらに強い方」に縛られることを願います。その支配から解放され、神のみ旨を行えるためです。サタンが完全に打ち破られたとき初めて、神のみ旨は、サタンに何の力もない天と同じく、地上でも完全に実現するのです。
b 御子は父のみ旨を行われる
神のみ旨は、イエスの生涯全体を動かす力です。父のみ旨が、すべてを満たしていました。イエスご自身が証しされるとおりです。「わたしは、自分からは何もせず、父に任されたことを行います」(ヨハネ5・30)。「わたしの糧は、わたしを遣わされた方のみ旨を行い、そのわざを成し遂げることです」(ヨハネ4・34)。「わたしが降って来たのは、自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみ旨を行うためです」(ヨハネ6・38)。永遠の昔から計画された神のみ旨は、キリストにおいて、完全に、ただ一度、決定的に果たされました。イエスは世に入られるとき、「神よ、わたしは、み旨を行うために来ました」(ヘブライ10・7、詩編40・7)と言われました。「わたしは、いつも、父に喜ばれることを行っています」(ヨハネ8・29)と言えるのは、イエスだけです。苦悶の祈りにおいて、このみ旨を全面的に受け入れられます。「わたしの意志ではなく、あなたのみ旨が行われますように」。100 「神のみ旨に従い、わたしたちの罪のために、ご自身をささげてくださいました」(ガラテヤ1・4)。「このみ旨によって、わたしたちは、イエス・キリストのからだがただ一度ささげられたことにより、聖とされたのです」(ヘブライ10・10)。
御子の受肉は、子としての従順の表現です。子であるがゆえに、父を栄光で満たし、罪が損なった栄光を人と被造物に取り戻そうとされます。人となられた御子は、天と同じように地にも神のみ旨が行われるために、世に入られます。ベツレヘムで貧しく生まれ、エジプトへ逃れ、み国の福音を宣べ伝え、奇跡を行い、十字架に死ぬとき、イエスは、子としての愛に動かされ、父のみ旨を行っておられるだけです。そのすべてを動かすのは、父への愛です。「わたしが父のことにかかわっていなければならないと、ご存じなかったのですか」(ルカ2・49)というマリアとヨセフへの答えは、その生涯全体を動かした、子としての従順を明かしています。キリストにおいて、すべては父への愛から出て、父へと向かうのです。
イエスは、使命の決定的な時に先立って祈られます……。父が成し遂げるよう求められる、これらの救いの出来事を前にしたイエスの祈りは、愛に満ちた父のみ旨に、ご自身の人間の意志を、へりくだりと信頼のうちに委ねることです(CEC 2600)。
信仰とは、ご自身を啓示される神へ、人が自分を開くことです。神のことばと歴史に、礼拝と愛をもって同意することです。神から受けた慈しみと恵みを、人への慈しみと神への賛美のうちに生かし、忠実な生活で応えることです。信仰と生活は対立も矛盾もしません。信仰は生活を変え、喜びをもって神へ向けられたものとして生きさせます。この根本の方向づけは、神が人への啓示においてご自身を伝え、人が神へ自分を与える応答を呼び起こされることから生まれます。しかし人は、神とのこの関わりをゆがめ、正反対のものに変えることができます。自分自身を超えて神へ向かい、神として礼拝する代わりに、神を利用し、自分の計画のための手段の一つとして使おうとする誘惑に屈するのです。
これが、荒れ野におけるイスラエルの誘惑であり、すべての人の誘惑です。アダムとエバの、「神のようになって、善悪を知る」(創世記3章)という誘惑です。マサとメリバの誘惑、「イスラエルの人々が、『主はわたしたちの間におられるのか、いないのか』と言ってヤーウェを試した」(出エジプト記17・7)、あの誘惑です。人が人であるのは、絶えず、自由に神を選ぶことができるからです。しかし人、すなわちアダムは、自分自身を神として選びました。人は、他者に依存しないことで、そこにいのちを見いだせると思い、自律を選びます。それは孤独を選ぶことでもあります。しかし、そこに見いだすのは、裸であることと恐れと死だけです。「悪い者、偽り者」に欺かれた人は、独立を求めて、自由を失います。自由は、真理においてのみ生きられるからです(ヨハネ8・32―44)。
神への反逆というこの誘惑は、神を試すことと、神を否定することの二つの形で現れます。荒れ野を前にして、限界を伴う被造物としての具体的な人生を前にして、存在の十字架を前にして、神が人を置かれる試練を前にして、人は神を試し、試みにかけ、その試練を終わらせ、十字架を取り除き、自分の歴史を変えるよう迫ります。101
自分の力では、人は罪の状態から抜け出し、生活を正して、再び神を見いだすことができません。意志の決断だけでは足りません。少なくとも最良の時には、あるいは最も悪い時、絶望の深い時には、善を望めるかもしれません。しかし、行い始めると、自分の無力さと一貫性のなさにつまずきます。行動の自由を奪う、一種の魔力に服し、捕らわれていると感じます。愛への招きと罪の誘惑、神への従順と「罪の法則」への隷属の間に感じる、この内的な分裂は、人を捕らえた悪魔の力によるものです。自由は鎖につながれています。聖パウロが描く苦しみは、これです。
わたしは、罪の奴隷として売られています。自分のしていることが、本当に分かりません。望むことを行わず、かえって、憎むことを行っているからです……。善を望むことはできますが、実行することができません。内なる人としては、確かに神の律法を喜んでいます。しかし、からだには別の法則があって、理性の法則と戦い、からだの中にある罪の法則の奴隷にしているのです……。要するに、わたし自身、理性では神の律法に従いながら、肉では罪の法則に仕えているのです。
ローマ7・14―25
この状態から、パウロは叫びます。「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。誰が、この死へと向かうからだから救ってくれるのでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します」(ローマ7・24)。
罪は、人の神との関わりを乱します。しかし、神の人との関わりを破壊することはできません。その関わりを定め、造られたのは、神ご自身だからです。それを取り去り、取り消すことができるのも、ただ神だけです。人の内にある神の似姿は、罪によってゆがめられますが、破壊されることはなく、新たに造り直すことができます。原初の堕落の後も、人が地上で神の似姿であるという変わらぬ目的と可能性を持つこと自体を、すでに神の恵みと考えることができます。罪は、神の愛に打ち勝ちません。キリスト・イエスにおいて知った神の愛から、誰がわたしたちを引き離すでしょうか。人間に属する何ものも、どの被造物も、罪さえも、神の愛から遠ざけることはできません。
人が拒んでも、その人が生きているかぎり、神は愛の関わりを保たれます。ご自分に逆らう似姿に対しても忠実であり続ける、その神の恵みは、人がキリストを通して救われる召命を示しています。キリストは罪を担い、罪とされ、人々に捨てられ、十字架でその顔を損なわれます。それは、罪ある人に、神の似姿としての本来の輝きを返すためです。
『ヘブライ人への手紙』は、イエス・キリストをこう示しています。「子らが血と肉を分かち持っているので、主も同じものにあずかられました。それは、死を通して、死を支配する者、すなわち悪魔を滅ぼし、死への恐怖のために、一生涯奴隷となっていた人々を解放するためでした」(2・14―15)。
反逆と不従順によって死んだ人は、キリストの無条件の従順によって救われます。キリストは、死を前にしても父の愛を疑わず、父への愛によって死なれます。また、神の近さを失わせる反逆から人を救うために、人への愛によって死なれます。こうして罪に打ち勝ち、人々を神と和解させてくださいました。この和解には、あらゆる罪のゆるしが伴います。「信仰によって和解を受けたわたしたちは、主イエス・キリストを通して、神との平和を得ています。キリストによって、信仰をもって今立つこの恵みに近づくことを許され、神の栄光にあずかる希望をよりどころとして誇っています」(ローマ5・1―2)。キリストの血によって神と和解したので、「キリスト・イエスに結ばれている者には、もはや罪に定められることはありません」(ローマ8・1)。
キリストは、人と逆の道をたどって、罪の支配からわたしたちを贖われました。人は、被造物でありながら、神の身分をねたみ、神になろうとしました。「キリストは、神でありながら、神と等しいことに固執なさいませんでした。かえって自分を無にし、僕の身分を取り、人々と同じ者となられました。身を低くし、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順になられました。だから神は、この方を高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。すべての舌が、『キリスト・イエスは主である』と宣言し、父なる神に栄光を帰するためです」(フィリピ2・5―11)。
キリストにおいて、人はいのちと自由に立ち帰ります。キリストが死から復活へと移る過越は、人をもともに引き寄せます。死からいのちへ、闇から光へ、奴隷状態から自由へ、疲れから安らぎへ、悲しみから喜びの祝祭へと、移してくださるのです。
c 子らは父に祈る――み旨が行われますように
イエスは言われました。「天におられるわたしの父のみ旨を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのです」(マタイ12・50)。父のみ旨を行う人は、父の子、キリストの兄弟姉妹であり、最も深い愛と血縁のきずなでキリストに結ばれています。その方が生きられたように、生きたいと願います。
み旨が行われますように。師はこう祈られ、弟子たちもこう祈ります。イエス・キリストとの交わりにおいて、弟子たちは、自分の意志を神のみ旨に、全面的に委ねます。イエスの霊において祈る人々は、何よりも神のみ旨が実現することを、絶えず繰り返し願います。
キリスト者は、キリストの子としての振る舞いの中に、自分の子としての生活の道を見いだします。「父は、わたしたちが御子の姿を映すよう、あらかじめお定めになりました。それは御子が、多くの兄弟の中で長子となられるためです」(ローマ8・29)。キリスト者はキリストのように、「わたしの糧は、父のみ旨を行うことです」、また、「わたしはいつも、父に喜ばれることを行っています」(ヨハネ8・29)と言うよう招かれています。キリストの足跡に従い、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、父に従って」(フィリピ2・8)、この世を歩みます。こうして、父から託されたわざを成し遂げたイエスの満足を、キリスト者も味わうのです(ヨハネ19・30)。神のみ旨は、救いのみ旨です。父として、み国の宴に空席が残らないことを望んでおられます。
「み旨が行われますように」と祈るとき、キリスト者は何を願っているのでしょうか。何よりも、父のみ旨を行う賜物、より正確には、父が自分たちの内にみ旨を実現してくださることです。子として、父のみ旨が自分たちにとって最善であること、弱い自分たちにはそれを行えないことを知り、父ご自身が内に実現してくださるよう願います。山上の説教全体に表された父のみ旨を行うことは、人の努力の実りではなく、父の賜物です。天で行われるとおり、地上で子らに行わせることのできる方は、ただ父おひとりです。聖キプリアヌスは、この願いを解説して、キリスト教の人間理解を明確に示しています。
人は、根本的な弱さを内に抱え、絶えず倒れる危険にさらされています。悪魔が、神の救いのみ旨がその人の内に実現しないよう、前に障害を置くからです。だから人は、祈りによって神に支えられる必要があります。それは、信頼してよりかかることです。人間の弱さを、神の御子ご自身が引き受けられたからです。御子は、神のみ旨をご自分の意志とし、祈りに支えられながら、その弱さを生きられました。
わたしたちは、神がみ旨を行うよう願うのではなく、自分たちが行うことを願っています。神が望まれることをなさるのに、誰も逆らうことはできません。しかし悪魔は、わたしたちが神に忠実であることを妨げます。ですから、神のみ旨がわたしたちの内に行われるよう祈り、願います。それが実現するには、神の働きと守りが必要です。自分自身で強い者は、誰もいないからです。
そのうえ主ご自身、担っておられた人間の弱さを示すために、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26・39)と言われました。そして、自分の意志ではなく神のみ旨を行うよう、弟子たちに模範を残すため、「しかし、わたしの望むようにではなく、あなたがお望みになるように」(マタイ26・39)と付け加えられました。
御子が従順に父のみ旨を行われたのなら、まして僕は、主人に従い、その意志を行うべきです。
ヨハネも、神のみ旨を行うよう勧めています。「世も、世に属するものも、愛してはなりません。世を愛する人には、父の愛がありません。世に属するすべて、肉の欲、目の欲、この世の野心は、父からではなく、世から出るものだからです。しかし、世とその欲は過ぎ去ります。神のみ旨を行う人だけが、永遠に生きます」(一ヨハネ2・15―17)。
さらに、天と地で神のみ旨が行われることを願います。わたしたちは、地であり天、肉であり霊です。肉と霊の間には、絶え間ない戦いがあります。互いに逆らうので、わたしたちは望むことを行いません。霊は天と神に属することを求め、肉は地上とこの世に属することを望むからです。ですから、神の助けと介入によって、両者に調和がもたらされるよう祈ります。霊と肉に神のみ旨が実現し、神から新たに生まれた魂が保たれるためです。使徒パウロは、ガラテヤの人々に、はっきりこのことを語っています(ガラテヤ5・17―23)。わたしたちは日々、いや、絶えず、み旨が天に行われるとおり、地にも行われるよう祈るのです。
祈りは、神に自分の意志を行わせるためのものではありません。自分の意志との、苦悶に至るまでの戦いの中で、神のみ旨を受け入れるためのものです。祈るとは、み旨と一つになり、それを自分の意志とすることです。祈るとは、神との交わりに入ることです。神に愛してほしいと求めるためでさえなく、自分の心を変え、神が無償で差し出してくださる愛を受け入れるためなのです。
舟の漕ぎ手が桟橋に近づくと、綱を投げ、係留の杭に結び付けます。そして、綱を自分の方へ引きます。しかし、桟橋が舟に近づくのではなく、舟が桟橋に近づくのです。祈りとは、このようなものです。
ルカが伝える主の祈りには、この願いはありません。しかし『使徒言行録』には、それを思い起こさせる場面があります。カイサリアの信者たちとルカ自身が、エルサレムに上らないようパウロを説得できず、「主のみ旨が行われますように」と叫ぶのです(使徒言行録21・12―14)。神のみ旨を行うという主題は、初代のキリスト教の教えに頻繁に現れます。「神は、み旨の決定に従って、すべてを実現される」(エフェソ1・11)のですから、み旨を見分け(ローマ12・2)、悟るために(エフェソ5・17)、内面を新たにされなければなりません。「十分に知る」(コロサイ1・9)力を与えてくださるよう願い、「神のみ旨を完全に行う者であり続ける」(コロサイ4・12)ことが必要です。キリスト者の生活は、「神のみ旨に従って」(一ペトロ4・2)、すなわち聖なる生活を生きることだからです。「神のみ旨は、あなたがたが聖となることです」(一テサロニケ4・3)。
神のみ旨を行うことによって、神はわたしたちを聞き入れてくださいます(ヨハネ9・31)。また、それによって、「世とその欲」のはかない移ろいを免れます。「神のみ旨を行う人だけが、永遠にとどまる」(一ヨハネ2・17)からです。この永遠のいのちこそ、神の似姿としてこの世に生きる子らへの、神のみ旨です。
子は父に似ます。神の子らは、父にならいます。「愛されている子らとして、神にならう者となり、キリストがあなたがたを愛し、わたしたちのためにご自身をささげられたように、愛のうちを歩みなさい」(エフェソ5・1)。この模倣は、賜物であり、応答です。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる、天の父の子となるためです。自分を愛する人を愛し、兄弟にだけあいさつするなら、何か特別なことをしているでしょうか。異邦人も同じことをしているではありませんか。だから、天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・44―48)。また、「何を食べようかといのちのことを、何を着ようかとからだのことを、思い煩ってはなりません。そのようなものは皆、異邦人が追い求めるものです。天の父は、あなたがたにそのすべてが必要なことをご存じです」(マタイ6・27―38参照)。
ペトロも同じように語ります。「従順な子として、無知であった以前の欲望に従わず、召し出された方が聖であるように、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」(一ペトロ1・14―16)。キリスト者が父なる神にならうのは、人を愛することによってだけです。神の子らと異邦人を区別するのは、愛です。わたしたちは、生きた、いつまでも変わらない神のことばによって、朽ちない種から新たに生まれた神の子であるがゆえに(一ペトロ1・23)、神にならうことができます(一ペトロ1・14―16、一ヨハネ3・2―10)。愛である神は、わたしたちの愛の源、子としてのいのちの始まりです。
父にならうことは、その愛する御子、長兄にならうことによっても実現します(ローマ8・28―30)。父なる神は、独り子が多くの兄弟の長子となることを望まれます。従順は、神の子であることの根本的な表現です。父へのわたしたちの従順は、御子が伝えてくださるおきてを行うことを通して実現します(ヨハネ14・15、21―24)。「こうして、ゆがんだ、よこしまな世代の中で、とがめるところのない神の子となり、世の中で星のように輝くのです」(フィリピ2・15)。
d マリア――主のはしため
教会とキリスト者のかたどりであるマリアは、御子と同じように、従順に父のみ旨へ身を委ねます。主のはしためは、マリアが自分自身に用いた唯一の称号です。それは、父への従順と、御子の受肉による贖いの計画を受け入れることを意味します。神のはしためとしてマリアは、自分自身の名において、また新しいイスラエル、キリストの教会の名において、神の計画に応えます。イスラエルが不信仰と不従順のために果たさなかったことを、マリアは信仰と父への従順によって果たします。最初のイスラエルがアブラハムの信仰の行為から始まったように、新しいイスラエルは、神のはしためマリアの信仰の行為から始まります。
父なる神は、御子の受肉に先立って、母の承諾があることを望まれました。創造の秩序における最初の女が死にかかわったように、贖いの秩序におけるこの最初の女が、いのちにかかわるためです。このはしための使命は、主の僕の使命と同じく、明るく見通せるものではなく、苦しみをも伴います。父が御子に定められた道は、その母マリアにも定められた道です。
旧約聖書では、サムエルの母ハンナ(一サムエル1・11)とエステル(エステル4・17)が、自分を主のはしためと認めています。詩編作者は、「あなたのはしための子」(詩編86・16、116・16)として、神のみ前に立ちます。イスラエル自体が、何よりも「ヤーウェの僕」です(イザヤ41・8ほか)。マリアは、神が「はしための小ささに目を留め」、「僕イスラエル」に行われた、驚くべきわざを歌います(ルカ1・48、49)。そのために、フィアット、「おことばどおり、この身に成りますように」と答えました。このことばによって、天使が告げたことが、自分に起こることを望みます。神の働き、み旨の実現のために、自分自身を差し出すのです。
マリアは、まさに主の「特別な宝」(出エジプト記19・5)であり、まったく主への奉仕にささげられています。新約の最初の信者、「新しい心と新しい霊を受けて、主の定めに歩む」(エゼキエル36・26―27)民の、最初の一人です。罪なく造られ、恵みに満たされたマリアが、自由に承諾を与えた後、霊はその上に降り、その存在全体を形づくり、生ける神の神殿とされます。「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)。天使の知らせへのこの応答によって、マリアは、「主のはしためとして、御子その方と、そのわざに、自分を全面的にささげた」(『教会憲章』56)のです。
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身に成りますように』」(ルカ1・38)。オリゲネスによれば、この答えは、神にこう言ったのと同じです。「ここにわたしがおります。わたしは蝋を塗った板です。書く方が、望まれることをお書きください。すべての主が、望まれるとおり、わたしを扱われますように」。マリアを、当時、書き物に用いられた蝋板になぞらえているのです。今日なら、神が望まれることを何でも書ける白紙として、マリアが自分を差し出した、と言うでしょう。
聖霊に形づくられたマリアは、存在し得る中で最も自由な人です。「主の霊のおられるところに、自由があります」(二コリント3・17)。自由は、神の愛に、喜びをもって「はい」と答えるために与えられています。人が最も自由であるのは、生涯の決定的な時に「はい」と言うとき、呼ばれたときに全存在をもって、「ここにわたしがおります」と答えるときです。102 差し出された愛に、愛の「はい」で応えられるとき、人は完全に自由です。自由は、自律と同じではありません。自律はしばしば「いいえ」によって表されますが、自由は「はい」において生きられます。そのために、わたしたちの自由は贖われ、聖霊によって、その力を与えられます(ガラテヤ5・13)。愛するために完全に自由なマリアは答えます。「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身に成りますように」。
憐れみの父は、受肉に先立って、あらかじめ選ばれた母の承諾があることを望まれました。女が死にかかわったように、いのちにもかかわるためです……。こうして、アダムの娘マリアは、神のことばを受け入れることによって、イエスの母とされました。そして、寛大な心をもって、罪によるいかなる妨げもなく、神の救いの真理を受け入れ、主のはしためとして、御子その方と、そのわざに、自分を全面的にささげました。全能の神の恵みによって、御子とともに、御子に従って、贖いの神秘に仕えたのです。それゆえ、教父たちが、マリアを単なる受動的な道具ではなく、自由な信仰と従順によって、人間の救いに協力した方と考えるのは、当然です。
『教会憲章』56
こうしてマリアは、神秘に開かれたまま、その神秘に包まれるに任せます。12歳の御子を失う先取りの体験によって備えられ、御子の死という計画を受け入れ、「十字架の時に、その傍らに立ち」、父のみ旨が実現することを受け入れられます。御子が、肉による家族のきずなよりも、父との関わりを優先されることを受け入れます。その信仰は苦しみを取り去りませんが、シメオンが告げた「剣」が心を貫き、過越の光が完全に現れるまで、それを受け入れられるようにします。小ささのうちに、マリアは、御子の十字架に至るまで忠実であり続けます。
したがってマリアは、信仰をもって神のことばに同意し、素直にその導きに身を委ね、少しずつ明らかになる神秘を体験する、信じる人です。ことばを心に保ち、両刃の剣のように、心を貫くままにします。こうしてその思いは、諸国の民を照らす光であることば(ルカ2・32)の輝きに、しだいに貫かれてゆきます(ルカ2・35)。神の働きかけに同意し、形づくられるに任せる、まことの弟子の姿です。
カナの婚礼におけるマリアのことば、福音書が記すマリアの最後のことばは、シオンの娘であるマリアの信仰告白です。選ばれた民の全会衆がシナイで、神との契約を受け入れたのと同じです。103 イエスについて、すべての給仕たちにマリアが求めるのは、契約の姿勢、すなわち、そのことば、神のみ旨を全面的に受け入れる姿勢です。こうして、弟子たちをイエスへの信仰に導きます(2・11)。104
給仕たちは、マリアの招きに従い、キリストに従う人々です。イエスは、その人々に栄光を示されます。「わたしのおきてを受け入れ、守る人こそ、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は、父に愛され、わたしもその人を愛し、自分を現します」(ヨハネ14・21)。これこそ、父が「尊んでくださる」(ヨハネ12・26)、イエスに仕えるまことの人です。ことばに従ってキリストに仕えることに、キリストの現れが続きます。これが、カナの給仕たちの体験です。彼らは、「良いぶどう酒がどこから来たかを知っていました」(ヨハネ2・9)。イエスのことばに従って、水をくんだのは彼らだからです。「主のおきてを守ることによって、主を知っていると分かります」(一ヨハネ2・3)。カナの給仕たちは、イエスの友として新しい契約に入るための、キリストへの奉仕と従順の原型です。「新しいおきてを与えます。わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい……。わたしが命じることを行うなら、あなたがたは、わたしの友です」(ヨハネ13・34、15・14)。
マリアは、受胎告知のフィアットによって、みことばの受肉によって人類を贖うという父のみ旨を受け入れ、キリストを胎内に迎えます。神の贖いの計画へのこの承諾は、生涯を通して、御子の足跡に従う信仰の道のりの中で、少しずつ明らかにされてゆきました。こうして、わたしたちに対する母としての使命を自覚してゆきます。そして、御子の神秘が歴史の中に展開するにつれて、母としてのマリアのふところは広がってゆきました。ついに十字架のとき、教会全体とすべての人々を抱くことによって、その母性は満ちるに至りました。
今、天で栄光を受けたマリアは、神の救いの計画における、母としての使命を完全に自覚しています。だから、意志においても意向においても、人類の唯一の救い主、栄光を受けられたキリストの、救いの意志と意向に、まったく結ばれたままです。地上で神のみ旨を行ったように、天においても行い続けています。
e 天に行われるとおり、地にも
このことばには、多くの理解の仕方があります。天で至福にある天使と聖人がみ旨を行うように、地上のわたしたちも行うこと。あるいは、イエス・キリストにおいて行われるように、教会でも行われることです。聖アウグスティヌスは言います。教会は天、教会の敵は地です。したがってわたしたちは、神の国がすべての人に及び、教会で行われるとおり、世界でも神のみ旨が行われることを願っています。また、今、わたしたちの内にみ旨が行われ、その後、天においても行われるように、という意味にも受け取れます。
聖キプリアヌスは、わたしたちがみ旨の実現を願うのは、「神が望まれることを、自分たちが行えるようにするため」だと言います。「わたしたちには悪魔が逆らい、思いと生活が全面的に神に従うことを妨げています。ですから、神のみ旨が、わたしたちの内に行われることを願います。そのためには、神の助けと守りが必要です。自分の力によって強い人はおらず、神の善と憐れみによって強いのです」。そして「天に行われるとおり、地にも」と付け加えます。つまり、「からだと霊において」です。「地上のからだと、天から来る霊を持つわたしたちは、地であり、天でもある」からです。あるいは、信じる者の「天」において行われるように、信じない人々の「地」においても、み旨が行われるように、という意味です。聖キプリアヌスは、さらに述べます。
この願いは、別の意味にも理解できます。主は敵をも愛し(マタイ5・44)、迫害する人々のためにも祈るよう勧められます。ですから、地に属し、まだ天に属する者となり始めていない人々の内にも、神のみ旨が行われるよう願います。そのみ旨は、キリストが人間を回復することによって、完全に行われたものです。キリストは弟子たちを地の塩と呼ばれ(マタイ5・13)、使徒は、最初の人を肉に属する者、第二の人を天に属する者と呼びます(一コリント15・47)。
善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせる父なる神に似るべきわたしたちが(マタイ5・45)、キリストに教えられて、すべての人の救いのために祈るのは、当然です。神のみ旨が、信仰を通して天に属する人へと変えられた、わたしたちという「天」に行われたように、「地」、すなわち信じない人々にも行われますように。最初の誕生によって、まだ地に属するその人々も、水と霊から新たに生まれることによって(ヨハネ3・5)、天に属する者となり始めるためです。
オリゲネスは、主の祈りの解説で、父のみ旨が「天に行われるとおり、地にも行われる」ことを願うのは、「地上にいるわたしたちが、天で行われると同じように、あらゆる点で神のみ旨を行うため」だと言います。「天に属する人々に似て、彼らと同じく天の似姿を帯びることによって、天の国の相続人となるため」です。また、「天」をキリスト、「地」を教会とする、たとえによる解釈も有効です。「キリストが完全に父のみ旨に従われたように、教会を成す人々が、神のみ旨に従う」ことを祈るのです。「天と地の一切の権能を与えられた」(マタイ28・18)方は、「祈りにおいて、父のみ前で、弟子たちを協力者とされます。すでにみことばに従う天のものにならい、地のものも、その支配に従うためです」。
最後に、「天に行われるとおり、地にも」は、「先の願い」にかけて理解することもできます。つまり、「天にある者たち」に起こるように、「地にあるわたしたち」の内にも、神のみ名が聖とされ、み国が来るように、ということです。聖アンブロジオは、新受洗者に語ります。
キリストの血によって、天と地のすべてが平和にされました(コロサイ1・20)。天は聖とされ、悪魔はそこから追い出され、今、自分が欺いた人々のところにいます。「み旨が行われますように」とは、「天と同じように、地にも」平和がありますように、ということです。
モプスエスティアのテオドロスは、さらに説きます。み旨が天と同じように地にも行われることを願うとき、神に逆らうものが何一つない天で送ると期待する生活を、この世ですでにならうことを求めるのです。そのためには、使徒のことばに従わなければなりません。
「この世に倣うことなく、思いを新たにして造り変えられ、何が神のみ旨か、何が善く、受け入れられ、完全なことかを、見分けなさい」(ローマ12・2)。わたしたちの意志が、この世の生活に倣って形づくられることなく、日々、神に喜ばれることへと高められますように。主がこのことばで教えられるのは、そのような、行いにおける完全さです。
聖アウグスティヌスは、この願いにおいて、「霊という天」で行われるように、「肉という地」でも神のみ旨が行われるよう願うのだと言います(ローマ7・18―25)。そして解説します。
霊は天、肉は地です。使徒の、「霊によって神の律法に仕え、肉によって罪の法則に仕えています」(ローマ7・25)ということばのとおりです。神のみ旨は天で行われていますが、地では行われていません。しかし、肉が霊に逆らわず、死が打ち破られたときには、もはや霊は、どのような肉の欲望とも戦わなくてよくなります。この内なる戦いがやみ、肉が霊に反するものを望まず、霊も肉に反するものを望まなくなったとき、この戦いがやみ、すべての欲が愛に変わったとき、そのとき、神のみ旨は、天にも地にも行われるのです。
さらにアウグスティヌスは、天のアダムをまとい、正しく天と呼ばれる信者たちが行うように、まだ地である信じない人々によっても、神のみ旨が行われるよう願うのだと付け加えます。
わたしたちは、敵のために祈るよう命じられています。教会は天、敵は地です。したがって、わたしたちがあなたを信じるように、敵も信じることを願います。彼らは地であるため、わたしたちに逆らいます。天に変わり、わたしたちとともにいて、皆が友となりますように。神の教会は天、敵は地です。ですからわたしたちは、敵の善、すなわち、彼らも信じ、キリスト者となることを願うのです。
このことばはまた、真理に反することなく、「わたしたちの主イエス・キリストにおいて行われるように、教会においても」と解釈できます。父のみ旨を行う花婿と同じように、花婿と結ばれた花嫁にも行われるということです。天が地を潤して実を結ばせることから、天と地は、花婿と花嫁を意味することができるからです。
「み旨が行われますように」と神に願うとき、わたしたちは、天で定められた救いの計画が、地で実現することを望んでいます。天の国が地に降るなら、神の救いの計画は、天と同じように地にも実現します。天の国は、イエス・キリストがすでに地上に始められた「天のあり方」です。キリストの弟子たちは、神が望まれるとおり、救いの計画を完全に実現してくださることを望みます。キリストが世に入られて以来、神のみ旨は地上で行われつつあります。キリストに従う弟子たちが望むのは、神が、愛する御子において成し遂げられたように、自分たちの生活にもその計画を実現してくださることだけです。
聖テレジアは、心を込めて語ります。「地が天となれば、わたしの内にみ旨が行われることも可能となるでしょう。しかし、そうでなければ、わたしのような、これほど劣り、実りのない地で、どうして可能となるのか、主よ、わたしには分かりません」。
弟子たちが、天使たちと同じように忠実に神の計画を実行する者となるとき、神のみ旨は、天と同じように地にも行われます。イエスは地上で、天の国の宴への招きを聞く人々を、ご自分の周りに集められます。その人々を呼び、回心を差し出されます。自分の意志を行うことから、神のみ旨を行うことへ、移るのです。「天におられるわたしの父のみ旨を行う者が、神の国に入ります」(マタイ7・21、ルカ6・45)。天の国を受け継ぐよう招かれたイエスの家族は、イエスの周りに集まり、「神のみ旨を行う」(マタイ21・28以下、ルカ12・47)徴税人や罪人から成っています。「神のみ旨を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのです」(マルコ3・35)。それは、み旨に生きたいと願う人々をもって、神が準備しておられる、終末の時の共同体です。
したがって、み旨が天に行われるとおり地にも行われるよう願うのは、神の救いの計画の実現を望む人々です。天のあり方を、この地上のあり方ともすることができるのは、ただ神おひとりです。忠実な弟子は、自分の欠けたところを知り、内にみ旨を実現してくださいと、神に願います。父に、霊をわたしたちの内に注いでくださいと願います。そうすれば、み旨を行うことができます。「神の霊に導かれる人は皆、神の子です」(ローマ8・14)。オリゲネスは語ります。
キリストに結ばれることによって、わたしたちは主と一つの霊となり、そのみ旨を行えるようになります。こうして、天に行われるとおり、地にも行われるのです。
魂の最も深いところから、神のみ名の聖化、み国の到来、み旨の実現を願った祈り手は、ほかに何を願えるでしょうか。わたしたちに必要なものをご存じのイエスは、なお四つの願いを、唇に置いてくださいます。「み国の子ら」は、その到来を切に待ち望みながら、この世を巡礼者として歩みます。神の助け、日ごとの糧、日々のゆるし、誘惑に陥らないための悪い者のわなからの守りを、必要としています。イエスが教えてくださるこれらの願いは、極度の窮乏にある人の、助けを求める叫びのように響きます。
第5章 わたしたちの日ごとの糧を、今日、お与えください
テルトゥリアヌスは言います。「神の知恵は、何と細やかに、この祈りを整えられたことでしょう。天の善、すなわち、神のみ名の聖化、み旨の実現、み国の到来を願った後、わたしたちは、時の中での必要のために祈り始めます。主がすでに、『まずみ国を求めなさい。そうすれば、これらはすべて、添えて与えられる』(マタイ6・33、ルカ12・31)と言われたとおりです」。しかし、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべてのものによって生きます」(マタイ4・4、申命記8・3)。すなわち、神のことばと霊によってです。地上には飢えがありますが、それは「パンへの飢えでも、水への渇きでもなく、神のことばを聞くことへの飢え」です(アモス8・11)。
日ごとの糧を求める願いは、主の祈りの第二部の冒頭に置かれています。どのような糧なのでしょうか。聖キプリアヌスは答えます。「このことばには、霊的な意味と、文字どおりの意味があります。そして、神の善によって、どちらの理解の仕方も、わたしたちの救いに役立ちます」。
a 日ごとの糧
マタイ福音書の、主の祈りそのものの文脈において、イエスは弟子たちに、明日の食べ物や着物を心配して苦しまず(マタイ6・25―34)、今日、父の摂理に身を委ねるよう招かれます。空の鳥を養い、野の花を装われる父なら、まして子らのことは、どれほど心を配ってくださることでしょう。父は、必要なものをご存じです。それでも、子としての信頼をもって願うことを望まれます。父親が、「パンを求める」子に石を与えないのなら、「まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に、どれほど善いものを与えてくださることでしょう」(マタイ7・7―11)。この善いものには、当然、パン、すなわち必要な食べ物が含まれています。明日のことを思い煩うことなく、子らが父に願う、日ごとの糧です。
ルカ福音書でも、主の祈りの直近の文脈では、パンはからだの養いを指します(ルカ11・5、11)。福音書全体の、より広い文脈においても同じです。105 友人に「パンを三つ」求めた人の、しつこいほどの粘り強さと、父に「パンを求める」子の信頼をもって、神の子らも、「パン」の賜物を「日ごとに」願います。必要なものをご存じの、摂理をもって計らう父のみ手に、着物と食べ物への心配を委ね(ルカ12・22―31)、「日ごとにお与えください」と祈るのです。
したがって、まず願っているのは、「必要な養い」、日ごとの糧、いのちに十分なパンです。「貧しさも富も与えず、必要な糧を食べさせてください」(箴言30・8)。その日暮らしの人が、毎日のパンを父に期待する、その頼りなさこそ、「今日、お与えください」という願いの切迫感を説明します。キリストの弟子が頼れるのは今日だけであり、求めるのも今日のパンだけです。「明日のことを思い煩ってはなりません。明日は明日が思い煩います」(マタイ6・34)。救いは「今日」において実現します。地上の生活の心配も、今日を越えることはできません。「一日の苦労は、その日だけで十分です」(マタイ6・34)。
神に願う糧は、神が自分たちの父であることを、日々認める表現です。糧を願うとは、毎日、神への信仰と、神からの愛によって生きることです。日々の養い(使徒言行録6・1、ヤコブ2・15)は、信じる人が父からの賜物として受けると期待するものです。「種をまく人に種を与え、食べるためのパンを与えてくださる」神は、「子らをあらゆる賜物で満たし、いつも必要なものを持つことができるようにする力」をもお持ちだからです(二コリント9・8、10)。
お与えください。 すべてを父に期待する、子らの信頼は美しいものです。父は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせ」(マタイ5・45)、すべての生き物に、「時に応じて食べ物を」与えてくださいます(詩編104・27)。イエスが教えてくださるこの願いは、実際、父の栄光を現します。父が、あらゆる善を超えて、どれほど善い方であるかを認めるからです(CEC 2828)。
ラビのミドラシュに、一人の息子を持つ王の話があります。年の最初の新月になると、王は息子に一年分の食糧を与えていました。そのため息子は、一年に一度しか父に会いに来ませんでした。息子の顔を見たいと願う父は、やり方を変えました。一日に必要な分の食糧だけを与えることにしたのです。息子は父のやり方が分からず、不満を述べ、なぜ変えたのかと尋ねました。王は答えました。「毎日、お前の顔を見たいからだ」。息子は感謝して言いました。「確かに、それならわたしも、毎日あなたのお顔を見られます」。
日ごとの糧を願うことは、毎日願うことです。「わたしたちの日ごとの糧を、日ごとにお与えください」とルカは言います(11・3)。そこには、祈る人々が、「袋も金も持たずに、み国を告げるために遣わされた」弟子であり、日ごとに摂理の父から養いを待つ者であることが映し出されています。袋も金も持たずに遣わされた弟子たちの唇では、糧への願いは特に切実となり、その意味を余すところなく表します。
イエスは、彼らを呼ぶとき、従えるように、家族、財産、仕事を離れることを求められました。106 ただ一つの仕事は、神の国を宣べ伝えることです。その人々にイエスは教えられます。「何を食べようかといのちのことを、何を着ようかとからだのことを、思い煩ってはなりません。いのちは食べ物より、からだは着物より大切だからです。烏を見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、納屋も倉も持ちません。それでも神は養ってくださいます。あなたがたは、鳥よりも、どれほど大切なことでしょう。野の花が、紡ぎも織りもしないのを見なさい。しかし、栄華を極めたソロモンさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。今日、野にあり、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装われます。ましてあなたがたには、どれほどよくしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べ、何を飲もうかと追い求め、心配してはなりません。それらは皆、この世の異邦人が追い求めるものです。むしろ、み国を求めなさい。そうすれば、それらは添えて与えられます」(ルカ12・22―31)。
これが、すべてを与えると約束された神への、子らの身の委ねです。実際、すべては神のものです。神を持つ人には、何も欠けません(CEC 2830)。聖テレジアは、見事にこう表します。
何ものにも心を乱されず、 何ものにもおびえないように。 すべては過ぎ去り、 神は変わられません。 忍耐はすべてを得ます。 神を持つ人には、 何も欠けません。 ただ神だけで十分です。
CEC 227参照。
イエスの心に従って、この願いを父にささげる人は、イエスの弟子たちの共同体の生存と、福音の告知に全面的に携わる可能性を保証することによって、神がみ国の宣教を可能にしてくださるよう祈っています。道のための備えを何も持たず、二人ずつ宣教に遣わされた弟子たちの唇では、「わたしたちの糧を、今日、お与えください」という願いが、完全な意味を帯びます。わたしたち二人に、また同じように遣わされたほかの弟子たちにも、お与えください、ということです。
弟子たちは地上にいる間、天の父に、物質的な生活に必要なものを願うことを恥じるべきではありません。地上に人を造られた方は、そのからだを保ち、守ることを望んでおられます。だから弟子たちは、日ごとに父に糧を願います。地が生み出すパンも、本当は上から来る、神の賜物であると知っています。ですから、勝手につかみ取るのではなく、願い求めるのです。神の糧であるがゆえに、それは毎日、新たに届きます。イエスに従う人々は、蓄えではなく、キリストとの交わりのうちにいのちをつなぎ、神の善をあがめるための、神の日々の賜物を願います。聖アウグスティヌスは、洗礼志願者に語ります。
わたしたちの日ごとの糧を、今日、お与えくださいと言うとき、あなたは神の前で、自分が物乞いであることを認めています。恥じることはありません。地上でどれほど豊かでも、神に対しては、いつも物乞いです。物乞いは金持ちの家の戸口に立ちます。しかし、その金持ちも、さらに豊かな方の家の前に立たなければなりません。施しを求められる人も、また自分で求める必要があるのです。何も求める必要がないのなら、神に祈らないでしょう。
しかし、金持ちに何が必要なのでしょう。わたしは、日ごとの糧そのものが必要だと、ためらわずに言います。神が与えてくださらなければ、多くの富の中でも生きられません。神が摂理をもって計らってくださらなければ、何一つ持たないでしょう。金持ちとして床に就き、貧しい者として目覚めた人が、どれほどいることでしょう。また、何も欠けないのも、自分の力からではなく、神の憐れみから来るのです。
日々の糧を求めるこの願いは、働かない鳥を養い、紡ぎも織りもしない花を装われる父への信頼を育てます。必要な糧だけを願う人々には、さらに多くを与えてくださいます。聖キプリアヌスは解説します。
世を離れ、信仰によってその富と虚栄を軽んじたわたしたちは、明日のものではなく、今日の食べ物だけを願います。主ご自身の命令のとおりです。「明日のことを心配してはなりません。明日は明日が心配します。一日の苦労は、その日だけで十分です」(マタイ6・34)。明日のために願うのは、この世で長く生きたいと望むことであり、神の国が早く来るよう願うことと矛盾します。
幸いな使徒は、希望と信仰を強め、こう勧めています。「わたしたちは、何もこの世に持って来ず、何も持ち出すことはできません。食べ物と着物があれば、それで満足しましょう。富もうとする人々は、わなと、無分別で有害な欲望に陥り、人を破滅と死に沈めます。金銭への欲は、あらゆる悪の根です。それに流された人々は、信仰から迷い出て、多くの痛みで自分を苦しめました」(一テモテ6・7―10)。主は、豊かな収穫を自慢した愚かな金持ちを戒められます(ルカ12・20)。その愚かな人は、その夜に死ぬというのに、豊かさを喜んでいました。それに対し主は、すべての財産を売って貧しい人々に分け、天に宝を備える人が完全であると教えられます(マタイ19・21、6・20)。
聖キプリアヌスは、さらに述べます。
正しい人に日々の糧が欠けることはありません。「主は、正しい人を飢え死にさせない」(箴言10・3)、また、「若かったわたしは、今は老いた。しかし、正しい人が見捨てられ、その子らがパンを乞うのを、見たことがない」(詩編36・25)と書かれています。主ご自身も約束されました。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い煩ってはなりません。それらは、異邦人が追い求めるものです。父は、あなたがたにそれらが必要なことをご存じです。むしろ神の国とその義を求めなさい。それらは皆、添えて与えられます」(マタイ6・31―33)。神はダニエルに食べさせ(ダニエル14・31―44)、また迫害のとき、烏に命じて、エリヤに食べ物を運ばせられました(列王記上17・6)。
ニュッサの聖グレゴリオにとっても、日ごとの糧とは、からだのいのちを保つために「必要なもの」です。「明日への不安」から自由になって、「今日」のために求める糧です(マタイ6・33―34)。わたしたちに属するのは、今だけです。明日が何をもたらすか知らないので、未来への期待は不確かです。不確かなことを、なぜ心配するのでしょう。一日の苦労は、その日だけで十分です(マタイ6・34)。聖ヨハネ・クリゾストモも、これは、「何年ものためではなく、今日のために」必要な、からだの養いだと言います。「明日のパン」への心配を離れ、その賜物を「父の摂理に、信頼をもって委ねる」のです。モプスエスティアのテオドロスも、今日必要な糧を求めることは、聖パウロの、「食べ物と着物があれば、それで十分です」(一テモテ6・18)ということばにかかわると言います。それは、このいのちの「今日」において、人の生存のための差し迫った必要を満たすものです。
b わたしたちの糧
しかし、「パン」ということばは、からだの養いだけを意味しません。イエスの唇では、ほかの意味も、しかも根本的な意味として持っています。主の祈りでは、わたしたちのパンを求めます。冠詞は、神の子らに固有の、特別なパンであることを示そうとしています。わたしたちのパン、キリストの弟子たちのパンです。実体を養うパン、普通のパンではなく、イエスの忠実な弟子たちに固有のパンです。聖キプリアヌスは言います。「いのちのパンはキリストです。このパンは、すべての人のものではなく、神をわたしたちの父と呼ぶ、わたしたちのものです。こうしてキリストは、そのからだを受ける者たちのパンなのです」。
この願いを、主の祈りの先の願いと結びつけるなら、「み国のパン」、「天におられる父が、願い求める人々に与えてくださる善いもの」(マタイ7・11)と言えます。この「善いもの」は、地上の父親が子どもに与える「パン」と対比されます。すでに預言者イザヤは、「満たさないパン」と「善いもの」を関連づけていました。「なぜ、パンでないもののために銀を費やし、満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き、善いものを食べ、豊かなものを喜び味わえ」(イザヤ55・2)。この「善いもの」は、無償の賜物であり(1節)、「耳を傾け、ヤーウェのもとに来て、そのことばを聞く」人々に(3、11節)与えられます。
1 みことばの糧
このみことばの糧を、子らは父に、日々の養いとして願います。飢えを満たす、ただ一つの糧です。マタイによれば、師から学んだのは、このことです。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつのことばによって生きます」(マタイ4・4)。イエスは弟子たちに、「天の国の神秘を知らせ」(マタイ13・11)、豊かに実を結ぶ、み国のことばを悟らせてくださいました(マタイ13・19、23)。救いの力を持つ神のことばは、「小犬に投げてはいけない、子どもたちのパン」です(マタイ15・26)。
ルカ福音書にも、同じことが見られます。イエスは、石をパンに変えよと勧める悪魔の誘惑を退け、申命記を引用されます。「人はパンだけで生きるのではない」(ルカ4・3)、「神の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8・3)。人を何よりも生かすのは、神のことばです。そのことばは育ち、広がり、107 「良い心で聞き、保つ」人々にまかれた種のように、百倍の救いの実を結び(ルカ8・8―15、使徒言行録13・46―48)、その人々を、イエスの家族、「母、兄弟」とします(ルカ8・21)。ですから、みことばは、キリスト者の「わたしたちのパン」です。だから、「日ごとにお与えください」と願います。
ルカの「日ごとに」の背後には、イスラエルのマンナの体験が息づいています。108 「ヤーウェが食べ物として与えたパン」(出エジプト記17・8、15、詩編78・24)です。荒れ野の40年の巡礼の間、神は毎日それを与え、109 民は「日ごとに」集めました(出エジプト記16・5)。マンナは「天のパン」、110 「天使のパン」であり(知恵16・20、詩編78・25)、神がイスラエルに無償で与えられたものです(出エジプト記16・16)。したがってマンナは普通の食物ではなく、「神の民」に固有の糧(知恵16・20)、子らに特有の糧であり(知恵16・21、26)、「あらゆる味わいを備え、すべての好みにかなう」ものでした(知恵16・20)。マンナを通して、「主は愛する子らに、人を養うのは、さまざまな果実ではなく、主を信じる人々を保つ、そのことばであると教えられた」のです(知恵16・26)。
「キリストにおける幼子」であるキリスト者は、初め、「固い食物ではなく、乳」で養われます(一コリント3・2)。それは、「神のことばの初歩という乳」です(ヘブライ5・12)。この「霊の乳」は、生まれたばかりの子のような新受洗者が、救いへ成長するために慕い求める養いです(一ペトロ2・2)。しかし信仰において大人になると、「義の教えという固い食物」(ヘブライ5・13―14、一コリント3・2)を必要とし、すなわち「信仰と健全な教えのことばによって」養われる必要があります(一テモテ4・6)。
この「いのちのことば」(フィリピ2・16)、「生きたことば」(ヘブライ4・12、一ペトロ1・23)は、まことの糧であり、モーセを通して与えられたマンナにまさります。イエスが弟子たちに与えられたことば(ヨハネ17・6、8)は、「父が与えてくださる、天からのまことのパン」(ヨハネ6・31―32)だからです。それは「神のパン」であり(ヨハネ6・33)、肉となられたみことばと一つです。「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6・35)。聖アウグスティヌスは言います。
神は、日々からだを支え、満たすパンを、賛美する人々だけでなく、呪う人々にも与えられます。「善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます」(マタイ5・45)。しかし、子らが求める別のパンがあります。主は福音の中で、「子どもたちのパンを取って、小犬にやるのはよくない」(マタイ15・26)と、このパンについて語られます。
これが子らのパンであり、これも生きるために必要です。物質的なパンを欠くことができないように、このパンを欠くこともできません。これは、毎日分け与えられる神のことばです。霊を養う、日ごとの糧です。まだぶどう畑で働く者であるわたしたちに必要なのは、賃金ではなく、食べ物です。働き手をぶどう畑に連れて行く人は、二つのものを負っています。身を保つための食べ物と、労働の益を得るための賃金です。この世における日々の食べ物は、教会で日々分け与えられる神のことばです。働いた後に得る賃金は、永遠のいのちです。
だから『神の啓示に関する教義憲章』は述べています。「教会は、主のからだそのものと同じように、聖書を常に敬ってきた。特に典礼において、神のことばとキリストのからだの食卓から、いのちのパンを取り、信者たちに分け与えることをやめなかった……。聖なる書の中で、天の父は愛をもって子らに近づき、語り合われる。神のことばには大きな力があり、教会の支えと活力、子らの信仰の力、魂の糧、霊的生活の清く尽きない泉である」(21)。教会は、「先を思いやる母として、典礼において、日々、みことばと主の聖体の糧を、惜しみなく与えてくれます」(CEC 2040)。
2 聖体の糧
実体を養うパン、「終末のマンナ」、子らに固有のパンとして、この糧は聖体のパンを指します。洗礼によって神の子として新たに生まれた人々は、これによって養われます。マンナによってイスラエルの子らが「主の栄光を見、主を自分たちの神と認めた」(出エジプト記16・7、21)ように、感謝の祭儀の「パンを裂くこと」も、キリスト者の集いが、復活された主の栄光を認める秘跡のしるしです(ルカ24・26―35)。パンを増やすしるしで前もって示された、主のからだである聖体のパン(マタイ14・19、15・35)は、イエスが「裂いて弟子たちにお与えになった」(マタイ26・26)パンです。これこそ、何よりもパンと呼ばれるべき、イエスの弟子たちのまことの糧です。このパンにあずかることによって、神の子らは、み国の宴をすでに先取りして味わいます(マタイ26・29、22・2―14)。これは、すでにみ国のパンだからです。
ルカにおいても、パンは聖体のパンを指します。この意味は、福音書にも、111 『使徒言行録』にも、112 繰り返し現れます。父に願うのは、過越の食事で(22・14―27)、イエスが「取り」、感謝をささげた後に裂き、弟子たちに与えられた、あの「パン」です。それは、「彼らのために渡されるからだ」の秘跡のしるしです。そしてイエスは、「ご自分の記念として」、これを行い続けるよう命じられました(ルカ22・19)。
父に願うパンは、初代のすべてのキリスト教共同体において、主のからだと血の、聖体のパンを思い起こさせます。113 それは、マンナによって前もって示された「霊の食物」(一コリント10・3)であるがゆえに、信者たちに固有のそのパンです。114 「わたしたちが裂くパン」であり、「一つのからだ」であるすべての人が、「ともにあずかる」パンです(一コリント10・16―17)。「食べる者が死なず、永遠のいのち、いつまでも続くいのちを持つために、天から降った生きたパン」です(ヨハネ6・50―58)。だから、「このパンを、いつもお与えください」(ヨハネ6・34)、「主よ、今日、お与えください」と願います。テルトゥリアヌスは解説します。
わたしたちの日ごとの糧を、今日、お与えくださいということばを、霊的な意味でも理解します。実際、キリストはわたしたちのパンです。キリストはいのちであり、パンはいのちだからです。「わたしはいのちのパンです」と、主は言われます(ヨハネ6・31)。その少し前には、「パンは、天から来る生ける神のことばである」(ヨハネ6・33)と言われました。また、「これはわたしのからだです」(マタイ26・26、マルコ14・22、ルカ22・19)と言うとき、ご自分のからだもパンとして理解されています。したがって、日ごとの糧を願うとは、いつもキリストと結ばれて生き、そのからだから、自分たちの固有の存在を受けることを願うのです。
聖キプリアヌスは言います。日ごとの糧は、「救いの食物として日々受ける」、聖体のパンであり、「今日のための食べ物」でもあります(マタイ6・34)。
教会がキリストの神秘を祝うとき、祈りを刻む一つのことばがあります。今日です。主が教えられた祈りと、聖霊の呼びかけの響きです(ヘブライ3・7―4・11、詩編95・7)。人が入るよう招かれている、生ける神のこの「今日」は、イエスの過越の「時」であり、人類の全歴史の軸となり、導いています(CEC 1165)。
3 聖霊
からだの食べ物、みことば、聖体という、この三つの糧の賜物が、この願いの対象です。「今日」に必要なからだの糧は、天の父の摂理への信頼を強め、信者を明日の不安から解放します。みことばと聖体の糧、神の子らの「わたしたちのパン」は、生活において神のみ名を聖とし、父のみ旨を行い、み国の到来を早める力を与えます。聖アウグスティヌスにとって、日ごとの糧を願うことは、この三つを含みます。
からだに必要なパン、秘跡において聖別された目に見えるパン、神のことばという目に見えないパンです。この願いでわたしたちは、今のいのちを支えるために必要なすべて、すなわち肉体を保つための食べ物と着物(一テモテ6・7)を、神に求めます。こうして、神の前に物乞いであると認めながら、「明日の思い煩い」(マタイ6・31―34)から自由になります。
また、信者が神の祭壇から受ける、聖体という霊の糧、キリストの秘跡を願います。それは、一致を保ち、キリストのからだから切り離されず、洗礼の聖性とともに、善、信仰、規律にとどまり続けるために必要です。最後に父に、「朽ちない食物」(ヨハネ6・27)という日ごとのパン、「子らのパン」(マタイ15・16)を願います。それは神のことばと一つであり、「腹ではなく、心」の食べ物として日々与えられ、この時の中のいのちの「今日」のために求めるものです(ヘブライ3・13)。
ルカでは、さらに一つの意味を帯びます。その福音書の文脈において、「日ごとの糧」は聖霊をも指します。「悪い者であっても、親が子に与える善いもの」に対して、天の父は、「求める人々に聖霊を」与えてくださいます(ルカ11・13)。それは、イエスが、しつこいほどに善い父に求めるよう招かれるパンです。せがまれた友人が起き上がり、しつこく求める友人に「必要なものをすべて与える」(ルカ11・8)ように、父も拒まれないと確信してよいのです。天の父もまた、「求める者に与え、たたく者に開き……聖霊を与えてくださいます」。
聖霊は「父の約束」(ルカ24・49、使徒言行録1・4)、何にもまさるその賜物であり(ルカ11・13、使徒言行録2・33)、神がアブラハムとその子孫に約束された、すべての善を一つにまとめています(使徒言行録7・5)。神の右に上げられたイエスは、約束の聖霊を受け、注いでくださいました(使徒言行録2・33)。ペトロは、「聖霊の賜物」を受けるために、回心し、洗礼を受けるよう勧めます(使徒言行録2・38―39)。
昔の「神の民」が荒れ野を巡礼する間、日々マンナで養われ、岩から出る水で渇きを癒やしたように、115 「新しいイスラエル」であるキリスト教共同体も、「洗礼という出エジプト」から、神の国に入るまで(使徒言行録14・22)、天の父によって、聖体のパンという「霊の食物」(一コリント10・3)で養われ、聖霊という「霊の飲み物」(一コリント10・4)で渇きを癒やされる必要があります。だからこそ、「日ごとにお与えください」という願いは、差し迫ったものなのです。
聖霊は、第一の賜物であり、すべての「善いもの」を一つにまとめる賜物です。聖霊の賜物とともに、父は日ごとの糧を与えてくださいます。子らは、異邦人の不安から自由になり(マタイ6・25―33)、摂理を信頼して生きます。この信頼に満ちた身の委ねは、子としての関わりに根ざしています。
4 キリスト――天からのパン
「わたしはいのちのパンです」と、イエスはヨハネ6章の説教で宣言されます。「天からのまことのパンを与えるのは、わたしの父です。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒れ野でマンナを食べましたが、死にました。これは、天から降るパンです。食べる者は、死ぬことがありません。わたしは、天から降った生きたパンです。このパンを食べる者は、永遠に生きます。わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。
はっきり言っておきます。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内にいのちはありません。わたしの肉を食べ、血を飲む者は、永遠のいのちを持ち、わたしはその人を終わりの日に復活させます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。これこそ天から降ったパンです。先祖が食べて、なお死んだものとは異なります。このパンを食べる者は、永遠に生きます……。わたしが語ったことばは、霊であり、いのちです」。
これが、子らのパンです。子らの声を聞き入れる父は、願い求めるとき、これを与えてくださいます。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選びました。出かけて行って実を結び、その実が残るように、定めたのです。わたしの名によって父に願うものを、父が与えてくださるためです」(ヨハネ15・16)。「はっきり言っておきます。あなたがたが父に願うものを、父はわたしの名によって与えてくださいます」(ヨハネ16・23)。
オリゲネスによれば、これは「物質的なパン」ではなく、「実体を超えるパン」です。「実体を超えるパン」とは、神から遣わされた、肉となられたみことばへの信仰であり(ヨハネ6・28以下)、いつまでも残る食物です(ヨハネ6・27)。「天からのまことのパンを与えるのは、わたしの父です。神のパンは、天から降り、世にいのちを与えるものだからです」(ヨハネ6・32、34―35)。したがって、まことのパンは、神の似姿に造られた、まことの人を養うものです。
「そのパンを、いつもお与えください」と言われたとき、イエスは明らかに答えられました。「わたしはいのちのパンです。わたしのもとに来る者は、もはや飢えず、わたしを信じる者は、決して渇きません……。わたしは、天から降った生きたパンです。このパンを食べる者は、永遠に生きます。わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(ヨハネ6・51、53―57)。このパンは、魂に受け入れられると、この世の今日において、それを食べる人に、その力を伝えます。聖キプリアヌスは言います。
キリストは、わたしたちのいのちのパンです(ヨハネ6・35)。すべての人のパンではなく、わたしたちのパンです。神を知り、信じる者たちの父であるために、わたしたちの父と言うように、キリストをわたしたちのパンと呼びます。そのからだを食べる者たちのパンだからです。キリストのからだから離れないために、日ごとにこのパンを持つことを願います。主ご自身が言われました。「わたしは、天から降ったいのちのパンです。このパンを食べる者は、永遠に生きます。わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(ヨハネ6・51)。
聖ペトロ・クリソロゴは、美しく語ります。
天の父は、天の子として、天のパンを願うよう勧められます(ヨハネ6・51)。キリストご自身が、そのパンです。おとめにまかれ、肉において花開き、受難においてこねられ、墓という炉で焼かれ、教会に蓄えられ、祭壇へ運ばれ、日々、信者に天の食べ物を与えるパンなのです。
アクイレイアの聖クロマティウスによれば、願い求める日ごとの糧は、「今日を支える」ために必要な食べ物であると同時に、「魂の救いのために毎日受ける」、聖体という「天の、霊のパン」です(ヨハネ6・52)。また、キリストという「天から降った、わたしたちの生きたパン」、その「霊の糧」を願います。「日ごとの」と呼ぶのは、「天の糧にふさわしくあるために、いつも罪から守られることを願わなければならない」からです。
c 明日のパン
わたしたちは、また「明日のパン」を願います。安息日のパン、安らぎのパンです。夜も翌日もない明日、父と子の安らぎにあずかる日のパンです。そのパンを待ちながら、巡礼の途上で、天のパンを先取りして味わわせてください。わたしたちの感謝の祭儀が、天の宴を先取りして味わい、慕い求める宴となりますように。父よ、「あなたの子らが、食卓を囲むオリーブの若木のようでありますように」(詩編128・3)。「神の国でパンを食べる人は幸いです」(ルカ14・15)。
「日ごとの」「必要な」と訳される形容詞エピウーシオスは、明日のパンとも訳されます。こうして、父に願うパンは、「救いの時のパン」「いのちのパン」「天のマンナ」「終末のパン」を意味します。いのちのパンといのちの水は、楽園を表す二つのしるしです。完成のとき、弟子たちと食べ、飲むこと(ルカ22・30)、帯を締めて、仲間の食卓に仕えること(マタイ26・29)を語られるとき、イエスはこのいのちのパンに言及されます。聖アウグスティヌスは、洗礼志願者に語ります。
主の祈りでは、永遠の善も、時の中の善もお与えくださいと願います。み国を約束してくださったのですから、そこへ入るための助けを拒まないでください。み国では、永遠の美しさで飾ってくださいます。この世では、時の中で必要な食べ物をお与えください。だから、日ごとに、すなわち地上の生涯の間、と言うのです。この生涯を過ぎたら、もはや日ごとの糧を願いません。そのときには、日ごとにはなく、ただ今日があります。今、日ごとにと言うのは、一日が過ぎ、次の日が来るからです。しかし、ただ一つの日、永遠の日があるとき、そうは言わないでしょう。
永遠にキリストとともにあり、いつまでもともに治め始めたとき、もはや聖体を必要ともしません。したがって聖体は、わたしたちの日ごとの糧です。わたしが宣べ伝えることも、日ごとの糧です。教会で毎日聞く朗読も、耳にし、唱える賛歌も、日ごとの糧です。地上の生涯では、これらすべてが必要です。上に着いたら、朗読を聞く必要はありません。そこで、みことばご自身を見、聞き、食べ、飲むからです。今の天使たちのように。
「神の国のパンを食べる人は幸いです」(ルカ14・15)。ある人が、天の宴を思い描きながら叫びます。しかし、地上のパンと天のパンを区別して、糧への願いを「霊的なものにする」ことが問題なのではありません。イエスにとって、地上のパンといのちのパンは対立しません。神の国の到来によって、地上のすべてが聖とされたからです。イエスの弟子たちは、死の世界から引き離された後(マタイ8・22)、神の新しい世界に属しています。もはや、清い食物と汚れた食物の区別はありません(マルコ7・15)。神が与えてくださるものは、すべて祝福されています。
イエスの食事は、生活全体のこの聖化を、はっきりと示します。徴税人や罪人と席に着き、差し出されるパンは、日ごとのパンですが、それ以上のもの、いのちのパンでもあります。最後の晩餐で仲間に裂かれるパンは、地上のパンですが、それ以上のもの、すべての人のために死へと渡される、そのからだでもあります。弟子たちが主とともにする食事は、一つひとつが普通の食事でありながら、それ以上のもの、救いの宴、メシアの宴、終末の宴のかたどり、先取りでもあります。
初代の共同体でも、それは同じです。食事は普通の食事ですが、同時に「主の晩餐」(一コリント11・20)であり、主との交わりと、参加するすべての人々の間の交わりを生み出します(一コリント10・16―17)。
「明日のためのパン」を求める願いは、からだに必要なものを含め、弟子たちの生活全体を包みます。したがって日々のパンを含みますが、それだけで満足しません。この世で使命を果たすための、来るべき世の力と賜物をも願います。願いの終わりに置かれる今日は、切実さを添えます。父よ、いのちのパンを、今すでに、ここですでに、今日、お与えください。
第6章 わたしたちの罪をおゆるしください――わたしたちも人をゆるします
聖キプリアヌスは解説します。「からだの養いの後、わたしたちは罪のゆるしを願います。神に養われる者が、神のうちに生き、今の、時の中のいのちだけでなく、永遠のいのちをも思うためです。そこへ入るには、主が福音の中で負い目と呼ばれる罪を、ゆるしていただくほかありません(マタイ18・32)」。さらに述べます。
自分たちが罪人であることを思い起こさせてもらうのは、まことに必要で、摂理にかない、救いとなることです。毎日、自分の罪のゆるしを願うよう命じられることによって、わたしたちは毎日罪を犯すと教えられています。ヨハネも勧めています。「罪がないと言うなら、自分を欺いており、真理はわたしたちの内にありません。しかし、罪を告白するなら、忠実で正しい神は、罪をゆるしてくださいます」(一ヨハネ1・8―9)。
a おゆるしください
主の祈りは、洗礼の水において、ゆるしによって生まれ、日々、自分の罪のゆるしを必要とする、神の子らの祈りです。キリスト者にとって、ゆるされることは、いのちを支える糧と同じほど必要です。だから主の祈りは、父のみ前にひれ伏し、「おゆるしください」と願う、罪人たちの祈りでもあります。
洗礼の衣をまとっていても、わたしたちは罪を犯し、神から離れることをやめません。この願いで、放蕩息子のように神に立ち帰り(ルカ15・11―32)、徴税人のように、み前に罪人であると認めます(ルカ18・13)。願いは一つの「告白」で始まります。自分たちの惨めさと、神の憐れみを、同時に認めるのです。希望は確かです。御子において、「贖い、罪のゆるし」を受けているからです(コロサイ1・14、エフェソ1・7。CEC 2839)。
イエスは、公生活の初めから罪人を捜し、回心し、神のゆるしに身を寄せるよう招かれます。失われたものを「捜し、救う」ことを望まれます(ルカ19・10)。罪人たちを神の宴に招き(マルコ2・17、ルカ14・21)、女が失った銀貨を捜すように、失われた羊を捜されます(マタイ15・24、10・6、18・12)。医者として、罪人を招き、病人をいやすために来られます(マルコ2・17)。罪人の家に入り(ルカ19・1―9)、食事をともにし(マルコ2・15以下、ルカ15・1―3)、罪深い女が油を注ぐのを許されます(ルカ7・36―47)。徴税人や罪人の友であり(マタイ11・19)、ご自身で罪をゆるされます(マルコ2・5以下、ルカ7・47以下)。イエスは、神のゆるしを告げるだけではなく、ご自身でそれをもたらされるのです。
キリストへの回心、洗礼による新たな誕生、聖霊の賜物、食べ物として受けるキリストのからだと血は、わたしたちを、「み前に聖なる、汚れのない者」(エフェソ1・4)としました。キリストの花嫁である教会自身も、「聖なる、汚れのない者」(エフェソ5・27)であるとおりです。しかし、入信によって受けた新しいいのちは、人間本性のもろさと弱さ、また、伝統が欲情と呼ぶ、罪への傾きを取り去ったのではありません。この傾きは受洗者に残り、神の恵みに助けられて、キリスト者の生活の戦いの中で試練となります(CEC 1426)。
自分の過ちを知ることは、キリストに従う人々の日々の嘆きです。毎日、罪の状態、神への負い目を自覚します。個人的な召命を、完全に果たしていないからです。使命への召命は個人的なものであり、負い目も個人の過ちです。ゆるしの願いは、キリスト者としての人格の最も深いところに触れる、まったく個人的な願いです。ですから、キリスト者の生活は、絶え間ない回心です。「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18・13)という心の祈りをもって、絶えず願い求めます。
こうしてキリスト者の生は、いつも新たに呼びかける神への、絶え間ない立ち帰りとなります。「その愛は、すべてを覆い、すべてを信じ、すべてを望み、すべてをゆるす」(一コリント13・7)からです。キリスト者は、呪いから、「すべての罪をゆるし、すべての病をいやし、鷲のように若さを新たにしてくださる」(詩編103・3、5)神への賛美へと移ります。神のゆるしは、単なる負債の帳消しや刑罰の免除ではなく、ゆるされた罪人と神との、人格的な関わりの回復なのです。
「あなたがたは、主イエス・キリストの名と、わたしたちの神の霊によって、洗われ、聖とされ、義とされました」(一コリント6・11)。「キリストを身にまとった」(ガラテヤ3・27)人に、罪がどれほどそぐわないものであるかを理解するには、入信の秘跡で受ける神の賜物の大きさを、認識する必要があります。しかし、使徒聖ヨハネも、「罪がないと言うなら、自分を欺いており、真理はわたしたちの内にありません」(一ヨハネ1・8)と言います。主ご自身も、「わたしたちの罪をおゆるしください」(ルカ11・4)と祈るよう教え、互いの罪をゆるすことと、神がわたしたちの罪をゆるしてくださることとを、結ばれました(CEC 1425)。
イエスは、たとえの中で、しばしば「負い目」について語られます。不忠実な僕(マタイ18・23―35)、多額の借金をした人と少額の借金をした人(ルカ7・41以下)、手遅れになる前に解決する必要(ルカ12・57以下)、不正な管理人(ルカ16・1―8)、悪いぶどう園の農夫たち(マルコ12・1―9)、タラントンとムナ(マタイ25・14―30、ルカ19・12―27)です。これらのたとえはすべて、神との関わりを、同じ姿の中に置きます。わたしたちは、神に「負い目のある者」です。「神のものは神に返しなさい」と言われるとき、わたしたちは皆、負い目のある者と宣言されます。
イエスは、神のみ前に自分を正しいとする、あらゆるファリサイ人に対して言われます。「あなたがたは、人々の前で正しい者と見せかけようとします。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人々が尊ぶものは、神のみ前では忌むべきものです」(ルカ16・14以下)。実際、神への負い目は、あまりに大きく――一万タラントン――、自分で返すことはできません(マタイ18・23―34)。残るのは、負い目を認め、神の憐れみ深いゆるしに信頼することだけです(マタイ5・7、23以下、6・14以下、ルカ6・37)。
善行を並べて神のみ前に立っても、役には立ちません。神のみ前には、悔い砕かれた心で立ち、「主よ、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18・13)と願うしかありません。この祈りだけが、神への道を開きます。自分にあるのは、神の無償のゆるしへの道だけだと知る人は、み前に立ち、「わたしたちの負い目をおゆるしください」と願います。聖ヨハネ・クリゾストモは、アンティオキアの信者に語ります。
新たな誕生の洗いの後でさえ、わたしたちは罪を犯します。主はここでも、大きな愛の証しを示されます。憐れみ深い神に罪のゆるしを求め、「わたしたちも、自分に負い目のある人をゆるしますから、わたしたちの負い目をおゆるしください」と言うよう教えられるのです。その愛の大きさを見てください。あれほどの悪から解放し、言い尽くせない偉大な賜物を与えた後、なお罪のゆるしを恵んでくださいます。この祈りが信者にふさわしく、信者が罪のゆるしを願うのであれば、洗礼後も悔い改めの賜物が取り去られないのは明らかです。そうでなければ、祈りでゆるしを願うよう命じられなかったでしょう。
ペラギウス派に対して、聖アウグスティヌスは、負い目のゆるしを求める願いは、まず、聖なる司教たちを含め、皆が負い目のある者であることを前提とすると語ります。罪のない者はいないからです(一ヨハネ1・8)。
確かに洗礼を受けています。しかし、なお負い目のある者です。洗礼でゆるされなかったものが残ったのではありません。生活の中で日々罪を犯し、ゆるしを必要とするのです。「染みも、しわもない」(エフェソ5・27)教会自身も、全地で、わたしたちの負い目をおゆるしくださいと言います。「毎日罪を犯す」と知る人のへりくだりにとどまるのです。毎日、父に対して犯した罪のゆるしを願わなければならないからです……。
「わたしたちの負い目をおゆるしください」。こう祈り、本当にこの心で祈ります。このように祈るとき、真実を語るからです。負い目を持たずに、この世に生きる人はいません。この世で生きる間、誰もが、こう祈る必要があります。うぬぼれることはあっても、それで義とされるわけではないからです。徴税人にならい、神殿に上って自分の功績を神のみ前に歌い上げ、罪を隠したファリサイ人のように、高慢に流されないのは、良いことです。他方の人は、何のために神殿へ行くのかを、よく分かっていました。だからこう祈ったのです。「主よ、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18・9―13)。
『カトリック教会のカテキズム』にも、こう記されています。
ゆるしを求めることは、願いの祈りの最初の動きです。正しく清い祈りの始まりです。信頼に満ちたへりくだりは、父と、その御子イエス・キリストとの交わり、また互いの交わりの光へと、わたしたちを連れ戻します(一ヨハネ1・7―2・2)。感謝の祭儀も、個人の祈りも、ゆるしを願うことから始まります(CEC 2631)。
b わたしたちの負い目
この願いは、父のみ国、より正確には、王である父ご自身を拒んだことで生じた負い目の、ゆるしを求めます(一サムエル8・7)。アダムとエバのように(二コリント11・3、一テモテ2・14)、「神のようになる」という悪い者の誘惑を受け入れ、「善悪を知る木」の禁じられた実を食べるたびに(創世記2・17、3・3―6)、わたしたちは神に負い目を負います。神を否定し、自分の生活の道徳的な規範を自分自身とすることは、み旨の外に立ち、楽園、神の国を失うことです。神の栄光ではなく、自分の栄光を求め、み名を聖としないことです。その結果として、兄弟姉妹への負い目も加わります。また、負い目のある人とは、まず、日に七度罪を犯し、悔い改め、そのたびにゆるしを求める兄弟姉妹です(ルカ17・3―4)。聖アンブロジオは言います。
負い目とは、罪以外の何でしょうか。見知らぬ高利貸しから金を受け取らなければ、惨めな境遇にはならなかったはずです。しかし、そのために、罪があなたのものとされます。金を受け取り、豊かに生まれました。神のかたち、似姿に造られたので、豊かだったのです(創世記1・26―27)。ところが、自律を主張したいと望んだとき、持っていたすべて、すなわちへりくだりを失い、金を失い、アダムのように裸となりました。必要もなかったのに、悪魔に借りをつくりました。キリストにおいて自由だったあなたが、悪魔に負い目を負ったのです。
敵は、あなたの借用証書を持っていました。しかし主は、それをご自身とともに十字架につけ、その血によって消してくださいました(コロサイ2・14)。負い目を帳消しにし、自由を返してくださったのです。したがって、「わたしたちも、自分に負い目のある人をゆるしますから、わたしたちの負い目をおゆるしください」と言うのは、正しいことです。ゆるすなら、神にもゆるしを願うのは当然です。しかし、ゆるさないのなら、どうして神のゆるしを求められるでしょうか。
では、わたしたちに負い目のある人とは、誰でしょうか。答えは、やはり福音の中にあります。「兄弟」(マタイ18・21―35)であり、また、一般に「人々」(マタイ6・14―15)です。弟子に負い目のある人は、その人に何かを負うすべての人、害を加えたすべての人です。怒り、「愚か者」「神を捨てた者」と呼び、一般に「その人に対して何かを持つ」人(マタイ5・22―24)、侮辱や暴力を加えた人(マタイ5・39―42)、「敵」「迫害する人」(マタイ5・44)などです。そのすべての人を、父から受けたゆるしの実りとして、「心から」ゆるします(マタイ18・35)。
したがって願うのは、自分たちの負い目を父にゆるしていただくことです(マタイ6・12、18・21―25)。「おゆるしください」は、借金を負った僕が、「主人の足もとにひれ伏し」、悔い改めて「どうか待ってください」と願う、へりくだった懇願を表します。「負い目」という複数の表現は、子らが、賜物の「タラントン」を浪費し、何度も父に負い目を負ったことを示します(マタイ18・26)。実際には、山上の説教でイエスが具体的に示された、父のみ旨に対する「自分たちの違反」です。それは、「律法学者やファリサイ派の義にまさる、み国の子らの律法」です(マタイ5・20)。
ですから負い目には、怒り、侮辱、兄弟への断罪によって行う殺人(マタイ5・22―22)、心の姦淫(マタイ5・27―30)、離婚(マタイ5・31―32)、誓い(マタイ5・33―37)、悪への抵抗(マタイ5・38―42)、敵を愛さないこと(5・43―48)、偽善的な祈り、施し、断食(6・1―6、16―18)、兄弟への裁き(マタイ7・1―6)が含まれます。確かに、莫大な負い目、「一万タラントン」(マタイ18・24)であり、実際には返せません。それでも、神の愛によって帳消しにされた負い目です(マタイ18・26―27)。
ルカの独自の表現も、この願いを照らします。父にゆるしを願う負い目は、ルカでは、わたしたちの罪です。しかし、後半では、「わたしたちも、自分に負い目のあるすべての人をゆるします」と、負い目の考えを残しています。まず、日に「七度」、兄弟が加える害をゆるすことです。「兄弟が罪を犯したら戒め、悔い改めたらゆるしなさい。一日に七度あなたに罪を犯し、七度戻って来て、『悔い改めます』と言うなら、ゆるしなさい」(ルカ17・3―4)。
しかし、兄弟だけではなく、「負い目のあるすべての人」、すなわち敵、憎み、呪い、虐げる人々をもゆるします(ルカ6・27―28、6・22)。「人の子のために」受ける憎しみ、呪い、虐待、侮辱、排斥は、キリストが十字架で自分たちをゆるされたように、キリスト者がゆるすべき負い目です。悪に善で応えることによって、「いと高き方の子」となります。「敵を愛し、善を行いなさい。そうすれば、恩知らずな者や悪人にも善くしてくださる、いと高き方の子となります。父が憐れみ深いように、憐れみ深い者となりなさい……ゆるしなさい。そうすれば、ゆるされます」(ルカ6・35―37)。
信者がゆるしを願う「罪」は、自分の生活において、神の国に対して犯した罪です。「自分のからだ」に対する罪(一コリント6・18)、結婚の聖性に対する罪(一コリント5・1)、兄弟に対する罪でもあります(一コリント8・12、ヤコブ4・1―2、8―12)。キリスト者は、「罪に対して死に、神に対して生きている」(ローマ6・11)と知りながら、毎日、罪の苦い体験に向き合い、神のみ前に罪人であると認める必要を感じます。ただ、「憐れみに富む神」(エフェソ2・4)、和解の神(ローマ5・10、二コリント5・18―6・2)、ゆるしの神(コロサイ5・19)に信頼します。
神は、「わたしたちが敵であったとき、御子の死によって和解させ」(ローマ5・20、二コリント5・19)、「御子を通して」(エフェソ4・32)、すべての過ちをゆるしてくださいました(コロサイ2・13)。「罪の償いとなるために、御子を世に遣わされた」(一ヨハネ4・10、ヨハネ3・16)からです。「罪を犯さなかった」116 正しい方である御子は、父から栄光を受け、今、弁護者として、わたしたちの罪のゆるしのために執り成しておられます(ヘブライ7・25、9・24、一ヨハネ2・1)。御傷を示し、ゆるしを願ってくださるわたしたちの祭司の執り成しに支えられ、わたしたちも父に、「わたしたちの負い目、罪をおゆるしください」と祈るのです。
c わたしたちもゆるします
ここで、祈りの流れが中断するかのようです。いけにえをささげに行く途中、誰かとのいさかいを思い出し、祭壇の前に供え物を置いて、まず兄弟と和解しに行く人のようです(マタイ5・23以下)。驚くべき典礼の中断です。
「人々の過ちをゆるすなら、天の父もあなたがたをゆるしてくださいます。しかし、人々をゆるさないなら、父もあなたがたの過ちをゆるされません」(マタイ6・14―15)。これは、マタイが主の祈りの直後に、イエスのことばとして記す解説です。まるで、七つの願いのうち、この願いだけが、説明や特別な強調を必要とするかのようです。さらに、「憐れみのない僕」のたとえで、負い目のゆるしについて、詳しい解説も与えられます(マタイ18・7―35)。福音のこの教えに照らして、主の祈りの願いの意味を理解できます。
すでに山上の説教において、イエスは心の回心を強調されます。祭壇に供え物を置く前に兄弟と和解すること(マタイ5・23―24)、敵を愛し、迫害する人のために祈ること(マタイ5・44―45)、心の底からゆるすことです(マタイ6・14―15)。それが、父の子に固有のことです(CEC 2608)。
これは、神にゆるしていただくための前提条件なのでしょうか。それとも、わたしたちが敵に与えるゆるしは、すでに受けたゆるしの結果なのでしょうか。神のゆるしから、わたしたちのゆるしが生まれるのでしょうか。イエスの宣教全体の文脈によって、この問いに答えることができます。実際には、わたしたちもゆるせるよう、おゆるしください、と言っているのです。神のゆるしが僕のゆるしに先立ち(マタイ18・23―35)、受けたゆるしこそが、今度は自分もゆるすという、避けることのできない義務をもたらします。「憐れみ深い人々は幸いである。その人々は憐れみを受ける」(マタイ5・7)。
神のゆるしを味わった人、特に、それが御子の血によって与えられたと知る人は、七の七十倍までも兄弟をゆるす用意があります(マタイ18・22)。ファリサイ人のように、自分を正しいと思い込む人だけが、憐れみ深くなれません(ルカ15・1―2、25―30、マタイ20・1―15)。キリスト者のゆるしは、神の憐れみを映すものです(ルカ6・36)。条件であるよりも、神のゆるしの結果です。受けたゆるしの実りとして、わたしたちはゆるします。しかし、実によって木を知ります。自分からゆるしが生まれないなら、ゆるしを受けていないしるしです。ゆるされた喜びは、ゆるしを与える喜びに表され、伝わるのです。
父の憐れみ深い愛を体験することから、子らは仲間の「百デナリオン」をゆるし、自分の負い目のゆるしを願うことができます。父からの莫大で無償のゆるしの体験は、ゆるされた子らの内に、自分に負い目のある人への憐れみを呼び起こすはずです。自分への害によって生じた、取るに足りない負い目を、「七の七十倍」、すなわち、いつもゆるすのです(マタイ18・22、28―34)。ゆるさないとは、ゆるされることを望まないことです。「人々をゆるさないなら、天におられる父も、あなたがたをゆるされません」(マタイ6・14―15)。神の莫大なゆるしを体験した後なら、神は確かに言うことができます。「わたしがお前を憐れんだように、お前も仲間を憐れむべきではなかったか」(マタイ18・33)。
テルトゥリアヌスは言います。「罪の告白は、ゆるしを求めることです。ゆるしを願う人は、罪を告白しているからです」。洗礼によってすでに新たに生まれた信者に、聖キプリアヌスは語ります。「毎日罪を犯すので(一ヨハネ1・8)、毎日、罪のゆるしを求めます」。モプスエスティアのテオドロスも、同じように言います。
わたしたちは、まったく罪なくあることができず、神にも人にも、たびたび罪を犯します。ですから、自分に害を加えた人を自分もゆるすなら、ゆるしを受けられると信頼しつつ、罪のゆるしを願います。反対に、ゆるさない者は、神のゆるしに自分を閉ざします。「憐れみを示さなかった者には、憐れみのない裁きがある」(ヤコブ3・13)からです。自分が罪を犯すとき、ひざまずいて神にゆるしを願う必要があるように、自分を傷つけ、ゆるしを求める人を、わたしたちもゆるします。
イエスとの交わりの中で、罪なく生きるべき人々が毎日罪を犯すなら、毎日、神のゆるしを求めなければなりません。しかし、兄弟として、心から互いの過ちをゆるし合うのでなければ、神は祈りを聞き入れられません。こうして、一緒に自分たちの過ちを神のみ前に携え、一緒に恵みを願います。神は、わたし一人の罪だけではなく、ほかのすべての人の罪をもゆるすことを望まれます。聖ヨハネ・クリゾストモは言います。
自分たちの罪を思い起こすことによって、主はへりくだりへ導き、人をゆるすよう命じることによって、あらゆる恨みから解放されます。その結果、神もゆるしてくださるとの約束によって、希望を広げ、言い尽くせない神の善を見つめるよう教えられます。主は、自分を傷つけた人への怒りを鎮めることを、どれほど大切にしておられるか、示そうとなさいました。祈りを教えた後も、重ねて言われました。「人々の罪をゆるすなら、天におられる父も、あなたがたをゆるしてくださいます」(マタイ6・14)。
あなたがゆるすなら、神もゆるしてくださいます。しかし、両者が同じだと思ってはなりません。あなたは、ゆるされる必要があるからゆるします。神は何も必要とせずにゆるされます。あなたがゆるす相手は同じ僕、神がゆるす相手はご自分の僕です。あなたには多くの罪がありますが、神にはまったく罪がありません。それでも神は、ここでも愛の証しを与えてくださいます。すべての罪を、それなしにゆるすこともできたでしょう。しかし、怒りを消し、仲間である人と、あらゆる仕方で結びつけるために、兄弟への柔和と愛の機会を、幾つも与えようとされるのです。
何と答えられるでしょうか。隣人から不正を受けたとでも言うのでしょうか。当然です。それこそが罪です。正しく接してくれていたなら、ゆるすべき罪はないでしょう。しかし、あなた自身も、神にゆるしを受けに行きます。しかも、間違いなく、さらに大きな罪のゆるしを。
わたしたちが自分に罪を犯した人をゆるすように、わたしたちの罪をおゆるしください。もちろん、自分たちを神の前でのゆるしの模範とし、同じようにゆるしていただこうとするのではありません。むしろ、わたしたちが神の憐れみにならうのです。神の憐れみこそ、自分たちを憐れみ深くしてくれるからです。また、自分たちのゆるしが、神のゆるしの原因なのでもありません。それによって、神のゆるしへの権利を得るのではありません。神への負い目は「一万タラントン」ですが、自分がゆるすのは「百デナリオン」です。
天の父は憐れみに動かされ、莫大な負い目を、率先してゆるしてくださいました。そのゆるしは、いつも無償です。まだ「不信心な者」「罪人」「敵」であったときに、キリストにおいて、ご自分と和解させてくださいました(ローマ5・6―10)。父は先に愛し、「わたしたちの弱さを引き受け、病を担う」(マタイ8・17)ために御子を遣わされました。すなわち、「罪の償いとして」引き渡し、「わたしたちが神を愛するより前に」愛してくださった、その愛を示されたのです(ヨハネ4・10)。
自分の罪のゆるしは、神のゆるしを求める願いに先立ちます(シラ28・2―5)。わたしたちのゆるしは、神のゆるしを前提とします。「多くゆるされた人は、多く愛します」。御子を遣わし(一ヨハネ4・10)、「愛してくださったその大きな愛によって」(エフェソ2・5)、多くの罪をゆるされた、「憐れみに富む神」の無償で先立つゆるしの体験から、キリスト者は、自分に負い目のある人(一コリント6・7)、迫害する人(ローマ12・14)、敵、117 すべての人(ローマ12・17―18、テトス3・2)をゆるすことができます。このゆるしによって、「世の光」となり、「金の燭台」(黙示録1・12、20)、「ともし火」(フィリピ2・15)のように輝き、神の世への愛を証しします。「人々が天の父をあがめる」(マタイ5・15―16)ためです。
マルコも、祈りについて教えるとき、特にこの願いを強調します。「祈り求めるものはすべて、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また、立って祈るとき、誰かに対して何かあるなら、ゆるしなさい。天におられる父も、あなたがたの過ちをゆるしてくださるためです」(マルコ11・24―25)。
聖アウグスティヌスは言います。「わたしたちもゆるします」と付け加えることによって、神と約束を交わします。負い目のある人を――金銭にかかわることでも――ゆるすなら、神もゆるしてくださいます。すなわち敵を兄弟として愛し、ゆるすのです。そうすれば、その人を敵として失い、友として得ると確信しているからです。
きっと、あなたがたには敵がいるでしょう。この世で、敵を持たずに生きる人がいるでしょうか。その人々を愛しなさい。最悪の敵でも、あなたが敵を愛さないことによって自分に与えるほどの害は、与えられません。財産、家、子、妻、からだを害することはできても、魂を害することはできません。それに対して、あなた自身は、それを害することができるのです……。
相手の善を願い、その内の悪が死ぬことを願いなさい。そうすれば、もはや敵ではなくなります。敵が不幸になることで、何を得るのでしょう。敵なのは、その人自身ではなく、その罪です。相手はあなたと同じです……。同じアダムとエバから出たあなたが、神の善によって新しいいのちに生まれ、天であり、相手はまだ地であるなら、父を呼び、敵のために祈りなさい。サウロも教会の敵でしたが、祈られ、友となりました。正確には、キリスト者たちは彼に逆らって祈ったのですが、人そのものではなく、その悪に逆らって祈ったのです。あなたも、敵の悪が死に、本人が生きるよう、その悪に逆らって祈りなさい。敵が死ねば、敵はいなくなりますが、友も得られません。しかし悪が死ねば、敵を失い、友を得るのです。
誰にそれができるのか、と言うかもしれません。神が、あなたがたの心に実現してくださいます。
確かに、それを行う人は少なく、真のキリスト者はわずかで、敵を愛し、この願いを本当にささげられる人は、少ないでしょう。では、どうしましょう。敵を愛していないなら、もう祈るなと言うべきでしょうか。そのように言う勇気は、わたしにはありません。むしろ、愛せるように祈りなさい。イエスがなさり(ルカ23・34)、その後ステファノがしたように(使徒言行録7・59)、「虐げ、辱め、侮辱する人々」をゆるし、この愛を得て、罪をゆるしていただけるよう祈りなさい……。
少なくとも、ゆるしを求める敵はゆるしましょう。たとえの「不正な僕」のように、神ご自身からとがめられないためです(マタイ18・32―33)。願ってくる人をゆるした後でこそ、この祈りを唱えられます。同じ働き手である仲間をゆるしたくないなら、その人は、わたしたちの主人のもとに行き、「主よ、仲間にゆるしを願いましたが、拒まれました。あなたがおゆるしください」と言うでしょう。こうして主のゆるしを得た相手は、自由になり、あなたは、なお縛られたままです。なぜか分かりますか。主が言われるからです。「悪い僕よ、お前は、あれほどの借金があったが、熱心に願ったので、帳消しにしてやった。わたしがお前にしたように、お前も仲間にするべきではなかったか」(マタイ18・32)。
d わたしたちも負い目のある人をゆるしますから、わたしたちの負い目をおゆるしください
祈りは生活となります。ゆるしを願うことは、ゆるすことへ導きます。そして、生活が祈りへと導きます。ゆるした後でこそ、ゆるしを願えます。聖キプリアヌスは解説します。「僕は、仲間をゆるそうとしなかったために、すでに主人から受けていたゆるしを失いました」。「父なる神は、一つの心、一つの魂をもって、家の中で平和に生きることを望まれます(詩編68・7)。新たに生まれ、子とされたわたしたちが、神の平和にとどまることを望まれます。一つの霊を受けた人々は、一つの魂、一つの思いを持つべきです。神は、兄弟と不和にある人の供え物を受け入れられません(マタイ5・23―24)。神のみ前での最大の供え物は、平和、兄弟の和合、そして父と子と聖霊の一致のうちに集められた民です。カインとアベルが初めていけにえをささげたとき、神は供え物ではなく、心を見られました(創世記4・3―8)。その心を喜ばれた人の供え物を、喜ばれたのです」。
父にゆるしを願う弟子は、神に深い負い目があると自覚しています。神のみ前に、無罪とはされ得ないと知っています。罪を告白し、ゆるしを受け入れることによってのみ、無償で義とされることを知っています。イエスはこのゆるしを告げ、もたらし、毎日願うよう、弟子を励まされます。憐れみ深かった人は、神において、憐れみ深い裁き手に出会います(マタイ5・7)。裁かない人は神に裁かれず、すなわち罪に定められません(ルカ6・37)。人の過ちをゆるす人は、自分の過ちもゆるされます(マルコ11・25)。兄弟と和解していない人は、神の祭壇に近づき、ゆるしを願うべきではありません(マタイ5・23以下)。「回心の実り」の中でイエスが特に挙げられるのは、敵をゆるすことと、憐れみの行いです。
キリストは、その血という代価で得てくださったゆるしと和解の、しるし、道具として、教会全体が、祈りにおいても生活と働きにおいても、存在することを望まれました(CEC 1442)。キリスト者の祈りは、敵のゆるしにまで至ります(マタイ5・43―44)。弟子を造り変え、師に似た者とします(CEC 2844)。
イエスご自身が、この願いを明瞭に解説されます。「祈るとき、誰かに対して何かあるなら、まずゆるしなさい。天におられる父が、あなたがたの過ちもゆるしてくださるためです」(マルコ11・25)。唇が神にゆるしを求める間、心は、受けた害をゆるす必要があります。それは、あらゆる復讐を放棄し、不正を受け入れること(マタイ5・39以下)、多くの持ち物を奪われるままにすること(マタイ5・42)、同じ人を、日々、七の七十倍ゆるすことです(ルカ17・3以下)。また、迫害する人々のためにも祈ることです。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせる、天の父の子となる」ためです。
しかし、イエスが教えられるのは、自分たちがゆるす「ように」、神にゆるしを願うことであり、ゆるす「から」、と願うことではありません。神のゆるしは、いつも自由で、無償です。自分がゆるすことは、神から受けたゆるしと恵みの実りです。実際、兄弟に「与える」人が受けるのは、与えた分に応じてではなく、「よく量り、押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどの量」です(ルカ6・38以下)。神のゆるしには限りがなく、弟子の与えるゆるしにも限りがあってはなりません。しかし、神のゆるしとわたしたちのゆるしには、根本的な違いがあります。神のゆるしは、いつも負い目より大きく、神へのわたしたちの負い目は、隣人にゆるす負い目より、いつも大きいのです。しかも人ができるのは、破片をつなぎ合わせることだけですが、神は本来の完全な姿を返すことができます。
イエスの教えに、「ように」は、ここだけにあるのではありません。「天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」(マタイ5・48)。「父が憐れみ深いように、憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)。「新しいおきてを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。神の模範を外からまねようとするだけなら、主のおきてを守ることは不可能です。必要なのは、神の聖性と憐れみと愛に、「心の底から」生まれる、生きたあずかりです。「わたしたちのいのち」(ガラテヤ5・25)である霊だけが、キリスト・イエスの思いを、自分たちのものとしてくださいます(フィリピ2・1、5)。こうして、「神がキリストにおいてゆるしてくださったように、互いにゆるし合う」(エフェソ4・32)という、ゆるしの一致が可能となります(CEC 2842)。
イエスに油を注いだ罪深い女の物語が示すように(ルカ7・36―47)、受けたゆるしは、ゆるす力を与えます。ザアカイは、イエスの大きな善を体験して、人々への態度を変えます。愛は愛を引き出し、ゆるしはゆるすことへ動かします。自分がゆるされた体験がなければ、罪人をゆるす代わりに、罪に定めます(ルカ7・37―47)。ゆるしを体験したことのない兄は、弟をゆるしません(ルカ15・11―32)。罪人として迎えられることは、罪人を迎え、自分たちと同じように神がゆるしてくださるのを喜ぶ力を与えるのです。
これが、神がわたしたちを包まれる、愛とゆるしの輪です。ゆるされたから、人をゆるせます。人をゆるせるから、神にゆるしを願えます。だから祈ります。「わたしたちも人をゆるしますから、わたしたちの負い目をおゆるしください」。
人をゆるす力を与える神のゆるしは、あらゆるキリスト教共同体の土台、保証です。「主がゆるしてくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。不満を覚えることがあっても、互いにゆるし合いなさい」(コロサイ3・13)。すでに『シラ書』は述べていました。「隣人の害をゆるしなさい。そうすれば、願い求めるとき、自分の罪もゆるされる」。なぜなら、「人に怒りを抱く者が、どうして主にいやしを期待できるのか」(シラ28・2―5)。ゆるしの働きかけは、いつも父から始まります。「敵であったとき、御子の死によって和解させてくださった」からです(ローマ5・10、二コリント5・18)。しかし、「兄弟をゆるすことを拒むとき、心は閉ざされ、そのかたくなさは、父の憐れみ深い愛を通さないものとなります。反対に、自分の罪を告白するとき、心は恵みに開かれます」(CEC 2840)。
父よ、おゆるしください。そして、ゆるすことができるよう、霊をお与えください。ペトロは尋ねます。「主よ、兄弟を何度までゆるさなければなりませんか。七度までですか」。イエスは答えられます。「七度どころか、七の七十倍までです」(マタイ18・21―22)。ゆるしは、決してやんではなりません。キリストに従う者の、生きる姿勢だからです。キリストにおいて、神は、現実に、驚くべき仕方で、人となり、わたしたちの一人となって、わたしたちの罪の中に入られました。聖パウロが言うように、神は、「罪を知らなかった御子を、わたしたちのために罪とされました。御子において、わたしたちが神の義となるためです」(二コリント5・21)。ですから、わたしたちは神のゆるしによって生きます。キリストは、父の大きなゆるしを得てくださいました。その力によって、兄弟に自分たちの小さなゆるしを与えられます。聖アウグスティヌスは、洗礼を受ける直前の人々に、力強く勧めます。
特に、これから洗礼を受けるあなたがたに言います。心の底からゆるし、どんな負い目もゆるしなさい。また、今、この祈りと解説を聞いている信者たちも、誰に対するどのような敵意からも、心を解き放ちなさい。神がすべてをご覧になる心の中で、ゆるしなさい。人は時として、口ではゆるしても、心ではゆるしません。都合がよいから口でゆるし、神のまなざしを恐れず、心には、なお恨みを保っています。今日までゆるさなかったすべてを、完全にゆるしなさい。
怒りを抱いたまま日を暮れさせてはなりません(エフェソ4・26)。それなのに、何度、怒りを抱いたまま日が暮れたことでしょう。少なくとも一度、怒りをやめましょう。「あなたがたには、義の太陽が昇り、その翼の下に救いがある」(マラキ4・2、3・20)と書かれた、大いなる太陽の日を祝いましょう。この太陽は、正しい人々のために昇ります。それに対して日々の太陽は、神が善人にも悪人にも昇らせてくださいます(マタイ5・45)。正しい人々は、信仰によって心に輝かせるなら、この太陽を見ることができます。ですから、怒っていても、心で怒りを抱くうちに日が暮れないようにしなさい。義の太陽が沈み、暗闇に残されるほどに、怒り続けてはなりません。
怒りなど、何でもないと思ってはなりません。預言者は、「怒りのために、目が曇っています」(詩編6・8)と言います。目の曇った人には、太陽が見えません。怒りとは何でしょう。復讐への情念です。もし神がわたしたちに復讐されるなら、どこへ行くことになるでしょうか。怒っても、罪を犯さないように。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」(詩編4・5、エフェソ4・26)。人間であり、弱さに負けるので、怒ることはあるでしょう。
しかし、心に怒りを保つことで罪を犯さないように。そのままでは、あの光に入れません。自分自身を害しているのです。
怒りとは何でしょう。復讐への情念です。では憎しみは何でしょう。同じ怒りですが、心に根を下ろしたものです。その場合には、憎しみと呼べます。預言者が「怒りのために、目が曇っています」と告白し、「多くの敵の間で老い込みました」(詩編6・8)と付け加えるのは、このことです。初めは、過ぎ去るものとしての単なる怒りだったものが、古くなると、憎しみになります。怒りはおが屑、憎しみは丸太です。わたしたちは、自分の心に憎しみを持ちながら、怒る人をしばしばとがめます。キリストは言われます。「兄弟の目のおが屑に目を留め、自分の目の丸太に気づかないのか」(マタイ7・3)。
おが屑は、どうして丸太になったのでしょう。生じたときに取り除かないからです。怒りの上に、何度も日が昇り、沈むままにしたとき、あなたはそれを育て、悪意の疑いで養い、水を注いで養い続け、丸太になるに任せたのです。これを恐れなさい。「兄弟を憎む者は、人殺しである」(一ヨハネ3・15)と書かれています。心に憎しみを持って、人殺しとなり、神のみ前に罪を負っています。回心しなさい。
家にさそりや毒蛇がいたら、静かに暮らすため、急いで追い出すでしょう。それなのに、怒りが心の中で古くなり、多くの憎しみ、多くの丸太、多くのさそり、多くの毒蛇になるのを、神の家である心から、取り除こうとしないのですか。「わたしたちも、自分に負い目のある人をゆるします」と書かれたとおりにしなさい。そうすれば、安心して、「わたしたちの負い目をおゆるしください」と祈ることができます。
第7章 わたしたちを誘惑におちいらせず
a 霊は進んでも、肉は弱い
主の祈りは、むだなことばのない、切迫した祈りです。ゆるしを願った後、ゆるされた罪人であると認める祈り手は、自分を頼みとせず、神に叫びます。「わたしたちを誘惑におちいらせないでください」。それは、イエスが弟子たちに与えられた勧めと同じです。「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈りなさい」(マルコ14・38)。
聖アウグスティヌスは言います。「わたしたちを誘惑におちいらせないでください。 犯した罪をゆるし、新しい罪を犯さない恵みをお与えください、ということです。人が罪を犯すのは、誘惑に屈するときだからです」。
この願いは、前の願いの根にまで届きます。罪は、誘惑に同意した実りだからです。わたしたちは、父に、誘惑に「陥らせない」よう願います。罪へと導く道を歩ませないよう求めます。「肉と霊との間の」戦いの中にいるからです。この願いは、識別と力の霊を求めています。聖霊は、内なる人の成長に必要な試練と(ルカ8・13―15、使徒言行録14・22、二テモテ3・12)、罪と死に導く誘惑とを(ヤコブ1・14―15)、見分ける力を与えてくださいます。識別は、誘惑の偽りを暴きます。その対象は一見、「良く、目を引き、望ましい」(創世記3・6)ものですが、その実りは、実際には死なのです(CEC 2846―2847)。
父に、誘惑へ引き入れられることをお許しにならないよう願う人々は、「神が許されなければ、敵は何もできない」と認めています。同時に、「自分の弱さ」を認め、勝利を自分の手柄とする「高ぶりと自慢」に陥らないようにしています。キリストの弟子は、「霊は進んでも、肉は弱い」ことを知っています。聖キプリアヌスは語ります。「誘惑に陥らないよう願うとき、自分の弱さを思い起こさせられます。誰も愚かに高ぶり、高慢と傲慢によって何かを自分に帰し、自慢しないためです。主が、『誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈りなさい。霊は進んでも、肉は弱い』(マタイ26・41)と言われたからです」。
ですから、神に祈るとき、神殿で徴税人とファリサイ人が、どのように祈ったかを忘れてはなりません。徴税人は、大胆に目を天に向けたり、傲慢に腕を上げたりせず、胸を打ち、罪を告白して、憐れみを呼び求めました。他方、ファリサイ人は自分の行いに満足していました。徴税人は、誰も罪なくないので、自分の潔白を頼らずに祈り、義とされるに至りました。罪を告白し、へりくだってゆるしを願い、へりくだる者をゆるす方に、その祈りを聞き入れられたのです(ルカ18・10―14)。
「誘惑」ということばは、「試練」を意味することもあります。旧約聖書では、詩編作者が、「主よ、わたしを調べ、試してください」(詩編26・2)と祈るような場合です。この願いには、自分自身、自分の忍耐と堅固さへの、大きな信頼が前提となっています。しかし、人間を深く知るイエスは、「誘惑へ引き入れないでください」と祈ることを教えられます。誘惑はあまりに危険で、ほとんど転落と同じ意味になるからです。誘惑に対し、苦悶に至るまで戦われたイエスは、弟子たちに、「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈りなさい」と勧められます。
したがって、この願いの最初の意味は、ラテン語の主の祈りの訳のように、「誘惑へ引き入れないでください」と神に願うことです。しかし実際には、誘惑は生活の中で必要です。主の祈りを最初に解説したテルトゥリアヌスは、この願いは、信仰を試すために神が送られる試練において、「誘惑する者が、わたしたちを誘惑へ引き入れない」ことを求めるのだと説明します。そのため、「悪い者からお救いください」と付け加えるのです。聖パウロも、自分自身や自分の力を頼まないよう語ります。「立っていると思う者は、倒れないよう注意しなさい。人間に耐えられない誘惑に遭ったことはありません。神は忠実で、力を超える誘惑に遭わせることはなさいません。誘惑とともに、耐え抜くことのできる道をも備えてくださいます」(一コリント10・13)。
b 誘惑は必要である
誘惑に引き入れられないことを願うのは、信仰を試す「有益な誘惑」についてではなく、「力を超え、耐えることのできない」誘惑についてです(ルカ11・4)。誘惑されることと、誘惑に同意することは別です。試されることなく、人は確かめられません。『シラ書』に、「土の器は炉で試され、正しい人々は、苦難の誘惑で試される」(シラ27・5)とあるとおりです。ですから、誘惑されないことではなく、その中で屈しないことを願います。ヨセフは不純な魅力で誘惑されましたが、屈しませんでした。スザンナも誘惑されましたが、打ち負かされませんでした。ほかにも、多くの人々がそうでした。「人間の」誘惑はさまざまです。しかし、「神は忠実で、力を超える誘惑に遭わせず、同じ誘惑からも益を得て、立ち続けられるようにしてくださいます」(一コリント10・13)。
聖アウグスティヌスによれば、誘惑に引き入れられないよう父に祈る人は、誘惑そのものから免れることを願うのではありません。「地上の人の生活は、絶え間ない試練」(ヨブ7・1)だからです。人々から、自分の欲情から(ヤコブ1・14―15)、何よりもサタンから、誘惑されます(ルカ22・31)。神は、正しい人々さえ誘惑されることを許し(ヨブ1・11―12、2・5―6)、「苦難」の中で忠実さを試し(シラ27・5)、「神を愛しているか」を知らせることができます(申命記13・4)。この願いでわたしたちは、「誰をも誘惑なさらない」(ヤコブ1・13)けれども「すべての人を試される」神が許された誘惑に、屈しないことを求めます。
神は、人を罪へ導く誘惑によって試すことはなさいませんが、「信仰の試練」はお与えになります。自分を欺かないためです。隠れた計画によって助けを引かれる人が、試練に陥ることを許される場合さえあります。あらゆる誘惑には神から限度が定められているので、内外のすべての試練は、父の子らへの善い計画に役立ちます。だから、もろいわたしたちは、悪魔である誘惑者に欺かれないよう、また誘惑に屈しないための助けを失わないよう、父に願います。そして最後に、神から受けた聖性に、終わりまでとどまり続ける賜物を願います。誘惑に陥るという、最初の、根本的な障害を避けるためです。
アウグスティヌスは続けます。人の心は、貪欲の誘惑と、苦しみへの恐れにさらされています。この二つが、悪の入り込む門です。自分自身を知るために、試される必要があります。誘惑は、自分が何者であるかを明らかにするからです。「欺く誘惑と、試す誘惑があります。前者では悪魔が誘惑し、後者では神が試されます」。「人の内には、自分自身にも隠され、知られていないものがあります。それが明るみに出て知られるのは、誘惑の中だけです。神が試すのをやめられるなら、それは、教師が教えるのをやめるようなものでしょう」。
神は、ご自分から遠ざけるためには、誰をも誘惑されません。しかし、近づけるためには試されます。そのように、アブラハム、イサク、ヤコブの信仰を試されました。118 イスラエルの忠実さも、まず荒れ野で、後に捕囚の中で試されました。119 神は、正しい人も、仕え始めた人も試されます(シラ4・17)。試練は、るつぼとして働きます。「子よ、主に仕えようとするなら、魂を試練に備えよ。心を正し、堅く立ち、逆境の時に急ぎ立つな。金は火によって精錬され、神に受け入れられる人は、へりくだりの炉で精錬される」(シラ2・1―2、5)。
試練がなければ、人は神から離れます。試練は、神に近づけます。それは、神の教育に含まれています。キリスト教の信仰も、試練のるつぼに入れられ、120 忍耐を生み、忍耐とともに、神の愛に根ざす、失望に終わらない希望を生みます。121 試練の中で、キリスト者は、「試練とともに、耐える力を与え」(一コリント10・13)、その後「約束のいのちの冠」(ヤコブ1・12)をくださる、神の愛の忠実さを体験します。「兄弟たち、さまざまな試練に囲まれるとき、それを大きな喜びと考えなさい。試された信仰が、苦しみにおける忍耐を生むと知っているからです。忍耐は、完全な行いを伴わなければなりません。あなたがたが完全で、欠けるところのない者となるためです」(ヤコブ1・2―4)。熟練した信仰の教師である、エルサレムの聖キュリロスは、新受洗者に語ります。
主は、いかなる仕方でも誘惑されないよう祈ることを教えられるのでしょうか。それなら、なぜ別のところで、「試されない人は、確かな人ではない」(シラ34・9)、また、「兄弟たち、さまざまな誘惑に囲まれるとき、すべてを喜びと考えなさい」(ヤコブ1・2)と言われるのでしょう。しかし、「誘惑に入る」とは、その中に沈むことかもしれません。誘惑は、渡るのが難しい激流のようだからです。
沈まずに誘惑を渡る人は、見事な泳ぎ手で、決して流されません。そうやって渡らない人は、沈みます。たとえば、ユダは貪欲の誘惑に入り、泳がず、からだも霊も沈んで、溺れました。ペトロは否認の誘惑に入りましたが、沈むことはなく、勇敢に泳いで、誘惑から救い出されました。倒れなかった聖なる人々は、誘惑から救われたことを感謝して歌います。「神よ、あなたはわたしたちを試し、銀を精錬するように精錬されました。わなにかけ、背に苦難を負わせ、頭上に飢えを通らせました。火と水を通りましたが、あなたは安らぎの場所へ導き出してくださいました」(詩編65・10―12)。安らぎに達するとは、誘惑から救われることです。
c イエスが誘惑されたように
「イエスは、悪魔に誘惑されるため、霊によって荒れ野に導かれた」。悪魔はイエスを、父のみ旨に背き、み国を拒み、代わりに「世界のすべての国々」の主である悪魔に従うよう誘惑します。生涯の初めも、終わりも、父のみ旨に背くよう誘惑されます(マタイ26・39)。弟子たちがさらされるのも同じ誘惑です。だからイエスは、「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈りなさい」(マタイ26・41)と勧められます。テルトゥリアヌスは解説します。「弟子たちは、主を見捨てるほど誘惑されました。しかしそれは、祈りよりも眠りに身を任せたからでした」。122 誘惑する者は、神の国の敵です。神のみ旨を受け入れないよう誘惑し、神の国に逆らいながら、自分の国を広げます。
ルカによれば、生涯の初めから(4・2―13)終わりまで(22・42―44)、イエスは悪魔によって、父に託された使命に逆らい、受難と死についてのみ旨に入らないよう誘惑されました。イエスの生涯は、「強い者」との絶え間ない戦いであり、その頂点が、ゲツセマネでの「闇の力との戦い」、アゴニアです(22・31―53)。闇の力は、イエスの意志を父のみ旨と対立させようとします。そこでイエスは、「苦悶に陥り、いよいよ切に祈られました」(22・44)。これが子らの誘惑でもあります。だから日々、父に、そこに屈しないよう願います。「誘惑に屈しないよう祈りなさい」(22・46)。
種をまく人のたとえの解説で、イエスは言われます。「岩の上に落ちた種は、みことばを聞くと喜んで受け入れますが、根がない人々です。しばらくは信じても、誘惑の時になると倒れます」(ルカ8・13)。それは、み国のことばに対する誘惑であり、具体的には、侮辱、123 嘲笑(使徒言行録17・32)、反対(13・45、28・22)、脅迫(4・21、5・28、40)、懲罰(12・1、18・17)、鞭打ち、124 石打ち、125 迫害、126 投獄、127 さらには殉教に至るものです。128 宣べ伝え、受け入れた「みことば」、「イエスの名」のためです(使徒言行録5・41、21・13)。「神の国に入るには、多くの苦難を経なければならない」(使徒言行録14・22)からです。
み国に入るのは、「聞いた後、良い、正しい心でみことばを保ち、忍耐をもって実を結ぶ人々」(ルカ22・31)、すなわち、誘惑の中で忠実にとどまる人々です。だから父に、「わたしたちを誘惑におちいらせないでください」と願います。
イエスにとって、サタンは、誘惑者、何にもまさる敵です。公の働きは、サタンの三つの誘惑への勝利から始まりました(マタイ4・1―11)。イエスご自身も、生涯全体を、十二人がともに耐えた「誘惑」の連なりと見なされます(ルカ22・28)。しかし、誘惑の真の時は、受難とともに始まります。荒れ野の誘惑の後、サタンは「定めの時まで」(ルカ4・13)イエスを離れました。そして、「サタンがユダに入り」(ルカ22・3)、キリストの受難が始まったとき、「時」、「闇の力」が来ました(ルカ22・53、マルコ14・41)。そのとき、サタンは「弟子たちを麦のようにふるいにかける」許しを求めました(ルカ22・31)。ペトロの信仰さえ、「尽きる」危険があるのです。
それ以来、イエスの弟子たちは、すべての人の憎しみにさらされます。129 総督や王の前に引き出され(マルコ13・9、12)、偽のキリスト(マタイ24・26以下、マルコ13・6)、偽の預言(マタイ7・15、ルカ21・8)が現れます。この「苦難」を前に、イエスは警告しなければなりません。「惑わされないように注意しなさい」(ルカ21・8)。「これから起こるすべてを逃れ、人の子の前に確かに立つことができるよう、いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21・36)。サタンの惑わす力はあまりに強く、イエスは問われます。「人の子が来るとき、地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18・8)。そして保証されます。「神が、選ばれた人々のために試練の日々を短くされなければ、誰も救われない」(マルコ13・19以下)。「不法が増し、多くの人の愛が冷える」(マタイ24・12)からです。
この情景を前に、イエスは、「誘惑に入らないよう、目を覚まして祈りなさい」(マルコ14・38)と勧めずにはいられません。死に先立つ、弟子たちへの最後の勧めです。しかし励ましも与えられます。「世では苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に勝ちました」(ヨハネ16・33)。
誘惑の仕掛け人である悪魔は、回心した人々の「心を満たす」ことさえあります(使徒言行録5・3)。サタンは、誘惑によって害を与えようとします。しかし神は、誘惑者が働きかけることを許されるとき、わたしたちの善を求めておられます。誘惑をへりくだって受け止めることは、神に、誘惑を避けさせることではなく、その中で屈しないために守ってくださることを願い、真実に祈るよう導きます。「誘惑を耐え抜く人は幸いです。試された後、いのちの冠を受けるからです」(ヤコブ1・12)。すべては、神に選ばれた人々の善に役立ちます。
誘惑は、自分の内にあるものを見いだす助けとなります。「主は、あなたがたが主を愛しているか知るために、試される」(申命記13・4)。聖アウグスティヌスは、「あなたがたに、自分が神を愛しているか知らせるために」と解釈します。聖パウロは自分について、「思い上がらないよう、肉のとげ、サタンの使いが与えられました」(二コリント12・7)と言います。
オリゲネスによれば、父に誘惑に置かれないことを願うわたしたちは、「祈らない人が屈する誘惑に陥るに値する、何ものも受け入れないこと」を求めています。地上を歩む間、「霊に逆らう」(ガラテヤ5・17)肉をまとい、その「思いは神への敵意であり、神の律法に従わず、従うこともできない」(ローマ8・7)からです。そして「神は、何らかの仕方ですべての人を試される」ので、それは、自由を保ち、心の片隅に隠されたものを知り、自分がどのような者かを知るためです(申命記8・2―16)。
したがって、誘惑から自由になることを願うのは、誘惑されなくなるためではありません。地上に生きる間、それは不可能です。試練の中で屈しないためです。誘惑に屈する人は、その網に捕らわれるように、誘惑に陥るからです。同じように、新受洗者に向けて、モプスエスティアのテオドロスは語ります。
この世では、多くの苦難に不意に陥り、網にかけられ、揺さぶられて、霊まで乱されます。だから主は、「誘惑へ引き入れないでください」と加えられました。まず、誘惑が及ばないよう神に願います。しかし、その中に入るなら、耐え、できるだけ早く抜け出す力を願います。この世の多くの、さまざまな苦難が、心を乱すのは明らかです。からだの病も、長引き、重くなれば、病む人を深く乱します。肉体の情念も、時には思わぬうちに誘い、務めからそれさせます。ふと目にした美しい顔が、内にある欲情を呼び覚まします。ほかにも、思いがけない多くのことが起こり、善を選び、喜ぶ心まで、悪へと傾けます。何より、悪人がわたしたちに企てること、まして信仰の兄弟がそうするなら、確かな徳を持つ人さえ、善から遠ざけるに十分です……。
こうしたすべてのために、主は、「誘惑へ引き入れないでください」と願うことを教え、「悪い者からお救いください」と加えられました。サタンは、務めを選び、そこに慰めを見いだすことから遠ざけるため、多くの、さまざまな策略を実行するからです。
聖ヨハネ・クリゾストモも、その意味で信者に勧めます。
ここで主は、わたしたちの惨めさを教え、高ぶりを抑えられます。戦いを避けてはなりませんが、自ら進んで闘技場に飛び込んでもならないと教えられます。そうすれば、勝利はいっそう輝き、悪魔の敗北はいっそう恥ずべきものとなります。戦いに引き込まれたなら、堅く立ちましょう。挑まれても、静かに戦いの時を待ちましょう。こうして、野心のなさと勇気の両方を示すのです。
d サタンこそ大いなる誘惑者
異邦人の間に生きるキリスト教共同体は、苦難や迫害によって、信仰を捨てる誘惑に、絶えずさらされると感じています。130 「神がわたしを誘惑している」(ヤコブ1・13)と嘆き、あるいは自分を弁護しようとする人がいたのも、不思議ではありません。使徒ヤコブは強く反対し、「神は誘惑されることも、誰かを誘惑することもない」(ヤコブ1・13)と宣言します。誘惑は、「罪を生み、死に至らせる自分の欲情」から出ます(ヤコブ1・14―15)。しかし、本当の仕掛け人は、「誘惑する者」(一テサロニケ3・5)、サタンです(一コリント5・7)。
確かに神は、サタンが信者を誘惑することを許されます(一コリント10・13、一ペトロ1・6―7、4・12)。忍耐を通して信仰を精錬し(ヤコブ1・2―4、一ペトロ1・6―7)、試練を越えた後、「いのちの冠」を与えるためです(ヤコブ1・12)。こうして、試された信仰は、「イエス・キリストの現れのとき、賛美と栄光と誉れの理由」となるのです(一ペトロ1・7)。
誘惑は、「全世界を惑わす者」(黙示録12・9)に固有のものです。主の祈りの願いは、その者に引き入れられず、誘惑者の手に落ちず、誘惑に屈しないことを求めます。サタンの領域に陥るか否かは、父にかかっています。サタンの働きは、神が定められた限界の内にあるからです。わたしたちの願いは、最も信頼に満ちた信仰、最も熱烈な神への愛の中にもあるべき、畏れから生まれます。
サタンにあるのは、「願い求め」、神が与えることをよしとされた権限だけです(ルカ22・31以下)。さらに、その力は、イエスの執り成し(ルカ22・31)と、この願いをささげる務めを主から託された弟子たちの祈りによって、制限されています。だから聖アウグスティヌスは勧めます。
今、困難の中にあっても、ここでアレルヤを歌いましょう。その後、かの地で、もはや危険なく歌えるためです。なぜ今、困難があるのでしょう。聖書自体が、人は地上で、務めを果たしていると言うのに、それを否定するのでしょうか。誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈りなさいと読むのに、否定するのでしょうか。誘惑があまりに頻繁なので、主ご自身が、わたしたちも人をゆるしますから、わたしたちの罪をおゆるしくださいと願うよう命じられるのに、否定するのでしょうか。毎日罪を犯すので、毎日ゆるしを願わなければなりません。日々、罪のゆるしと、危険の中の助けを求めなければならないのに、すでに安全だと言うのでしょうか。
まず、過去の罪のために、わたしたちも人をゆるしますから、わたしたちの罪をおゆるしくださいと言います。その後、未来の危険のために、わたしたちを誘惑におちいらせないでくださいと加えます。皆で、悪からお救いくださいと願うのに、どうして、善の中にすでに安全でいられるでしょうか。それでも、この悪の中にあって、悪から救ってくださる善い神に、アレルヤを歌いましょう。
ここで、危険と誘惑に囲まれていても、皆でアレルヤを歌うのをやめないように。使徒は言います。神は忠実で、力を超える誘惑に遭わせることはなさいません。だからここでも、アレルヤを歌いましょう。人は、なお罪人ですが、神は忠実です。「誘惑に遭わせない」と言うのではなく、力を超える誘惑に遭わせない。むしろ、同じ誘惑の中で、耐え抜ける道を備えてくださると言います。
あなたは誘惑に入りましたが、神は無事に抜け出せるようにしてくださいます。こうして土の器のように、宣教によって形づくられ、苦難の火で焼かれます。誘惑に入るときには、抜け出せると信頼しなさい。神は忠実だからです。主は、あなたの出入りを守ってくださいます。
最後の戦いで、父はイエス・キリストに天使を送り、力づけられました。わたしたちを知っておられる父は、求めるなら、誘惑の中で、わたしたちにも天使たちを送ってくださるでしょう。
e 欲情との戦い
聖アウグスティヌスは、洗礼の準備をする人々に説きます。
何を願っているのでしょうか。聞いてください。使徒ヤコブは、「誘惑されるとき、『神が誘惑している』と、誰も言ってはならない」(ヤコブ1・13)と言います。欺きに導き、悪魔の奴隷とする誘惑を、悪いものと呼んでいます。これが、使徒の言う誘惑です。しかし別の、試練と呼ばれる誘惑もあります。「あなたがたが主を愛しているか知るため」(申命記13・3)のものです。神はすでにご存じですから、あなたがた自身が知るためです。
誘惑が欺き、惑わすとき、誘惑しているのは神ではありません。神は、その計画において、ときに人を自分自身に任せられます。そのとき、誘惑者は、何をすべきかよく知っています。神が自分自身に任せてしまわれないよう、「わたしたちを誘惑におちいらせないでください」と言うのです。同じ使徒ヤコブは、「一人ひとりは、自分の欲情に引かれ、誘われて誘惑されます。欲情ははらむと罪を生み、罪は行われると死を生みます」(ヤコブ1・14―15)と言います。これによって、自分の欲情と戦わなければならないと教えています。
聖なる洗礼において、罪は捨てますが、欲情は捨てません。新たに生まれた後も、それと戦うのは、あなたがたです。肉と霊の戦いは、内に残ります。外の敵を恐れてはなりません。誰かが、誘惑するために何らかの利益を差し出しても、あなたの内に貪欲を見つけないようにしなさい。貪欲なら、利益を前に欲望が燃え立ち、欺きのわなに陥るでしょう。
そうでなければ、わなは無駄に置かれます。誘惑者が、美しい女を差し出します。内に貞潔が宿っていれば、外から来る悪は打ち破られます。しかし、内に色欲があるなら、簡単に負けます。だから、敵ではなく、自分の欲情に注意しなさい。
神が助けてくださらず、自分自身に任せられるなら、必ず屈します。だから祈るのです。「わたしたちを誘惑におちいらせないでください」。使徒が、「神は、彼らを心の欲情に任された」(ローマ1・24)と言うとおりです。
欲情の源は、あなた自身の内にしかありません。それに同意すれば、心の中で、それを自分の側女とすることになります。生じたら抵抗し、従わないように。同意して抱き締めなければ、その後に生まれるもののために泣かずに済みます。同意し、抱き締めれば、必ずはらむからです。「欲情は、はらむと罪を生む」。それだけでは十分でないのでしょうか。「罪は、死を生む」(ヤコブ1・13―15)。罪を恐れないなら、せめて結果を恐れなさい。罪は甘くても、死は苦いのです。
死ぬ人は、罪を犯す原因となったものを世に残し、罪だけを持って行きます。金のために罪を犯しても、金は置いて行かなければなりません。権力のために犯しても、権力は置いて行かなければなりません。女のために犯しても、彼女を残さなければなりません。死ぬために目を閉じるとき、罪の原因となったものは、すべて置いてゆきます。持って行くのは、犯した罪だけです。
f 目を覚まして祈りなさい
イエスは弟子たちに、「誘惑に屈しないよう、目を覚まして祈りなさい」(マタイ26・41)と勧められました。キリスト者が父に願うのは、このことです。「わたしたちを誘惑におちいらせないでください」。誘惑そのものを避けさせてほしいと願うのではありません。弟子は誘惑され得ますし、131 実際に誘惑されます。132 屈しないためには目を覚ましている必要がありますが、それだけでは足りません。祈ることも必要です。自分自身、肉をよりどころとするキリスト者は、弱さを体験し、誘惑に陥ります。誘惑に耐え、屈しない力を与えられるのは、霊だけです(マタイ26・41)。
この戦いと勝利は、祈りによってのみ可能です。祈りを通して、イエスは、初めにも(マタイ4・11)、苦悶の最後の戦いにおいても(マタイ26・36―44)、誘惑者に勝利されます。父に対するこの願いにおいて、キリストはわたしたちを、ご自身の戦いと苦悶に結んでくださいます。主の祈りとの交わりのうちに、目を覚まして祈ることが、繰り返し求められます(マルコ13・9、23、33―37、14・38、ルカ12・35―40)。聖霊は絶えず、この目覚めを呼び起こそうとされます(一コリント16・13、コロサイ4・2、一テサロニケ5・6、一ペトロ5・8。CEC 2849)。
イエスについても、誘惑があります。期待される栄光の姿で現れられないからです。「わたしにつまずかない人は幸いです」(ルカ7・23)。十字架にかけられたキリストの姿は、不条理とつまずきの最大の表現です。「見よ、人の子が罪人たちの手に渡される時が来た」(マルコ14・41)。それは「皆がつまずく」(マルコ14・27)時、ペトロが主を否む時です(マルコ14・30)。イエスは、ペトロの信仰が尽きないよう、祈らなければなりません(ルカ22・32)。しかし、サタンがふるいにかけようとするのは、ペトロだけでなく、すべての弟子です。
大きな誘惑は、信仰の喪失をもたらしかねない、キリストの十字架のつまずきです。「誘惑へ引き入れないでください」とは、信仰を捨てることから救ってください、と願うようなものです。133 神の国は、地上では、信仰によってしか受け入れられない姿で現れます(マルコ1・15)。なぜ来ないのか、なぜ、もっと早く現れないのか、134 なぜ宣教は、これほど多く失敗するのか(マルコ4・1―9)と、問いやすいものです。それが誘惑になり得ます。メシアがいつも示す弱さのために、認めないことも起こります。知らせを告げる弟子たちも、敵意と抵抗に遭います(マタイ10・16)。師と同じ運命、迫害が待っているのです(マルコ940、マタイ10・15)。
信仰は、すでに永遠のいのちの始まりです。しかし今は、「見ることではなく、信仰によって歩み」(二コリント5・7)、神を、「鏡に映るように、ぼんやりと、不完全に」知っています(一コリント13・12)。信じる方によって光に満たされながら、信仰はしばしば暗闇の中で生きられます。信仰は試され得ます。わたしたちの生きる世界は、信仰が保証することから、しばしば遠く離れて見えます。悪と苦しみ、不正と死の体験は、福音に反するかのように見え、信仰を揺さぶり、その誘惑となり得るのです(CEC 164)。
第8章 悪からお救いください
主に、誘惑に陥らせないよう願った後、最後の叫びとして、悪い者の力からも救い、悪魔の爪から守ってくださるよう求めます。悪魔は、「ほえる獅子のように、食い尽くす相手を探して歩き回る敵」(一ペトロ5・8)です。「主よ、獅子の口からお救いください」(二テモテ4・17―18)。
a 神と悪魔
主の祈りの最後のことばは、最初のことばと完全に対応しています。父であるのは、神だけではありません。イエスは福音の中で、もう一つの、父と子の関係についても語られます。「あなたがたは、父である悪魔に属し、その父の欲望を行おうとしている」(ヨハネ8・44)。悪魔は、自分の奴隷とした人を、ついには自分の子とします。子とするために解放してくださる神と逆の道筋で、子とするために奴隷とするのです。
父は、自由の声です。「あなたは、もはや奴隷ではなく、子です」(ガラテヤ4・7)。神を父と呼べるのは、神の子らの自由によります。「時が満ちると、神は、女から生まれ、律法の下に生まれた御子を遣わされました。律法の下にあった者を贖い、子として迎えるためです。あなたがたが子である証拠に、神は、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださいました」(ガラテヤ4・4―6)。
しかし、神の子であること、自由に生き、神を父と呼べることによって、畏れが不要になるわけではありません。悪は存在し、昔の捕らわれに戻る可能性もあるからです。「自由にするために、キリストは解放してくださいました。だから、堅く立ち、再び奴隷の軛につながれてはなりません」(ガラテヤ5・1)。キリストが与えてくださった自由が除くのは、奴隷の恐れです。しかし、愛の表現である、子としての畏れは残ります。「神の霊に導かれる人は皆、神の子です。再び恐れに陥らせる奴隷の霊ではなく、『アッバ、父よ』と叫ばせる、子とする霊を受けたのです」(ローマ8・14以下)。
イエスは、「サタンが稲妻のように落ちるのを見た」(ルカ10・18)と言われます。公生活の初めから、サタンを真の敵として向き合われます(マルコ1・13)。イエスほど、その危険を知る方はいません。サタンは、神に敵対する者です。神の国が現れるほど、サタンもその力を、いっそうあらわにします。最後の戦いは激しくなります(黙示録12・1―17参照)。サタンの転落は、勝利の賛歌を引き起こします。「今、わたしたちの神の救いと力と国が来た」(黙示録12・10)。しかしそれは、天から地への転落であり、地上で、小羊に従う人々への戦いが始まります。「天よ、喜べ」に続いて、「地と海は災いだ」という叫びが上がります。悪魔が激しい怒りを抱いて降りて来たからです。「残された時が短いと知っている」(黙示録12・12)のです。大いなる苦難の時です。
オリゲネスは、この願いを解説します。
主が悪から救ってくださるのは、敵がさまざまな策略を使って戦いを挑むのをやめるときではなく、わたしたちが勇敢に出来事に向き合い、勝利するときです。「正しい人の苦しみは多い。しかし主は、そのすべてから救ってくださる」(詩編33・20)と読みます。神が苦難から救われるのは、それを消し去るときではありません。使徒は、まるで決して苦難から自由にならないかのように、「あらゆる仕方で苦しめられる」(二コリント4・8)と言うからです。そうではなく、苦難に遭っても、神の助けによって打ち倒されないときです。だからパウロは、「苦しめられても、打ちひしがれない」と加えます。
ですから神に、誘惑されても滅びず、「悪い者が放つ燃える矢」(エフェソ6・16)に焼かれないことを願うべきです。その矢は、「心が炉のように準備されている」人々すべてに燃え移ります(ホセア7・6)。しかし、「信仰の盾によって、悪い者の燃える矢をすべて消す」(エフェソ6・16)人々には燃え移りません。その内には、「永遠のいのちへと湧き出る水」(ヨハネ4・14)があり、悪い者の火が広がるのを防ぎ、神に向かう、救いとなる思いの洪水で、たやすく消してしまうからです。
サタンのイエスへの激しい攻撃は、失敗します。勝ったと信じるその瞬間、イエスの死において、「この世の支配者」は地に投げ落とされます(ヨハネ12・28、ルカ10・8)。聖霊が示してくださるとき、弟子たちはそれを理解します(ヨハネ16・11)。根本的には、竜とその手下は打ち破られていますが(黙示録12・7―12)、その憎しみは、なお弟子たちを覆います。135
通常、サタンは隠れて働きます(二テサロニケ2・8)。しかし、その意図は明らかです(二コリント2・11)。教会に分裂を引き起こし(二コリント11・12―15)、宣教に障害を設け(一テサロニケ2・18、二コリント12・7)、「光の天使」に姿を変え、偽使徒を送ります(二コリント11・14)。パウロへのユダヤ人たちの陰謀の背後にもいます(使徒言行録20・19)。結局は、キリストの死によってもたらされた救いを、信じる人々から奪い(一テサロニケ3・5)、キリストから弟子を引き離し、自分に従わせ(一テモテ5・15)、「永遠の断罪」へ導き(一テモテ3・6)、自分の断罪にあずからせようとするのです。
キリストの死が、弟子たちを「闇の力から引き離し、愛する御子の国へ移した」136 としても、戦いは終わっていません。「悪魔にすきを与えない」よう、注意が必要です(エフェソ4・27)。主の再臨の前には、「不忠実が満ちる」(マタイ24・12)からです。危険は、ある日(ヘブライ3・8)、ある時(黙示録3・10)、ある瞬間に(ルカ8・13)、具体的な形を取り、弟子を離反、背教、したがって永遠の断罪へ導こうとします(二ペトロ2・9)。
「この世の支配者」(ヨハネ14・30)への勝利は、いのちを与えるために、イエスが自由に死へと身を渡された、あの時に、決定的に得られました。それは、この世の裁きの時、この世の支配者が「投げ落とされた」時です(ヨハネ12・31、黙示録12・11)。「竜は女を追いかけます」(黙示録12・13―16)が、捕らえることはできません。聖霊の「恵みに満ちた」新しいエバは、罪と死の腐敗から救われているからです。「すると、女に対して怒り、残りの子らと戦うために出て行った」(黙示録12・17)。だから霊と教会は、「主イエスよ、来てください」(黙示録22・17、20)と祈ります。その来臨が、悪い者から救ってくださるからです(CEC 2853)。
まさに、この誘惑の時に入らないために、毎日、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪い者からお救いください」と願います。聖パウロはローマの人々のために、「平和の神が、できるだけ早く、あなたがたの足の下にサタンを打ち砕いてくださる」(ローマ16・20)ことを望みます。イエスご自身も、弟子たちのために父に祈られました。「世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることを願います」(ヨハネ17・15)。
「お救いください」と訳されるギリシア語の動詞は、本来、「奪い取ってください」を意味します。このことばは、生き生きとした情景を思い起こさせます。危険な獣が、すぐ近くで狙っています。そして、最後の瞬間に、その爪から救い出されるのです。わたしたちは、悪を、人格を持つ存在、悪い者、サタン、すなわち「あの悪い者」と考える方へと導かれます。137 弟子たちは、世にあって、狼の間の羊であると知っています。だからこそ、いのちへの絶え間ない脅威があり、「悪からお救いください」と父に願うのです。
b 悪からお救いください
ギリシア語のポネールーは、事柄を指す意味にも、人格的な意味にも理解でき、「悪」または「悪い者」を意味します。
「悪」は、地上の災いを指すのではありません。弟子は、貧しさ、住む場所のなさ、孤独、攻撃と中傷、さらには十字架をも受け入れるよう招かれます。イエスと弟子たちにとって、地上の不幸は、恐るべき危険ではありません。ここで言うのは、道徳的な悪、あるいは罪です。「主は、あらゆる悪いわざから救ってくださいます」(二テモテ4・18)。すでに『シラ書』にも、「主を畏れる者には、悪が及ばない。誘惑の中にあっても、再び救い出される」(シラ33・1)とあります。
教会の典礼は、この願いを広い意味で解釈します。「主よ、過去、現在、未来の、すべての悪から救ってください」。すでに『ディダケー』にも、同様の願いがあります。「主よ、あなたの教会を思い起こし、すべての悪から救ってください」。聖パウロも、テモテに、「主は、あらゆる悪から救ってくださる」(二テモテ4・18)と、主への信頼を表しています。聖ベルナルドゥスの証言を、ここに引く価値があります。
ある種の悪への傾きは、わたしから出るのではなく、わたしがそれに苦しめられているのです。内に感じますが、わたしが起こすのではなく、同意さえしません。それに支配されず、内にある不義に同意しないよう気をつけるなら、神のみ前に汚れなくいられます。不義がわたしのものであるのは、その作者だからではなく、被害を受ける者だからです。
わたしは、死に渡されたからだ、罪の肉をまとっています。しかし、死すべきからだに罪が支配せず、各部分を不義のために用いなければ、からだは罪に定められません。ですから、憐れみ深い神よ、聖なる人は、誘惑のとき、あなたに祈りをささげます。悪を感じても、同意しないからです。徳によって聖であり、誘惑のために祈ります。確かに、その人は聖です。あなたの律法は心の喜びであり、からだに悪が引き起こす痛みさえ、慰めとなります。一方を傷つけずには他方に打ち勝てないので、「行っているのは、わたしではなく、内に住む罪なのです」(ローマ7・17)と告白するほどです。
聖ヨハネ・クリゾストモによれば、最後にわたしたちは、誘惑に陥らせず、悪から救ってくださるよう父に願います。すなわち、「人々や悪魔の働きによって、あらわに、あるいは隠れて、わたしたちを苦しめる多くの悲しみ」からの解放です。何よりも、「最たる悪」である悪魔の働きからの解放です。
c 悪い者からお救いください
神に「悪からお救いください」と願うとき、何よりも、悪を体現する、悪い者からの解放を求めています。それは、イエスの誘惑の物語からも分かります(マタイ4・1―11)。イエスは、「悪魔に誘惑されるため、霊によって荒れ野に導かれ」、実際に、父のみ旨に背き、み国を拒み、それに代えて、「この世のすべての国々」の主である悪魔に服するよう誘惑されます。これが、子らが父に、屈するに任せないでくださいと願う誘惑です。だから、悪い者から救われることを願います。
主の祈りの最後の願いで、わたしたちは神に、悪からの解放を願います。その十全な表現が、悪い者です。マタイは、み国のことばを奪う「悪い者」(マタイ13・19)を語り、ルカは「悪魔」(ルカ8・12)を語り、マルコは「サタン」と呼びます(マルコ4・15)。「この世の神」(二コリント4・4)、「この世の支配者」(ヨハネ12・31、14・30、16・11)です。「偽りの父」(ヨハネ8・44)であり、「光の天使に身をやつし」(二コリント11・14)、あるいは、「羊の衣を着ているが、内側は貪欲な狼」です(マタイ7・15)。
したがってわたしたちは、最後に、悪からの解放を願います。すなわち、「人間の弱さでは予見し、避けられない」すべての悪からの解放です。アクイレイアの聖クロマティウスによれば、それはまた、「あらゆる罪の仕掛け人であり、日々、さまざまな誘惑で信仰と戦う、悪い者から解放されること」とも理解できます。
この願いで、悪は抽象的なものではありません。一つの人格、サタン、悪い者、神に逆らう天使を指します。悪魔、ディア・ボロスとは、神の計画と、キリストにおいて成就された救いのわざを「妨げる」者です。「初めから人殺し、偽り者、偽りの父」(ヨハネ8・44)、「全世界を惑わすサタン」(黙示録12・9)は、罪と死が世に入る通路となった者です。その決定的な敗北によって、すべての被造物は「罪と死から解放されます」。「神から生まれた人は皆、罪を犯さないと知っています。神から生まれた方が守ってくださり、悪い者は触れることができません。わたしたちは神に属し、世全体は悪い者の力の下にあると知っています」(一ヨハネ5・18―19。CEC 2851―2852)。
エルサレムの聖キュリロスは、悪い者はわたしたちの敵、悪魔であり、そこから解放されることを願っているのだと言います。ニュッサの聖グレゴリオは、さらに説きます。「主は、『悪い者』を、その悪い行いの違いに応じて、さまざまな名で呼ばれるように思います。悪魔、ベルゼブル、マンモン、この世の支配者、人殺し、悪い者、偽りの父、その他、同じような名です。悪い者から離れていたい人は、世から離れなければなりません。『全世界は悪い者に服している』(一ヨハネ5・19)と書かれているからです」。聖ヨハネ・クリゾストモは解説します。
ここで主が悪い者と呼ばれるのは、悪魔です。その極度の悪ゆえに、悪い者と呼ばれます。わたしたちは何の害も与えていないのに、容赦ない戦いを仕掛けてきます。だから主は、「悪い人々からお救いください」ではなく、「悪い者からお救いください」と言われました。隣人から来るすべての悪の、究極の仕掛け人、扇動者はサタンだからです。こうして主は、隣人から悪を受けても、恨みを抱かないよう教えられます。憎しみをすべて向けるべき相手は、悪魔です。あらゆる悪の責任が、その者にあるからです。
創世記から(3・1―7)黙示録まで(3・10)、人は悪い者の誘惑にさらされています。メシアとしてのイエスの生涯全体は、その者との戦いに向けられています。洗礼でメシアと宣言されると、すぐに霊に促され、荒れ野へ、サタンを捜し、誘惑者に試されるために向かわれます(マルコ1・13、マタイ4・3)。この最初の攻撃からイエスが勝利して出られた後、サタンは時を稼ごうとし(マタイ8・29)、イエスを避け、「定めの時に」戻ろうとします(ルカ4・13)。しかしイエスは、休ませずに追われます。
悪霊の追放は、絶え間ない敗北、サタンの決定的な転落の先取りです。イエスは、「稲妻のように天から落ちる」のを見られます(ルカ10・8)。最後の転落は、後に起こります。その間、サタンは良い麦の間に、毒麦をまきます(マタイ13・25―39)。大きな試練は、闇が支配する時に来ます(ルカ22・53、マルコ14・41)。サタンがユダを捕らえ(ルカ22・3、ヨハネ13・2、27)、弟子たちを麦のようにふるいにかける許しを受ける時です(ルカ22・31)。師の十字架は、弟子たちの忠実さを試す機会となり、彼らは信仰の誘惑を通ります。イエスご自身は、信仰が揺らがず、「試練の中で」主とともにとどまり(ルカ22・28)、用意された国を受けられるように(ルカ22・29)、弟子たちのために父に祈られます。
悪い者は、死を支配する者です。「悪魔のねたみによって、死が世に入った。その者に属する人々が、死を味わう」(知恵2・24)。死の支配者として、すべての人を、「死への恐怖によって、生涯奴隷にします」(ヘブライ2・14―15)。「全世界は」、その支配の下にあります(一ヨハネ5・19)。「初めから罪を犯している」ので、「罪を犯す者は皆、その者に属します」(一ヨハネ3・8)。「初めから人殺し」(ヨハネ8・44)であり、「兄弟への憎しみ」(一ヨハネ8・34、44)をまいて、人殺しを生みます。138
その力から救えるのは、キリストだけです。そのために人となられました。「死によって、死を支配する者、すなわち悪魔を滅ぼし、死への恐怖のために、生涯奴隷にされていた人々を解放するためです」(ヘブライ2・14―15)。父は、「悪魔のわざを滅ぼすために」御子を遣わされました(一ヨハネ3・5、8)。キリスト者は、「御子が自由にしてくださるなら、本当に自由となる」(ヨハネ8・36)と知っています。自分の生活で、神の御子への信仰によって、「悪い者に打ち勝った」ことを体験しています(一ヨハネ2・13―14)。
しかし、キリストに打ち破られた後も、139 悪魔は、なお地上で「激しい怒りをもって」、「全世界を惑わす者」(黙示録12・9―12)、「聖なる者たちを惑わす者」(黙示録20・9―10)として働き続けると知っています。追い出され、敗れても、再び戻ってきます(マタイ12・43―45)。だから、「悪い者からお救いください」と願います。イエスご自身も、弟子たちのために父に祈る中で、こう願われます。「世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることを願います」(ヨハネ17・15)。
聖テレジアは、最も危険な誘惑について、修道女たちに注意を促します。
恐れ、そこから救ってくださいと、いつも主に願わなければならないのは、裏切りに満ちた敵、光の天使に姿を変え、変装して来る悪魔たちです。魂に大きな害を与えるまで、正体を明かしません。わたしたちの血を飲み、徳を損ないますが、誘惑の中にいることに気づかないのです。このようなものから主が救い、欺かれる誘惑の中を歩むことをお許しにならないよう、何度も願い、懇願しましょう。毒が明るみに出、光と真理が隠されませんように。
d 信仰を固く保ち、抵抗しなさい
悪い者は、「不正な、悪い人々を通して」、キリスト者の信仰を絶えず襲います(二テサロニケ3・2)。「敵である悪魔は、ほえる獅子のように、食い尽くす相手を探して歩き回ります」(一ペトロ5・8)。その爪から救えるのは、主の忠実さだけです。「主は、あなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます」(二テサロニケ3・3)。この信頼を主に置き、いつも信仰の盾を構えて、キリスト者は、悪い者の燃える矢を消すことができます(エフェソ6・16)。ペトロとヤコブも勧めています。「信仰を固く保ち、抵抗しなさい」(一ペトロ5・9)、「悪魔に抵抗しなさい。そうすれば、逃げ去ります」(ヤコブ4・7)。
神が悪魔の働きを許されることは、大きな神秘です。しかし、「神を愛する人々のためには、すべてにおいて神が働き、善をもたらしてくださると、わたしたちは知っています」(ローマ8・28、CEC 395)。「全世界がその力の下にある」(一ヨハネ5・19)悪い者からの解放は、いつも父の賜物です(二テサロニケ3・1―3)。しかし信者は、信仰によって抵抗できます(エフェソ6・16、一ペトロ5・8―9)。
聖キプリアヌスによれば、最後の願いは、すべての祈願を要約しています。悪からの解放は、この世で敵が企てる、すべての悪を含むからです。悪に対する神の守りを得たなら、もう何も願うことは残りません。この守りによって、悪魔と世が企てる、いかなる悪に対しても、安全に守られます。この世で、神を守り手として持つ人が、世の何を恐れるでしょうか。
聖アウグスティヌスも、この願いでは、「まだ受けていない悪、また、誘惑に陥って沈められた悪」からの解放を、神に求めているのだと語ります。
それが得られれば、恐るべきものは何も残りません。しかし、蛇の誘惑によって導かれた、死すべき身である状態が続く、この生涯において、その実現を期待することはできません。それでも、いつか悪からの完全な解放が来ると望んでいます。これが、使徒の語る、目に見えない希望です。「すでに見ている」、あるいは持っているものを、「希望するとは言わない」(ローマ8・24)からです。
しかし、待ち望むこの完全な幸いは、すでにこの生涯でも始まっています。「時を生かしなさい。今は悪い時だからです」と語る使徒に聞くならばです。こうして、「いのちを望み、善い日々を見たい」と願いつつ、詩編が続いて語ることを行います。「舌を悪から離し、唇に偽りを語らせず、悪を避け、善を行い、平和を求め、それに従いなさい」(詩編33・13―15)。
聖アンブロジオは、こう結びます。
罪を消し、過ちをゆるしてくださった主は、また、戦いを挑む悪魔の策略から、あなたがたを守ってくださいます。罪を生み出すことを習いとする敵に、不意を突かれないためです。神に信頼する人は、悪魔を恐れてはなりません。「神がわたしたちの味方なら、誰が敵対できるでしょうか」(ローマ8・31)。
聖マタイは、悪魔を、み国の敵として示します。「悪い者が来て、みことばの種を奪い」(マタイ13・9)、「世界の畑に毒麦をまきます」(マタイ13・25―39)。その働きは、悪魔的な、分裂のわざです。「み国の子ら」に、「悪い者の子ら」が対立します(マタイ13・27、38)。余計なことばはすべて、「悪い者から来ます」。140 したがってマタイは、神が悪い者から救ってくださるよう、切なる願いをもって主の祈りを結びます。その者は、「敵」、神(二テサロニケ2・4)とキリスト者(一テモテ5・14、一ペトロ5・8―9)に対する危険な敵対者です。
この願いが主の祈りを閉じることによって、わたしたちは、み国の到来を求める願いへと戻されます。み国が完全に打ち立てられるとき、サタンとその脅威は消え去るからです。悪い者への恐れの中で、信じる人は、祈りの初めに呼び求めた父の腕の中に、身を投じるのです。
注
CEC 2762参照。↩︎
教父に関する脚注は付けないことにしました。毎回同じ内容となり、有益ではないからです。いずれも、主の祈りについての注解、説教、講話の、第一の願い、第二の願い……に当たる箇所です。↩︎
詩編72・18、イザヤ45・3、マタイ15・31。↩︎
申命記14・1―2、出エジプト記4・22―23、ホセア11・1、イザヤ43・6、エレミヤ31・20。↩︎
エレミヤ3・4―19、詩編89・27、イザヤ63・16ほか。↩︎
シラ23・1―5、51・10、68・6。↩︎
詩編103・13、イザヤ63・15―16、64・7ほか参照。↩︎
箴言1・8、2・1、3・1、11―12、4・1―6、申命記8・1―6、シラ2・1、2、6。↩︎
イザヤ1・2―4、ホセア2・6、申命記32・1―43、マラキ3・2、6、11。↩︎
ホセア11・1―9、エレミヤ3・14、19―25、4・1―4、31・9―20、イザヤ63・15―19、64・4―11、バルク4・6―29。↩︎
バビロニア・タルムードによれば、アッバは、子どもが話し始めるとき、すなわち「乳を離れ、パンを食べ始めるとき」に口にすることばです。↩︎
ルカ22・70、マタイ26・64、マルコ14・61。↩︎
ヨハネ3・16、18、10・36、マタイ11・27、21・37―38、20・17、24・36ほか。↩︎
CEC 441―445。↩︎
モーセへの神の啓示(出エジプト記3―4章、33・18―34章)、エリヤへの啓示(列王記上19章)との並行関係を参照。↩︎
マタイ6・1、5―18。↩︎
マタイ11・25、26、ルカ10・21、マルコ14・36、マタイ26・39、ルカ23・34、46、ヨハネ11・41、12・27、28、17・1、5、11、21、24、25ほか。↩︎
ルカ2・49、9・26、10・22、22・29、24・49。↩︎
ルカ6・39、12・30―32。↩︎
マタイ7・21、10・32―33、12・50、15・13、16・17、18・10、19、35、25・34、26・29、39、53、28・19、ルカ2・49、22・29、マルコ8・38、13・32。↩︎
使徒言行録2・38、8・12―17、19・5―6。↩︎
ルカ11・2、ガラテヤ4・6、ローマ8・15。↩︎
エフェソ1・1、ガラテヤ1・1、コロサイ1・3。↩︎
一コリント1・3、二コリント1・2、ガラテヤ1・3、エフェソ1・2、フィリピ1・2、コロサイ1・2、一テサロニケ1・3ほか。↩︎
ヨハネの著作では、イエスとキリスト者に関わる「父」ということばが、118回用いられています。↩︎
エレミヤ1・7、エゼキエル2・1、イザヤ61・1ほか。↩︎
CEC 2664参照。↩︎
マタイ5・48、6・8、15、32、10・29、12・32、ルカ6・36、12・30。↩︎
マタイ6・8、7・9―11、ルカ12・30、マルコ11・25。↩︎
マタイ2・15、14・33、16・16、21・38、26・63―64。↩︎
一ヨハネ3・9、4・7、5・1、4、18、一ペトロ1・23、ヤコブ1・18。↩︎
ヨハネ1・12、ガラテヤ4・4―7、ローマ8・14―17。↩︎
CEC 2786―2793。↩︎
マタイ5・16、45、48、6・1、8―9、14―15、26、32、7・11、10・21―29、18・14、23・9。↩︎
CEC 2794―2796参照。↩︎
ヨハネ10・14―18、27―30。↩︎
ヨハネ20・21、13・20、17・18。↩︎
CEC 2777―2778。↩︎
ローマ15・6、二コリント1・3、エフェソ1・3、17、コロサイ1・3。↩︎
ヨハネ6・32―33、50―51。↩︎
CEC 203―227参照。↩︎
CEC 2813に引用。↩︎
父の配慮の中では、子らの教育が重要な位置を占めます。そこには矯正も含まれます(ヘブライ12・5―11)。罰は、父としての愛の表現です。「わたしは、愛する者を皆、戒め、鍛える」(黙示録3・19)。↩︎
マルコ12・28、31、44、9・43―48、マタイ5・48、6・1―6、16、24。↩︎
使徒言行録9・14、21、2・21、ヨハネ3・5、一コリント1・2、二テモテ2・22ほか。↩︎
使徒言行録8・16、19・5、一コリント6・11。↩︎
ヨハネ1・12、2・23、20・30、一ヨハネ3・23、5・5、10、13参照。↩︎
アモス9・12、イザヤ43・7、エレミヤ14・9。↩︎
ヨハネ14・13―16、15・16、16・23―24、26。↩︎
使徒言行録4・7―12、5・31、13・23。↩︎
マルコ9・38、16・17、ルカ10・17、使徒言行録16・18、19・13。↩︎
使徒言行録4・17―18、5・28、40、8・12、10・43ほか。↩︎
マタイ5・11、ヨハネ15・21、一ペトロ4・13―16。↩︎
CEC 2814に引用。↩︎
詩編60・13、108・13、127・1、エレミヤ2・30、4・30、6・29、46・11、マラキ3・14ほか参照。↩︎
イザヤ52・5、エゼキエル37・20―23、ヤコブ2・7、二ペトロ2・2。↩︎
預言者たちが非難する、偶像に向けられたむなしい礼拝を参照。彼らはシャーウという語を用います。ホセア12・12、エレミヤ18・15、ヨナ2・9、詩編31・7。魔術も、むなしい偶像礼拝と同様に、神のみ名を汚すことを意味します。ヤーウェへの信頼を捨て、実体のないものに信頼を置くからです。CEC 2149参照。↩︎
ユダヤ教のカッディーシュの祈りには、「わたしたちの生涯に、イスラエルの全家の日々に、速やかに、直ちに、王としての支配を行ってくださいますように」という願いがあります。↩︎
新約聖書で、この語は122回用いられています。そのうち99回は共観福音書にあり、うち90回はイエスのことばとして記されています。↩︎
イザヤ24・23、ミカ4・6、ゼファニヤ3・14以下、オバデヤ21、ゼカリヤ14・9、16以下、詩編5・18以下、マルコ1・15。↩︎
マルコ13・33―37、マタイ24・42―44、ルカ12・35―40。↩︎
キリストは、「何よりも、ご自身の過越という大いなる神秘、すなわち十字架上の死と復活によって、神の国の到来を実現されます」(CEC 542参照)。↩︎
『信教の自由に関する宣言』11。↩︎
マタイ12・38―42、16・4、ルカ11・29―32。↩︎
『レデンプトーリス・ミッシオ』16。「今日、み国について多く語られますが、必ずしも教会と調和しない考えも見られます。み国を人間的で世俗化された現実と見なし、単なる地上的進歩を目指す、社会経済的、政治的、文化的解放の計画と闘争だけが重要だと考えるのです。しかし、神の国は『この世に属していません』(ヨハネ18・36)……これらの思想は、キリストについて沈黙します……。しかしキリストは、み国を告げただけではありません。キリストにおいて、み国そのものが現存し、成就したのです。神の国は、自由に作り上げられる概念、教説、計画ではありません。何よりも、目に見えない神の似姿である、ナザレのイエスの顔と名を持つ、一人の方なのです……」(同17―18)。↩︎
ヨハネ12・31、14・30、16・11、二コリント4・4、エフェソ2・2、マルコ3・27。↩︎
ルカ5・7、6・19、8・46ほか。↩︎
CEC 544。↩︎
CEC 545。↩︎
CEC 546。↩︎
CEC 547―550。↩︎
マタイ4・17、マルコ1・15、ルカ10・9、11。↩︎
ヨハネ12・31、14・30、16・11、一コリント2・8。↩︎
サタンの力は、神の国が築かれるのを妨げることはできません。サタンは、神と、イエス・キリストにおけるみ国への憎しみから世に働き、その働きは、一人ひとりと社会に害をもたらします。それでも、この働きは、人と世界の歴史を、力強く、優しく導く神の摂理によって許されています。神が悪魔の働きを許されることは、大きな神秘です。しかし、「神を愛する人々のためには、すべてにおいて神が働き、善をもたらしてくださると、わたしたちは知っています」(ローマ8・28。CEC 395、547―550)。↩︎
『レデンプトーリス・ミッシオ』13。↩︎
『レデンプトーリス・ミッシオ』18。17―20参照。↩︎
『レデンプトーリス・ミッシオ』16。↩︎
マルコ4・26―29、30以下、マタイ13・24―30。↩︎
マタイ10・6、15・24、マルコ14・28、ルカ15・4以下。↩︎
CEC 541―550。↩︎
CEC 1130。ここでは、聖トマスの次のことばが引用されています。「したがって秘跡は、起こったこと、すなわちキリストの受難を記念するしるしです。また、キリストの受難の力によって、わたしたちの内に起こったこと、すなわち恵みを示すしるしです。そして、来るべき栄光を先取りし、あらかじめ告げるしるしです」(『神学大全』第3部、第60問、第3項)。↩︎
マタイ26・29、ルカ22・18、マルコ14・25。↩︎
第三奉献文、死者のための祈り。CEC 1402―1405参照。↩︎
マタイ8・11、13・43、26・29。↩︎
マタイ12・28、ルカ17・20―21。↩︎
マタイ10・7、24・14、使徒言行録1・3。↩︎
マタイ16・27、25・31―46。↩︎
マタイ20・1―6、22・9―10、ルカ12・32。↩︎
マタイ5・3、18・3―4、19・14、23―24。↩︎
マタイ13・44―46、19・12、マルコ9・47、ルカ9・62。↩︎
マタイ21・31―32、43、22・2―8、23・13。↩︎
テルトゥリアヌス。CEC 2817に引用。↩︎
8世紀にさかのぼる待降節の「オー交唱」も、同じようにみ国の到来を願います。↩︎
マルコ9・47、10・15―23以下、マタイ5・20、7・21、18・3、23・14、ヨハネ3・5、使徒言行録14・22。↩︎
マルコ9・43―45、10・17、30、マタイ7・14、19・17、29、25・46、ルカ12・15。↩︎
サムエル記下7章、詩編89編、ルカ1・32―33。↩︎
聖バジリオ。CEC 736に引用。↩︎
CEC 1107。↩︎
マルコ13・26、14・62、マタイ25・31。↩︎
ルカ22・42、ヨハネ4・34、5・30、6・38。↩︎
出エジプト記15・25、17・1―7、詩編95・9。↩︎
司祭叙階、あるいは、愛し合う二人が結婚の日に互いに交わす「はい」を参照。↩︎
受胎告知のフィアットには、すでに、イスラエルがシナイで契約を受け入れた際のフィアットへの暗示があります。天使との出会いの最後に、天使は「マリアのもとを去りました」。それは、モーセが「民のことばを、主に報告した」(出エジプト記19・8)ことになぞらえられます。↩︎
ヨハネ・パウロ二世「マリアのフィアット――シナイにおけるイスラエルのフィアットの成就」、1983年7月3日の「お告げの祈り」参照。↩︎
ルカ4・3―4、7・33、9・3、16、14・1、15・17。↩︎
マルコ1・18、20、2・14、10・21、ルカ5・11、9・59。↩︎
使徒言行録6・7、12・24、13・49、19・20。↩︎
出エジプト記16・13、民数記11・66―69、知恵16・20―29。↩︎
出エジプト記16・16、19、35、ヨシュア5・12。↩︎
出エジプト記16・4、知恵16・20、詩編78・24、104・40、ネヘミヤ9・15。↩︎
ルカ22・19、24・30、35、9・16。↩︎
使徒言行録2・42、46、20・7、11。↩︎
マルコ14・22―24、一コリント11・23―25、ヨハネ6・51―58。↩︎
使徒言行録2・42、20・11、一コリント10・16―17。↩︎
詩編78・15―16、105・41、知恵11・4。↩︎
一ペトロ2・22、ヨハネ8・46、ヘブライ4・15、7・26―27。↩︎
ローマ12・20―21、一コリント4・12―13、一ペトロ3・9。↩︎
創世記22・1―12、シラ44・20、一マカバイ2・52、ユディト8・26―27、ヘブライ11・17。↩︎
申命記8・2、18、詩編8・2、16。↩︎
ヤコブ1・2―3、一ペトロ4・12、一テサロニケ2・4。↩︎
ヤコブ1・3―4、ローマ5・3―5。↩︎
マタイ26・36以下、マルコ14・32、ルカ22・39以下。↩︎
使徒言行録6・41、13・45、14・5、18・6。↩︎
使徒言行録5・40、16・22―23、22・24。↩︎
使徒言行録7・58、14・5、19。↩︎
使徒言行録4・1―3、8・1―3、9・1―2。↩︎
使徒言行録4・3、5・18、12・3―5、16・18、24。↩︎
使徒言行録7・58―60、22・20、12・2ほか。↩︎
マルコ13・13、ルカ22・35―38、マタイ10・16、25。↩︎
一テサロニケ3・15、二コリント10・12―13、ヤコブ1・2―4、12。↩︎
一コリント10・12、ガラテヤ6・1、一テサロニケ3・5。↩︎
ルカ22・31―32、マルコ14・27、一コリント10・13、ヤコブ1・2、12、19。↩︎
ルカ22・31以下、ヨハネ17・11、15。↩︎
マルコ4・30以下、ルカ13・20以下。↩︎
マルコ13・9―13、マタイ10・17―25、ヨハネ15・18―16・11、黙示録12・13―16・13。↩︎
コロサイ1・13、エフェソ6・12、ガラテヤ1・4。↩︎
エフェソ6・16、一ヨハネ2・13―14、3・12、5・18―19、マタイ13・19、38、5・37。↩︎
ヨハネ13・2、27、8・34、44。↩︎
ヨハネ12・31、一ヨハネ3・8、ヘブライ2・14、黙示録20・2―3。↩︎
マタイ5・37、ヨハネ9・24、17・15、一ヨハネ2・13―14、3・12、5・18―19。↩︎