原著:Fabio Rosini, L’arte della buona battaglia(2023年)。底本:El arte del buen combate。スペイン語訳:Lázaro Sanz Velázquez。日本語訳:AIによる翻訳・原文照合。
本書について
本書の目的は、人の心を育むことを通して、自由への道を照らすことにあります。まず病を取り上げ、すぐにその薬を示します。土台となるのは、四世紀の砂漠の修道者エヴァグリオス・ポンティコスが説いた八つの悪しき思いと、人間の心の奥にある願いです。それらは、七つの大罪と、これに立ち向かう徳に結びついています。
初めに内なる戦いの必要性を説き、続いて、心と体があがなわれる道へと読者を招きます。善い行いにも悪い行いにも、その源があります。そして、すべては思いから始まります。本書は、外から入り込み、突然、乱暴に襲いかかる悪しき思いと、恵みと聖霊の実りとして、内側から静かに、絶えず働きかける善い思いとを区別します。
この文章のもとになったのは、ヴェネツィアで行われた「内なる欺きから解き放たれる技法」という信仰講座です。著者は、協力者たちとともに三十年にわたってこの主題に取り組んできました。語り口は親しみやすく、読者に問いを投げかけ、生き生きとして、わかりやすいものです。率直で平易な言葉に現代の具体例を交え、楽しく読み進められます。斬新な視点から、誰にでも伝わる言葉で語ります。中心にあるのは、よく生き、自分の心を守ることです。そのためには、悪魔が引き起こす悪しき思いと戦わなければなりません。全編が福音書とカトリックの教え、そして砂漠の師父たちの知恵に根ざしています。内なる自由を深め、神の子として成長するための助けとなる一冊です。
参照文献について
本書はさまざまな資料に着想を得ています。ただし、専門家に向けた解説ではないため、これまでの著作と同じく、本文には専門的な注をできるだけ付けないことにしました。
主な参照文献は、次のとおりです。
- エヴァグリオス・ポンティコス『エウロギオスに宛てて』(A Eulogio)、San Paolo、チニゼッロ・バルサモ〔ミラノ〕、2006年。
- エヴァグリオス・ポンティコス『実践論』(Trattato pratico)、Qiqajon、マニャーノ〔ビエッラ〕、2008年。〔スペイン語訳:「Tratado práctico」、『Obras espirituales』所収、Ciudad Nueva、マドリード、2013年。〕
- エヴァグリオス・ポンティコス『悪しき思いに抗して――アンティレティコス』(Contro i pensieri malvagi. Antirrhetikós)、Qiqajon、マニャーノ〔ビエッラ〕、2005年。〔スペイン語訳:『Tratado de las réplicas』、Rialp、マドリード、2021年。〕
- エヴァグリオス・ポンティコス『箴言・八つの悪しき霊』(Sentenze, Gli otto spiriti della malvagità)、Città Nuova、ローマ、2010年。
このほかにも、エヴァグリオス自身の著作や、彼についての研究書を参照しました。優れた文献は数多くありますが、本書で主に用いたのは、以上のものです。
より専門的に学びたい方には、これらの書物に収められた優れた序文をお勧めします。
自由への招き
「キリストは、自由のためにわたしたちを解放してくださいました。
だから、しっかり立ちなさい。
再び奴隷のくびきにつながれてはなりません。」
(ガラテヤの信徒への手紙 5・1)
序文
これからお読みいただくのは、2014年にヴェネツィア広場のサン・マルコ聖堂で行った信仰講座を、一冊にまとめたものです。友人であり、当時この教会の主任司祭だったアンジェロ・デ・ドナティス神父、現在は教皇代理の枢機卿となった彼と協力して行いました。この講座は、のちにジャーナリストのモニア・パレンテさんの協力を得て、バチカン放送の連続番組にもなりました。
「内なる挑戦」と題したこの番組では、講座の内容をかみくだいてお話ししました。私がこれまで担当したラジオ番組の中で、最も多くの感想をいただいたシリーズです。アンジェロ神父とテーマを決めたとき、この仕事を前にして怖くなったことを覚えています。取り上げるのは、四世紀の砂漠の修道生活における霊性の巨人、エヴァグリオス・ポンティコスの『アンティレティコス』、すなわち『反駁の書』だったからです。誘惑や悪しき思いとどう戦うかを説き、内なる欺きから解き放たれる技法を教える書物です。
つまり私は、自分自身が何度となく負けてきた戦いについて、根本的で、驚くほど真実に満ち、役に立ち、私などよりはるかに大切なことを語らなければならなかったのです。
講座では、八つのロギスモイ、つまり悪しき思いの特徴を説明し、そのあとでエヴァグリオスの『アンティレティコス』そのものを読んでいこうとしました。この古代の知恵深い修道者は、思いを一つずつ取り上げ、ロギスモスがどのように心に忍び込むのか、そして何より、その欺きにどう立ち向かえるのかを示しています。一つひとつのアンティレシス、文字どおりには「反駁」を解説するのは、慎重さを要する仕事でした。エヴァグリオスの洞察は底知れず深く、その光のほんの一部でも生かせるようにするには、それなりの時間が必要だったからです。
放送では時間が足りず、一つひとつの反駁の説明は省きました。実際、それ以上深く立ち入るわけにもいきませんでした。私のたどたどしい知識に比べれば、知らないことのほうがはるかに広大で、その領域に踏み込むことになったでしょうから。
この本を書くことには、ためらいがありました。『再出発の技法』『健やかに生きる技法』とともに、まとまりの不揃いな三部作をなす、その三冊目に当たります。エヴァグリオス・ポンティコスを論じるだけの権威が、私にはないからです。
ですから実際、彼について学術的に論じるつもりはありません。
このような著者を専門的に扱い、この主題を学問として説得力のある形で論じるための、教父学や哲学の素養を私は備えていません。
私は、いわば最前線で福音を伝える者です。聖書学者と呼んでくださる方もいますが、それがふさわしい呼び名かどうかはわかりません。聖書はこれまでも教えてきましたし、今も教えています。抽象論を離れ、直接、手を動かしながらみ言葉に仕える、その格闘についてなら、少しは知っています。こうした主題にも、地に足をつけ、実践を通して近づいていきます。
エヴァグリオス・ポンティコスを隅々まで知り尽くしているわけではありません。それでも、一人の人間として、キリスト者として、またキリストの祭司職に仕える者として、その知恵に養われています。三十年間、キリスト教信仰を育てる仕事に取り組んできた経験から、彼の著作がいかに役に立ち、今なお生きているかを証言できます。
知的な蓄えは、とりわけ理論的な事柄については、いささか初歩的です。ただ、摂理から生まれつき授かった、物事を人に伝える力はあるようです。欠けているところは少なくありませんが、それでもどうやら役に立っています。
私は弱い人間です。健康はおぼつかず、いつももろさを抱えています。自分の貧しさにすがりつき、それを窓のようにして、恵みが数えきれないほど訪れてくださるのを見つめ、語るほかありませんでした。私自身は、あわれみと感謝に生かされています。
司祭になって間もないころから、私は偉大なトマーシュ・シュピドリーク枢機卿の知恵を、遠くから学ぶ弟子でした。そのことが、これから続く文章にも、これまで書いてきた文章にも、確かな中身と土台を与えてくれました。
本書を書き終えようとしていたころ、私はまた一つ、身体の試練を経験しました。首にかけてはいけない重さのものを担いだことによる外傷で、頸動脈に二か所の解離が起き、脳卒中を発症したのです。そこにできた血栓は、ローマのサン・ジョヴァンニ・アッドロラータ病院の脳卒中専門病棟で、優れた医師たちによって慎重に取り除かれました。その後、サンタ・ルチア財団に滞在して、適切な治療を受けました。親切で、とても専門性の高い療法士たちが働く、祝福された場所です。そのおかげでリハビリは申し分のない成果を上げました。それでも、本書の執筆に戻り、望んでいた最終的な形に仕上げることには、大きな困難がありました。すでに完成の間際に来ていましたが、あらためてこの課題に取り組み、初めからすべてを見直す力は残っていなかったのです。
これは非常に複雑で、いくつもの段階を踏まなければならない道のりです。あと何か月かかるのか、私にもわかりません。一方、この新しい本は二年前から予告され、待ち望まれていました。今は読者の皆さんと親切な編集者の期待に、温かく背中を押されています。
それでは、この冒険に踏み出してみましょう。内なる師である聖霊の助けを願い、真理をことごとく悟るところへと導いていただきましょう。
聖霊なしには、何ものにも深みはなく、永遠に残るものもありません。
第一部 戦いのための基本の道具
どこから始めるのか
「神を知りたいのですか。
まず、自分自身を知りなさい。[1]」
(エヴァグリオス・ポンティコス)
この旅に出るには、少なくともいくつかの道具、進む方向を見定めるための基本が必要です。自由へと向かうこの冒険のために、戦いの技法を、ほんの少しでも身につけておくとよいでしょう。この戦いは、誰かを敵にして行うものではありません。むしろ、すべての人のための戦いです。敵は誰で、どのように攻めてくるのか。反対に、私たちの味方はどなたで、どのように助けてくださるのか。それを見極めなければなりません。ですから、これを知らなければ先の話がよくわからなくなる、いくつかの事柄をお話しする必要があります。
悪が私たちに働きかけるとき、その主な形となるのが誘惑です。
私たちの生き方が悪いものになるのは、さまざまな誘いや誘惑に屈してしまうからです。私たちが行う悪も、くだらない行為も、いくつもの誤った、欺きに満ちた働きかけから生まれます。それを受け入れると、思考も感情も、自分自身と身近な人々を壊していく道筋に縛りつけられてしまうのです。
私が喜んでその一員となっているカトリック教会では、人間が堕落していくあり方を、七つの大罪の教えとして体系づけ、それぞれの悪徳を分類してきました。七つという数にまとめたのは、聖大グレゴリオ教皇(540―604年)です。このすばらしい教皇は、多くの大切なものを生み出しました。グレゴリオ聖歌もその一つで、彼の名と結びつけられるのはもっともなことです。[2] キリスト教史上のこの巨人は、ほかにも多くのことを成し遂げましたが、大罪についての教えを、象徴的な数である七にまとめ、整理したのです。
ここで忘れてはならないことがあります。牧者であり、教会博士でもある大グレゴリオは、主の群れを世話する務めの一環として、悪徳の区別を教えることにしました。そこには、これから説明しなければならない、一つの選択があったのです。
グレゴリオ教皇が牧さなければならなかったような、広大な群れを導くには、人間が陥りやすい悪い行いを説明し、はっきり名前を付けることが大切でした。理解を照らし、戦うべき領域を示すためです。事実、この区別は今日まで、キリスト教の外でさえ、ものを考える際のよりどころになっています。
しかしこれは、どうしても、すでに現れた結果から人間の悪を定義することになります。さまざまな悪徳や内面の隷属を見分けられるのは、とてもよいことです。自分の問題を捉え、それぞれを区別する助けになるからです。けれども、それだけで問題が解決するわけではありません。
ただ、数え上げているのです。
悪徳とは何でしょうか。よくない行為を繰り返し、それが習慣になったものを、悪徳と呼びます。その人には、誤った、まさに悪徳に染まった仕方で振る舞う性向、いわゆるハビトゥスが身についているわけです。
悪徳を正すのは、とてつもなく骨の折れる仕事です。とりわけ、悪徳とは、そこに至るまでの過程が生んだ結果だからです。その過程は、一日で断ち切れるものではなく、いくつもの段階で働きを止めなければなりません。
では、自分にあれこれの悪徳があると認めたら、どう向き合えばよいのでしょうか。
一般に、私たちが示してきた方法といえば、悪徳に正面から立ち向かい、それを取り除こうとすることくらいでした。つまり、自分の悪徳を認めたら、もうその行為をしないようにするのです。意志の力か、それに類するものを頼りに、習い性となったこの悪徳に挑みます。すると、どうなるでしょうか。
いつまでも緊張が続きます。もう転ばないぞという努力の鉄格子で、自分の悪徳という獣を囲い込むのです。そして、悪へと向かい、自分の努力で矯正しなければならない内なる部分を、絶えず恐れながら生きることになります。
そこで私は祈り、克己に励み、ゆるしを願い、自分を正すさまざまな行いに力を使い果たします。悪徳は受け入れがたく、悪いものだからです。
この戦術から生じやすい結果があります。内面の分裂、不幸、自分の一部を切り捨てること。さらには神経症、そして、そのあとにさまざまな精神の病理が続く可能性もあります。
というのも、こういう仕組みであれば、私を救うのはイエス・キリストではなく、私自身の努力だからです。
この、理想を追い求めながら破綻を招く方向づけは、主イエスを、まねるべき模範にすぎないものにしてしまいます。一方、聖霊はフロイトのいう超自我に似たものになります。自分で作り出した検閲官が、規範を踏み越えないよう内側から繰り返し私を責め、自分の内に自分を閉じ込めるのです。
こうして私は、聖霊を誇らしげに口にしながら、実際には義務感や罪悪感をそう呼ぶことになります。そして内面を引き裂く論理に形づくられ、容易に偽善へと落ちていくのです。
基本的に、これはすべて実りがありません。いつまでも抜け出せず、分裂したままだからです。前世紀にエマニュエル・ムーニエが悲しみを込めて指摘したように、「徳の片麻痺」を抱えた者のままです。[3]
繰り返しますが、聖大グレゴリオが示したのは、分類であって、解決ではありませんでした。
彼自身、修道者であり、自分を育んだベネディクト会の伝統を通して、内なる戦いの世界をよく知っていました。その彼より前から、また同時代にも、東方の修道者たちは聖アントニオ以来、悪徳が生まれる根源に向き合い、それを明らかにしてきたのです。
一つの行為が行為として現れるまでには、内面の道のりがあります。そこには始まり、起源があります。私たちの中の悪は、どこから始まるのでしょうか。混乱と破壊の奔流に水を送り込む蛇口を閉めないかぎり、何をしても、なんとか生き延びるためのつぎはぎにすぎず、解放にはなりません。
どんなに多くの規律を自分に課しても、それでは自由の上塗りを施しただけで、自由にはなりません。外向きの姿という潜水服の中に、哀れなラザロが閉じ込められています。悪臭を隠す石の向こうで、解き放たれ、縛りを解かれ、生きる者とされるのを、なお待ち続けているのです。
悪が現れたあとの対処だけを考え、その生まれる前に目を向けないなら、避けがたい結果が生じます。自分は間違っている、出来損ないで、むち打ち、鎖につなぎ、罰し、あるいはもっとひどい目に遭わせるべきものだ、と感じるようになるのです。
そして、こうしたむなしい規律のもと、存在の底にたまっていたものが、いつか爆発し、深刻な、今や病的とさえいえる混乱を生むことがあります。最も大きく道を踏み外し、最悪の不祥事を引き起こした人々は、ほんの少し前まで、最も周囲に順応し、最も伝統を守り、最も規則に従順だった人たちかもしれません。
私たちは、もっとよいものを提案できます……。
はっきりさせておきましょう。今お話ししていることは、それほど目新しいものではありません。この話の背後には、精神力動論にも通じた、より現代的な考え方でもあるのだろう、と思う方もいるでしょう。とんでもありません。
この問題はファリサイ主義と呼ばれるものであり、新約聖書全体に見られる、律法と恵みの関係という主題であることを、思い出さなければなりません。それは聖パウロの手紙の中心的な主題でもあります。
この主題のさまざまな側面に向き合わずに、新約聖書を誠実に読むことはできません。
キリストが誰かと対立したとすれば、それは罪人でも異教徒でもなく、規則に取りつかれた人々でした。では、イエスは規則に反対していたのでしょうか。そうではありません。善に至るには、まず善から生まれなければならず、ただ善をまねるだけでは、善から隔たった自分を固定してしまう、ということです。
宗教の専門家たちが、正しい人のように振る舞うことを勧めていたとき、イエスは、上から新たに生まれることを示しました。イエスは、単なる正しい人をはるかに超えて、御子であられたからです。善い人らしく振る舞っていたのではなく、善から来られたのです。
善い行いにも、悪い行いにも、必ずその源があります。
すでに述べたように、悪の暗い源を探ったのは、東方キリスト教の修道者たちでした。その中にエヴァグリオス・ポンティコスもいます。彼だけではありません。
大アントニオ修道院長(251―356年)の模範に従って砂漠へ向かった彼らには、内なる戦いにおけるすべての悪が、何から始まるのか、はっきりしてきました。それは……思いからだったのです。
彼らはそれを、ギリシア語でロギスモイと呼びました。
そして修道者たちは、その働きを理解し始めます。こうした悪しき思いは、一種の攪乱なのだと気づきました。つまり、自分たちのものではない何かが働きかけてきており、それと戦っているのです。
やがて彼らは、それらを悪霊と呼ぶようになりました。
エヴァグリオスは、砂漠に行く前、ほかならぬ大バシレイオスとヨハネ・クリゾストモスに学びました。修道者となってからは、自分自身の体験に加えて、他の人々の豊かな経験を自らの知恵に取り込み、ロギスモイを八種類に分類するに至りました。このエヴァグリオスの分類は、東方のキリスト者の知恵に光を与えました。
この知恵の内容は、西方のカトリック信徒である私たちの霊的経験と、少しも矛盾しません。むしろ、今見たように、課題の根にまで届いています。あえて言えば、その課題をより的確に捉えているのです。
東方の兄弟たちのこの知恵を、感謝して受け取るべきだということには、私たちもずっと以前から気づいています。
私たちは行動に重きを置き、彼らは内面に重きを置きます。
私たちは善を目指し、彼らは善から出発します。どちらも必要なのです。
信仰宣言が、教会は一つであると告白していることは、大切で、真実だと思います。神が東方の兄弟たちを祝福してくださいますように。そして私たちには、彼らが教えてくれることを学ぶ謙遜をお与えくださいますように。
ですから、この旅では、まずこうした邪悪な衝動、八つの悪しき思い、あるいは悪魔的な霊に気づいていきます。ただし、仕事はそれでは終わりません。そこで満足するなら、ほとんど何の役にも立たないでしょう。
悪徳の根にある思いを説明するだけで終わらないようにしたいのです。それだけでは、ただの犯罪記事になってしまいます。私たちが知りたいのは、罪を解剖すること以上に、どうすれば罪から解き放たれるのか、ということです。
たとえば、エヴァグリオス・ポンティコスの代表的な著作は『アンティレティコス』です。[4] そこでは何より、聖パウロのいう「善い戦い」を戦うために、誘惑にどう答えるかが問題となっています。[5]
私たちが求めるのは、看守である悪魔を隅々まで調べることではありません。解放者であるイエス・キリストに導かれ、いのちへと入ることです。
ここで一つ、ついでに触れておきます。もっとも、単なるついででは済まないことです。キリスト者であり、新約聖書を読んでいるなら、悪魔の存在を考慮せずにいるのは難しいでしょう。イエスご自身が教えてくださった「主の祈り」で、私たちは悪からの解放を願います。しばしば意識していませんが、ここでいう悪しき者は、人格的な存在として理解されています。ただし、繰り返しておくことが大切です。悪魔とは何者かと詮索しても、益はありません。悪魔にかかわって時間を無駄にするのは、少なければ少ないほどよい、という原則を守るべきです。
たとえを使って説明しましょう。泥棒がどんな性格かを知ることより、いつ盗みに来るのかを突き止めて、不意を突かれないようにすることのほうが急務です。
問題は、悪魔がどんな顔をしているかではなく、どんな声で、どのように語るかです。
私たちの目的は、よく生き、自分の心を守ることです。そのためには、悪魔が引き起こす悪しき思いと戦う必要があります。それ以外は、むなしい好奇心にすぎず、危険な場合さえあります。
ただ、歩き始めるためには、説明しておかなければならないことがあります。
欺きの手口と、真理のうちに生きるよい習慣とを、もっとよく理解しなければなりません。
戦いの場
「悪魔は神と戦っている。
その戦場は、人間の心である。」
(フョードル・ドストエフスキー)
この戦いの要となる場所がどのようなものかを知るには、私たちに備わる驚くべき可能性から出発しなければなりません。神は、私たちの心に語りかけることがおできになります。
人間の心は、神と対話するために造られました。神の語りかけを受け取る器なのです。
では、神はどのように語られるのでしょうか。この問いへの答えは一つではありません。神はさまざまな仕方で、私たちにご自分を伝えてくださるからです。ただ、内なる生活に関して言えば、わかったようで、まだ何もわからない、こんな答えになります。奥深くで、と。
その奥深さは、私たちが神に語りかける場所でもあります。詩編はこう歌います。
「深い淵の底から、主よ、あなたに叫びます。」(詩編130・1)
要するに、聖霊は私たちの存在の奥深くを訪れ、霊感や慰め、戒めや励まし、直観、心の開き、思い起こし、物事を結びつける気づきなど、さまざまなものを与えてくださいます。少しずつ、わかってくるでしょう。
ただし聖霊は、何を与えるときにも、神にふさわしく、つねに自由を尊んでお与えになります。ですから人は、自分の心の深い動きに応えずにいることもできます。しばしば、その動きにまったく気づかず、ほかのことに心を奪われていることさえあるのです。
神は自分には語りかけてくださらない、と思っている人は大勢います。しかし、ある人が信仰からどれほど遠く離れ、信仰を求めてもいないとしても、神はその人を愛しておられます。その人の内にある光を養い、守るために、その心に美しい働きかけを与え、真理へ、その人にできる善へと向けてくださいます。
このように神は、私たちの内から湧き出る善を通して、人間の心を尊びながら働かれます。人を建て上げ、平和と愛へと向かう道を開いてくださいます。また必要であれば、私たちに逆らうものを贈り物としてお与えになります。救いへと向かわせる健やかな落ち着かなさを与え、あるとき突然、ようやく自分の誤りに気づかせてくださることもあるのです。
これらをはじめとする多くの贈り物は、摂理によって授けられる、さまざまな気づきの形です。
その大切さをよく理解するには、エヴァグリオス・ポンティコスが説いた思いについての教えに、少し触れる必要があります。彼の教えはのちに多くの霊的な師たちに、ありがたいことに、いわば盛んに盗用されました。内なる戦いを理解する道を切り開いた人であることは、確かです。
神は奥深くから語られる、と言うだけでは、まだ漠然としたままです。少し見当をつけていきましょう。
エヴァグリオスは、根本的な点を強調します。私たちの内で語っているのは、神だけではありません。いくつもの種類の思いや感情を見分けなければならないのです。彼は、聖書に由来し、当時のキリスト教に特徴的な区別に従って、思いや感情を三つに分けます。天使からのもの、人間自身のもの、悪魔からのものです。
『反駁の書』は、次の言葉で始まります。
「『天の下』〔コヘレト1・13〕にある理性的な存在のうち、ある者たちは戦い、ある者たちは戦う者たちを助け、またある者たちは、戦う者たちに激しく立ち向かって戦争を仕掛ける。戦っているのは人間であり、助けているのは神の天使たち、敵対しているのは悪しき悪霊たちである。[6]」
これは、特異な考えでも、ある時代だけに限られた考えでもありません。千年以上のち、十六世紀前半の聖イグナチオ・デ・ロヨラも、『霊操』で同じ区別をしています。
「私の内には三種類の思いがあることを、前提としておく。一つは私自身の思いであり、自分の自由と意志から生じる。ほかの二つは外から来るもので、一つは善い霊から、もう一つは悪い霊から来る。」(『霊操』32・2―3)
順番は違っていても、同じ三つの区別です。
天使からの思いは、たとえば物事や出来事の目的、目指すところ、行き着く先を照らします。こうした思いは、深い自己、内側からやって来ます。現実を一つに結び合わせ、物事を善く行うよう促し、人をいのちの道に置く直観です。これこそ、聖霊の働きです。
次に、人間自身の思いがあります。私たちの個性から生まれる、普通の思いです。人格の内面にある日常の世界、どのような人間であり、自分の自由のうちにどのように考えるか、ということです。ここにいるのは、私たち自身です。
さらに、悪魔からの思いがあります。多くの場合、感情や情念の色合いを帯びますが、冷たく個人主義的な合理性を取ることもあります。また、しばしば疑わしい心のイメージと結びついています。エヴァグリオスをはじめとする砂漠の師父たちによれば、こうした思いが帯びる感情の力は、ふつう、所有へと向けられています。これらは、聖イグナチオが「人間本性の敵」と呼ぶ者から来ます。
二つの特徴を繰り返しましょう。天使からの思いは、何より物事の目的、それがどこへ私たちを導くのかに目を向けます。それに対して、悪魔からの思いは、所有すること、手に取ること、持つことへと私たちを引き寄せます。
たとえばアッシジのフランシスコは、内なる戦いを始めたころ、自由への道が、所有からの解放、すなわち清貧から始まることを理解しました。実際、フランシスコにおける清貧は、貧しさそのものをよしとする主義ではありません。物からの解放であり、愛するために必要な条件なのです。
悪魔からの思いは、一般に、自我を中心とした現実とのかかわりへ向かいます。客観的に考えているつもりでも、自分を基準に物事を見るようになりがちです。起こることの中心に自分を置き、自分のことばかりを案じるようになります。
善いことさえ、愛からではなく、自分の評判を育てるため、内なる空しさをどうにかしのぐため、自分が存在すると言い張るために行うことがあります。
悪魔からの思いを根本で動かしている力は恐れであることを、この先、さらによく見ていきます。ただし、その恐れはいつも明らかなわけではありません。むしろ、ほとんどの場合、表には見えません。そうした思いは、ごくしばしば、生き残るかどうかの問題という姿で現れ、私たちをそそのかします。
その手口は、絶対視することから、些細なこととして片づけることまで、さまざまです。大げさに騒ぎ立てることもあれば、軽く見ることもあります。そうやって私たちの軸をずらし、物事を素直に、謙遜に受け止めることから遠ざけ、誤った解釈や、心の散漫を引き起こします。
それに対するのが、エヴァグリオスのいう天使からの思い、聖霊にかなった思いです。それは道を示しますが、押しつけはしません。まっすぐで、澄んでいます。預言者イザヤが言うとおりです。
「正しい人の道は平らです。
あなたは正しい人のまっすぐな道をならしてくださいます。[7]」
天使からの思いが内を通って来るその道筋は、理解できるものです。それが何を告げたのか、誰かに説明を求められても、多くの言葉は要りません。あまりに多くの言葉が必要になったり、果ては「これは自分にしかわからない」と言い出したりするなら、何かがおかしいのです。理由は単純です。聖霊は愛であり、愛はその本性上、伝わり合うこと、いえ、それが極みに達したものだからです。
愛である聖霊は、単純です。秘教的であったり、隠されていたり、入り組んでいたりはせず、自然で、明晰で、まっすぐです。恐れを使って動かすのではなく、善によって働かれます。注意や慎重さを勧める必要があるときも、何かを恐れるからではなく、何かを愛するからです。善を守り、いのちを守るためなのです。
聖霊は、人を建て上げてくださいます。戒めることも、何かを手放すことや犠牲を勧めることも、ためらわれません。しかし、それはいつも、私たちを自由にし、本来の尊厳を取り戻させるためです。つまり、建て上げるためです。
何かを絶対視したり、些細なこととして扱ったりはしません。それどころか、しばしば優先順位を立て直し、物事の秩序を取り戻して、本当に大切なことに心を向けられるよう助けてくださいます。
今は、この簡単な手がかりで十分でしょう。出発点で役に立つのは、私たちの意識の中では、人間自身の思いが少しずつ積み重なる一方で、天使からの思いが残す光の跡や、悪魔からの思いによる欺きの残りかすも現れる、ということを考えておくことです。
ただし、さらに一つ、区別が必要です。私たちは自分を捉えるとき、異なる次元を混ぜ合わせてしまうことが多いからです。
自分の存在のいろいろな次元を取り違えたまま、判断を下すことがあります。たとえば、そのときの気分を客観的な事実だと思い込む、といったことです。
この点を明らかにしてみましょう。ただし、途方もなく大きく、骨の折れることを避けられない課題の前にいると、心得ておかなければなりません。混乱から私たちを救い出せるのは、神の恵みだけです。
初期の数世紀のキリスト者の間に広まっていた見方に従って、人間の成り立ちを考える必要があります。この見方は、周囲のギリシア世界の人間観にも、聖書の人間観にもかかわっています。後者について、簡単に振り返りましょう。
聖パウロから始めます。新約聖書の中でも最も古い文書の一つ、テサロニケの信徒への第一の手紙の結びで、彼は何気なく、非常に大切なことを述べています。
「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの全存在、霊と魂と体とが、私たちの主イエス・キリストの来臨のとき、非のうちどころのないものとして守られますように。[8]」
ですから、人間の全体は「霊、魂、体」という三つから成っています。ギリシア語では、プネウマ、プシュケー、ソーマです。内側から外側へと広がる三つの同心円のようなものです。
できるかぎり簡単に説明します。私たちは三つの部分、より適切には三つの側面から成っていますが、つねに一人の人間です。
第一は、体に結びついた感覚です。これはとても貴重なもので、具体的な現実との唯一の接点であり、私たちと世界とが出会うところです。身体的な側面で、五感、体全体、そして体が働く仕組みを含みます。
第二は、意識されるものも無意識のものも含めた、心理の動きの世界全体です。
人間の見える側面が身体の次元であるとすれば、その身体は、活動の中で心理の側面を表します。現代の人間学は、ここで話を終えます。つまり、人は体と心的な働きだけでできている、というのです。しかし、それでは不十分で、人間を狭く捉えています。身体と心理という二つの次元には、機械的な働きが織り込まれているからです。フロイトが、いかにも実証主義者らしく、心の過程を説明するために自由の存在を否定したのも、偶然ではありません。彼はすべてを、理論化でき、研究の対象として扱えるだけの固定性をもつ、心的力動のモデルに帰着させました。[9]
弟子たちからすぐに批判を受けたとはいえ、フロイトの仮説には、否定できない、天才的な着眼の的確さが残っています。潜在意識も含め、心理の過程は、身体の過程と同じく、機械的に動く傾向があるのです。しかし、それが人間のすべてを尽くすわけではありません。
体や心理とは違って、すぐに捉えられるものではありませんが、もう一つの次元があります。奥深く、人格的で、独自で、二度と繰り返されず、機械的な仕組みとはまったく異なるものです。プネウマ、すなわち人間の霊です。
繰り返します。これは、別々の三つの部分ではありません。一人の人間の一致の中に備わる、三つの側面です。
それらが切り離されると、不調や不幸が生じます。一方、三つの次元が有機的に結び合うことは、健やかで真実な均衡に対応します。
体を頭と戦わせ、頭を体と戦わせている人は、大勢います。しかし、偶然に触れることがあるだけで、自分の霊とほとんどかかわりをもたない人は、それ以上に大勢います。聖書では、霊を「心」とも呼びます。残念ながら、この言葉は少し曖昧です。ふつう「心」は感情を指すのにも使われますが、感情はむしろプシュケー、すなわち心理の領域に属するからです。ここで「心」という言葉を使うとき、そして話をするためには使わざるをえませんが、それは真の中心という意味です。「話の核心に入ろう」と言うときのように、感情の部分ではなく、その事柄の中心、本質的な部分を指しています。
この単純化をもう少し続けましょう。厳密さを重んじる方々が眉をひそめるのも、もっともです。体からは、基本的に知覚が生じる、と考えられます。感覚器官と感覚の働きは、身体に属する知覚の要素だからです。心理の領域に入るどんな情報も、どれほど遠いかかわりであれ、ある程度は五感に由来します。
心理の領域には、大まかに言えば、理性的な性格をもつ思考と、基本的に関係にかかわる感情があります。言い換えれば、五感から受け取った情報は、心の中で理性的に整理された対象として現れます。そして同じ心の中で、その思考、つまり心に浮かぶ対象への反応として、感情が育っていきます。あまりややこしくなっていなければよいのですが。とはいえ、繰り返しますが、これでもかなり単純化しています。大幅に角を取った説明ではあっても、ここまで述べたことは真実であり、少なくとも一部は、少しわかりやすくなったのではないかと願っています。
ただし、心理は繊細で、複雑で、多様であり、そして……力動的です。そこでは、一つの反応に、同じ強さで逆向きの別の反応が対応します。繰り返しますが、フロイトとその仲間たちは、この点でも、ほかの多くの点でも、正しいとはいえません。
では、プネウマでは何が起こるのでしょうか。
初めに述べたことに戻りましょう。このプネウマが、先ほど話した「奥深いところ」です。
私たちには、目に見えないものとの接触を伴う、霊的な次元があります。それは私たちの見えない、深い部分であり、すでに述べたように、すぐ手の届くものではありません……。
誘惑する者の手口は、その深い自己、プネウマ、霊、人間の奥まった部分から、私たちを遠ざけておくことです。
私たちの感覚は、その自動的な仕組みと、知覚の体系、その限界に従って働きます。しかし、理性と感情から成る心理の世界にも、機械的な働きがあります。私たちは自分の心理的な歩みによって形づくられ、特徴づけられ、広がりを与えられることも、萎縮させられることもあるからです。その歩みに結びついた傾向や恐れも抱えています。それでも、さらに深い自己があるのです。
典型的でわかりやすい例が、放蕩息子のたとえです。そこでは、一人の人間が自分の内に立ち帰ります。よく覚えていない方のために、本文を挙げておきましょう。
「イエスは言われた。『ある人に息子が二人いた。弟のほうが父親に、「お父さん、財産のうち、私がいただく分をください」と言った。父親は財産を二人に分けてやった。何日もしないうちに、弟はすべてをまとめて遠い国へ旅立ち、放蕩に身を持ち崩して財産を使い果たした。何もかも使い果たしたとき、その国にひどい飢饉が起こり、彼は食べるものにも困り始めた。そこで、その国のある住民のもとへ身を寄せたが、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたかったが、誰もくれる者はいなかった。そこで、自分に立ち帰って言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、何人いることだろう。それなのに、私はここで飢え死にしそうだ。立ち上がって父のもとへ行こう。そしてこう言おう。お父さん、私は天に対して、またあなたに対して罪を犯しました。」』[10]」
この人は、自分の内に入っていきます……。では、どこへ入るのでしょうか。真理を受け止められる、本当の自己の内へです。
彼がそうするのは、自分を壊していく過程の、ようやく最後になってからです。次男である自分を、父からの無秩序で幼稚な独立によって確立しようとした、その心理的な思い上がりが行き着いた果てです。自分の誤りの結果に十分に打ちのめされ、動物と同じところまで落ちたとき、彼は豚と同じものを欲しがり、しかもその望みさえかなえられませんでしたが、気高い自分のあり方を失ったそのとき、ついに大きく踏み出すのです。
彼のプシュケーとソーマ、つまり思春期の終わりごろの不安定さと、酒や性におぼれる肉の熱狂は、彼自身の存在をすべて包み込んではいなかった、とわかります。本当の自己は、それらの領域の向こうで、彼を待っていたのです。
内に入らなければなりませんでした。外にいたからです。
遅かれ早かれ、私たちはこの本当の自己に触れます。どれほど退屈で平板な人であっても、誰もが経験しているはずです。誤りから目を覚まし、自分が間違っていたと悟る。そして突然、自分を理解し直し、自分を捉え直して、ようやく本来の自分になったと感じることを。
問題は、自分の深みと触れ合うこの恵みを、どう持続させるかです。つまり、忘れないでいることです。
しかし、この真実の瞬間は、心理や身体が生み出したものではありません。その本当の自己の役割は、理性と感情の仕組みや、身体の衝動に従うことではなく、その二つの次元を導くことだからです。ここははっきりさせておきましょう。身体と心理の次元は、大切に世話をし、育まなければなりません。ただし、絶対的なものにしてはなりません。この二つが人生のハンドルを握っているかぎり、私たちは外にいて、自分自身にたどり着けないのです。
具体的にお話ししましょう。私、ファビオは、身体に支配された司祭として生きることもできます。何をするにも、快楽、満足、心地よさ、美的な楽しさを得られなければ気が済まないのです。司祭ごっこをしている子どもです。自分の好みにかなうかどうかだけで他人を見る、感覚に支配された存在です。
心理に支配された司祭として生きることもできます。そうなれば、自分の性格に合うことをし、自分より優れていると見なされる人たちの世界で目立とうとする、五番目の子としての来歴に沿って行動するでしょう。そして、五歳で指を一本切断されて以来抱えてきた、自分には一片が欠けているという感覚に左右されて、何もかも行うようになるでしょう。本来なら愛のためだけに果たすべき務めを、自分の不均衡を埋め合わせる活動に変えて、なんとか生き延びようとする、問題を抱えた一人の人間になるのです。
恐ろしいことです。どんな環境でも、身の回りに見いだせる姿です。
そういう人は、どんな状態にあるのでしょうか。細部にとらわれて身動きが取れなくなり、母語ではない言葉へと自分を翻訳するうちに、迷子になっています。感情や物や、仮に思い描いたものを偶像として追い、道を失っています。快楽や観念、そのほか多くのものの中で、自分を見失っているのです。
外にいるのです。
自分自身の外に。
キリストに出会ったとき、私はキリストにだけ出会ったのではありません。ファビオにも出会いました。そして私の課題は、ファビオであることです。それを可能にしてくださるのは、キリストだけです。
キリストはファビオを愛しておられるからです。それに対して私は、仮に思い描いた姿に夢中になり、物に自分を投影し、感覚におぼれ、自分の気高さとのつながりを断ってしまいます。自分の偉大さに対して、いわば機内モードに入ってしまうのです。
そして、自分を見失います。
悪魔は、私がそのままでいることを望みます。自分の心から、霊的に理解する力から、遠く離れていてほしいのです。
さて、本書で取り組むのは、深い自己から私たちを遠ざけるものを防ぎ、そこへ導くものに従うことです。その深みには真理が宿っています。そこで、自分自身の健やかで善い姿を、垣間見ることができます。その姿はそこで私たちを待っています。神が、すべての人に差し出しておられるからです。
神がみ光をもって私たちの思考の流れと感情の流れを照らし、すばらしい仕方で導いてくださる、その場所へ、確かな足取りで帰る必要があります。
私たちの存在を動かす、大きく大切な動きは、そのより深いところから湧き上がります。それがやがて、私たちがようやく実行しようとする、美しい行いとなるのです。
そこから、私たちの心と体のあがないが始まります。心と体は、方向を見いだし、調和を取り戻し、本来の意味を見つけるのです。
欺きの入り口
「もし善いことをしないなら、罪が戸口で待ち伏せしている」。
(創世記4・7)
ロギスモイに身をさらす入り口がどこにあるのか、つまり、うそつきの父[11]につけ込まれる私たちの誤った態度とは何かを知っておくことは、大いに役立ちます。
それぞれの思いと、それに固有の誘惑の仕方については、順を追って見ていきます。ただ、さまざまな欺きに共通する道筋、欺きを招きやすい態度というものがあります。もちろん、そのすべてを取り上げることはできません。それでも、いくつかに目を向けることには意味があります。ほかのものは、個々のロギスモイを扱う中で見えてくるでしょう。
まず、物事を表面的に受け止める態度から始めましょう。
教父たちはこれを「怠慢」と呼びます。ギリシャ語ではアメレイアです。ただし、教父たちがこの言葉に込めている意味は、ここで扱える範囲よりはるかに広いものです。
意識の周辺部にばかりとどまる人の中では、そそのかしや欺きが存分に働きます。私たちが自分の内にある高貴な中心へと向かうほど、誘惑は力を失っていきます。内面の重心を、感情的で浅いところに置いている間しか通用しない欺きは、実にたくさんあるのです。
多くの誘惑は、内なる美しさや深い真実とは両立しません。
欺く思いは、不安や焦り、過度に力の入ったさまざまな態度など、よく考えないままの反応を引き起こしたがります。吟味もせず、距離も取らずに不安な思いを受け入れると、私たちの精神は意識の周辺に追いやられます。そこでそそのかしに従属し、自分に何が起きているかを理解するために必要な落ち着きを失ってしまうのです。
こうして、浅はかさに足場を置いた悪しき思いは、気分や機嫌になります。それを受け入れ、繰り返せば、やがて悪徳になります。不十分な判断を真実と思い込み、気分や浅い感覚、それに結び付いた不安を過大に信用する習慣がつくのです。表面的な見方が物事を受け止めるフィルターになると、内面は立入禁止になります。深い思いが入ってくるところに柵を置き、自分の心をよそに置いた生き方に慣れてしまいます。それを、自分を問い直さずに済むための必要な措置と考えるのです。いや、むしろ、気分に振り回されない、もっと深く高貴な思いに対して嫌悪し、ほとんど拒絶するようになります。
たいてい私たちは、こうした仕組みにあまり気付いていません。それでも、内面を立入禁止にする習慣へとつながった行いを、いつ、どのように受け入れ始めたかを知ることは役に立ちます。悪が私たちを奴隷にし、支配するのは事実です。しかし、その後どれほど苦しめられているにせよ、いつか自分の自由でそれを迎え入れたことも事実だからです。
ここで、根本に関わることを一つ明らかにしておきましょう。悪しき者が、全能の神を超える力を持つことはできません。どういうことかと言えば、神でさえ私の同意なしに私の中で何もなさらないのなら、悪しき者も、私自身の承諾を飛び越えることはできないのです。
悪しき者の提案が欺きなのは、彼が卑劣な手を使うからです。それに対して聖霊は愛であり、正しく、誠実で、私たちを尊重なさいます。それでも、私たちの同意がなければ、悪しき者にはどうすることもできません。
悪しき者のそそのかしと神からのひらめきは、二人の若い女性にたとえられます。一人目は美しくありませんが、厚く化粧をし、挑発的で、思わせぶりです。二人目はとても美しいのに、飾り気がなく、素顔のままで、控えめにしていて目立とうとしません。一人目は人目を引きますが、化粧と衣装を取り去ると、がっかりさせられます。二人目は目を引きません。そこにいるからといって気付くとは限らず、よく目を向ける必要があります。じっと見れば、それまでに会った誰よりも美しい女性だと分かります。
見かけには、だまされるものです……。
しかし、美しくないのに挑発してくる相手と話し始めるのは、こちらが興味をそそられたからです。相手が言葉巧みに私たちを誘ったのは事実ですが、自分から話し始めたのが私たちだったことも、また事実です。
美しい女性のほうが黙っていて、こちらを引き付けるようなことを何もしなかったのも事実です。けれども、彼女が誰で、なぜそこにいるのかを知ろうと、私たちが少しも立ち止まらなかったのは、偶然ではありません。
これらはすべて、物事を表面でしか見ない世界で起きることです。そして、その浅はかさには、少なくとも一部、私たち自身の責任があります。
ときには、自分がしていることはどこかおかしい、何かがかみ合っていないと気付くことがあります。それなのに、その直感をもっとよく見ようとはせず、愚かにも取り逃がしてしまいます。
ですから、表面的な態度は、誘惑がとりわけ好む態度の一つです。
次に、その表面的な態度のもとになるものを取り上げましょう。先ほどの話を踏まえると、いっそうよく分かります。それは、事実の全体、あるいは一部を、都合よく抜かして思考を単純にしてしまうところから生まれます。つまり「見落とす」という心の態度です。エヴァグリオスの時代に砂漠へ退いた修道者たちは、この人の魂の傾きを「忘却」と呼びました。果たすべきことを怠る罪は、人生の多くの領域に及びます。非常に重大な場合も多く、人が犯す罪の中で最も重大なものになることさえ珍しくありません。ただ、私たちのこの旅で今扱うのは、特に、内面で何かを見落とすことです。
悪しき思いは、私たちを中心である心から遠ざけるだけではありません。しばしば、ある側面を抜かし、特定のものが目に入らないようにして、現在や過去の現実の一部を考慮させまいとします。
ある考え方のほうが楽に思え、それなら手早く、簡単に判断できるので、私たちは見落としを受け入れてしまいます。けれども、取り除いたものは、実際には依然としてそこにあります。
これは、まさしく思考の行き過ぎた単純化です。
ここでもまた、一部を全体にしてしまう絶対視が起こります。そしてそれは、ほかの部分を抜かした結果なのです。
エヴァグリオスの仲間である砂漠の教父たちの、名の伝わらない言葉を一つ見てみましょう。専門的には「アポフテグマ」と呼ばれるもので、よく引用されます。
「忘却は、あらゆる悪の根である[12]」。
もう一つの言葉が、その意味をさらに掘り下げています。
「あらゆる罪に先立つサタンの力は三つある。第一は忘却、第二は怠慢、第三は貪りである。実際、忘却から怠慢が生まれ、怠慢から貪りが生まれ、貪りが人を倒す[13]」。
考えてみましょう。善を忘れると、その結果として怠慢に陥ります。怠慢は渦のような空洞を生み、その空洞を無秩序な欲望、不安、激情が埋めるのです。
すべては、大切なこと、もっと真剣で深い部分を忘れるところから始まります。あるいは、成長の過程を歩む必要、自分を問い直す差し迫った必要を示す考察を、締め出すところから始まるのかもしれません。
何かを抜かす、つまり忘れるなら、物事の受け止め方は必ず偏ります。頭の中で近道をすると、一つの見方しか採らなくなります。半分だけの真実を真実として受け入れれば、それはうそですから、私たちは物事の見方を誤ってしまいます。
その結果、現実を捉えていると確信しながら、実際にはその一部にしか触れていないことになります。たとえば、現実について、自分に都合のよいことだけを見るのです。そして、内面の居心地のよさに落ち着き始めます。ごく単純な例を挙げれば、粗雑に判断し、一面を絶対視した末に、あの人やこの人を悪人と決め付けます。すると、相手を怪物に仕立て上げ、悪はすべて向こうにあると見るようになります。子どもじみた白黒の切り分けをして、あらゆる欺きに潜んでいる絶対視の中に、またもや入り込むのです。
「この同僚はろくでなしだ。とても付き合えた人間じゃない」と言って、私たちはレッテルを貼ります。実のところ、それは都合がよく、一種の確かさを与えてくれます。これからはお前を悪者の引き出しに入れておく。だから、好きなように物を言い、好きなように扱ってよい。こうして、ほかにも考えるべきことがあるのではないか、真実はこれだけではないのではないか、この人には別の面もあるのではないか、という問いを避けるのです。こんな絶対視は簡単です。ありふれた一本の直線で、単純に読み取れます。
すると、別のことも起こり得ます。省いたものは、深いところに残っているのです。この例で言えば、その人のほかの面の記憶です。そこには不快感が隠れていて、それを埋めるためには、思考の暴力をさらに強めなければなりません……。
そのため、きっぱり切り分けた線を、もっと強くなぞる必要が出てきます。相手の悪口を言い、同調者を探し、ろくに調べずに裁き、ほとんど隠すこともない加虐性を働かせます。実は、こうしたことによって抑え込もうとしているのは、自分のほうが間違っているのではないか、という疑いです……。
こういうやり方はごく普通に見られます。探しに遠くまで行く必要はありません。
はっきりさせておきます。同僚の例は、ありふれた、単純化した例です。しかし、忘却や見落としには実に多くの種類があり、深刻さもさまざまです……。残念ながら、これ以上は立ち入れません。
こうしたことは、どこでも、誰でもしています。そして私たちを現実から遠ざけます。何の障害もない、都合のよい真実を作り上げる近道です。けれども、それは人を欺く真実です。
レッテルを貼れば、忍耐強く客観的に調べることを飛ばせます。見落としをすれば、考える努力や、自分を問い直す努力から逃れられます。そして、自分や他人を簡単に、結局は決まりきった型で捉えることができるのです[14]……。
悪い思いには、必ず何らかの見落としが含まれていることを、忘れてはいけません。
見落としの中でも、とりわけ有害なのは、自分の弱点を忘れることです。私たちはしばしば、大小の成功、つまり自分がうまくできることに夢中になります。誰にとっても、これほどたやすいことはありません……。悪しき者が、霊的な戦いや人生の戦いで、こちらに少し前進させることさえあります。そうすれば、ほかの側面への注意が薄れがちになるからです。ある面で快調に進んでいると喜んでいるその間に、敵は心の中に注意散漫を忍び込ませ、自分の弱さを忘れさせます。こうして小さな進歩に気を取られているうちに、町の門から見張りを引き揚げてしまい、敵はやすやすと侵入するのです。
この手口は、もう一つの現実と結び付いています。弱点を忘れるとすれば、それは霊的生活の均衡を崩しているからかもしれません。具体的に言うと、修徳や奉仕活動にばかり力を入れ始め、勇敢で、立派で、いかにもファリサイ派らしくなっていきます。その一方で、自分が過度に打ち込み、過度に自分を投影している霊的な実践や奉仕活動そのものによって、隣人を苦しめていることに気付きません。
この領域でよく見られる結果は、兄弟姉妹との対立を軽く見て、関係の断絶を大したことと思わなくなることです。
人との交わりを失っても、「まあ、そういうこともあるさ……」と言います。そのように、交わりから離れていることを嘆かず、偽善に慣れ、うそに陥り、関係を中途半端なものにしていきます。そして悪魔の勝ちです。私たちを兄弟姉妹から引き離し、キリストから引き離すからです。
本当は、人との関係こそ最も大切なものです。兄弟愛は、私たちの人生でいちばん重要なことです。修徳や清め、どんな祈り、どんな奉仕、どんな正確さ、どんな正義、どんな完璧主義、どんな純粋さよりも、ずっと重要です……。兄弟愛、真実の愛情、和解がなければ、それ以外のものはすべて、大きなうそです。
悪しき者が私たちの思いや感情を操り、神や隣人や現実から孤立させるためによく使う第三の道は、イメージによる錯覚です。
エヴァグリオスはこれについて多くを語り、「表象」あるいは「ノエマタ」と呼んでいます。
多くの誘惑は想像から始まります。想像そのものに悪があるわけではありません。しかし、ここで取り上げるのは、想像する働きから始まって、いくつもの危険な檻に行き着く過程です。どんなものでしょうか。ここでいう表象は、自分の中で生み出したもの、つまり自分で作った情報を現実に当てはめます。今日「投影」と呼んでいるものです。
たとえば、自分の中に未解決の、痛みを伴う部分があるとします。すると、その潜んでいたものを、物や人や状況に結び付け始めます。この欺きは非常に危険です。偶像崇拝の働きであり、十戒の最初のほうにある禁止事項の一つに関わります。
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」(出エジプト記20・4)。
この禁止の奥には、驚くべき知恵があります。それは、ごく頻繁に行われる行為を言い表しています。自分のために像を作ること、自分で表象を生み出すことです。禁止される範囲は、神、つまり「上は天にあるもの」から、古代聖書の宇宙観で最も遠く、最も暗いところにあるもの、つまり「地の下の水の中にあるもの」まで、あらゆる次元に及びます。つまり、何についても像を作ってはならないのです。
「自分のために像を作る」という表現は、真剣に受け止めなければなりません。この再帰的な「自分のために」という言い方には、不穏なものがあります。自分から出発し、自分の手で作り上げた写しを考案する行為を示しているからです。
先ほど述べたように、その像は自分の中から生まれます。自家製の材料でできているのに、やがて……現実よりも本当らしくなってしまいます!
表象は、客観的な事実よりも説得力を持ち始めます。そもそも事実は、自分で支配できず、いつもそのすべてを捉えられるわけでもなく、ポケットに収めて好きなように使うこともできません。それに対して、表象は自分の材料で作りますから、見覚えがあり、自分と重ね合わせられます。それが呼び起こす恐れは、まさに自分の恐れです。だから、想像したことが本当に思えてきます。結局、自分のために表象を作りながら、物事に自分自身を投影しているのです。
内面のイメージと、それが生む確信は、人間関係を大きく破壊します。自分で作り出した表象、頭の中で自分だけに上映している映画とは、一切妥協せずに戦わなければなりません。先にも述べたように、八つのロギスモイの中で、それらが働く様子を見ることになります。多くのロギスモイは、ノエマタを土台にしています。
この働きによって、私たちはもはや現実を見なくなります。事実にはない何かに感情を絡め取られたり、事実を使いながらも、それを勝手に、危険な形でまとめ上げたりするのです。
この現象は、通常「情動的なとらわれ」と呼ばれる、きわめて危険な形を取ります。客観的な現実の情報に従わず、内側から突き上げるものに従って物事に接する態度です。情動的なとらわれは現実の読み取りをゆがめます。それは、引き付けられる方向にも、嫌悪する方向にも働きます。
イメージが、好意や反感という情動的なとらわれになると、どこでも同じ型が見えるようになることがあります。あらゆる状況に同じ写し絵を貼り付ける、いわば型にはめること自体への執着です。たとえば、どこを見ても迫害され、軽蔑され、拒絶されている状況を見いだします。こうなると、行く先々で、自分は迫害されている、拒まれている、あるいは何かされていると感じる人が出てきます……。
自分にしてみるとよい単純な問いの一つは、何度も同じ状況に遭っていないか、ということです。たとえば、今日も昨日も一か月前も、ここでもあそこでも、違う場所にいても、自分は除け者にされ、理解されていないと感じてはいないでしょうか……。もしかすると、自分のノエマタの一つに待ち伏せされ、捕まっているのかもしれません。
同じことが繰り返し起こるなら、それは現実ではなく、自分自身の表象ではないかと問いかけるのが適切です。
この現象が居座る場所は決まっています。事実と私たちの心との間、つまり、事実をどう読み取るかという場所です。そのため、私たちは物事そのものと向き合わず、自分自身とだけ関わるようになります。
たとえば、目の前の相手が、私の怒りの一部分として描かれ、解釈され、位置付けられます。しかし、相手自身との関係には入っていきません。
気を付けてください。自分が内面に作り上げた相手の像を手放さなければ、和解の言葉を語ることはできません……。
表象が向かう先は、物や出来事だけではありません。イメージと情動的なとらわれが、考えに向けて投影されるという、危険な展開があります。「理念」を表す言葉と「偶像」を表す言葉が、語源を同じくするのは偶然ではありません。その結果、私たちは考えにしがみつき、それを絶対のものにしてしまいます。
エヴァグリオスの時代の砂漠の修道者たちの話に、とてもよい例があります。
「ニケタス師は、二人の兄弟が一緒に暮らすことにした話を語った。一人は心の中で、『兄弟の望むことをしよう』と思った。もう一人も同じように、『兄弟の望みに従おう』と考えた。こうして二人は、何年もの間、深く愛し合って暮らした。ところが、敵はそれを見ると、二人を引き裂こうとしてやって来た。そして窓辺に現れ、一人には鳩に、もう一人には烏に見える姿を取った。『あの鳩が見えるか』と一人が言った。『あれは烏だ』と、もう一人が言った。二人はそれぞれ自分の言い分を主張し、口論を始めた。
立ち上がった二人は、血を流すまで殴り合い、敵を大いに喜ばせた。そして別々になった。
三日後、二人は我に返って再会し、互いの足もとにひれ伏した。そして、現れた鳥がそれぞれにどう見えたかを打ち明けた。敵の誘惑だったと悟った二人は、最期まで共に暮らし、二度と離れなかった[15]」。
この二人の修道者は、互いに愛し、気遣い、兄弟として仲よく暮らしていました。しかし誘惑によって、窓辺に来た鳥の種類という、取るに足りない細部で意見が食い違います。そして、このばかげたことをめぐる口論が悪化し、ついには殴り合いにまでなります……。
そばにいる人のために、いくらでも奉仕し、犠牲を払えるのに、自分の見方は手放そうとしない。自分の受けた印象を捨てることができないのです。
誰かが、他人について自分の抱いている考えを否定すると、こうした観念上のイメージと情動的なとらわれのために、私たちは深く傷つけられたと感じます。ついには暴力に訴え、関係を断ち切ってしまいます。
こうしたイメージや情動的なとらわれを断ち、絶対視するのをやめ、そそのかしとして見抜く必要があります。真実と愛のうちに生きたいなら、この種のわなとは一切妥協できないからです。しかし、簡単なことではありません。
表象への信頼を、根本から断たなければなりません。現実の読み取りの一部として残しておけるものではありません。「事実ではないだろうけど、私はそう感じるんだ」などと言って、投影という反物質に、現実を読み取る場で市民権を与えるなら、いずれ深刻な問題になります。
もちろん、自分自身にも隣人にも忍耐が必要です。そのように受け止めてしまっているという事実を認め、神から頂ける限りのあわれみを持たなければなりません。それでも、真実のうちにとどまり、神の子どもの本当の自由に至りたいなら、物事のこうした受け止め方は避けなければなりません。
「でも、私はそう感じるんだ」と言えば許されると思う人は大勢います。こうして、誤った像が消しがたく根付いてしまいます。これは危険です。
これは、生きるうえでの差し迫った課題です! このままでは真実には至れません。表象は、その性質上、強く食い込み、あらゆるところに入り込むからです。こうして、人は現実の新しさを生きることがなくなり、どこにいても、自分の恐れを繰り返すだけになります。
イメージと情動的なとらわれの問題とは別に、エヴァグリオスと砂漠の修道者たちが強調する、もう一つの側面があります。大きな公会議が開かれ、キリスト教の信仰が明確にされていった時代を背景に、彼らはそれを内面の問題として読み取りました。思いに異質なものを混ぜるというわなです。
ここで「修道者」という言葉について、少し考えておくとよいでしょう。もとになったギリシャ語のモノスは、「一つ」を意味します。修道者という呼び名は、生き方全体の方向を示しています。一つであることを求め、神と一つになること、神と結ばれることを目指します。同時に、交わりのうちに兄弟たちと結ばれることも目指します。これは、いのちに関わる要素です。この二つの行為は一致しているからです。実際、福音にある二つの「同じような」掟なのです。
この求めは、個人として一つにまとまっていること、内面がまっすぐであること、自分自身と調和し、一体となっていることにも関わります。
ここで話しているのは、心が一つにされることです。これは、別に十分な紙幅を割くに値する主題です。そして、悲劇的な分裂というあり方の正反対にあります。
いくつものことを同時にするこの時代、運転中にメッセージを打って事故を起こす人、子どもが話しかけているのに自分の作業をやめない人、電話しながらパソコンで別の文章を書いている人がいるこの時代には、今言ったことだけでも、腰を据えて取り組む必要があるでしょう。
ロギスモイが混じるとは、どういうことでしょう。福音なら、二人の主人に仕えようとすること、と言うでしょう。しかし内面の世界では、もっと微妙な確信を指します。愛とうそは同居させられる、いまだに捨てていない古い罪や誤った思いの在庫を手もとに置いておける、向き合いたくない未決着の問題を抱えたまま暮らせる、という確信です。
私の親愛なる、祝福された友、ファビオ・ペローニ[16]が言うとおりです。「ポケットに地獄のかけらを入れたまま、天国に入ることはできない」。なんと真実な言葉でしょう!
まるで、全部取り除くのは気の毒だと外科医が思って、がんのかけらを私の体に残しておくようなものです。それでは、がんは再発します。
人生では何度も、健やかなものと感染したもの、よい香りのものと悪臭のするものを共存させられる、という幻想と戦うことになります。
いいえ、聖霊に従う思いとロギスモスを混ぜることはできません。内面が曖昧なままでいることに、慣れてはいけないのです。
悪徳のもとにある思いを否定しないことに慣れてしまえば、その悪徳を手放すことは決してできません。
これは「心の割礼」の問題です。大ざっぱに、よく考えずに済ませられることではなく、はっきりさせなければなりません。心に割礼を施すとは、自分にとって大切な、内奥にあるものの一部を切り取ることです。当然、血が流れます。
しかし、それをしなければ、私たちはどうなるでしょう。人生が実を結ばず、人との関係が曖昧になり、自分が誰であるかが定まらず、深い、解きようのない不確かさを抱えることになります。
有害な思いに対して戸を閉ざさなければ、その決断のなさに、悪しき者は舌なめずりするでしょう。聖なる思いと、一見休眠中の悪意を共存させられると考えた人は、自分は善の道を歩いていると感じます。しかし、どこへ行くにも、自分を滅ぼすものを荷物に入れて運んでいるのです。
聖性を目指す計画の中に、悪意という添加物を残しておけば、遅かれ早かれ、すべてが台無しになります。
心を清めるのは、一生をかけて行う仕事です。いつまでも取り組み続けなければならないことに、驚く必要はありません。しかし、思いを混ぜ合わせる危険な態度は確かにあります。つまり、善に悪を味付けする習慣です。
小さな例を挙げましょう。ある情報を使って福音を伝えたものの、あとで、その情報はうそだったと分かったとします。その情報に効果があり、それを失いたくないからといって訂正しないなら、私は不義の手先になったのです。悪魔は手をこすり合わせて喜んでいます。
ばれるかどうかに関係なく、私は悪魔のものになってしまったのです。
善悪の割合を比べ、善のほうが多ければよい、という話ではありません。悪は、どのような形でも残しておけないからです!
マフィアの金を洗浄しながら、慈善家をしているようなものです。そんなことを自分に許すため、頭の中で理屈を組み立てる人がいるかもしれません。しかし、それは奇妙で偽善的な詭弁です。
私たちは皆、混ぜ合わせること、とりわけ内面でそうすることには弱いものです。しかし、それが共通善を扱う場にまで及ぶと、その重大さは増します。
悪が善に至る道になることは、決してありません。『カトリック教会のカテキズム』にもそうあります[17]。
誘惑に屈しなかったのに、誘惑そのものはそこに残った、ということがよくあります。妻ではない女性との間に、魅惑的で曖昧な関係を残しておくようなものです。具体的には何もしていない。確かにそうです……。しかし、断ちもせず、取り除きもせず、そのままにしてある……。そしてある日、事態が悪い方向へ進むかもしれません。あるいは、何も起きないかもしれません。それでも私たちは、妻を愛しながら、別の可能性をポケットに忍ばせている者になります。たとえ、浅はかな虚栄心にすぎないとしてもです。妻が知っているかどうかは問題ではありません。問題は、私たちが妻を愛しておらず、妻に忠実でないことです。
「浅はかな」と言ったのは、たまたまではありません。もとの言葉の語源をたどると、「ひびが入った」、つまり裂け目や割れ目に行き着きます。見えなくても、二つに割れているのです。いやはや、めでたいことです!
水の入る穴を開けたまま航海する……それがそんなに難しいことでしょうか。この恨み言、この被害者意識、このちょっとした中傷、この色欲の行為、この小さな不正くらいは残しておく。それのどこが悪いのか、と。
好きにすればよいでしょう。ただ、私の近くに来るときは知らせてください。あなたを少しも信用しませんから。
コヘレトの言葉は、実によく言っています。
「死んだ蠅は、香料作りの一壺の香油を腐らせる。わずかな愚かさは、知恵と誉れをしのぐ[18]」。
以前、助任司祭が食事を作ってくれたことがあります。アマトリチャーナのスパゲッティに唐辛子を入れようとして、間違えてシナモンを入れてしまいました。そして、それを私たちに出したのです。
楽しいひとときとは言えませんでした。混ぜ物は避けるに限る、と私は思います。
さて、ようやく足がかりを得るために、ここまで見てきたのは、表面的な態度、見落とし、表象、そして混ぜ合わせることだけです。これだけ、と言うのも何ですが!
まだまだ話すべきことは山ほどあります。でも、八つのロギスモイには、いつたどり着くのでしょう。
まだすぐではありません。建設的な方向も示さなければならないからです。そうでなければ、ここまでの話では気がめいるばかりでしょう……。この挑戦を、前向きにどう形作るかを、もう少し理解する必要があります。
挑戦に向けて心を整える
「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」。
(エフェソの信徒への手紙6・11)
表面的な態度、見落とし、表象、曖昧さ、そのほか多くのものに捕まらないために、私たちは何ができるでしょうか。
自分の善意だけでは足りません。外からの助けに心を開かなければ、この旅には臨めないことを、強調しておく必要があります。自給自足で抜け出す道はありません。神の助け、兄弟姉妹の助け、秘跡、聖書、そして私たちを解放するために主が与えてくださった、あらゆるものの助けが必要です。
同時に、こうした話を、教養を身に付けるための単なる知的な冒険として扱うのは、もっと悪いことだとも言わなければなりません。それで戦いに取り組んだと思い込むかもしれないからです。そうではないのです。
情報を持っていることと、回心し、内なる解放へと歩むことは同じではありません。シエナの地図を知っているのと、シエナを歩くのとは別のことです……。
では、この挑戦を前にして、どう行動すればよいのでしょう。
まず何よりも、気を落とさないことです! これは、信仰の道で私たちに先立った人々が、すでに取り組んできた戦いです。自動的に、簡単に済むことではないのは確かです。しかし、主は私たちをあがなってくださいました。敵はすでに打ち負かされており、私たちは出口へ続く道を知っています。
この旅でたどる道筋は分かっています。最初にするべきことは、祈り始めることです。祈りなしに、この世界に向き合うことはできません。主と対話し始めることが、いのちに関わるのです。
どうすればよいのでしょう。この問いに余すところなく答えるのは、本書の役割ではありません。それでも二つほど述べて、祈りの慰めの中へ踏み込む勇気を、呼び起こしたいと思います。
祈りとは、何よりも、もうお一方との対話です。どんな対話にも、始まりの問題、つまり、どちらから話し始めるかという問題があります。夫婦が長い間口をきいていないなら、理想的な条件が整うのを待っても仕方がありません。どちらかが話し始めれば、少しずつ、どうすればもっとよく話せるかが分かってきます。祈りも同じです。祈っておらず、祈り方も持っていないなら、難しく考えず、ただ始めることです。経験がそう教えています。一見ありふれた助言ですが、実際には本質的なものです。
実際、始まりこそすべてです。なぜなら、
「……わたしたちの神、主は唯一の主である[19]」からです。
ヘブライ語の豊かな意味に照らすなら、ここで使われている語は、単に「唯一」というより、主が「一」であり、エハードであることを示しています。これは順序を表す数詞でもあり、つまり「第一の方」ということです。
一であり、第一の方である主から始めなければ、混乱から始めることになります。ほかの誰かが、ゲームを取り仕切ることになるからです。
祈りを始めるには、まず、何かをする前に祈ることです。楽器を演奏する前に、調律するようなものです。
一日の始まりと、寝る前です。それは、活動と休息という、人生の二つの大きな営みが始まるときです。そのうち、祈るというこの行為が、ほかにも多くの場面に当てはまると分かってきます。始まりはたくさんあるからです。けれどもまずは、一日を祈りで開き、祈りで閉じることが大切です。どのくらい祈ればよいのでしょう。まだ実行していないなら、短い時間から始めるべきです。そのあとで、増やせばよいのです。
では、何をすればよいのでしょう。先ほどと同じ手掛かりに戻りましょう。主がエハード、第一の方なら、主から始めていただくべきです。まず、主にお話しいただきます。神の言葉を読むことから始めましょう。簡単で基本的な方法は、その日のミサの福音を読むことです。世界中のカトリック信徒が聞く福音です。こうすれば、このみ言葉を祝うために命の危険を冒して出かける人々とも、心を合わせられます……。朝にも夕方にも読んでよいではありませんか。まるで私たちが、福音を一度で理解し尽くせるかのように考える必要はありません……。そして、そのみ言葉に答え始め、み言葉が私たちと対話するに任せるのです。
それから少しずつ、詩編にも広げ、朝の祈りを唱え、やがてほかの時課にも進んでいくことができます。そうして主との語らいが、次第に豊かに展開していきます。大切なのは対話することです。すでに述べたように、それが祈りだからです。
実は、前の章で述べた事柄の中で、一つ、あえて今まで残しておいたものがあります。悪魔の基本的な手口の一つは、私たちに神と話をさせないことです。悪しき者は、とりわけ、私たちが主と対話していないときに、心に語りかけます。
創世記第三章の物語で、エバが最初に犯した過ちは、まさにこれでした。誘惑者に答え、自分よりも、そして私たち皆よりも、当時も今もずっと狡猾な相手と、対話を始めてしまったのです。
もしエバが蛇に、「あなたの言うことは変ですね。すぐに神とお話しして、お考えを伺います……」と答えていたら、どうなったか考えてみましょう。
誘惑者は、自分から対話を開き、やり取りを仕切って、その言葉にエバが絡め取られるようにし、彼女を欺きます。そしてエバは、敵の道を歩き始めます。
主と対話することは、いのちに関わります! 本書で述べるすべてが、主との個人的な対話へと私たちを導かないなら、それは表面的なおしゃべりで終わります。
祈りをさらに深める際は、どうか独りで進めないでください。読者の皆さんにお願いします。祈りを学ぶ機会はあります。知り合いのキリスト者に尋ね、経験のある兄弟姉妹に相談して、もらった助言を受け入れてください。何より、自分の祈りは下手だと思って祈るのをやめたり、自分の祈りを裁いたりしないでください。お願いしている子どもの文法を、誰もとがめはしません。神もなさいません。神は父であり、役所の係員ではないのです! 私たちに限りない優しさを注いでくださいます。たとえたどたどしくても、私たちが聖霊を願い求め始め、み言葉に心を開くとき、どれほど喜んでおられるか、想像してみてください!
主との対話を始めるほかに、何をすればよいのでしょう。
問題を生み出すのは思いであり、思いをめぐる欺きですから、当然、自分の思いを吟味し始めなければなりません。
自分の欺きから抜け出したいのなら、自分の思いについて、最低限の確かめもしないで済ませることはできません。
どうすればよいのでしょう。はっきりさせておきますが、ここでは、キリスト教の知恵として広く共有され、多くの賢明な霊的生活の師たちが説いていることを、簡単に思い起こしているだけです。
まず勧められるのは、自分の思いを繰り返してみることです。これは、表面的な態度に真正面から立ち向かいます。思いをもっと注意深く眺め、「どんなことを考えているのか、見てみよう」と自問するのです。自分の考えを、対象として捉えてみましょう。頭の中をよぎっていることに焦点を合わせ始めるだけで、欺きのかなりの部分に気付くことが、よくあります。
友人が「つまり、こう言いたいの?」と、こちらの考えを言い換えてくれたとたん、自分はばかなことを言ったのだと気付く。あれと同じです。
繰り返すという方法は、基本になります。神から来る思いは、神の染色体を持ち、永遠の輝きを帯びているからです。そのため、繰り返しても変質せず、説得力を保ち、しっかりしていて、何度繰り返しても耐えられます。
それに対して、神から来ない思いは、どれほど強い印象を与えても、内に永遠を宿してはいません。繰り返していくと、やがてその頼りなさや欠けが見え、隠されていた絶対視があらわになります。そして、持ちこたえられなくなります。
思いを繰り返すことは、最初に行うべき、単純に対象化する作業です。それに加えて、理解するためのもう一つの大切な方法、思いに問いかけることも、実行する必要があります。
問いかけは、繰り返すよりも、さらに踏み込みます。しかし、この二つは順に行うべきです。繰り返すことで、自分の中で何が動いているかがよく分かり、問いかけることで、内にあるものがどのように動くかを見ようとできるからです。実際、その問いは、動きに関わります。まず、どこから来たのかを問い、次に、どこへ向かうのかを問うのです。
エヴァグリオス自身も、ある手紙で、同じ助言をしています。
「自分の心の番人となりなさい。どんな思いも、問いたださずに中へ入れてはならない。沈黙のうちに、一つ一つの思いに問いかけ、『お前は味方か、それとも敵か』と言いなさい[20]」。
実はエヴァグリオスは、聖書のある場面を引用しています。ヨシュアが天使に出会いますが、誰だか分からず、この同じ問いを投げかけた場面です[21]。その結果、目の前にいるのは力強い味方だと分かります。
あらゆる思いに問いかけるべきなのは、その出どころです。この思いは誰から来たのでしょう。聖霊からでしょうか。それとも敵からでしょうか。
問いかけるだけで、自分で答えが分かることもあります。「聖霊がこんなことをおっしゃるはずはない!」。よし、もう欺きから解き放たれています。
ある思いに問いかけるとき、何がこの思いを生み、どんな状況の中で生まれたかを考えてみるのも助けになります。その思いに至った頭の中の道筋をたどると、その正体が明らかになることがよくあります。
けれども、出どころを問うても、それが欺きだとはっきり分からないなら、同じ問いのもう一つの側面へ進みましょう。最も大切な、行き先の問題です。この思いに従えば、どこへ連れていかれるでしょう。言うとおりにすれば、どこに行き着くでしょう。どんな結果になるでしょうか。
それは、「愛、喜び、平和、忍耐、親切、善意、誠実、柔和、自制」の類いでしょうか。それとも、「不品行、汚れ、放縦、偶像崇拝、魔術、憎しみ、争い、ねたみ、怒り、利己心、不和、分裂、嫉妬、泥酔、酒宴、その他このようなこと」の類いでしょうか。実際には、ぴったりこの言葉で表されるとは限りません。それでも、前者は霊の結ぶ実、後者はガラテヤの信徒への手紙(5・19―22)で言う肉の業です。ここで引用したのは、ただ、行き着く先がまったく違うことを示すためです。
要するに、どの思いも、必ず私たちをどこかへ連れていきます。いつでもです。その行き先に焦点を合わせれば、その思いの出どころも明らかになることがあります。
もっとも、誘惑者は普通、自分のそそのかしがもたらす結果を隠します。エバがその結果を話そうとしたときにも、そうしました。
「『ただ、園の中央にある木の実については、食べてはならない、触れてもならない、死ぬことになるからだ、と神はおっしゃいました。』蛇は女に言った。『決して死ぬことはない』[22]」。
安心して食べればいい! 何が問題なの? そんな禁止なんか考えるな! 気になるんだろう? 体験してみたい? 試してみたい? 飛び込んでみろ。あまり考えずに……。
罪の結果を忘れることは、その罪を犯す最も強い動機の一つです。ある意味では、罪と、それを生み出した思いの本当の結末がいつも分かっていたら、迷わず気を付けるはずです。
ある思いが何をもたらすかを問うのは、単純ですが効果的な、知恵ある行為です。
私たちは、思いが愛の行いへ、神へ、和解へ、善へと導き、信仰と教会が与えてくれた光にかなっているとき、その思いが善いものであると認めます。
思いへの問いかけには、もう一つの側面があります。エヴァグリオスの一節を最後まで読むと、大切なことが見えてきます。
「自分の心の番人となりなさい。どんな思いも、問いたださずに中へ入れてはならない。沈黙のうちに、一つ一つの思いに問いかけ、『お前は味方か、それとも敵か』と言いなさい。身内の者であれば、お前を知恵で満たすだろう。敵から来たものであれば、怒りによってお前を混乱させ、欲望によってかき乱すだろう。実際、悪魔の思いとは、そのようなものだ[23]」。
エヴァグリオスは、非常に重要な点に触れています。問いかけるときは、思いの出どころと行き先だけでなく、その反応も確かめなければならないのです。どういうことでしょうか。
聖霊は愛です。そして愛であるからこそ、相手の自由を受け入れられます。これはどういう意味でしょう。愛する者は、受け入れてもらえないことも受け入れます。言い換えれば、聖霊には「いいえ」と言うことができるのです。傲慢な方ではないからです……。聖霊に従う思いに、「あなたは本当に健やかで、善いものですか。善から来て、善へと導くのですか」と尋ねれば、その問いを受け入れます。高慢ではなく、素朴で、謙遜で、愛だからです。調べられるに任せながら、私たちの内で答えてくれます。それどころか、私たちは、その思いに自らの光を示す機会を与えることになります。
しかし敵には、今挙げたような性質はありません。そのそそのかしを問いただすなら、内面にある反応を感じるでしょう。怒りや混乱、激情を覚え、穏やかに対話することができなくなります。
例を挙げましょう。ある司祭が、ドイツ語をもっと学び、現地での経験を得るため、教区でしている奉仕を中断して、三、四か月ドイツに行こうと思っている、と私に話します。
私は反射的に、質問を矢継ぎ早に投げかけます。「でも、どうしてそんなことを思い付いたの? 仲間はどう思っているの? 司教様は? 本当にそれでいいの? そんなに急ぐ必要があるの?」。
すると、その兄弟は体をこわばらせ、声を荒らげます。「どうして、しばらく出かけると自分で決めてはいけないんだ? 僕は囚人なのか? 司教や仲間に、僕の必要の何が分かる? 何をするにも許可を取らなきゃいけないのか? やるべきだと思っているのに、自分で自分を押さえ付けなきゃいけないのか?」。
緊張、攻撃的な態度、対話は不可能です。
私は笑って、こう言います。「聖霊から来た考えなら、そんなに腹は立たないはずだよ。僕に答えてくれただろうし、納得させてくれたかもしれない。どうして、そんなにこの考えをかばうの? 神から来ていないことが見えるよ。神から来るものは、かばわなくてもいい。自分で自分を弁護できるんだから」。
ここで言っておかなければならないのは、神に属する事柄を、サタンのやり方で持ち出す人もいることです。反論の権利など認めずにカトリックの真理を断言し、異論を唱えると攻撃的になります。とても悲しいことです。悪魔は聖書の使い方を知っています。砂漠でキリストに対してそうしました。信仰の言明の使い方も知っています。聖書は分厚い本です。普通、開いて読めば神の業を知る助けになりますが、閉じて誰かの頭に投げ付ければ、悪魔の業を見せることになります。それでも、同じ聖書なのです……。
肝心なのは、何を言うかが大事だとすれば――誰にも、うそや不正確なことを言う権利はありません――どう言うかは、もっと大事だということです!
そこで、思いの出どころと行き先を問い、そのあり方を観察します。
たとえ不十分でも、できる範囲で、できるように、この吟味を試みるだけで、どれほど大きな明晰さが得られることでしょう!
ただし、はっきりさせておきます。頭をよぎるすべての思いを調べる、ということではありません。そんなことをしたら、おかしくなってしまいます。
エヴァグリオスの言葉によく注意しましょう。
「自分の心の番人となりなさい。どんな思いも、問いたださずに中へ入れてはならない[24]」。
ここで言っているのは、心の中に入る思い、つまり、存在の中心を占めつつある思いです。通り過ぎる思いではなく、家の中に入ろうとする思い、大事で、重要で、中心を占めると考えられている思いのことです。
これまで述べたことから、もう一つ、簡単な助言が出てきます。実際には、ほかのすべてに先立つ心得と言ってよいでしょう。思いに対してすぐ戸を開けないことは、大いに役立ちます。つまり、思いを待たせるのです。どういう意味でしょう。頭に入り込んでくるものを、すぐ受け入れずに待たせることが大切なのです。先ほどの例のように、ドイツに行きたいと思い付く。ほかのことはどうなるのか。よし、神経細胞を一つも使う必要はありません。明日もまた思い浮かぶか、見てみましょう。思いにすぐ飛び付かなければ、それはひとりでに消えてしまうことがよくあります。これだけでも、ずいぶん選り分けられます。悪しき者から来るものは、しばしば、はかなく、その場限りだからです。
明日もまた思い浮かびますか。よろしい。それでも、待ってもらえます。
神はお急ぎになりません。私の友、エルネスト・オリヴェーロの言い方なら、神は永遠の方ですから、時計を見ません。悪魔は見るのです。
何日かたっても、まだその思いが残っていますか。では、待たせると腹が立つか、見てみましょう。腹が立つなら、それで追い払えるでしょう……。その反応からして、間違いなくロギスモスです。
反対に、静かに待っていたなら、先ほどのように、問いかけ始めることができます。そして、私たちの問いに耐えられるかを見ます。
ここまで見てきたのは、思いに対してまず取るべき対処だけです。もちろん、ほかにもたくさんあります。それらは、心と精神のあがないのさまざまな段階に対応しています。しかし、今そこに入っていくことはできません。役に立たない理論になるだけだからです。大切なのは、完璧主義にならずに始め、自分の思いをよりはっきり見ながら、恐れずこの挑戦に身を投じることです。
心の内で何が動いているかを見るのは、よいことです。私たちの心はあまりにも大切で、大事にしなければならないからです!
ここまで、祈りと内面への気付きについて話してきました。しかし、確かめておくべき、欠かせない第三の要素があるのは当然です。祈りによって神の前に立ち、思いの吟味によって自分自身の前に立つのなら、すでに触れた、不可欠な第三の要素を欠くことはできません。周りの兄弟姉妹と照らし合わせることです!
基本となる例は、霊的指導者との対話です。歩みを共にしてくれる兄弟や姉妹に、自分の思いを差し出すと、それを言葉にし、はっきり表すだけで、その頼りなさがあらわになったり、正しさが確かめられたりすることが、よくあります。
霊的指導者。これは、なかなか難しい言葉です。いったい、誰がそんな人を持っているのでしょう。いたとして、本当に信頼できるのでしょうか。知恵があり、信頼できる指導者は、きわめて貴重です。私たちは神学校で、パンとぶどう酒を実体変化させる役目の人や、社会活動家、運営担当者を大勢育ててきましたが、信仰における父を育ててはきませんでした。修道院でも同じことが起きました。多くの小教区は活動の拠点となり、ほかの小教区は信心業の隠れ家となっています。しかし、どちらにも、成熟した心の知恵や、内面の鍛錬はほとんど見られません。教会が社会に提供している膨大な愛の奉仕は、いつも単なる人道活動に終わる危険にさらされています。霊的な根がなく、救いの力を体験した心からではなく、善意から出ているからです。自分たちだけでもできたことをさせるために、キリストは死んで復活されたのではありません。実際、これほどの奉仕が人を信仰へと引き付けてはいません。信仰から出発していないからです。何を言いたいのでしょう。奉仕をやめる必要がある、と? いいえ、決して! そうではなく、奉仕する人の信仰を養い、キリスト者には信仰において導いてくれる人が必要だ、ということです。しかし、霊的指導者は簡単には見つかりません。私たちが「育てて」こなかったからです。
それでも、自分の理解や自分の行いを差し出して見てもらえる相手がいるのはよいことだと、繰り返し言わずにはいられません。
そして、司祭や奉献生活者がいなくても、ありがたいことに、キリスト者はいます。私たちより信仰の深い人、拠り所となってくれる人、キリストの愛を生きる模範となってくれる人々です。
心の揺れ動きを打ち明けられる、キリスト者の友人を探すとよいでしょう。霊性の世界の有名人である必要はありません。私たちよりよく祈り、信仰の面で信頼できると思わせてくれ、そして、私たちをぴしゃりと叱れる自由のある人です……。こういうことを話し合うときには、「いったい何を言っているの? そんなばかなことを、何を考えているの?」と言ってもらうことを、許さなければならないからです。
実際、ここで目指すのは、よく見られることではなく、いのちを十全に生きることです! 私たちのためになる叱責を受ける必要があるなら、喜んで受け入れましょう!
相手が率直であることは欠かせません。真実と誠実さ以外のものが関わってくると、失望させることへの恐れ、投影、期待、そのほかの妨げが入り込むからです。
私は、身近な協力者たちの霊的指導者を務めたことがありません。彼らが自由に私に反対できなくなるからです。しかし、異を唱えてもらうことは、生死に関わる問題です。反対されなければ、私たちは道を見失います。
真実とあわれみのうちに助け合える、率直で、遠慮なく語り合える関係の世界を持つことは、いのちに関わります。
教会の共同体は、そのようなものであるはずです。
そうであることを願いましょう。
ただし、私たちを取り囲む誰もが、正当に私たちを問い直し、あるいは善において慰めてくれます。神に耳を傾け、自分の心に耳を傾ける必要があるなら、ほかの人々にも耳を傾ける必要があります。あらゆる人にです。私たちに反対する人にさえも。いつも成長しなければならず、批判や対立からも成長する必要があるからです。
自分を愛してくれる人の批判をよそに、我が道を進んで人生を台無しにした人が、どれほどいることでしょう……。
耳を傾けてはいけないのは、むしろ別の相手です。悪しき思いの中で語っている者です。
第二部 八つの思い
「反対する者をも、柔和な心で正しなさい。神が彼らに回心の恵みをお与えになり、真理を十分に悟らせてくださるかもしれない。そうして、悪魔の意のままにされて捕らわれていた彼らが、正気に返り、そのわなから抜け出すかもしれない」。
(テモテへの手紙二2・25―26)
光と闇
「いと高く、栄光に満ちた神よ、私の心の闇を照らしてください」。
(アシジのフランシスコ)
内面の善と悪を理解していくこの旅では、エヴァグリオスのような賢者に教えてもらわなければなりません。彼らは一貫して、愛の根底にある一つの光と、その反対である罪の根底にある一つの闇を認めています。それぞれに明確で、一つにまとまったものであり、互いに対立していますが、対等に向かい合っているわけではありません。
できるだけ簡単に説明してみましょう。おそらく、専門家の方々を失望させるでしょうが……。この二つの源を、私たちは光と闇として捉えます。それは、まなざしであり、物事を見る視点です。
「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身も明るいが、目が悪ければ、体も暗い。だから、あなたの中にある光が闇でないか、気を付けなさい。あなたの全身が明るく、暗いところが少しもなければ、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身が明るくなる[25]」。
すべてを見るための目であり、全身に影響を及ぼす目です。だからこそ、イエスがおっしゃるように、「私たちの中にある光が闇でないか、気を付けなければ」なりません。すべてのロギスモイは、その闇から生まれるからです。
けれども、それよりも先に、「その輝きで私たちを照らすともし火」があります。それによって、「全身が明るくなる」のです。
この二つは、同等ではありません。一方は私たちより前から存在し、私たちの後にも存在します。私たちに先立ち、そして何よりも、私たちを待っています。とどまり続け、揺るがないからです。もう一方は、一時的なもののはずなのに、心の上で曇った皮膜のように固まり、その色を変えてしまいます。古びた色ガラスのように、すべてを違って見せるのです。ただの覆いにすぎませんが、少しずつ硬くなり、心を囲い込んでいきます。それでも、光はその下にあり続けます。
このことを話す必要があります。ロギスモイはすべて、この欠陥のある光から派生するものであり、ひとりでに生まれるものは一つもないからです。どれも必ず、この悪い母を持っています。
一方、愛と、その無数の色合い――八つどころではありません!――も、喜びに満ちた、始まりの光から生まれます。
この二つを、少し説明してみましょう。ただし、一方の豊かさも、もう一方の醜さも、すべてを言い表すことは決してできないと、十分承知しています。不可能です。とりわけ、光の豊かさについては。
光の名は「恵み」、ギリシャ語ではカリスです。
この言葉は、無償であること、代価を求めないことと結び付いています。実際、それは贈り物です。
それはいのちそのものです。いのちはキリストであり、恵みです。
それは、存在するという、私たちが受け取る賜物です。その賜物が伝える意味は、ただ一つしかありません。生きることはすばらしい、ということです。
私たちが存在するのは、すばらしいことです。生きるよう招かれたのは、すばらしいことです。たとえ無神論者の中の無神論者であっても、私たちは自分が存在することを喜び、生きたいと願います。そう願うのは正しいことです。そして、私たちが存在するのは、すべての人にとってすばらしいことなのです。
最も絶望した人においても、最も痛ましい自死においてさえ、その悲劇は、美しさ、幸福、愛への期待が裏切られ、打ち砕かれたと感じるところから生じます。しかし、その痛みそのものが、一つの真実を語っています。私たちが、間違って生まれ、失敗し、難破するために生まれたはずはない、と。ところが、その真実へ向かう道を見失ってしまいました。そして、道を見失うと、何もかも間違って見え、先へ進む気力もなくなります。そこに至るまでに、人々や悪霊のそそのかしを受けてきたのです。
自分に、この世での居場所がないと感じます。自分自身や自分の存在に関わると信じていた、善いもの、真実なもの、美しいものが、何も見えなくなったからです。しかし、もとの信頼は真実でした。いのちは、善いものであるほかないのです。
それは、創造の恵みです。あること、存在することの光です。私たちが傷つけてしまわない限り、この世界が持つ素朴な美しさです。私たちが怖がらせたり、虐待したりしない限り、子どもたち、すべての子どもたちが持っている、幸せに向かう傾きです。
それこそが、私たちがこの本を読んでいる理由です。笑いたいと願い、もっとよくなりたいと望み、夫となる人に出会い、子どもを授かり、誰かを愛し、友人との仲を取り戻し、何かをうまく成し遂げたいと願う、その理由です。
妻が喜んでいるとき、友人の病気が治ったとき、誰かと仲直りしたとき、美しいものを見、すばらしいものを聞き、人の心を引くことを語り、そして何よりも、そのようなことを行うとき、私たちが幸せになる理由です。
あなたが誰であろうと、何をしてきたとしても、何かを壊した人でも、自分自身が壊された人でも、背が高くても低くても、美しくてもそうでなくても、天才でも愚かでも、関係ありません。あなたは、生きるために生まれました。光のため、愛のため、平和のため、自由のため、正義のため、幸せのため、喜びのために生まれたのです。
たとえば映画も、何らかの形で、このことばかり語っています。こうしたものをたたえるため、そして、それを見いだせなかった怒りや痛みを、余すことなく表すために。
私は、非常に貧しい子どもたちの中に、生きようとする意欲を見てきました。何もかも奪われ、極貧の中にいても、わが子のいのちにしがみつき、極限の犠牲さえ払う母親たちの中にも見てきました。
反対に、経済的には何の問題もない北ヨーロッパのアルコール依存症の人々の中に、その意欲が失われているのを見てきました。そして、生きたいという意欲を失った痛みそのものが、彼らを酒瓶にしがみつかせていたのです。
恵みには二つの色合いがあり、主イエスがそれを照らしてくださいます。ヨハネによる福音書が、イエスについて述べているとおりです。
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさから、恵みの上に、さらに恵みを受けた[26]」。
恵みの上に、さらに恵み。一つ目の色は、創造の恵み、いのちへの招きの恵みです。最初の、根本的な賜物であり、私たちが受けることのできる最も大切な召命です。どのような状況でも、いつも、生きること。あらゆることを超えて。
しかし、闇によって、その恵みの色が薄れていくのが見えます。そして私たちは、いのちを裏切り、いのちに背き始めます。こうして、物を、人を、そして何よりも自分自身を壊し始めます。これが罪です。いのちは賜物であり、自分だけで自分に与えられるものではありません。ですから、罪がいのちを損なったとき、自分の内と外で壊してしまったものを、本当の意味で修復することはできません。
別のいのちを買いに行くことはできません。自分で付けた傷もすべて抱えた、このいのちが、私たちにあるいのちです。
ここに、恵みの上に重なる恵み、二つ目の色があります。賜物が損なわれたなら、新たにされる道はただ一つです。賜物を超える何かが必要です。それが「ゆるし」、もとの言葉の成り立ちで言えば、贈り物を超える贈り物と呼ばれるのは、偶然ではありません。
これこそ、キリストが来られて行ってくださったことです。世を裁くためではなく、御自分によって世が救われるためです[27]。恵みの中の恵みとは、十字架につけられて復活されたキリストのあわれみから、生まれ直すことです。主を知らないと言ったペトロのように、姦通の女のように、放蕩息子のように、ザアカイのように、徴税人マタイのように、ゆるされ、以前よりもよい者になるのです。
恵みの上に、さらに恵み。さらに大きな恵みです。それは、いのちの恵みがすでに告げていたのと同じことを、いっそう力強く語ります。私たちは愛されている、ということです。さらに言えば、私たちは愛されるに値する者であり、実際、すばらしいあの方が、私たちを愛してくださるのです。
司祭の口から出るお決まりの言葉のように聞こえるかもしれません。分かっています。ただし、キリストの衣に触れたことがあるなら別です。父なる神の忍耐とあわれみにぶつかり、幸いにも圧倒されたことがあるなら、聖霊から二つ目のいのち、永遠のいのち、ゆるされた者のいのちを頂いたことがあるなら、別です。そうなれば、もう司祭のお決まりの言葉には聞こえません……。
両親は、すばらしいいのちを私たちに与えてくれました。しかしキリストは、私たちが引き起こし、また味わってきた問題そのものから出発して、さらにすばらしいいのちを与えることがおできになります。それも、はるかにすばらしいいのちを!
創造の恵みは、私たちの真実です。そして、ゆるし、罪のゆるし、永遠のいのちは、なおさら私たちの真実です。
この真実は、私たちの中にあります。物事を照らすこの光は、最も深いところから来て、感謝の色をしています。豊かに与えられているという実感であり、それが人生の無数の寛大な行為として形になります。ですからそれは、自分がしてしまった最悪のことまでゆるしていただくほどに愛された、という絶え間ない記憶です。こうして解放され、罪責感は、栄光ある恩義へ、愛したいという思いへと変わります。この愛への応えとして差し出すものは、いつも少なすぎると、愛情深い子どものように感じるのです。
私たちは、愛によって、愛のために生まれました。
それなのに、どうしていとも簡単に、道を見失うのでしょう。
恵みの中の恵みは、何と戦うのでしょう。美しく、無償で与えられる自然のいのちと、すばらしく、さらに偉大な新しいいのちとの間を、何が横切っているのでしょう。
その間には、恐れという名の闇があります。
すばらしく、壮大な生物としてのいのちは、母親の胎内に芽生え、とても重大な門をくぐります。出産です。それは、たいていは痛みを伴い、いずれにせよ不安を伴う別離です。
私たちは、暖かく、居心地のよい場所から引き離され、未知の世界へ投げ出されます。「出産」という名が付いているのも、そのためです。私たちは出て行き、母親から離れるのです。
こうして私たちは、大きな恐れと大きな痛みから始まります。しかし、それでも私たちは生まれているのです。そして離れることは、生物としての次元からしても、存在が成り立っていくために不可欠です。自立は、生き延びるために必要です。結局のところ、私たちには善いことが起きているのです。
ところが、この痛みは、理屈に先立つ、大脳皮質に刻まれた根本的な謎を残します。誰かが私たちを迎えてくれるのだろうか。つまり、私たちはどこへ行き着くのだろうか、という謎です。
こうした問いに、一生苦しめられることになります。八十歳になっても、まだ確かな答えは分からないでしょう……。
見捨てられる恐れ。独りで未知のものに向かっていく恐れです。
それは、主が十字架上で表されたのと、まさに同じ恐れです。私たちの存在の重みを御自分に担う、あの至高のときに、イエスは、人類が携えているこの恐怖の中に、入っていかなければなりませんでした。
その恐れは、私たちが毎日立つ分かれ道です。そして、底知れないほどにもろい私たちは、その恐れのために、間違った道、最悪の道を選びがちになります。
不安に負け、人生は生き残るための学校になります。緊張が付きまとい、内に潜み続けます。こうして私たちは、根本的には、生きているというより、まだ死なずにいる者のように暮らします。
正しい道を進むには、キリストの愛が必要になります……。生物としての単純な真実を、その深みにおいて受け入れるには、キリストの死と復活が必要になります。出産の痛みは、終わりではなく、始まりだったのです。死ぬのではないかと恐れていた、まさにその瞬間に、私たちは生まれつつあったのです。
いのちは、欺きからではなく、過越から始まります。しかし、これは、いつまでたっても十分には身に付かない教えです。
では、恐れが私たちを連れ込む間違った道とは、どのようなものでしょう。
エヴァグリオスと東方の教父たちは、それを「フィラウティア」と呼びます。以前は、これを文字どおりに訳して、「自己愛」と呼んでいました。その言葉の、最も悪い意味での自己愛です。
空虚への恐怖は、自分の自我を中心に据えるところから来ます。自分がどうなるかという恐怖は、自分自身、自分の所有物、自分の必要を、不安に駆られ、無秩序にたたえることに変わります。それは貪りであり、虚栄心です。潜在的でありながら激しい要求であり、激情となって噴き出します。その激情によって、自分の存在が縁に立っている深淵を埋めようとしますが、無駄に終わります。
それは、自分の自我をめぐる不安です。その不安の行き着くところは、この偽りの自己像を強調し、そのために蓄え、それを守ることです。実のところ、自分のいのちの確かさを信じておらず、あらゆる種類の保証を探しているのです。
確かに、それは偽りの自己像です。不確かさで織り上げられた自我であり、自己蔑視と自己の絶対視の間を揺れ動きます。
それは、自分の精神の奥底にある、凍り付くような孤独です。自分はやっていけるのだろうかという、遠いところに根を持つ疑いです。人生のすべてを覆うその謎に、手近な解決を探して、幻想と落胆の間を絶えず揺れ動きます。解決が見つかったと望みをかけ、それが役に立たないと分かりかけたときにこそ、必死になってそれを守ろうとするのです。
エヴァグリオスは、はっきりとこう言っています。
「ロギスモイの第一は、フィラウティアである。そこから、ほかの八つが生まれる[28]」。
だからこそ、ロギスモイに入る前に、この自己愛に焦点を合わせなければなりません。ロギスモイは、この不安がさまざまな領域で、ゆがんだ形を取ったものだからです。
証聖者マクシモスは、フィラウティアに動かされる人について、非常に深い定義を示しています。その人とは、
「自分自身に敵対して、自分自身の友となる者[29]」です。
このゆがんだ自己愛は、仮定や不安で形作られた自我を優先するものです。そして、本当の自分を隠し、そこに近づかせません。潜在的な自己陶酔であり、行為、思い、感情、記憶、言葉、選択を汚染します。それが正体を現すのは、ずっと後になってからです。不幸へ、孤独へ、内なる冷たさへと通じる近道だったのです。
八つの悪霊を一つずつ取り上げるとき、私たちは、本質的にはいつも、このフィラウティアについて話すことになります。それは、あらゆる罪、あらゆる破壊性、人間のあらゆる悪に電流を流す配線だからです。
無秩序で破壊的な自己愛に形を与える、悪しき思いの世界に入る前に、一言述べておきます。自分自身や他人のフィラウティアを前にして抱くべき、有益で善い思いは、ただ一つです。大きなあわれみです。
恐怖の目でなく、優しさをもって互いを見ることです。繰り返しますが、それこそ私たちにできる、最もよいことです。
そして、自分自身にも、ほかの人々にも、あわれみを持つことです。
私たちは恐れによって投獄され、檻に閉じ込められています。
キリストは、私たちを蔑まれませんでした。私たちをあわれみ、愛してくださいました。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである[30]」。
私たちの心と、その光。これが、私たちが失ったものであり、主が取り戻してくださろうとするものです。これこそが、私たちを自由にする真理です。
まさにこのことを主に助けていただくために、私たちは八つのロギスモイに近づいていくのです。
ロギスモイの内的な仕組み
八つの悪しき思いとの戦いに入る前に、その階層を理解する必要があります。すべてが同じ位置にあるのではなく、「根本的なもの」と「そこから派生するもの」があるからです。
たとえば色欲です。悪しき者は、現代の私たちの世代がこれに過度の注意を向けることを望んでいます。しかし色欲は、根本となるロギスモスではなく、派生するものです。これには父と母がいます。母は暴食、父は傲慢です。色欲の思いを、それを忍び込ませる表象、すなわちノエーマの次元で根絶することはできません。その時点ですでに第二の段階にあるからです。
その結果、多くの人は色欲を抑えようとして生涯を費やしながら、実は傲慢の問題に取り組まなければならないことに気づきません。こちらのほうが深刻で、後に見るように、現実とのかかわりに関する問題なのです。こう言われても、まだ少しつかみにくいかもしれません。詳しくは後で扱いますが、八つの思いが提示される順序には意味があると、まず説明しておく必要があります。
この順序を理解するには、いくつかの区別が必要です。できるだけ簡単に説明しましょう。本書の初めから疑いの目を向けている専門家の皆さんは、ここでいよいよ発疹が出るかもしれません……。とはいえ、こうした単純化は役に立つのです。学ぶべきことをすべて学ぶ時間のない司祭もいます。非難されても仕方のない、この内なる戦いのビニャーミ式要点集[31]も、そういう方には無用ではないでしょう。ビニャーミは今でも使われているのでしょうか。
誘惑に対する弱さ、したがって恵みの入口も、三つの次元にあります。すでに人間理解のところで見た、身体、心理、霊の三つです。これは、誘惑のささやきが三種類の情念をあおろうとすることを示しています。同時に、救いもこの三つの次元を通るということです。
1)身体にかかわる情念。体を利用し、本来の欲求や必要を道具として、執着や隷属へと変えてしまいます。この領域には、暴食、色欲、貪欲があります。つまり快楽、身体の快適さ、物質的な安心です。しかし同時に、善い戦いが始まるのも、まさに身体の次元です。尊厳に満ちた体は、愛し、身を委ねる行為を実行します。体は心に節度と明晰さをもたらします。体による具体的な忠実さの行いは、思いの清さを確かなものにします。そして物として所有しているものこそ、私たちが気前よさを実践するために使えるものなのです。
2)心理にかかわる情念。私たちの心理に働きかけ、心の構造、気質、これまでの歩みを利用します。やがて、車輪の向きがずれて片側へ流れていく車のような考え方となり、自分を偏った目でとらえ、出来事にゆがんだ反応をするようになります。ここにあるのは怒り、アケディア、悲しみです。しかし、自分の過ちに対する神のあわれみの記憶が宿るのも、まさにこの心理の領域です。理性と感情はそこで、子どもじみた態度を見抜き、それを退けることができます。努力の大切さと美しさを理解し、善を行う喜びが育つのもここなのです。
3)霊にかかわる情念。心を殻に閉じ込め、偽りの霊、偽りの「私」と取り替えて、存在の根を見えなくします。最もたちが悪く、陰険で破壊的です。嫉妬を内に含む虚栄、そして本物の怪物であり、大きな罪である傲慢です。傲慢には高慢な態度も含まれます。しかし、人間の霊こそ、主が真理と物事の本当の意味を吹き込んでくださる場でもあります。自分の小ささを受け入れ、自分と他者のいのちの価値に気づくとき、内なるあらゆる偽装の敵である、謙遜の喜びと自由が働き始めるのです。
身体の要求にかかわる情念は、否定できない必要や衝動につながっています。食べることは必要ですし、私たちの体には自然で健全な性的衝動があります。また、生きるために最低限のものを持つ必要もあります。しかし情念の欺く風に吹かれると、満足することに取りつかれます。性を倒錯へと変え、絶えず打ちつける衝動として経験するようになります。また、不安定さへの恐れで自分を苦しめ、ついには物の中で自分を失い、物を頼みに生きるようになるのです。
心理の情念は、考え方や気分をあおります。正義は怒りに変わり、問題や欠乏は悲しみに変わり、活動はアケディアにむしばまれます。私たちはいつも正義の問題と向き合い、何かしら問題に取り組み、労力を要することをしなければなりません。人生とはそういうものです。しかし情念は、それらとのかかわりを損ない、悲劇、行き違い、拒絶、破壊へと変えてしまいます。
ところが霊的な魂の情念は、いっそう破壊的で、最も克服しにくいものです。虚栄と高慢は、頑固で手なずけられません。嫉妬や高慢によって正気を失うことさえあります。虚栄、とりわけ傲慢の爪から逃れなければ、私たちの人生は内側からむしばまれてしまいます。
ここで、今挙げた悪徳について少し補足しましょう。喜んで確信してよいことがあります。誰も疑わないでください。私たちには、一つ残らず全部あるのです! 現れ方と強さは違っても、どの人間もこれらを抱えています。
私が自分のひよこたち、この場合は読者の皆さんのことをわかっているなら、すでに防御の仕組みが働いているはずです。今見てきた惨めさの展示室の中で、何かつかまるところ、何か一つの要素、何か理由を探して、こう言いたくなるのです。「確かに。でも、少なくともこれは私にはない!」。それが自己防衛です……。
これを書いているのは、あることを学んだ貧しいキリスト者です。神のみ前で自分の貧しさに心を開く人は、なんと……ゆるしていただくという危険を冒すのです! こうして平和のうちにいられるようになります。自分の疑いをのみ込むのでなく、父である神の限りない忍耐に委ねるのです。
反対に、「私は一度も貪欲だったことはない!」などと言うなら、自分を見つめる力の乏しさと、霊的な未熟さをさらしていることになります。
祈りに生きる修道女に、今挙げた戦いのうち、自分に無縁なものがあるか尋ねてみてください。全部と戦わなければならず、どの悪徳も軽く見ることはできない、と答えるでしょう。一方、初心者に尋ねると、どれかの問題はもう解決したと証明しようとするはずです。そうでもしなければ不安にとらわれてしまうのです。父である神の忍耐と優しさを知らないからです。
私たちは、どんな罪でも犯しかねないと当然の疑いを抱き、もし陥らずにきたのなら、それはただあわれみによるのだと経験から知るとき、初めて少し内面の確かさを持ち始めます。そして、自分が誰かより優れているとは思わなくなります。
ですから読者の皆さんにお願いします。ほんのしばらく、高慢な心の言いなりになるのをやめて、こう考えてみてください。「自分は貪欲ではない、ほかの悪徳もないと思うのは、貪欲やほかの情念がどう働くかをまだ理解していないからだ。おそらく自分自身のことも、まだよく知らないのだ……」。
人間の心には、なんと多くの隠し底があることでしょう……。自分のことには慎重でいたほうがよいのです……。
さて、ある情念が別の情念から派生するとはどういうことか、説明しなければなりません。
根本となる、つまり最初に生じる情念を知るには、自由の技法について書かれた最も鋭く、最も古い文章に戻る必要があります。マタイとルカにある、三つの誘惑の記事です。
砂漠の師父たちは、この箇所を自分たちの冒険の大憲章としてきました。エヴァグリオスも、まさにそこでの対話を手本に、悪魔的なロギスモスとアンティレシス、すなわち霊による賢明な応答との対決を集めようと考えました。それが先に触れた『アンティレティコス』、すなわち『反駁の書』です。短い序文と八つの章から成り、誘惑と救いの間の長い問答が収められています[32]。
『アンティレティコス』でエヴァグリオスが目指したのは、誘惑の列挙ではなく、それに対抗する応答を示すことだったと覚えておきましょう。ですから題名はおおよそ、悪を暴く『反駁の書』という意味です。中心にあるのは、偽り者の言葉ではなく、聖霊の言葉です。大切なのは、心が散らされることではなく、救いです。
同じように、ルカ4章とマタイ4章の三つの誘惑の記事でも、最も重要なのはサタンの言葉ではなく、イエスの言葉です。
砂漠での誘惑の箇所を詳しく分析するつもりはありません。それだけで一冊の本が必要です。ロギスモイの順序の理由を理解する助けになることだけに、目を向けましょう。
マタイでもルカでも、最初の誘惑は食べ物に関するものです。
「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ[33]」。
この最初の誘惑は、創世記3章のエバへの誘惑と似ていることがわかります。食べることのできないものを食べる、ということです。対象そのものの性質によるにせよ、禁じられているためにせよ、いずれにしても状況を無理に動かそうとします。イエスは、この問いに乗らずに答えられます。後に見るように、実に見事に、別の次元へと飛躍されるのです。
第二、第三の誘惑については、マタイとルカで用語がほぼ一致しています。小さな違いもあり、それぞれ豊かな意味がありますが、異なるのは順序です。マタイでは神殿の屋根の端での誘惑が第二に、権力と所有の誘惑が第三に来ます。ルカでは逆です。内容は同じですが、マタイの順序は、申命記6章5節の主題の順序を踏まえ、よりユダヤ的な伝統につながっています。ルカの順序は、その福音書全体と同じく、信仰に近づいてきたギリシア人の視点から物事を見ています。霊的な戦いの文脈で、ルカの順序がやや好まれるのは、根底にある人間理解が師父たちの考え方により近いからです。
ルカでは、満足の問題に続いて、権力と所有の問題が来ます。「すべてお前のものになる!」。主イエスは誘惑を根底から退け、あらゆる不当な所有の前提を暴かれます。それは、悪に身を従わせ、妥協に巻き込まれることなのです。
次に第三のアンティレシスが来ます。ここで誘惑が触れるのは計画の領域、つまり、これですべて解決すると思い込む大構想の問題です。思い込みを絶対化し、きっと狙いどおりの変化が起こるはずだと仮説を組み立てる悲劇です。自分の知性を過大評価し、自分の自我に従属することが問題になっています。その自我は、神に時期を指図し、自分の理論どおりの歩調に合わせることを要求します。
三つとも、何かを無理に実現させようとする圧力であることに注目しましょう……。
整理してみましょう。イエスへの誘惑は、食べ物との乱れた関係である暴食から始まり、所有との関係である貪欲へ進み、自己の主張である傲慢へと至ります。傲慢は最悪のもので、すべての根に最も近く、最初の二つにも潜む真の誘惑に最も近いものです。この厄介な相手については、すでに扱いました。すべての悪しき思いとすべての悪の源であるフィラウティアです。つまり、自分の自我への依存、自分自身への秩序を失った愛、自分との不誠実な関係です。すでに見たように、そのすべてが根源的な恐れから生じています。
したがって、フィラウティアの最初の具体的な現れ、根本となる情念は、暴食、貪欲、傲慢です。
イエスは砂漠で根本となるロギスモイを退けることによって、本質的には、そのすべてに立ち向かわれたのです。
エヴァグリオスが示す順序は、暴食、貪欲、傲慢という区分と結びついています。これに対応するのが、戦いの基本となる行い、断食、祈り、施しです。ここでは順序が違います。善の道と悪の道は、左右対称ではありえないからです。もちろん、断食は暴食の反対であり、施しは貪欲と戦い、祈りは傲慢に対抗します。
堕落は、身体の情念から物質的な獲得へ、さらに心理的な所有へ、そして自我への執着へと進みます。
エヴァグリオスが歴史上初めてまとめた順序は、このように、これらの段階に沿っています。本人の言葉で、思いの順番を見てみましょう。
「要するに、あらゆる悪徳を生み出す思いは八つあり、ほかのすべての思いもその中に含まれる。第一は暴食の思い、その次が淫行の思い、第三が貪欲の思い、第四が悲しみの思い、第五が怒りの思い、第六がアケディアの思い、第七が虚栄の思い、第八が傲慢の思いである[34]」。
個々の問題に入れば、それぞれのロギスモイがその位置にある理由が、もっと明らかになるでしょう。
しかし、その直後にエヴァグリオスが述べることに、注意を向ける必要があります。
「さて、これらの思いが魂をかき乱すかどうかは、私たちの自由にはならない。しかし、それらがとどまるかどうか、また情念をかき立てるかどうかは、私たちにかかっている[35]」。
二つのことを受け入れなければなりません。ロギスモイの働きは、魂をかき乱すことです。これだけでも大切ですが、さらに重要なのは、それが……魂によって生み出されたものではない、ということです! 私たちから出るのでなく、私たちはそれを受けるのです。ロギスモスが浮かんだからといって自分を責めるなど、理不尽なことです! すべきなのは、そこにとどまらないことなのです。
実際、悪しき思いは、すべて同じ形を取ります。いつでも、どこでも、誘いのささやきとして展開します。
「誘いのささやき」に当たる語は、ラテン語のスブ・ゲレレに由来し、他者の支配下に置かれた状態を表しています。したがって、押しつけや操作という性格を持ちます。
すでに見たように、どの誘惑も、心、すなわち存在の中心に触れることを妨げる欺きです。しかし戦い始めてこそ、それを自分にとって異質なものと認めるようになります。自分の奥深いところに触れたとき、誘惑がそうしたものとして現れるのです。そうでなければ、その出どころが異質であることに気づかず、操られているものを自分そのものと思い違いします。これが悪しき思いの罠の一つです。自分をその思いと同一視してしまう。違います!
私たちは決して自分の罪そのものではありません。私たちは悪そのものではありません。偽りの父が存在することを認めるのは、とても重要です。人間の本性について、きわめて大切な真実が明らかになるからです。どれほど弱くとも、原罪と、それに伴う欲情の傷をどれほど負っていようとも、人間はあくまでも、いつも神に造られたものです。したがって善いものであり、善へ向かうように造られ、愛と救いのために造られているのです。
罪を犯すのは、ある情念を受け入れたからです。その情念は、誘いのささやきによって持ち込まれました。しかし、その最初の働きかけは私たち自身から出たものではありません。
ありふれた例ですが、激怒した後で多くの人がこう言います。「どうしてああなったのかわからない。我を忘れていた……」。そのとおりです。「自制を失った」とも言います。まさにそうです。自分で操縦できなくなったのなら、ハンドルを握っていたのは誰ですか。本当の自分ではない働きかけの暗示に支配されていたのです……。「あなたを傷つけるつもりはなかった」とさえ言います……。では、実際に傷つけたとき、そうしようとしていたのは誰だったのでしょうか。
人間は、本質的に、存在の根底において、怒りっぽい存在なのではありません。せいぜい情熱的であるとか、強く反応するということでしょう。それは悪ではなく、大きな長所にもなりうる性質です。しかし、その人の個性が怒りの悪霊に操られていたら、神よ、お救いください[36]。
こうして、砂漠の修道者たちが悪しき思いを、外から来るものとして語る理由がわかります。
内から来るのは、それとは違うものだからです。実際、私たちには、心の奥から、聖霊に由来する思いが贈られています。聖霊は私たちに霊感を与えてくださるのです。
霊感を表す原語の名が示すように、それは内側から息吹きますが、私たちの自由を保ちます。霊感は提案するのであって、決して押しつけません。心の隠れた扉を静かにたたきます。それは神から来ており、私たちのうちにおける聖霊の働きです。
誘いのささやきが私たちから人格と自分自身を奪うのに対し、霊感は私たちを御父との協働へと導きます。そして、十分に自分自身であると感じるとき、私たちは自分を超えるある方とかかわっているのです。
この内なる働きは、私たちを自分自身の内へと入らせ、善へ、そして成熟した、節度ある、何かを築いていく愛へと歩ませます。それは心の最も真実な部分から生まれます。その部分は、訪れていただき、認められ、力づけられたと感じるのです。
ここで大切なことを一つ述べましょう。幸いなひらめきは、子どもや、より素朴な人たちのほうが受け取りやすいのです。そして、知的な力の弱い人にも、決して閉ざされてはいません。
それは光の働きです。自己防衛をせず、身構え方の少ない人には、開いた入口を見いだします。しかし、何事にも精通し、神についてさえ詳しい、洗練された人たちは、しばしばこれを見失います。
主イエスは言われます。
「父よ、天地の主よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼い者たちにお示しになりました。そうです、父よ、これはみ心にかなうことでした[37]」。
実際、心が霊感に向かって開くのは、かたくなになるのでなく身を委ね、すべてをすぐに理解しようとするのでなく、信頼することによってです。
霊感を受け入れるほど、神はいっそう豊かに与えてくださいます。それに従い、大切にするほど、霊感は増していきます。やがてそれは、素朴な光の奔流となりえます。心の地下を流れる川となり、どこにいても優しくせせらぐのです。
さまざまな誘いのささやきに必要な戦いについて、最初の手がかりを示しましょう。エヴァグリオスによれば、ロギスモイは三種類あります。魂の三つの部分、この場合の魂は心理に当たりますが、その三つに結びつき、三つの弱点につけ込みます。欲求の次元、情動の次元、霊の次元です。
言い換えれば、秩序を失った欲求、非理性的な反応、そして霊への道を閉ざし、いわば偽りの自我を作り出す病です。
欲求の次元で起こるのは、体や物へ向かう動きの倒錯です。暴食、色欲、貪欲はこうして働きます。これらの悪霊は、依存が生じる条件を作ります。
これらの倒錯は自然な欲求を乗っ取るのですから、欲求を消し去ることで戦うことはできません。むしろ、欲求を整え、治める必要があります。その善いあり方を取り戻し、心が再び主導権を持ち、必要を成熟した態度で扱えるようにするのです。このようにして依存は断ち切られます。
つまり、この領域でなすべきなのは、否定でなく統御です。自然な欲求を否定することで、こうした破壊性から逃れようとする霊性の流派は、人間的ではなく、キリスト教信仰とはまったく無縁です。それは人間を否定し、去勢し、縮めてしまうことだからです。問題は、欲求を消し去ることではなく、治め、方向づけることにあります。そのためには、私たちの価値を教え、再び自分を治める力を取り戻すよう導いてくださる、神の愛に触れる必要があります。
とはいえ、すでに指摘したとおり、私たちの養成方法が一度も抑圧の道をたどらなかった、とは言えません……。そして、その結果は惨憺たるものでした!
しばしば繰り返されてきた、この重大な教育上の誤りを暴くことも、本書を書く労力を引き受けた動機の一つなのです……。
人間の魂の情動の次元には、別のロギスモイが働きかけます。まず、知覚と情動という二つの水準で、それらの扱い方をゆがめ、次の段階で、より深い感情にも影響を及ぼします。
ここでいう悪霊は、怒り、悲しみ、アケディアの悪霊です。これらのロギスモイは、気分や情動を必要以上に膨らませ、思考をそらします。意識をこうした浅い領域で満たし続け、気分や情動に特有の、物事の絶対化を行うのです。ある気分をもとに、勢いよく、熱に浮かされ、怒りの発作に駆られて行動を起こします。
より深い感情は、いっそう奥深く、気高いもので、とりわけ関係に結びついています。それに対し、気分ははかなく、その場かぎりです。情動もまた、感情的な反応の仲間であって、持続する根拠を欠いた感覚です……。
情動に魅力を感じるのは理解できますが、それはずいぶんもろいものでもあります。深い感情につながらなければ、ほんのわずかしか続きません。
情動や気分のために結婚するのではありません。それらは二時間もすれば過ぎ去り、戻るかもしれないし、戻らないかもしれないからです。天候による不調や消化不良のために、自分の人生を捨てるわけにはいきません。私たちは深い感情によって結婚するのであり、それを真剣に確かめなければなりません。
怒り、悲しみ、アケディアの悪霊は、情動的な反応を増幅させることで、不機嫌、悲哀、憂鬱、怠惰などを通して、人生や人間関係の多くの部分を壊してしまいます……。
妙なことに、少なくとも三つのうち二つは色とかかわっています……。怒る人は赤く見え、悲しみに沈む人は黒く見え、怠惰な人は……たぶん灰色に見えるのでしょう。
なんと表面的で、自分の気高く成熟した魂から、なんとかけ離れていることでしょう。
ここでの戦いの主題は、身を引くことです。客観性と現実感覚を取り戻すために、これらの悪霊の影響から離れて戦います。
ですから、最初のものとは違い、これらは治めるのでなく、相対化して、執着を離れる必要があります。
自分を情動的な反応と同一視しては、決していけません。
父である神、主イエス、そして主であり、いのちを与える聖霊との関係が、こうした欺きの漂流を正し、私たちを自分自身へと連れ戻します。自分の一部分だけにではありません。
しかし、霊の次元の悪霊は、最も破壊的で、最も手ごわいものです。
これらは自我に結びついた悪しき思いで、二つの顔を持ちます。一つは自分に向かい、もう一つは他者に向かう顔です。虚栄は自分の確かさを求めることであり、嫉妬は他者の確かさと競うことです。さらに、自分についての観念にかかわる傲慢という怪物があり、それが他者との関係に噴き出すと高慢な態度になります。
すでに述べたように、これらの問題の軸にあるのは自我です。
こうした思いは、悲劇的で、痛ましい性質を持ちます。その根は無です。すでに見たように、私たちが内に抱える、不確かさという深淵に根ざしています。この潜んだ恐怖は、人生のあらゆる不確かさによって呼び覚まされます。そして内なる拷問者のように、自分の確かさを示せ、自分の重要さを強調せよと要求します。だから不安で、絶望し、不幸なのです。
自分は何者なのかという不安が、勝利、他者を超えること、確かさを求める暗い動機となります。
虚栄は嫉妬となります。つまり、他者の不幸を喜び、あらゆる関係の中で、ひそかに競おうとする衝動です。
傲慢は、自分の考えに対する破壊的な確信であり、それを少しでも相対化されることへの憎しみです。それが人間関係では高慢な態度となり、他者に自分を合わせることも、自分の限界や誤りを認めることもできなくなります。
霊の情念は、最も悪質です。
それに立ち向かうための魔法の言葉は、ただ一つ。謙遜です。
謙遜は、服従や、それに類する何かではありません。まじりけのない、ただの真実です。本当の自分なのです。
これから始める旅の全体は、自分自身へ向かう道です。御父は先に進み、私たちを待っておられます。御子はともにいて、ご自分に従うよう招かれます。聖霊は私たちの内におられ、慰めてくださいます。
それではいよいよ、八つの悪しき思いから自由になるための道を歩み始めましょう。
暴食の悪霊
「情念の始まりは暴食である[38]」。
「暴食は色欲の母、おしゃべりな思いの養分、断食を緩ませるもの、修徳の妨げ、道徳上の問題への恐れ、食べ物の空想、味つけの想像、奇妙な獣、歯止めのない狂気、病の受け皿、健康への嫉妬、喉の締めつけ、内臓のけいれん、侮辱の行き着く先、淫行への手ほどき、知性の汚れ、体の衰弱、重い眠り、悲しい死である[39]」。
(エヴァグリオス・ポンティコス)
個々のロギスモスを分析するには、まず、その領域を確かめるところから始めるしかありません。暴食と言うとき、何について話しているのでしょうか。
この悪しき思いに支配されるのは、食いしん坊のはずです。そこから思い浮かぶのは、大食漢、次々に食べ続ける人、丸々と太って脂ぎった人、菓子店で食べまくる人でしょう……。
しかし、これは固定観念であり、誤解を招きます。暴食という態度の、ほんの一部分にすぎないからです。
ギリシア語ではガストリマルギアと言い、二つの語から成っています。ガステールは腹、胃という意味で、マルゴスは貪る、むさぼり食うという意味です。「腹」という名詞に「貪欲な」という形容詞が伴い、性質を表すギリシア語の語尾「イア」がついています。先に引用した文章で、この語は「腹の乱れ」と訳されています。もちろん、この定義の重点は体の部位ではなく、その態度にあります。確かに食べ物を貪ることですが、暴食を貪りとして理解すれば、食べ物をはるかに超えた、広い領域が見えてきます。
コヘレトの書はこう言います。
「目は見ても飽くことなく、耳は聞いても満たされない[40]」。
食欲に当たるものは、いくつもあります。口もいくつもあります。胃につながる口だけではありません。
見たい、聞きたい、触れたい、もっと広く言えば、感じたい、味わいたいという、飽くことのない欲求です。
体全体が、味わい、取り込み、受け入れ、貪り食う、巨大な口になることがあります。受け入れ、摂取し、同化する、その量に歯止めがなくなるのです。
体、皮膚、身体の感覚は、巨大で、破壊的で、果てしない口唇期へと私たちを導きかねません。それは、体とその調子をめぐって、さまざまな突飛な形で現れます。健康への執着、体形への絶え間ない気遣い、快適さの追求、楽であることへの隷属をもたらす、すべてのものです。
ここで扱うのは、無意識に物へ依存させるあらゆるものです。食べ物のことばかり考えることから始まります。極端な完全菜食主義者も、ひたすらステーキを食べ続ける人も、この点では結びついています。食べ物への執着という点で、根本的には似ているのです。さらに、実にさまざまな小さな満足を、今すぐ求めることにも及びます。口にするおやつ、頭や物で味わうおやつ、最新の技術製品、リモコン、家の自動化がもたらす便利さ、技術に頼った近道、ソファ、人間工学に基づいた椅子、使いやすい道具、楽な仕事、さらには自分に都合よくできた配偶者や子ども。着心地がよく、軽く、柔らかな服です。
物、本、車、小さなおもちゃ、大きなおもちゃ、その他さまざまな買い込みや略奪への飢えも、忘れるわけにはいきません。貪りの対象は、文字どおり何でもありえます。貪欲とはどう違うのか、それにはまた別の色合いがありますが、やがて見ていきます。
たとえば「同化する」という言葉には、少なくとも二つの意味があります。物質を取り込むだけでなく、意味を理解することも表します。私たちは知り、つかみ、整理し、理屈づけることを切望します。また、味わい、感じ、体験するという、感情の世界も求めます。何でもし、何でも知り、何にでも通じ、一つも取り逃がしてはならない……。そのすべてが、満足し、満腹することに向けられています。
アルコール依存、薬物依存、賭け事、買い物への衝動、食べ物やソーシャルメディアや技術への際限ない摂取欲。あらゆる依存は暴食につながっています。ポルノ依存さえ、色欲よりも、ずっと暴食の問題です。後に見るように、色欲とは性器の領域で働く暴食なのです。
こうしたものすべては、ガストリマルギアの糸を引き、貪りを荒々しく強いものにする、一人の独裁者に従っています。快楽です。
快楽を求める衝動は、破壊的な暴君ですが、同時に陰険で、暗号に隠れ、潜み、しばしば姿を偽っています。
中断、休憩、小さな満足、コーヒー休憩、さまざまな楽しみ、そんな数分間を一日じゅうふんだんに散りばめる暮らしの中に、うまく隠れます。人生は、ある埋め合わせから次の埋め合わせまで、息を止めて泳ぐようなものになります。そうしなければ、その重さに耐えられないのです。
朝から晩まで、そしてそれ以降も、すべてのことの傍らで、自分への褒美が対旋律のように続きます。
それはどこから始まるのでしょうか。そして何より、なぜそれを問い直さなければならないのでしょうか。健康や快適さや満足を追い求めて生きて、なぜいけないのでしょう。
この最後の問いへの答えは、本書にとって付け足しではなく、根本的なものです。最初のロギスモスを分析することで、こうした欺きから自由になろうとする、本質的な理由の一つが見えてきます。
まず、押し寄せ、ゆがみ、ひそかに自分を壊していく、この飢えがどこから生まれるかを見ましょう。実は、どんな食いしん坊の背後にも、自分を殺そうとする人、自分が存在しなくなることを求める人が隠れています。理由はこれからわかります。一歩ずつ進みましょう。
食べ物は、何でもないものではありません。自分を生かし続けるために不可欠なものの一つです。
生きるには食べ物が必要です。それを通じて、何に向き合うのでしょうか。生存の問題です。突き詰めれば、無への恐怖です。またここへ戻ってきました……。
生きるには、自分の外の何かを消費しなければなりません。私たちは自分だけでは足りません。決してそうではありません。完全な自立の夢は、自分の限界から逃れようとする妄想です。その限界をすべて合わせれば、結局いつも一つになります。ここでもまた、身体的、存在的な不安定さなのです。
食べないことは、単に食べないことではありません。原初の、動物的な、獣としての次元では、それは死ぬことを意味します。
生まれたばかりの赤ん坊が空腹で泣くとき、二次的な衝動を経験しているのではありません。その泣き声は、やがて別のものになり、個性、人とのかかわり、文化、好み、心の構造、さらには創造性にまで姿を変えていきます。しかし、生き延びるために養ってもらう必要のある者の、同じ必死の泣き声であることに変わりはありません。
これは必要であり、必要を否定すれば、欲求不満に陥ります。つまり、交渉の余地も、手放す余地もない、生物学的な事柄を扱っているのです。
では、ロギスモスはどこへ入り込むのでしょうか。
本当の必要を満たすことは、それぞれの経路を通って行われ、自然で、単純に客観的な快さをもたらすと考えましょう。しかし、すでに見たように、私たちは無の淵に立ち、自分のいのちはどうしても不確かですから、その快さの一瞬が、強い慰めになります。こうして、存在し、生き、消え去らずにいるという問題が、誘いのささやきにつけ込まれる隙を与えるのです。
どのようなささやきでしょうか。生きるとは、単に養われることではなく、安全で、満腹で、満足していることだ、というものです。そのささやきは何をするのでしょうか。すべてのロギスモスに見られる、絶対化です。
この悪しき思いは、はっきりした判断になる前のところで、微妙に、しかし強く働きます。生きるために食べるのではなく、食べるために生きるのです。悪魔は素人ではありません。自分の仕事を心得ています……。
いのちを養うために食卓につくのでなく、食卓につくために生きるようになります。それがどんな食卓であってもです。
生きるために物とかかわるべきなのに、物を楽しむために生きてしまいます。その楽しみは、一口食べる間、一つ手に入れる間、一つ快適さを味わう間、つまり快楽の一瞬の間だけ、私たちのいのちの不確かさを追い払う、一種の悪魔払いとなります。その絶頂感は、知らず知らずのうちに、普通の生物学的な必要を依存へと変えます。何への依存でしょうか。その絶頂感が続く時間への依存です。
ほんの一瞬です。
食いしん坊の人生は、絶頂感を延々と追い求めるものになります。あらゆる方向でです。こう言う人もいるでしょう。だからどうしたのか。そう生きたい人の勝手ではないか。どんな害があるのか、と。
一度の高揚のために人生を壊した薬物依存者に、そう言ってみてください。倒錯し、取りつかれたようになったポルノ依存者に、アルコール依存者に、そう言ってみてください……。いや、その人たちよりも、薬物依存者の母親、ポルノ依存者の妻、アルコール依存者の子どもに言ってみてください。
インターネットで幾晩も失った人の、空っぽの手を握ってみてください。拒食症の全能感という妄想によって、四年を、おそらく二度と戻らない最良の四年を失った人、酒によって昔の自分の影にすぎなくなった人の手を、握ってみてください。
貪る人と結婚してみてください。その人の中心にあるのは、決してあなたではありません。自分の快楽、満腹、あらゆる方向での満足なのです。
自分の健康に取りつかれた人のそばにいて、どれほど楽しいものか、教えてください。
同時に、どのロギスモスも、渡してくる贈り物の包みの中で、絶対化の裏面を心に書き込みます。あるものを絶対にする一方で、別のものをつまらないものにしてしまうのです。
暴食が何を軽んじさせるのかを理解するには、聖書に戻るとよいでしょう。
旧約聖書のよく知られた表現に、民にご自身を現される神は、アブラハム、イサク、そして……ヤコブの神だ、というものがあります。
ところが、形式上はヤコブは割り込んだ者です。この重要な位置は、彼のものになるはずではありませんでした。しかしヤコブは、あるとき名前さえ……イスラエルに変わります。十二人の息子という栄えを得たのは彼で、その息子たちが後にイスラエル十二部族の長になります。「イスラエルの子ら」と言えば、ヤコブのことなのです。二つの名を合わせれば、聖書の中で、神ご自身に次いで最も多く名を挙げられる人物だと言ってよいでしょう。
しかし、この誉れは彼に属するはずではありませんでした! 彼は、エサウという人と二卵性の双子で、家を継ぐ権利は、長子であるエサウのものでした。
神は、アブラハム、イサク、エサウの神となるはずでした。しかし、そうはなりませんでした。エサウは弟に出し抜かれたのです。文字どおり、ヤアコブは「かかと」を意味します。ローマ人なら「かかと」というあだ名になったでしょう……。この名をつけられたのは、生まれるとき、母リベカの体から、兄のかかとをつかんで出てきたからです。つまり、そのときから、すでに兄を追い越そうとしていたわけです……。
長子の権利がエサウからヤコブへ移る、その瞬間の記事は、決定的なものです。
出来事が起こるのは、二人が成長して若者になったころです。エサウは野生の獣を狩りに行き、何も獲れず、疲れて戻ってきます。一方、家にいるほうが好きなヤコブは、後に優れた羊飼いであることがわかりますが、レンズ豆の煮物を作り、食べようとしていました。
そのときの出来事です。
「あるとき、ヤコブが煮物を作っているところへ、エサウが野から戻って来た。ひどく疲れていた。エサウはヤコブに言った。『頼む、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせてくれ。疲れてたまらない』。このため彼はエドムと呼ばれた[41]。ヤコブは言った。『まず、長子の権利をわたしに売ってください』。エサウは言った。『わたしは死にそうだ。長子の権利など、何の役に立つだろう』。ヤコブは言った。『まず誓ってください』。エサウは誓い、長子の権利をヤコブに売った。ヤコブがパンとレンズ豆の煮物を渡すと、エサウは食べて飲み、立ち上がって去って行った。こうしてエサウは長子の権利を軽んじた[42]」。
最後の一文は、何となく書かれたのではありません……。エサウは、どういう意味で長子の権利を軽んじたのでしょうか。ヤコブはずっと、父と祖父の歴史を受け継ぐことを願っていました。エサウがレンズ豆の皿を求めると、交換を持ちかけます。長子になるためなら、断食でも、さらにそれ以上でもするつもりだからです……。では、エサウはどうでしょう。その答えは教科書どおりです。貪りのロギスモスが、まさに彼の口で言葉になります。
「わたしは死にそうだ。
長子の権利など、何の役に立つだろう」。
そのときエサウは何を考えているのでしょうか。すぐに空腹を満たさなければ、死んでしまうということです。これこそ、先ほど見た貪りの動機です。無を追い払おうとするのです。すべての価値が下がり、何も大切ではなくなり、未来などなくなります。長子の権利が何になる。食べなければ死ぬのだ、と。
これは、一時の食欲の絶対化です。エサウの生存に危険はまったくありませんでした。ただ、あの煮物を得られなければ、すぐさま、その場では食べられなかっただけです。しかしその途端に、死んでしまうと感じたのです。子どものように振る舞いました。
空腹で目がくらみ、交換の意味がまったく見えなくなります。そして自分の感覚を絶対化する一方で、ほかのすべてを軽蔑します。
自分が選ばれたこと、気高い行く末、自分の重要さを、つまらないものにしてしまいます。今この瞬間がすべてとなり、即座の満足が未来を完全に消し去ります。そして、ばかげたことを言います。死にそうだ、と。これが暴食のロギスモスです。すぐ食べなければ、死ぬも同然だ。明日の自分など、どうでもいい、と。
こうしてヤコブとエサウは、明日を賭けて今日をやり取りします。エサウは今日食べますが、明日を売りました。ヤコブは今日断食しますが、栄光を買いました。
栄光。二人が賭けたのは、それです。
貪る人が賭けて失うのも、これです。自分の偉大さ、善さ、明晰さ。自分の行く末です。たった一皿のレンズ豆のために。
貪りのロギスモスは、繰り返し快楽を絶対化し、人生をつまらないものにします。生きるために食べず、食べるために生きるのです。
傷口に触れるのが怖いほどですが、問わずにはいられません。つまらない満足のために、どれほどの偉大さ、どれほどの価値を、人は無駄にしてきたのでしょう。
埋め合わせばかり求めて生きる多くの人に、なんと大きな浪費を見ることでしょう。その人たちは、自分が善い者だと知りません。しかし、その善さに触れるためには、節度を持つ必要があります。ヤコブのように。
ぼんやりしたキリスト者、浅薄な司祭、気の散った父親、子どもじみた母親、そして隷属し、依存し、萎縮し、支えなしには立てず、目を曇らせた多くの若者が見られます。
平和な愚か者たちです。
かつては、好戦的な愚か者がいました。今は、弱く、楽をしすぎ、満たされすぎ、じっとしすぎている人の大軍がいます。私たち全員のことです。
「今、満腹しているあなたがたは、不幸である。
あなたがたは飢えるようになる[43]」。
一瞬のために生き、永遠を生きるすべを知らない世代です。
大きな仕方であれ、ごく小さな仕方であれ、快楽による麻痺を選ぶたびに、何か大切なものが忘れられ、低く見られ、当然のものとして片づけられます。
その麻痺は、いのちを与えるように見えながら、実際には、偉大さと明晰さ、つまり生きる知恵を損なうからです。
しかし、快楽のその瞬間、何が起きるのでしょうか。人は満足します。そして何より、一瞬、ほんの一瞬だけ、考えなくなります。存在しなくなります。絶頂感にのみ込まれます。消えてしまいます。すでに触れたとおり、実際には自分を消し、自分を殺し、快楽の中で自分を無にしています。薬物依存者と同じように。
根本では、身を引いているのです。何からでしょうか。
そのすべての下に潜む恐怖からです。苦痛です。
暴食のあらゆる罪の中に忍び込んでいる怪物は何でしょうか。何かの苦痛から逃げることです。しかし苦痛は、いのちと絡み合っています。ですから、苦痛の牙から逃れるには、自分を疎外し、現実から出ていかなければならなくなります。
敵の誘いのささやきと聖霊の霊感について、二人の若い女性にたとえて話しました。一人は美しくないのに化粧で飾り、もう一人は美しいのに控えめです。
これが、その二人です。自分を疎外する快楽か、それとも現実の苦痛か。しかし、自分を疎外する快楽は幼児への退行であり、現実の苦痛は、人が大人になり、成熟する場所です。
こうして、答えを保留していた問いが明らかになります。なぜ貪りに逆らうのか。なぜ暴食と戦うのか。さらに広く言えば、なぜロギスモイから距離を取る技法を学ぶのか。私たちの長子の権利、私たちの善さが懸かっているからです。それを失ったら、何のために生きるのでしょうか。
確かに、悪しき思いと戦わなければなりません! 私たちは悪しき者ではないからです。私たちは、つまらない存在ではないからです。
ロギスモスとアンティレシスの分かれ道に立つたび、いつもこれが問われます。堕落し、品位を失うのか。それとも、愛と知恵を選ぶのか。
私たちは、隷属し、ぼんやりさせられ、酔いしれるために生まれたのではありません。光のため、愛の喜びのために生まれたのです。
では、なぜ神に恵みを願い、暴食と戦い始めるのでしょうか。結局、貪る人には、最も大切なことができないからです。愛することができません。養われる必要があり、人を養うことができません。何をしても、埋め合わせを求めなければなりません。一見、善いことをしているときでさえです。心は鎧のように乾ききっています。そしてその飢えには底がありません。貪る人のそばでは、人は安らげないのです。
これが、暴食との戦いに入らなければならない理由です。では、貪りの反対とは何でしょうか。
自制
「節制は、腹にかける手綱、貪欲を打つ鞭、均衡を保つ秤、暴食の口輪、休止を断つこと、質素さへの決意、思いを飼いならす場、注意深いまなざし、欲情からの解放、体の規律、修徳の務めの見張り台、生活の営みを守る城壁である[44]」。
(エヴァグリオス・ポンティコス)
エヴァグリオスのような師父たちは、暴食の悪霊に勝つことを表すのに、エンクラテイアという言葉を使います。「強い、勝る、勝つ、治める」を意味する動詞クラテオーに、「内に」を意味する接頭辞エグ/エンがつき、治める領域が内側であることを示しています。つまり、自制、自分自身を治めること、自分を適度に保ち、抑え、自分で自分のあり方を決められることです。
貪る人に現れるのは、歯止めと統御の欠如です。暴食が働く固有の領域は、依存、すなわち自由を失うことだからです。
エンクラテイアを説明するとき、私はいつもこう切り出してきました。ブレーキのない車を買いますか。抽象的に考えれば、車は動くためのものです。一方、ブレーキは動きを否定します。したがって逆説的には、車にはブレーキなどなくてよいことになります。しかし実際に、速度を抑え、整え、落とすことのできない車に乗ってみてください……。活動を止める能力が必要なのです。そうでなければ、あらゆる活動は、制御を欠くために、行きすぎの限界まで進んでしまいます。
ただし、ギリシア語のエンクラテイアそのものが語るのは、否定する行為ではなく、自分を治め、導き、自分を自分の手に保つことです。
では、問いましょう。貪りに対抗できる統御の行為とは何でしょうか。暴食のこの広い世界を、どう治めればよいのでしょう。
犯人は執事です。答えは、断食です。
断食とは、どういう意味でしょうか。
ここは注意が必要です。貪りのロギスモスは陰険で、私たちに飛びかかり、再びハンドルを握ろうと、いつでも構えているからです。
断食を欲求不満を生む行為と考えれば、単に何かを壊すものと受け取ることになります。現在の快楽の仕組みに、いわば初期設定から麻痺させられた私たちの魂は、それを想像しただけでおびえるでしょう。「断食」と聞くだけで息を荒くしている読者の姿が、もう目に浮かびます。やっぱりそうか、結局は我慢して満たされない思いをするのか、と。もう少し先へ進むと、もっとはっきりします。いちばん大切なところまで行かなければなりません。
よく理解しておきましょう。どれほど奇妙に思えても、霊的生活に固有の自由の出発点で、断食は否定ではなく、肯定として置かれているのです。
砂漠での最初の誘惑で、サタンは、何でも、石でさえ食べるよう持ちかけ、そのときイエスが経験しておられる空腹を拒むように誘います。そのときイエスは、こうは答えられません。「いや、サタン、わたしは食べない。断食するのだ!」。
それでは、不毛で、先の見えない否定になってしまいます。役に立たない一種の完璧主義です。目的のない苦行です。
イエスは、まったく別のことを答えられます。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある[45]」。
どういうことでしょうか。イエスは、断食のための断食で空腹の問題を解決されるのではありません。霊的生活における断食は、食べ物の拒絶でなく、もっとよい食べ物へと向かうことなのです。
イエスが貪りのロギスモスを退けるアンティレシスは、おおよそこういうことです。「パンだけか。お前の差し出すものでは物足りない。もっとよいものがある!」。
もっと大きなものがあるのです。
ヨハネ4章には、イエスがサマリアの女性と語り合い、二人の話している井戸の水とは別の水で、その渇きを満たされる箇所があります。飲むために来た彼女は、喉の渇きを水で満たさないまま、水がめをそこに残して立ち去るほどです。もう必要がなくなり、メシアに出会ったようだと、喜んで皆に知らせに走ります。町の人々が、何があったのか見ようと井戸へ向かっている間に、弟子たちが買い求めに行った食べ物を持って戻ってきます……。
「その間に、弟子たちは、『先生、召し上がってください』と勧めた。しかし、イエスは言われた。『わたしには、あなたがたの知らない食べ物がある』。弟子たちは互いに、『誰かが食べ物を持って来たのだろうか』と言い合った。イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方のみ旨を行い、その業を成し遂げることである[46]』」。
イエスは誰からも食べ物を受け取っておられません。しかし、知られていない、違う、新しい食べ物を持っておられます。
パンだけではなく、御父のみ旨です。それは、成し遂げるべき大きな仕事なのです。
イエスは断食しておられるのではありません。もっとよいものを食べておられるのです。
私たちも、単なる否定で暴食との戦いに勝つことはできません。肯定が必要です。
快いものを捨てて、不快なものを選ぶ人はいません。しばらく試みることはできても、結局は正気を失うか、内面が分裂してしまいます。
エジプトの隷属のパンを後にするのは、荒れ野へ行き、そこにとどまるためではありません。カナンの地の乳と蜜へ向かうために、エジプトを出るのです。途中、荒れ野での断食を通ります。そこで、未知の食べ物を発見します。しかし、いずれにしても、否定へではなく、よりよいものへ、肯定へと歩んでいるのです。
貪る人が現実から逃げて奴隷になるのに対し、誘惑と戦う人は、どれほど苦くとも現実にとどまります。それが、誘惑が差し出すものより真実な何かへ入っていける道、唯一の本当の道だからです。
ですから、もっとよいもの、その先にあるものを食べることが問題なのです。まやかしの選択肢を差し控えることを通して、肯定へ進むのです。私たちの存在には食べ物が必要です。欲求不満を積み重ねるような生き方はできません。不可能です。私たちには無理なのです。それをやり遂げるには、あまりにも貧しいのです。それに、神の救いとはそういうものではありません。
どんな霊的な方法も、単に罪を否定するだけで、よいものへ導くことはできません。私たちは、キリスト教を、抽象的な価値のために何かを否定していく過程として提示してきました。そして人々は、立ち去る自由を感じた途端、逃げていったのです……。
確かに、罪を犯すのをやめなければなりません。しかし、何のためでしょうか。あらゆる依存や貪りを断ち切る必要があるのは明らかです。しかし、目的地が照らされず、向かって歩く光がないなら、その規律とは何なのでしょう。何の役に立つのでしょう。
私を悪から連れ出すことができるのは、善とその喜びです。「悪いことはしてはいけない」という事実ではありません!
たとえば、単なる食事制限でもそうです。見た目のためでなく、愛のために行ってほしいものですが……。始まりには、つらい時期があります。出だしは難しく、やりたくありません。何も食べられず、すべて禁止され、興味もなく、おいしくもないものだけになった気がします……。しかし、ほどなく別の満足が現れます。自分を大切にすることで得られる、心身のよさです。以前は食べ物で快楽を得ていました。今は、体が鈍さを脱し始め、血液から有害な居候が減ってくると、頭がよく働き、動きやすくなり、調子がよくなります……。この新しい味わいを経験し始めるのです。
食べ物はもはや麻薬ではなく、手当てとなります。新しい活動、別の考えが生まれ、物事の仕方も変わってきます。
それは、もっと明晰で、もっと現実に根ざしていることの味わいです。
これは、実にささやかな例です。存在の奥深くで起きることのほうが、はるかに重要です。
食事の規律が、美しさを求める自己陶酔から始まったなら、結果も見た目の快楽にすぎません。それでは何も解決せず、おそらく、さらに私たちを欺きます。しかし、差し控えることが心を大切にするためであれば、思いがけない平和がもたらされます。
さまざまなものの取得を律することを、現実を取り戻すこと、成長して自由になるための問い直しとして位置づければ、失ってきた機会や、行うべき善いことに、少しずつ目が開かれます。こうして、本当の成長が始まるのです。
イエスは申命記[47]を引用し、人は「主の口から出るすべてのもの」で生きると言われます。それは、神が私に語りかけておられ、私に伝えたいことを持っておられるという意味です。
暴食の誘惑と戦うとは、神との関係のための場所を作ることです。御父はようやく私の心に触れることができ、私は語りかけられていることを理解し始めます。さまざまな中毒でもう鈍っていないからです。体は節度を取り戻し、自分の心につながり始め、御父が語っておられる言葉を理解し始めるのです。
すると、典礼を深く生きるようになります。以前は退屈で死にそうだったのに。聖書を読めば、直接心に届きます。以前は理解できないと思っていたのに。新しい種類の喜びを味わいます。それでいて、現実から逃げたわけではありません。地に足がついています。私は私なのです。
周りの人々の姿も、よく見えるようになります。自分の飢えから離れると、周りの人の必要に気づけるのです。
まさに、ここが問題です。貪る人は愛にたどり着けません。しかし、貪りの悪霊と戦う人は、神との、他者との、そして自分自身との関係を取り戻します。
繰り返しましょう。愛することができるのです。以前は、依存にとらわれていました。
暴食との戦いの全体と、その重要さを、はっきり見ることのできる箇所があります。キリストが最大の試練に遭われる、十字架につけられる瞬間です。ゲツセマネから十字架上の死まで、イエスの心、知性、体に対する最も激しい攻撃が、次々と繰り広げられます。
マタイによる受難の中に、しばしば軽く扱われる場面があります。イエスに飲み物が差し出されるときです。
「ゴルゴタという所、すなわち『されこうべの場所』に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。しかし、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった[48]」。
実際に差し出されたのは、苦いものを混ぜた酸いぶどう酒です。写本によって成分が少し異なりますが、特殊な混合物です。何のためでしょうか。さらに苦しめるためではなく、死刑囚の意識を鈍らせるためのものでした。
十字架刑は残酷な苦しみです。真に拷問と呼ばれるものがすべてそうであるように、犠牲者は自分自身と戦わされます。苦悶は、木に釘づけられた痛みと、空気を必要とすることの間で起こりました。十字架刑の死刑囚は、息をするために、釘を打たれた手首に力をかけて体重を持ち上げ、その姿勢で圧迫されている肺を解放しなければなりませんでした。呼吸するたびに、自分で自分を苦しめたのです。
ただし、エルサレムの十字架刑は、二つの要望が受け入れられていたため、ローマのやり方と違っていました。一つは、裸を覆う腰布を用いることです。ローマ人には裸にすることが普通でも、ユダヤの民には受け入れられませんでした。もう一つは、死刑囚の意識を鈍らせる、この飲み物を差し出すことでした。
この有毒な混合物を飲むと、拷問される人の意識が鈍り、半ば意識を失った状態で、少なくとも明晰さを減じた状態で、苦しみの時間を過ごすことになります。
イエスは飲み物をなめ、何であるかを知って、退けられます。これは、とても重要です。
イエスには飲み物が必要でした。鞭打たれ、多くの血を失い、耐えがたい渇きがあったはずです。しかし、口にしようとしている飲み物がどういうものかを知り、控えられます。
これが断食、節制、戦いです。しかし、何に対する戦いなのでしょうか。なぜイエスは、この助けを退けられるのでしょう。
この飲み物は鎮静剤であり、痛みを和らげ、わずかでも楽になるためのものでした。
こう言っても、何らおかしくはありません。十字架につけられようとする哀れな不幸な人には、痛みから解放される権利がないのでしょうか。
イエスが退けられたのは何でしょうか。一言で言えば、麻薬です[49]。
この飲み物は、意識の麻痺、薬物依存、ぼんやりした状態の世界を象徴しています。貪りのあらゆる領域に見られる、自分を現実から切り離す快楽の効果を、すべて備えています。イエスの手の届くところに、これから受ける苦痛を感じずに済む物質があります。この哀れな方には、その権利がないのでしょうか。この痛みの治療によって助けられる権利は、ないのでしょうか。
イエスはなめ、何であるかを知り、退けられます。
なぜでしょうか。
イエスがあの飲み物を飲まれたなら、意識を失い、少なくとも明晰さを失っていたと考えられます。
そうすれば、このような言葉は語られなかったでしょう。
「父よ、彼らをおゆるしください。
自分が何をしているのか知らないのです[50]」。
「はっきり言っておく。
あなたは今日、わたしとともに楽園にいる[51]」。
「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」。
「ご覧なさい。あなたの母です[52]」。
「わが神、わが神、
なぜわたしをお見捨てになったのですか」[53]。
「渇く[54]」。
「成し遂げられた[55]」。
「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます[56]」。
これらの言葉のないキリストの死を、考えてみましょう。さらに言えば、これらの言葉を欠く福音全体を、考えてみてください。
ゆるしへの明白な命令がないキリストの死を、理解しようとしてみてください。私たちのあらゆる苦悩を表す、あの苦悩の叫びがなかったら。キリストが十字架で死んでも、優しい母を私たちに与えず、私たちを母に委ねなかったら。御父にご自身を委ねることのない受難だったら……。これらがなくてもよいのでしょうか。
拷問を受けて死んだ人は大勢います。この死をほかの死と違うものにするのは、十字架そのものではありません。その死を生きられた仕方が、闇を引き裂く光にするのです。その仕方を、私たちは主の言葉から理解できます。
イエスは、麻薬を飲むことができたのでしょうか。
いいえ。私たちの優しい主は、明晰さを失うわけにはいきませんでした。もっとよい飲むべきものがあったのです。御父から与えられた杯です。歴史上、最も大切なときであり、すべてが変わるときだったからです。飲むわけにはいきませんでした。飲もうとはされませんでした。あの言葉を語らなければならなかったのです。最も大きな贈り物を、私たちに与えなければならなかったのです。
苦痛は、実にしばしば、愛の頂点となります。成熟した仕方で誰かのためにいのちを与えること、つまり愛することには、明晰さが必要です。意識が鈍り、ぼんやりしているなら、自分の最も大きな業を果たすことは決してできません。
繰り返しましょう。欲求への隷属との戦いは、私たちの気高さ、偉大さ、一人ひとりがそのために選ばれた大きな業のための戦いなのです。
人間の本性が経験できる最大の喜びは、真実の愛です。そして真実の愛は、しばしば苦痛とかかわります。
逆説的です。そして、気高いのです。
第一部で示した簡単な助言、とりわけ基本となる、祈り始めるという助言は、最初のロギスモスの主題によって、今、裏づけられ始めています。節度があり、目覚め、深く、内面に向かう姿勢、そしてそこから導かれるすべてを備えなければ、祈り始めることはできません。そうでなければ、何かが上から覆いかぶさるだけで、何の役にも立ちません。
どうにも、ここは避けられません。祈れるようになるには、断食から始める必要があるのです……。
朝に祈りたいなら、睡眠を少し断食して、早く起きなければなりません。時間を「効率よく使う」方法を探しても無駄です。きちんと、つまり落ち着いて行うか、さもなければどうにもなりません。夕方に自分の人生の手綱を握りたいなら、テレビのくだらないものに時間を失うのをやめる必要があります。軽薄なやり取り、とりわけソーシャルメディアの催眠的な世界や、その他あらゆる散漫にする行為から、身を引かなければなりません。
神と語り始め、自分の内を見つめ始め、もっと真実に生き始めるためには、何かをしなければならないのではありません。沈黙し、一人になるための空間を作る必要があるのです。それには何かを否定すること、何らかの断食が伴います。
貪りが情念の始まりだとすれば、節制が霊的生活の第一歩であることも確かです。
何かを断ち切り、場所と明晰さを奪うものを断食し、口唇期の幼さを、そのあらゆる次元で、何らかの形で控えなければ、この本から、あるいはいかなるキリスト者の冒険からも、わずかな益さえ得られるとは思わないでください。
祈りの明晰さを妨げるものを差し控えることは、「戸を閉めて[57]」、御父と語れるようになるために、実行されなければなりません。その先で、御父は実に多くのいのちを与えてくださいます。途中で投げ出さなければ、自分のささやかな断念など、神の惜しみない豊かさを前にして、小さなことに見えるでしょう。
これは神ご自身の業だからです。私たちは、こうした素朴な行いと、貪りの思いとの戦いに入ることを通して、その業に自分を開くのです。
この点で、大切な区別を思い出すと役に立ちます。エヴァグリオス・ポンティコスは、ロギスモイを二種類に分けています。徳を実践する道の中にあるものと、その道の外へ連れ出すものです[58]。どういうことでしょうか。ある種の罪は、正しい方向、善、神に従う生活から人を遠ざけます。一方、別の思いは、善を内側からずらす働きをします。善いことの中にとどまっていても、それが内側からゆがめられるのです。これも、いずれ見ることになります。
暴食の思いは、どちらでしょうか。間違いなく、道の外へ連れ出すものです。第一の情念であり、すべての情念の母である暴食は、見てきたとおり、自分を現実から切り離す誘惑です。逃げ出し、現実の外へ出るように誘います。
すでに挙げた例に加え、最後に典型的な例を見ましょう。勉強しているとき、退屈や眠気と戦い、努力から逃げ、続けることから身を引きたくなる、重苦しい時間を迎える人です。そのとき、食料の蓄えを襲うことで眠気をかわす人がいます。無秩序に、休みなく。ある意味では悲劇的です。無力さ、重苦しさ、困難を振り払ってしまうからです。困難で、挑戦を要し、立ち向かい、先へ進むことを求めるものを前にすると、私たちは理不尽な暴食にとらわれます。勉強は気が進まないので、食べ物で埋め合わせようと冷蔵庫や食料棚を点検しに行くのです。すると、勉強という消化できない石は、慰めの食べ物や、さまざまな潜在的な過食に変わってしまいます。
何が懸かっているのでしょうか。
耐える力、続ける力です。
これは、道の外へ連れ出す悪霊です。物事を最後までやらない習慣をつけ、途中で途切れることに慣れさせます。
誰でも何か善いことはできます。難しいのは……やめないことです。
次の褒美を目指して息を止めながら善を行うことに慣れてしまうと、真剣なことは何一つできなくなります。
勉強、仕事、人との関係、そして何よりも隣人愛で、最も大切なのは、退屈するときだからです。すべてをやめたくなり、何もかも放り出したくなる瞬間です。未熟さへの税金が、関税を取り立てに来るときです。自分には埋め合わせを与える権利があると思う、そのときこそ、あらゆる形の暴食の悪霊の出番なのです。しかし、悪霊に逆らい、神を信頼するなら、質的な飛躍が起きるのも、そのときです。勉強すべきもの、果たすべき仕事、受け入れるべきその人を、神が私たちに与えてくださったのですから。
わずか一ミリです。
食べるのをやめましょう。満腹にしようとせず、少し待ちましょう。
もう少しだけ。
すると、勉強が始まり、仕事が軽くなり、目の前にいるのが誰なのかわかってきます。愛情と知恵が心に戻ってくるのです。
逃げないでください。その一瞬、差し控えましょう。
誰かがかつて私たちを愛してくれたのなら、その人は、私たちが見放されても当然だったとしても、その瞬間に放り出さなかったのです。
断食は、修徳に励む誰かや、犠牲を払える善い人が行う、功績となる業ではありません。そうではないのです。
断食は、愛するために必要なのです。
色欲の悪霊
「色欲は、貪りの考えを抱くこと、心を軟弱にするもの、熱情の炉、偶像の伴侶、実を結ばぬ行い、影のような姿、想像の交わり、夢の寝床、心の通わない関係、目へのお世辞、厚かましいまなざし、祈りの不名誉、心の恥、無知への案内である[59]」。
(エヴァグリオス・ポンティコス)
すでに見たように、貪りの悪霊は人を隷属させ、幼くしてしまいます。しかし、この状態は、その後、色欲の影響のもとで、さらに悪化することがあります。道の外へ連れ出すロギスモイと、道の中で働くロギスモイの区別に従えば、貪りの娘である色欲も、当然、道の外へ連れ出します。色欲の思いそのものの性質からして、これは今も昔も変わりません。
導入の部分で、色欲の母は暴食、父は傲慢だと述べました。悪しき思いを分けて説明しなければならないため、内面の動き全体の深い一体性が、いくらか失われるのは避けられません。それでも、ロギスモイを一つずつ見分けることには意味があります。
悪霊の名から始めましょう。これは、どうでもよい選択ではありません。イエスご自身も、悪霊を追い出す前に、時に、その名を明かすよう命じておられます[60]。
ロギスモスを名で呼ぶことは、根本的に重要です。
エヴァグリオスと東方の人々は、これをポルネイアと呼びます。ヘレニズム期には売春を意味し、古代にありえた、女性にも男性にもかかわるそのあらゆるあり方を含む語です。
性的な力は、いのちと結びついているため強力です。この力が、昔も今も、どれほど徹底して道具として利用されうるかを、知っておく必要があります。広告に性的な要素がふんだんに使われていることからもわかります。この世界で、経済の論理が権力を動かす第一のてこである以上、性欲を利益に結びつけるのは、ごくありふれた仕組みであり、同時に、人を欺く、邪悪な仕組みなのです。
砂漠の師父たちは、色欲の悪霊に立ち向かうとき、もっと根に迫ります。同じ言葉を使ってはいても、コリントの信徒への第一の手紙で、この問題を見事に提示したパウロの弟子たちなのです。
「淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にある。しかし、淫らなことをする者は、自分自身の体に対して罪を犯す。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたは自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい[61]」。
この聖書訳で「淫らな行い」と訳されるのが、ポルネイアです。明確に売春を指す言葉ですが、パウロの説明は、はるか高く飛翔し、視野を広げて、この罪を人間の気高さに照らして読み解きます。問題は、体とは何であり、その使命は何かを理解することなのです。
色欲の悪霊は、自然な性的衝動を利用して、体を汚します。
これが、体に対する罪です。しかし、体そのものの性的欲求に、ずいぶん合っているように見えるのですが……。
私たちは、自分の体そのものです。体に起こることは、私たち自身に起こります。もっと多くの紙幅を要する説明を、ここでは手短にまとめなければなりません。しかし、短くすることで、かえって助けになるかもしれません。キリスト教は霊的価値だけを中心に置き、物質的、肉的、身体的な次元とは無縁だ、という考えは、戯画にすぎません。
たとえば、第二バチカン公会議はこう述べています。
「体と魂の一体性において、人間は、その身体的なあり方そのものによって、物質世界を集約している。物質世界は、人間を通してその最高の頂点に達し、創造主への自由な賛美の声を上げる。
したがって、人間は身体のいのちを軽蔑してはならない。それどころか、自分の体を善いものと認め、神に造られ、終わりの日に復活するものとして尊ばなければならない。
しかし、罪によって傷ついた人間は、体の反抗を経験する。
それゆえ、人間自身の尊厳は、自分の体で神の栄光を現し、心のよこしまな傾きに自分を隷属させないよう求めている[62]」。
つまり、人間は、魂と体で一つのものです。人間的なことで霊の次元を持たないものはなく、身体の次元を持たないものもありません。したがって、あらゆる人間の行為には、霊的、内的、深い意味があります。しかし、人間の内的、霊的な次元も、身体に現れず、肉を用いることにかかわらないなら、表面的な話にとどまります。
聖ヨハネ・パウロ二世は、体の預言的な言葉について語りました[63]。すなわち、人間のあらゆる行為には意味があり、預言であって、何かを語るということです。
そして、あらゆる伝達は、真実なものにも、偽りのものにもなりえます。
人間の行為は、その身体的な面と背後の意図が調和していれば、真実なものになります。逆に、することと感じていることが無関係であったり、矛盾していたりすれば、偽りのものになります。
たとえば、広告のような笑顔を浮かべてあなたに挨拶しながら、内心では、できるだけ早く離れなければと考えています。お会いできてうれしいと言いながら、あなたのために時間を無駄にしたくないと願っています。
これが偽善です。「偽善者」に当たるヒュポクリテースとは、昔の俳優の呼び名でした。ギリシア悲劇の俳優は仮面をつけ、その本当の判断、クリネインは、仮面の大げさな外見の下、ヒュポに隠れていたのです。
仮面をつけていたので、考えていることは見えませんでした。
挨拶や笑顔という、ありふれた例でも、体が一つのことを言い、頭は別のことを言っています。
私のしている身ぶりには、本来、別の意図が伴うべきなのです。
つまり、体が表していることは、心も同じことを語っている場合に、真実になるのです。
性の領域を考えると、苦痛の深淵が開きます。私たち人間の存在の源である、繊細で、愛に満ちた、気高い性行為が、どれほど多くの偽り、操作、道具扱い、虐待、暴力、その他さまざまなものによって満たされていることでしょう。
神がまさにこの行為に絶頂感を置かれたのは、そこにいのちの起源があり、それが喜びだからです。
しかし、砂漠の修道者たちが売春と呼ぶものが入り込むと、どうなるでしょうか。
性の次元の美しさと尊厳は、ばらばらに引き裂かれます。たとえば実りを生む力など、ある部分は捨てられ、別の部分は、金銭、成功、自己主張、単に粗野な快楽などを得る取引に利用されます。
この場合、西方の伝統は、この悪徳の名を選ぶ際に、よく考えを巡らせました。
私たちはこれをルフリア、色欲と呼びます。興味深い言葉です。ルッソ、贅沢という語に由来し、その語源はルクスス、豪奢、過剰です。これはまた、脱臼や捻挫も意味します。この語群は、滑る、ずれるものという意味にさかのぼり、斜め、ゆがんだ、場違いという意味のギリシア語ロクソスに由来します。
ルホーソ(豪華な)とルフリアンテ(繁茂した)という二つの形容詞には、領域は違っても、過剰である、必要を超えている、とりわけ本質的ではない、という同じ意味があります。
繁茂した森とは、森として考えられる程度を超えて、植物が生い茂っているものです。
豪華な天井照明は、照明としての機能と必要を、はるかに超えるものです。
滑ること、脱臼という意味も、忘れてはなりません。外側へ滑っていくという考えは、贅沢という語がもたらす意味にとって、基本となるものです。
このルフリアという言葉は、性にかかわらない場合も含め、それが指しうるあらゆる領域で、表面を滑り、本質的でないものへ傾き、見える面を誇張し、本質や必要なものを見失うことを示しています[64]。
色欲にとらわれた人は、性の次元のある細部、見た目の美しさを拡大し、表面、皮膚の上を滑って、本質に向かいません。
その人にとって、人格を持つ人はおらず、体、皮膚、形だけがあり、真実の関係は一つもありません。
性は、もはや二人の人格の出会いでなく、性器の営みになります。触れ合いは人格を離れたもの、ただ触覚的な感覚だけになります。
色欲にとらわれた人は、通常、表面的な人です。深さがなく、皮膚だけの人なのです。
すべての悪徳には、絶対化することと、軽んじることが伴うと述べました。色欲は、数ミリの表皮を絶対化し、一人ひとりの内にある宝を、つまらないものにしてしまいます。
色欲にとらわれた人のまなざしは、人を傷つけます。貪り、獲物を狙うまなざしです。
私たちは、色欲を偶像として崇める世界にいます。ある意味で、今ほど人間、とりわけ女性を物扱いした時代は、かつてなかったと言えるでしょう。
今、女性の役割を語る言葉は、外見によって欲望の対象となり、何センチかで評価できる存在を描いています。男性にもありますが、より少なくなります。経済力は主に男性の手にあり、金を使うように促されるのは男性だからです。まるで馬か、品物か、形だけあって中身はさほど重要でない物のように扱われるのです。
脱臼という意味には、滑ること、より正確には、本来の位置から外れることが含まれるのに注目しましょう。色欲に陥ると、あなたがいるところに、私はいません。ずれたところにいて、あなたと出会う場を離れています。ここにいるのに、目指す相手を見失い、あなたに届きません。それでも私は、あなたの内にいるのです。しかし、親密にあなたに触れているまさにそのとき、私は脱臼し、別のところに置かれているのです。
あるとき、オレステ・ベンツィ神父が創設した「ヨハネ二十三世共同体」の活動によって、売春から救い出された若い女性の体験を聞きました。神がこの共同体を祝福してくださいますように。
彼女は、売春の事例の95パーセントがそうであるように、だまされてイタリアへ連れてこられ、脅しと虐待によって街頭に立たされた若い女性でした。一晩に十回以上の関係を強いられ、金はすべて売春斡旋人に渡ります。この世をうろつく、地獄の残骸のような者たちです。彼女は朝、食べるためにスーパーへ盗みに行くことが、しばしばあったそうです。
あるとき、何度もあったように虐待され、意識を失うまで殴られました。目を覚ますと、何一つ身に着けず、露に濡れた茂みの中にいました。彼女が話してくれた恐ろしい出来事の、ほんの一つです。
東ヨーロッパの村の、若く、素朴で、無垢な少女だったのです。とても美しい人でした。清く、誠実な心を持っていました。
何百人もの男が彼女を虐待し、隷属させ、彼女を使って取引し、快楽を得ていました。しかし、その誰も、本当の喜びである愛を生きてはいませんでした。愛は、絶頂感よりもはるかに深い満足を与えるのです。
ある日、ベンツィ神父に従う一人の人が、彼女を犯罪組織から救い出し、自由になり、人生を立て直せるよう、遠くへ連れていきました。
立ち直れない女性もいます。傷があまりに深く、消えてしまいたいとしか願えなくなるのです。汚れた体で自分に触れた、あの豚のような男たちによって、自分の人生が汚され、汚点をつけられてしまったと感じます。
私は、この隷属を四年間経験した内気な少女が、「何を望んでいますか」と尋ねられ、「死ぬこと、ただ死ぬことです」と答え、泣くのを聞きました。
正直に言って、これで、色欲がもたらすもののいくつかが、少しわかります。色欲に好意を抱く人には、考えてほしいことです……。
色欲を引き起こす思いは、どのように働くのでしょうか。
エヴァグリオスにとって暴食は「色欲の母[65]」だと述べました。
したがって、色欲には、思考を無力にし、取りついて離れなくする力がありますが、娘であり、結果であり、実であって、それ自身の内に起源があるのではないことを、常に覚えておく必要があります。
それでも、色欲には、はっきりした独自の特徴があります。
色欲は破壊的で、多くの若者の人生を壊し、結婚を壊し、人の全体性、内面の生活、その他多くのものを損ないます。
暴食から派生するので、同じ仕組みを持っています。自然な欲求を堕落させ、衝動を隷属へと変えるのです。
どうして、この欲求への隷属に至るのでしょうか。繰り返しましょう。現実の中にある欲求不満から、快楽によって逃げます。しかし欲求不満は現実の事柄なので、そのまま残り、減るどころか増していきます。すると、もっと大きな快楽を自分に与えなければなりません。こうして、堕落の仕組み、自分を壊していく動きが生じます。
つまり、色欲の乱れの背後には、別の問題、別の痛み、別の空虚さがあるのです。これで明らかなように、色欲が鎮痛剤の役をしている、その痛みまでさかのぼらず、ただ直接、正面から戦うだけなら、その場かぎりで色欲を裁くことにしかなりません。
ただし、この次元は、暴食と色欲に共通しています。では、暴食と比べて色欲に固有なのは何でしょうか。起源が二つあること、すなわち、傲慢からも生じることです。
常に覚えておかなければなりませんが、根源にあるのはフィラウティア、自我の悲劇的な欲求です。それが傲慢になります。それ自体はとても繊細な性の言葉が、自己主張への貪りに利用されます。自分の自我を強調したくて、たまらないのです。
それは、何をもたらすのでしょうか。
性は、性器の営みだけを特徴づけるものではありません。人間のあらゆる側面を特徴づけます。犯罪現場で髪の毛が一本見つかれば、男性のものか女性のものかを知ることができます。
私たちの身体的な次元全体は、染色体の上で、男性か女性かになっています。
自分の性をどう解釈するかは、自分についてのすべてを決定します。人間的なものに、性を持たない次元はありません。
したがって、自分を理解し、解釈することは、自分の性の見方を理解し、解釈することと重なります。
こうして性は、一つのフィルターになります。順調なときは、あらゆる善い、明るいものが、そこを通ります。しかし、濁ったもの、未解決のもの、暗黙のもの、苦しんできたもの、ゆがんだものも通ります。私たちが多かれ少なかれ内に抱える、執着しやすい傾向は、言うまでもありません。
個人の性の見方の土台が、どのように作られるのか、考えてみましょう。
読者の皆さんは、一人残らず、落ち着きのある両親か、知恵があり、よく学び、愛情深い人によって、性の次元を知るよう導かれたのだと思います。性器や性行為について、繊細で、建設的で、敬意ある見方を与えてもらったのでしょう……。
違いますか。
反対に、別の情報源から性を意識する衝撃を受けた、あの少数派(!)のために……いくらか話しておかなければなりません。
試合後のシャワー室や、学校のトイレでの話、ほらや誇張に満ちた体験談、破壊的な競争、目の前で誰かに向けられていたため恐れた嘲笑、あるいは自分が直接受けた嘲笑。こうした場で刻み込まれた、悪意のある、俗っぽい、粗野な男性像や女性像が、私たちの内に何を残したのか、理解する必要があります……。まだ続ける必要があるでしょうか。
今はネットいじめもあります。若者のうち、誰が、比較や、行きすぎや、これらすべてに重く覆いかぶさる鉛のような重苦しさから、逃れられるでしょうか。
私たちも幼いころ、一人前の男や女になれないことを恐れ、確かなものや目印を探していました。そうです。今の子どもたちも恐れ、私たちと同じことをしています。しかし、私たちの想像世界には、それでも現実的な枠がありました。少数のテレビ局が作る主流の流れによって、ある程度乱されてはいても、そこには相対的ながら管理があり、ポルノにも、今よりはるかに接しにくかったのです。
ところが、今のこの初心者たちは、周りを見回すと何に出会うでしょうか。どんなスマートフォンからでも、あらゆる種類の性的映像に接することができるのを考えてください。繰り返します。あらゆる種類です。最も暴力的で、非人間的なものにまで。
一つ、理解しておきましょう。インターネットで何かを探すと、瞬時に、グローバル化によって個人の輪郭を失わせる作用に出会います。たとえば、これを書いている今、「子どものインターネット利用の影響」と、そのまま検索してみました。グーグルは0.63秒で、約17万6000件の結果を出しました。
何が自分のためになるのか判断するには、多すぎます。まして、検索エンジンは経済的な原則に従って選ばれたサイトへ誘導し、情報伝達をひそかに操作しています。検索エンジンが商業的な選別をせずに結果を出していると、誰か思っているのでしょうか。ローマでは、こう言います。「マ・ケ・シェンニ・ダル・モンテ・デル・サポーネ?」。つまり、「いったい、どこかありえない、現実離れしたところから降りてきたのかい」ということです。
これが何にかかわるのでしょう。考えてみてください。たった一つの無害な検索でも、情報の海に散らされる作用が生じるのなら、巨大で攻撃的な提供物を通して性の映像を見る子どもや思春期の若者に、何が起こるでしょうか。
破壊的な、散漫さと混乱の感覚です。
思春期の子どもや若者たちに、性にかかわる自己認識の問題があるのは、確かです! どんな基準があるのでしょう。ポルノへの依存を作ることを目的とする、出回っている情報に汚染されないよう、誰が助けたのでしょう。誰が、健全で、繊細で、時宜にかなったメッセージを与えたのでしょうか。
しかも今、その教育の手段を握るようになるのは、まさに、欺きと偽りに満ちた情報環境の中で育った大人たちです。この子どもたちの世代に、どんな保証を与えられるのでしょう。自分自身にも、その保証はありません……。しかし、この息の詰まる話を、さらに深く進めましょう。読者は大人ですから、もっと具体的にできます。
いつか、ポルノ画像を見せる対面の授業をしてもよいかもしれません。ちなみに、それらはインターネットの75〜80パーセントを占めています。その画像を冷静に分析し、それを楽しむ人に、どのような想像世界が刻み込まれるのかを理解するためです。
私たちは、必然的に暴力の産物を目の当たりにするでしょう。身体的な暴力も頻繁にありますが、それが直接ないとしても、むしろ心理的な暴力があるのです。その打撲痕は、吸収されて消えることがありません……。たとえば女性が、服従させ、押しつぶし、犯すべき物として扱われるところに、それがあります。そこで語られる言葉は支配です。これ以上は踏み込みません。
なぜこうなるのでしょうか。すでに述べたように、色欲は性の世界に、傲慢の自己主張の衝動を持ち込むからです。性の文法は、暴力と優越の言葉になるのです。
想像世界を占めるのは、相手を道具とすることです。性への期待の内には、表向きの愛の動機の裏に、勝利と支配を求める動物的な欲求が、暗号のように組み込まれています。
男性による服従の強要へ向かう流れも、女性が誘惑によって操ろうとする傾向も、その形、とりわけ重大さは異なりますが、目標は同じです。権力です。
これが、性の中に入り込んだ傲慢のウイルスです。そして暴食の貪る作用によって、性的な成果を求めるその渇きへの依存となります。
ここで、色欲のロギスモスがどこから生まれるのか、わかり始めます。所有と自己主張のイメージからです。
権力が性の背後を支配する言葉になると、口に出せない夢は支配となり、潜む欲望は所有となります。最もロマンチックな夢想でさえ、自己中心的な想像が心を貫いていきます。
ここでは、ほかのどこにもまして、表象、エヴァグリオスがノエーマタと呼ぶものが働きます。
この章の初めに、色欲について一連の定義を示す、彼の見事な文章を読みました。
もう一度、見てみましょう。
「色欲は、貪りの考えを抱くこと、心を軟弱にするもの、熱情の炉、偶像の伴侶、実を結ばぬ行い、影のような姿、想像の交わり、夢の寝床、心の通わない関係、目へのお世辞、厚かましいまなざし、祈りの不名誉、心の恥、無知への案内である[66]」。
色欲は、貪る考えから始まります。その先でエヴァグリオスは、「夢の寝床」について語ります。現実に取って代わる、夢の次元です。それより前にも、「影のような姿」「想像の交わり」と言っています。イメージ、イメージ、イメージ。現実のものは何もありません! しかし、その後、現実のほうが空想に屈服させられなければならなくなります。
「心の通わない関係」という定義は、とりわけ意味深いものです。これは、紀元4世紀末の話なのです!
「軟弱さ、実を結ばないこと、恥、無知」については、言うまでもありません。いくつか挙げただけでも、こうなのです。
しかし、この恐怖のトンネルの中で、色欲がいつも使う手段も、まだ見なければなりません。
一つは好奇心です。もう一つは空想です。
どちらも、それ自体は善いものです。しかし、色欲による横滑りが、それらを堕落した領域へあふれさせます。
すでに見たように、色欲の思いは表面的です。外側を転がり、物事の核心に至りません。心の中心、愛へ向かう私たちの姿勢の核の外にとどまり、無分別で、子どもじみた態度にまで至ります。
では、この思いは何によって養われるのでしょうか。
繰り返しましょう。空想と好奇心です。
ただし、空想はすでに第二段階です。心や頭に入り込んだイメージを強調することにふけり、それから細部を作り込み始め、現実から離れていく段階です。
色欲は表面的なので、人との関係を欠いた、非現実的な世界を作ります。しかし、関係を仮のものとして思い描き、夢見ます。実現でき、追い求められるイメージの世界です。
とりわけ色欲につけ込まれやすい人は、自分の頭の中の色情的なイメージに、いたずらにふけらないよう、十分注意しなければなりません。それを断ち始める必要があります。しかし、すでに述べたとおり、これは第二の段階です。最初の点は好奇心です。
好奇心とは何でしょうか。それは、新たな領域を発見しようとする、自然で善い衝動です。しかしこの場合は、フィラウティアの潜んだ飢えによって、所有し、奪い取る動きに変わります。成長するため、知るためではなく、手に入れるために発見しようとします。そして手の届かないものは、ひそかに執着を帯びた欲望となります。
これらすべては、その後の展開の中で、所有を求める想像へと堕落します。たとえば誘惑の技術は、この好奇心をあおる技術になります。ですから、たとえば、単純な画像や、下心なくただ見せられた現実は、むしろ興味を引きません。それより、露わではなく、すぐには手に入らないけれど、征服し、捕らえるべきものに見えるイメージのほうが、興味を引くのです。
わかりやすい例です。朝、浜辺で見た若い女性より、同じ若い女性が夕方、短いスカートと薄い服で現れたときのほうが、誘惑的に感じられます。しかし、露出している皮膚は、ずっと少ないのです……。
この好奇心は、他者を、手に入れるべき物と見ています。それに代わるのは、対話し、知り合うことで、相手とかかわることです。
好奇心に対して、相手を知ることを置かなければなりません。
「あなた」という一人の人を知ることです。その人から一片を切り取り、一部を取り、自分のものとして奪うことではありません。
ここでは、男性と女性で言葉のあり方が異なります。男性は対象をとらえようとする傾向があり、女性は注意をとらえようとします。男性は外側へ、女性は内側へ傾きます。いずれにしても、誘惑し、征服することが目指されます。
男性は、奪うこと、暴力、虐待へ傾きます。女性には、まなざしと心をとらえ、自分を欲する人の首を刎ね、自分の支配下に置こうとする誘惑があります。
これらすべての根は生物学的です。征服や誘惑にも、それ自体、健全な生き方があります。しかしフィラウティアは、まったく常軌を逸した道へ進めと命じます。
ですから、好奇心に対して相手を知ることで戦い、知りたがり、つかみ取ろうとする思いに空想で居座らず、空想から現実へ移るよう、注意しなければなりません。
色欲とは、現実、対話、関係、語り合い、相手を知ることによって戦います。いのちの中へ、具体的な事実の中へ入ることによってです。
それがどういうことか、見ていきましょう。
心の清さ
「貞潔は真理を身に着ける習慣、放縦を断つ斧、目の手綱を取るもの、知性を監督するもの、思いを断ち切り、腐敗を取り除くものです。それは自然に逆らい、情欲の熱に抗い、行いを取り持ち、節制に協力し、心を照らす灯、祈りへと向かう決意です[67]」
(エヴァグリオス・ポンティコス)
体は、決してただの体ではありません。そこには必ず、一人の人間がいて、その人の歩んできた歴史があり、感受性があり、待ち望むものがあります。癒やされるべき傷と、受け取るべき慰めを携えています。誰もが、癒やされ、理解され、耳を傾けてもらい、愛される必要があります。そして誰のうちにも、思いがけない宝、大切にされるべき豊かな美しさ、人に分け与えられる多くの光が隠れています。
体を人格から切り離し、その意味を裏切れば、体は曖昧なものとなり、その価値が分からなくなります。それが色欲です。体を食べられる一口の獲物、消費される品物にしてしまいます。しかもそれは、しばしばひそかに、あるいは想像の中で行われ、いずれにしても人を欺きます。
色欲のうちに愛はありません。
愛するには、自分の外へ出て、相手の喜び、穏やかさ、善へと心を開かなければなりません。けれども色欲にはそれができません。そんな余裕はないのです。鎖につながれた犬のように、自分の衝動を満たすことに縛られているからです。
人は、できるかぎり多くの性的関係を持てば充実して生きられるのではありません。本当の満足、本当の喜びを味わうとき、つまり真に愛するときに、充実して生きるのです。私たちの心が十全な幸せを知るのは、人に善をもたらすときだけです。ここで言うのは、長く続く善であり、その場かぎりでも、表面的でも、幼稚でもない善です。数多くの体を手に入れても、たった一人の心に忠実でいられなかった人は、本当の喜びを何も知りません。
欲求不満なのは、性行為をしない人ではなく、愛さない人です。性行動が際限なく、度を越し、強迫的でありながら、誰一人愛したことのない人もいます。最後まで愛するとはどういうことか、見当さえつかない人もいます。また、色欲に浸りきり、朝から晩まで性のことを考え、満たしてもなお満たされない色欲の満足で、いつも頭がいっぱいの人もいます。
愛に導かれたことのない人には、人に幸せをもたらそうとし、相手のことを気にかけ、穏やかさと平和を守りながら、大人として自覚的に一生を過ごすとはどういうことか分かりません。ここに立って初めて、性の持つ光が分かり、その本来の姿が見えてきます。性とは、私たちの内なる美しさへの召命であり、揺るがず、成熟し、粘り強く、一時的に消え去らない愛への招きなのです。
色欲に対抗し、成熟した愛を可能にする姿勢を、私たちは「貞潔」という言葉で表しています。
貞潔とは何でしょうか。すでに第二バチカン公会議の文書で見たように、キリスト教信仰を、体と魂を対立させる二元論的なプラトン主義のようなものと混同してはいけません。ですから貞潔は、性を否定することとは何の関係もなく、それ自体、性行為を慎むことを意味するのでもありません。
たとえば、夫婦の貞潔があります[68]。それはどのようなものでしょうか。
言葉の語源を見ると、少し分かりやすくなります。
イタリア語のこの言葉は、統治という行為に固有の権限である、懲らしめる、罰するという意味の言葉に由来します。
実際、「貞潔な」を意味するカストという言葉は、カスという語根にさかのぼるとされます。そこには、秩序を保つ、規律を整える、諭す、教え込む、とがめる、さらには罰するという意味があります。
つまり、広い意味での統治という問題です。
魂と心が貞潔であるとは、それらが正しく治められ、自分自身の主人となっているということです。より高い原理に従い、自分と他者の真の善のために、自分の衝動を扱い、その扉を開くべきときには開き、閉じるべきときには閉じられるのです。
性においても、ほかのあらゆる欲求においても、自分を引きつけるものすべてに従わなければならないなら、人は内にあるあらゆる力に翻弄され、破滅へと向かいます。どのような関係であれ、持続する関係を築くことはできません。自分の手綱を取れず、自らの尊厳を大切にできなければ、他者を尊重することもできないでしょう。
私たちは、穏やかに喜びをもって、善く生きるよう招かれています。しかし健やかに生きるためには、自分の尊厳を守り、自らの欲望の力、自らのリビドーに対して、賢く限界を設けなければなりません。
人生には限界が必要です。限界との関わりは、自分自身との関わりにおける根本的な問題です。限界の問題とは、自分が何者かを明らかにする問題です。何か善いことをしたければ、限界は必要なのです。
私たちが陥っている、思春期さながらの生き方の混乱は、内にも外にも座標軸がなく、よりどころがないことから来ています。それを生んだのは、教育に携わる大人たちの消極性です。彼ら自身が道を見失い、持っていたものをすべて抱えたまま、自分のことだけにかまける誘惑に落ちました。自分の姿に呑み込まれ、自我に囚われたナルキッソスたちです。自分に託された人たちのために担うはずだった役割を、彼らは捨てて逃げ出しました。
父親であることを放棄するのを自分に許し、子どもたちのよりどころとなるべきときにも、陽気な若者のように振る舞い続けた父親たちがいます。また、自分の領域に境界を設けず、それを広げ続け、周囲のあらゆる役割を消し去り、子どもの生活のあらゆる領域に入り込んだ母親たちがいます。
もちろん、これは類型化した例です。しかし今のように、貪欲で色欲に支配された親、つまり限界を知らない子どものような親のもとで一つの世代が育てば、混乱し、輪郭を失い、自分が何者か分からなくなるほかありません。そのため、多くの人が自分という人間を解釈することに取り組んでいます。自分が誰なのか、何を望んでいるのか、何が好きなのか分からず、好奇心と試行のあいだを揺れ動きます。そして、さまざまな衝動の世界、一般的な欲求から性的な欲求に至るまでの世界で、知らず知らずのうちに自己破壊へと扉を開き、霧の中にいるような、定まらない人間になっていくのです。
ですから私たちは、欲求は枠の中に収められてはならず、性には限界があってはならないという、二十世紀末のこの欺きから自由にならなければなりません。世間で行われていることを自分も行うべきだとされ、そうして境界を失った私たちは、もはや自分が何者なのか分からなくなりました。色欲、つまり性衝動の舵を握った貪りは、自分の輪郭を失わせ、見つからないものを当てもなく探し続けさせる原理になります。色欲の中で求める快楽は、どれだけあっても足りません。答えが適切でないのではなく、そもそも問いそのものが間違っているからです。
もう一度、はっきりさせましょう。秩序を失った色欲の力に勝つのは、善意や決意だけによってではなく、恵みによってです。ここまでの話が、中途半端なストア主義や、高尚な抽象論に触発された意志主義のようなものにとどまるなら、自分をごまかしてはいけません。それもまた、繰り返されてきた偽善の一つにすぎません。私たちの内でフィラウティアの王笏を打ち砕いた方、そして打ち砕くことのできる方は、キリスト、それも十字架につけられたキリストであることを思い出しましょう。ロギスモイの包囲を自力で破れたなら、キリストが私たちのもとに来られ、死んで復活される必要はなかったはずです。また、私たちの努力だけで十分だったなら、私たちは皆、まったく違う状態にあるはずです。
暴食についての章で、霊的な戦いの出発点が断食だと分かりました。次の一歩も同じ方向へ進むことになります。そこで、まさに貞潔について話さなければなりません。
暴食と向き合う中で、キリスト者の断食とは、食べないことではなく、よりよく食べることだと見ました。ここにも同じ論理があります。実際、性衝動を抑圧しようとするのは不合理であり、危険です。むしろ課題は、成熟し、大人として性を人格のうちに統合することです[69]。無秩序や幼児性の深淵へと誘う声から、性を切り離すのです。それは性の否定ではなく、誰にとっても必要な均衡です。
自分の性を高慢と暴食に従わせている男性と結婚してみれば、どんなに「楽しい」か分かるでしょう。もっとも、本人さえ楽しくはありません。いつまでも不満を抱え続けるからです。
けれども話をきちんとまとめるために、司祭の独身制を考えてみましょう。それは性的な自己同一性を消し去ることではありません。そう受け止めて生きる人はつまずき、言い表せないほどの混乱を起こします。そうではなく、呼びかける神の力によって、性の自己同一性の深く気高い次元に、特有の仕方で近づくカリスマです。性を否定するのではなく、父としての責任ある愛の論理の中で、性を肯定するのです。
ついでに言えば、これに招くのが神でなければ、どのような規律を守っても、心の底から喜びと充足に満ちた寛大さをもって、父となり、夫となることはできません。それは贈り物であって、技巧的に組み立てるものではないからです。
この贈り物は、受け入れ、大切に育てる必要があります。それは性の招きを取り消さず、むしろ建設的に読み解き、無へと誘う濁った声から解き放ちます。
これは恵みによって、ただ恵みによって生きられるのです。
どのようにしてか、見てみましょう。
男性と女性に与えられた招きは、配偶者となることです。
ほかの招きはありません。
私はローマ教区の召命担当ですが、逆説的なことに、神学校の志願者がまず私に示すべきなのは、司祭職に召されているということではありません。それは後の話です。まず知らなければならないのは、彼が結婚に召されてはいないかということです。結婚から逃げるために私の前にいるのなら、あるいは結婚が未解決の問題であったり、まだ一度も向き合っていなかったりするなら、残念ですが話はそこで終わりです。いるべき場所にいない人の例は、世の中にも教会にも、すでに十分すぎるほどあります。
結婚について自分の考えをはっきりさせてから、戻って来てもらいます。その後で、自分をささげる配偶者としてのあり方と父性をあらかじめ示す、神の働きのしるしが彼のうちにあるかを見ます。しかし結婚するだけなら、誰でも結婚します。問題は、どのように結婚するかです。
すでに述べたとおり、貞潔は規律だけでは成り立ちません。容易に抑圧へと転じるからです。
では、自分の性の次元を愛をもって治める、その明るい源はどこにあるのでしょうか。
エヴァグリオスに戻り、この章の題名の理由を説明しましょう。
私たちが、その語源も踏まえて「貞潔」と訳している言葉は、ギリシア語では別の言葉です。
それはソフロシュネーです。清く健やかな思考、分別、正気、思慮、知性を意味し、実際の結果として、第二に節制、穏健、慎み、節度を意味します。ここが肝心です。色欲から解放するものは、思考から始まり、その後に自由となります。そしてそれは意志だけの次元ではなく、恵みの次元に属します。
実際、見かけとは違い、色欲も性器からではなく、頭から始まります。多くの人がここを取り違えます。
色欲の思いや行為への隷属から解放するのは、霊の深みに与えられる恵みです。それは、美しさと命を直観することです。
私たちのうちに潜む命の光のほかに、罪から解放される道を私は知りません。キリストは、その命のもとへ来て、目覚めさせてくださいます。ザアカイに呼びかけ、本当の自分を見いださせたときのようにです[70]。
本書の冒頭で述べたように、これこそ戦うための明るい動機です。規律はその後に来ます。
エヴァグリオスや砂漠の修道士たちが用いた言葉は、ソ・フロ・シュネーという三つの部分から成る、組み立てられた言葉です。
第一の部分ソは、救いや健やかさを意味するソスという語幹に由来します。ここから、救い主、あがない主を意味するソーテールや、救うという動詞ソーゾーが生まれました。第二の部分は、「私は考える、私は賢い、思慮深い」を意味する動詞フロネオーの語幹フロンから来ており、その語根は思考、精神を意味するフレーンです。「統合失調症」に当たる語スキゾフレニックを思い浮かべてください。精神の統一を失った状態を指し、文字どおりには「分かれた精神」です。第三のシュネーは一般的な名詞接尾辞で、動詞的な表現、ここでは前の二つを一つにしたものを、一つの性質を表す言葉に変えます。
ですから、救いへと導くものに従って考える性質のことを言っているのです。人を解放する思いです。ソーテール、すなわち救い主と関わる思いです。
この言葉を説明するために、こうした問題の宝庫である放蕩息子の物語に、もう一度戻らせてください。私たちにとって大切な小さな言葉があります。
「弟の方は、すべてをまとめて遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ち崩して財産を無駄遣いしてしまった[71]」。
ギリシア語で、最後の「放蕩して」に当たるのはアソートースです。否定を表すアルファと、先ほどと同じ「救う」という動詞ソーゾーに由来する形容詞ソートスから作られ、末尾をオメガにすると、「希望もなく」「放蕩して」という副詞になります。
あの息子は、解決もなく、救いもなく、希望もなく生きていました。典型的なロギスモスです。出口のない堂々巡りの思いであり、救いがあるとは信じず、自分のところに戻って来るばかりで、進む方向がありません。袋小路なのです。
悪とは、希望を失った思い、開かれたところのない、孤独な思いです。いつも同じ問題の周りを回り、循環し、反復します。創造的ではなく、強迫的です。
善とは、囲いを破り、救いに向かって開かれる思いです。同じことの繰り返しに甘んじず、希望を持ち、救っていただくための理由を備えています。物事の究極の目的に開かれ、進むべき方向を見つめることで、この瞬間を相対化し、絶対的なものとしない思いです。
色欲が強迫観念であるのに対し、ソフロシュネー、すなわち「救う思い」は、善に向かってまっすぐ進む光です。そこから抜け出す道であり、自分と隣人についての、明るい思いです。
それは、自分の尊厳に触れることです。美しく清らかなものを思い出すことです。これまできちんと行えたことを思い返すことです。それらは決して軽んじられるものではなく、希望の力になります。私たちは、いつも灰色で、形もなく、悪かったわけではありません。誰もが、例外なく誰もが、ある日、内に火がともり、自分の光を輝かせたことがあるのです。
色欲に打ち勝つ聖霊の思いとは、自分が何者かを知る恵みです。つまり、とても大切なものです。
その思いは、こう語ります。神の御子は私たちのために死に、私たちのために復活されました。私たちには、なすべき美しいことがあります。こんなごみのようなものに、時間を無駄にしてはいられません。
それは頭の中を走る電撃です。子どもたちを裏切っている男性を目覚めさせ、その目を開かせ、自分を泥まみれにしている汚らわしいものを振り払わせるのです。
「あなたには、ほかになすべきことがある。これは本当のあなたではない」と、その思いは語ります。放蕩息子が、ほかの場所を、しもべたちにさえ十分に食べさせる気前のよい父を思い出したようにです……。しかも彼は、その父の息子なのです。
救う思いは、「なんて汚らわしい。恥ずかしくないのか」とは言いません。「あなたはこんなところで何をしているのか。自分が誰かを忘れてしまったのだ」と言います。それは救う思いです。正しても、落胆はさせない聖霊です。
希望は、いつもあります。
いつでもです。
悪徳や依存、堕落に最も深く囚われている読者に、私は言います。希望はいつもあります。神は力ある方であり、あなたの父だからです。神はあなたを見捨てません。
神が心にかけておられるのは、あなたの罪ではなく、あなた自身です。あなたがどこへ行こうと、どのような罪を犯そうと、神の子でなくなることは決してできないからです。ですから、いつも道があります。神は、どんな悪徳からでもあなたを救い出すことができます。
神は、私たちすべてを墓から救い出すために、御子イエスを墓から引き上げられたのです。
闇から抜け出し、自分を最も厄介な例だとは思っていない男女が、どれほど多いか、知っていただきたいものです。
確かに私たちは悪い習慣を身につけ、それは内にこびりつきます。それでも脳のシナプスには、いつでも新しく受け取り、初めから学ぶ力があります。進む方向を変えることはできます。よい習慣をいつでも見いだし、あるいは取り戻すことができるのです。
深刻な性依存に支配された人が回復のための共同体を訪れるとき、自由になる試みを実らせるうえで何より必要なのは、それだけの価値があると、自分はかけがえがなく、失われてよい人間ではないと直観することです。その思いが、彼を自由へと導きます。
ここで初めて、その思いに結びついた規律が登場します。東方の博士たちが星を追い、地面ではなく天を道しるべとして歩いたように、その思いについていかなければなりません。解き放たれることも、断念することも、しっかりつかむべきものも、手放すべきものも現れるでしょう。それでも、この星が目的地へと導いてくれます。
善い戦いを戦わなければなりません。そして、この戦いが善いと気づいているなら、弱さが最後の言葉を語ることは決してありません。戦う価値があるのです。
本当に、それだけの価値があります。
暴食と色欲という二つについての説明を終えるにあたり、『アンティレティコス』に飛んでみましょう[72]。本当は幾つもの反駁をまとめて読むべきでしょうが……紙幅が足りません。
その内容を思い出しておきます。エヴァグリオス・ポンティコスの名を歴史に残したのは、恐らく何よりも、この論書です。そこで彼は八つのロギスモイを取り上げ、悪魔がそれぞれについて押しつけるさまざまな誘いのささやきを示し、聖書の節を用いて順々に反駁します。
すべての反駁のうち、最初は次のものです。
「断食の労苦を負わずに霊の畑を耕そうとする思いに対して。
『イサカルは割り当てられた地のあいだに伏して、善を望んだ。休息が心地よく、土地が肥えているのを見て、肩を入れて労働を担い、畑を耕す者となった』(創世記49・14―15[73])」。
問いと答えに、どのような関係があるのでしょうか。これは反駁の典型的な例です。ロギスモスは、断食の苦労をなおざりにして霊の畑を耕すようそそのかします。つまり、主たる武器である、苦労を伴う断食という武器を使わずに、霊的な戦いに入ろうというのです……。
先ほど、労を取る価値があると言いました……。ここで言う労は、これです。私たちは、本当に負担となることは何もせず、断食の労も取らずに、霊的な戦いに入れると思い込むことがあります。
そこで、エヴァグリオス・ポンティコスはどうするでしょうか。創世記49章を引用し、ヤコブの息子の一人、イサカルの話をします。イサカルは善いものを求め、肥えた土地を望みます。だからこそ肩を入れて仕事を担い、耕す者になるのです。これは何を意味するのでしょうか。エヴァグリオスは、実に見事にこう言っています。「何か善いものが見えたなら、そのためには働かなければならないと心得なさい」。
何らかの断食を土台とせずに、霊的生活で成長できると考えるのは、正気の沙汰ではありません。霊的な成長に入るために、骨の折れることに取り組む必要はないという考えです。愚かなことです。
例を挙げれば、もっとよく分かるでしょう。どんな芸術家も、芸術家である前に、職人でなければなりません。
今、私たちは似非芸術家に囲まれる危険にさらされています。でたらめに画布を塗りたくり、衝動を好きに発散させたからといって、自分を芸術家だと思い込む人たちです……。勘弁してください……。
本物の芸術家は誰でも、自分が扱う素材を知っています。音楽そのものと、その内側の構造を理解せずに作曲することはできません。石がどのようにできているかを理解せず、石を扱う技術を長いあいだ練習せずに、石を彫ることはできません。ほかも同じです。
画家、彫刻家、音楽家には、ほかの道はありません。美を生み出し、善を行うには、働かなければなりません。身をかがめて地道な労働に励むことなしに、美も善も生まれません。
毎日の小さな、へりくだった従順という地道な仕事に、身をかがめて取り組むことなしに、情念を治められるようにはなりません。それは絶対に必要です。
こういうことは、世の人もよく知っています。お金を稼いだり成功したりするために必要な、いわゆる修業です。そのためなら、とてつもない犠牲もいとわない人がいます。
霊的生活でも、必ず身をかがめて働く過程を通らなければなりません。
住むところが心地よく、土地が肥えているのを見て、つらい仕事に背をかがめ、耕す者となり、美しい土地の主人となったイサカルの例は、鋭いものです。
色欲との戦いの具体的なところに進まなければなりませんが、償いという主題が繰り返し流れていなければ、霊的生活は生きられません。恐らく人気のない話題でしょう。それでも、耳に心地よい偽りより、耳に痛い真実の方がよいのです。避けることはできません。本物の戦いに入らなければなりません。
ですから色欲も、暴食と同じく、潤いを断ち、簡素に暮らすことによって戦います。機会から身を離し、色欲へ導くものから自由になるのです。
エヴァグリオスは一つの例を挙げます。
「水辺にある草は生い茂ります……」[74]。
つまり、罪の泉の周りをうろついていれば、遅かれ早かれ、その泉から飲むことになります。色欲の源から離れない人は、色欲に陥ります。清くない思いと戦うための、昔からの第一の規則は、その思いの発生源から離れることです。
性を人格全体の働きに統合するには、歪みから距離を保ち、衝動を退廃へさらさずに扱うことが必要です。
誘惑の領域から出ないまま、誘惑と戦えると思えるでしょうか。すでに述べたように、現実を通ってそこから出なければなりません。現実にたっぷり身を浸すことで、好奇心と空想の源から離れるのです。
私たちには、ほかになすべきことがあるのです!
貪欲の悪霊
「貪欲は、偶像の利益、俗衆の預言、清貧の誓願、蓄積の計算、囚人の富、不正の一形態、不幸に満ちた豊かさ、長寿の予告、行動への誘い、徹夜の助言者、空腹、粗末な食事、飽くことのない狂気、落ち着きのない悪意です[75]」
(エヴァグリオス・ポンティコス)
すでに述べたように、自分のもろさを受け入れず、神に信頼して限界の問題を解決しなければ、人は深淵の縁で生きることになり、自分の安全を確保しなければなりません。
まずは、肉体の情念である暴食と色欲によって、それを試みます。自分は生きていると主張し、肉体的な快楽や性の絶対化によって、自分への埋め合わせをしようとするのです。
これは自己破壊的であるだけでなく、無益でもあります。得られるものはその場かぎりで、すぐに消え、一つの絶頂が終わるやいなや、次の絶頂を探さなければならないからです。
こうして、何らかの形で別種の情念、物質に関わる情念へと移っていきます。物を所有する方が、長持ちするように見えるからです。実際、所有は肉体の情念のように激しい快楽を与えませんが、自我を物の中にまで広げます。それによって重心の低い、物質的な次元で安心が得られ、見かけのうえでは、より安定しているのです。
暴食が情念の始まりであるなら、エヴァグリオスは聖パウロを引用して、こう言います。
「貪欲はすべての悪の根です(一テモテ6・10)。そして、悪しき茂みのように、ほかの情念を養います[76]」。
情念は暴食から生まれますが、貪欲によって養われます。すでに見たとおり、どちらも根本的なロギスモイなのです。
ここで貪りは、快楽から所有へと移り、強い所有欲になります。
実に多くの人が、自分は貪欲から自由だと思っています。しかし導入部分で指摘したように、そのような自己分析の方向は間違っています。もっとも、自分の弱さを見るのが怖く、自分は正しい人間だと思うときにしか安眠できないのであれば、別の本に替えた方がよいかもしれません……。
貪欲に関しては、言い逃れの余地はあまりありません。子どもが最初にはっきり、きちんと発音する言葉は「ママ」ではなく……「ぼくの!」です。しかも、あの口ぶりときたら……。
貪欲とは何で、どのように働くのでしょうか。どんな特徴があるのでしょうか。
典型的な症状を一つ見ましょう。私たちの貪欲は、実にしばしば、優柔不断という形で現れます。どういうことでしょうか。
千年以上、時代を飛び越えてみましょう。聖フィリッポ・ネリは、ローマで何千人もの人と行った伝統的な巡礼「七つの教会巡り」の祈りを作る際、ローマのそれぞれの大聖堂を、聖霊の七つの賜物と結びつけました。そして各賜物に、対応する徳と、それに敵対する悪徳を組み合わせました。どの祈りも、受難のさなか、エルサレムのあちこちで打ちたたかれたイエスの、苦しみの道のりの一部分を思い起こすことから始まります。続いて、イエスが七度流された血の一つに焦点を合わせます。十六世紀特有の霊性の息吹を感じます。その後、願い求める徳を名指しし、戦うべき悪徳に触れ、最後に最も大切なこと、受け取るべき聖霊の賜物で結びます。
次は、城壁外の聖セバスティアノ大聖堂を出た後の祈りの指示です。
「ラテランの聖ヨハネ大聖堂へ向かう道で、次のことを黙想します。私たちの主イエス・キリストがカイアファのもとからピラトのもとへ歩まれた道のりと、茨の冠をかぶせられた際の、第四の流血です。次のことを願い求めます。貪欲の悪徳に対抗する寛大さの徳と、賢慮の賜物」。
祈り。
「私の主イエス・キリスト、私はあなたを礼拝し、感謝します。私の救いのために、カイアファのもとからピラトのもとへ、苦しみの道を歩んでくださったこと、そして、いとも聖なる頭に鋭い茨の冠をかぶせられ、尊い血を流してくださったことを。どうか、寛大さの徳と賢慮の賜物をお与えください。アーメン[77]」。
祈りそのものの中では悪徳を繰り返しませんが、ここにある文章はすべて聖フィリッポの作です。
賢慮の賜物とは、賢い決断を下すことができる恵みです。
私は若者たちと夜通しこの巡礼をするたび、賢慮の賜物を説明する場所として、いつもアッピア旧街道のクォ・ヴァディス教会を選んできました。聖セバスティアノと聖ヨハネのちょうど中ほどにあります。たいてい、そこへ着くのは午前三時ごろか、それより後です。
クォ・ヴァディスは道の分岐点です。ローマから来ると、アッピア街道にもアルデアティーナ街道にも進めます。伝承によれば、迫害のため都を逃れようとしていた聖ペトロが、そこで反対方向、ローマに向かうイエスと出会い、「ドミネ、クォ・ヴァディス」、すなわち「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねました。イエスは「エオー・ローマム・イテルム・クルキフィーギー」、「もう一度十字架につけられるために、ローマへ行く」と答えられました。そこでペトロは悟り、向きを変え、殉教へと戻って行きました。
分岐点は、決断の場所です。そして聖フィリッポは、よい決断の賜物、つまり賢慮を願うには、「物惜しみしない心」が必要だと言います。少し古い言い方ですが、寛大さ、物を惜しみなく差し出せる力のことです。
これに対抗するのが、決断を妨げる貪欲です。本当でしょうか。なぜでしょうか。
貪欲な人は、何も捨てないからです! その引き出しは、半端な品物でいっぱいです。もしかすると、何かの役に立つかもしれませんから……。貪欲は、多くの若者の人生を動けなくします。どんな決断にも……失うことが伴うからです!
アッピア街道を選べば、アルデアティーナ街道は選べません。
物理学でいう静止状態は、力がないことではなく、等しく反対向きの力が釣り合う行き止まりです。何かを手放さなければ、動けなくなります。
ここで、決められないことの苦しみが飛び出します。決断するには、切り離すことができなければならないからです。
実際、貪欲は、どんな損失も悲劇のように見せます。そして決断の途中で、時間ばかりを過ごさせます。それが凡庸さを生みます。こうして自分を定めず、明確な自己同一性をもって存在の背景から浮かび上がることもなく、人生はがらくたの引き出しのようになります。
真実のうちにいる人は、何かを決断するときには何かを手放さなければならないと知っています。それが単純な現実だからです。生きるとは、絶えず選ぶことです。
これに対し貪欲は、ひそかな不安をかき立て、人生のあらゆる局面を、獲得か損失か、生か死かという形で考えさせます。
識別の助けを求める多くの若者が動けなくなっているのは、選択を何かを得る場所として捉えているからです。しかし選択とは、必然的に、何かを失い、本質的なものへ絞る場所です。それでも彼らは、何一つ失わずにすむ最善の解決策を探します。
彼らは、多くの人と同じように、神のみ旨を理解しません。失うという行為に向けて自分を整えないからです。神が語られるどのような「はい」にも、当然、幾つかの「いいえ」が伴うのです。
もう一つの種類もあります。もちろん、決断する貪欲な人です。最も得になるものが現れれば、逃しません。そうなれば平和を捨て、お金や何らかの財産をめぐって、ためらわず兄弟と争います。棺の前でさえ、平和はありません。葬儀でこんなことを、何度見たことでしょう!
それと同じように、安心、特に経済的な安心への渇望や、自分の穏やかな暮らしを守るために、子どもを持つ喜びを拒んだ人が大勢います。
自分に都合がよいからと結婚を諦める人もいれば、さまざまな分野で、さまざまな形で、自分を売る人もいます。
はした金のために良心を放り出すことを、ためらわない人がたくさんいます。
ある信仰の仲間を思い出します。私の前で、職人から「付加価値税抜きにすれば八百ユーロ安くなりますよ」と言われ、こう答えました。「私の良心には、八百ユーロよりは少し価値があると思うのですが、どうでしょう」。
貪欲は、偽善的な生き方を習慣にすることがあります。ちょっとしたごまかし、一見軽そうな不正直、ごく小さな不正に、慣れきってしまうのです。どうということはない……盗みですって? 大げさに言わないでください。ずいぶんきつい言葉ですね……。
少しでも得をし、有利な近道を選ぶ傾向です。何だというのでしょう。大したことをしたわけでもないのに!
イエス・キリストは、こうした不正直な人、おそらく、とても熱心なカトリック信者でもある人にとって、少し理解しにくいことを言われます。
「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実です。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実です[78]」。
人はこう言います。「確かに、この件では少しそうだけれど、大事なことでは……」。しかし小さなことでうそをつくつもりがあるなら、イエス・キリストによれば、大きなことでは、なおさらうそをつくのです。失ってもかまわないようなもののために不正を行えるなら、大きなものがかかっていたら、どうするでしょうか。
人となりは、細部に現れます。
一つのことをどうでもよいとするなら、何もかもがどうでもよくなります。
検札係がいないからバス代を払わずにいようと思うなら、誰にも気づかれず懐に入れられる一万ユーロのために、何をするでしょうか。実際、多くの人が正直でいる理由は、単に発覚を恐れるからです……。そしてその一万ユーロを自分のものにしていたなら、泥棒になったことではなく、捕まるかもしれないことで不安になっていたのかもしれません。
次には、英雄たちがいます。
福者の列聖手続きでは、列聖調査の申請者が、いわゆるポジツィオを作成します。これは「諸徳を英雄的に実践したことを立証する文書」です[79]。
賢明、正義、勇気、節制といった徳です。
この世の神であるお金の教会、つまり銀行には、聖人像を納める壁龕があるべきでしょう。あなたのおじさんにも、少なくとも写真を飾って、その下に小さな明かりをともすべきです。商売に関しては実に賢明で、事業を最大限に繁盛させました。うまく回すためにすべきことを、いつもぴたりと行いました。好機をつかむため朝四時に起きる必要があれば、頑張って起きました。そして節制もしました。商売のために、どれほど多くを諦めたことでしょう。妻をうつ病にし、子どもたちを親のいないような状態にしたかもしれませんが、儲けは決して逃しませんでした。
書きながら、例に挙げられそうなさまざまな事例が浮かびます。貪欲なうえに、傲慢にならないでください。そこまで独創的でなくてもよいのです……。
貪欲な人は、自分の神、すなわち安心という神、所有という神のために、英雄的な行いをします。
さらに、人身のいけにえさえささげます。すでに述べたように、どれほど多くの子どもが中絶され、また中絶させられてきたことでしょう。そのほかにも、多くのことがあります。
貪欲は金持ちの悪徳だと、よく考えられています……。しかし誰にも関わります。家庭では、困っているときに助け合う代わりに、お金で争います。兄弟は、おもちゃのために、血が出るまでかみ合います。考えてみてください。大人になり、無邪気さもずっと失ったら、何をするでしょうか。
幾つか例を挙げました。しかし、こうしたことはどこから来るのでしょうか。
貪欲は、魂の野性的な側面、欲望に駆られる部分に関わります。どう考えようとも、それは暴食や色欲より悪い、はるかに悪いものです。
尊敬をもって記憶され、ひときわ寛大だったビテルボの司教ルイージ・ボッカドーロ師は、司祭たちを導くことについて、こう言っていました。「第六戒には、あわれみを。第七戒には、あわれみをかけない[80]」。
あれほど柔和で質素な司教が、なぜ色欲のつまずきには忍耐しながら、財産への貪りには容赦してはならないと言ったのでしょうか。
暴食と色欲は、栄養と性的な力に関わるからです。それらは治めるすべを学ぶべき生物学的な次元ですが、それでも自然なものです。
これに対し、貪りはもっと有害です。ロギスモスが、所有との関わりに危険な欺きを持ち込むからです。所有するものを何でも必要なものとして捉える欺きですが、それが本当であることは、めったにありません。本当の必要に触れていることは、とても珍しいのです。何年も前、アフリカで、一日に一度しか食事をしない人たちの小屋の中に、カラーテレビを見ました。当時、ローマでもまだ持っていない人が多かったのに……。
「在ること」が「持つこと」に置き換えられ、何千もの人が、もっと命を与えてくれそうなものを持とうとして、人生を複雑にしています。
必要なものは、持たなければならないと思っているものより、いつもずっと少ないのです。いつもです。
これは、貧しさを理想化した無頓着ではありません。愛の反対は憎しみや無関心ではなく、所有なのだと認める知恵です。所有は私たちを憎しみへ導き、無関心にします。アシジの聖フランシスコは、そのことをはっきり理解していました。
エヴァグリオスが引用した箇所で、聖パウロはこう言っています。
「食べる物と着る物があれば、それで満足しましょう。金持ちになろうとする者は、誘惑とわなに陥り、また、人を滅亡と破滅に沈める、無分別で有害な多くの欲望に陥ります。金銭への執着が、すべての悪の根だからです[81]」。
最後の文が、エヴァグリオスの引用した部分です。特に重い言葉です。お金への貪りこそ、この世のすべての悪の源だというのです。
本当でしょうか。見てみましょう。
戦争の動機は、一つしかありません。経済です。マフィア、犯罪、未成年者の搾取、高利貸し、児童ポルノ、売春、そしてそのほか多くのことの背後には、お金があります。貧困を信じがたいほどに搾取し、人間としての発展を不可能にする不正な経済制度は、この世の最大の不正を動かすてこです。そこから、商業的な目的のための、諸国民の困窮と抑圧が生まれます。
私たちを取り巻く世界が汚れ、むしばまれ、ひょっとすると取り返しのつかないほど汚染されているのも、同じ経済的動機のためです。
しかし、列挙はここで終わりません。所有への渇きを、軽く見てはいけません。真剣な話なのです。
パウロの文章には、貪欲は「無分別で有害な多くの欲望」のわなに陥らせるとあります。
ロギスモスは、必要だという欺きに足場を置いて、実際には存在しない必要をかき立てます。あるブランドのスニーカーを手に入れたくて、夢中になる思春期の子どものようにです。あるいは、まだ十分使えるのに、流行遅れになった物を買い替えたいという焦りです。
逆に、お金を使わないために、ぼろぼろになっても決して買い替えないこともあります。二年前、母の家で、私はほとんど内緒で冷蔵庫を買い替えました。会ったことのない母方の祖父が買った冷蔵庫でした。扉を閉めるために、父は重りにつないだひもを考案し、その力で扉を押さえていました……。父の才知には感心しながら、その冷蔵庫は憎らしく思っていました……。
さらに広告という技があります。潜んでいる、実体のない必要を呼び起こし、私たちをたたきのめします。
必要だと考えているもののうち、わずか二十五年前には誰も持っておらず、それでも同じように暮らしていたものが、どれだけあるか考えてください。携帯電話が本格的に普及し始めたのは、一九六六年以降でした……。私は一九九三年に、今では幾つかの土地に広まった「十の言葉」の取り組みを始めましたが、ワッツアップなしでもやってこられました。信じられませんか?
実際、技術は、貪りが現れる典型的な場です。それが養う全能感への妄想によって、私たちはいつも一歩遅れになります。新しい携帯電話を誇れるのは二か月ほどで、その後にはもっとよいものが出ます。
必要だという欺きを、もう少しよく理解しましょう。
金持ちの青年の出来事には[82]、イエスに従うために財産を手放すことのできない青年が登場します。彼は悲しみながら去ります。凡庸な論理にすっかり組み込まれ、財産の与えてくれる生活を、悲しく生きていくのです……。それなのに、永遠の命を願うためキリストの前に来たのでした。しかし、その代価は高すぎました……。
金持ちの青年の選択について注目したいのは、ギリシア語で命をビオスと言う一方、物質的な財産もビオスと呼ばれることです。ビオスとビオスのあいだの選択なのです。本当の命か、偽りの命か。昔の強盗が「財布か、命か」と言ったのは印象的です。ビオスか、ビオスかということになります。何を選ぶのでしょう。財産、生物学的な命でしょうか。それとも、復活へ、永遠の命へと進む方に従うことでしょうか。あなたは死なないために生きるのですか。それとも天へ向かっているのですか。
世間の考えでは、お金がなければ生きられません。天がなくても生きられるが、お金がなければ生きられないというのが、この偽りです。そこから、あらゆる間違った選択が生まれます。それらはすべて偶像崇拝です。祈らなくても平気で暮らせますが、お金がないと不安になります。
さて、読者の皆さんはきっと、税務当局から通知が来たときよりも、祈りの時間がなくなったときの方が、ずっと心を乱されたことでしょう……。そうではありませんか?
どういうことでしょう。本当の必要などないと言うのでしょうか。確かにあります。しかし、本当に必要なものは少ないのです……。
見方をひっくり返してしまう、貪欲な人特有の特徴は、不安です。
ギリシア語で貪欲はフィラルギュリアと言い、お金への偏愛、つまり財産を所有することに心が向いている状態を意味します。
ラテン語では、貪欲はアワルスに由来し、これはアウィドゥスと同じ起源を持ちます。さらに、呼吸すること、より正確には息を吸い込むことを表す擬音語である、アオー、アエオーといったギリシア語の語根に由来するようです。それは焦がれること、欲することです。
貪欲は不安を生みます。そして不安に支配された人は、実質的には無神論者です。摂理を信じていないからです。毎日曜日ミサに通いながらも、暮らしを導いているのは不安、十分に持てないのではないかという恐れである、事実上の無神論者が大勢います。信仰実践はしていても、信じてはいないのです。
貪欲は不安であり、したがって、あくせくすること、疲れることです。手段が足りないのではないかという疑い、あるいは確信であり、安全がなく、脅かされているという感覚だからです……。
当然でしょう。すでに述べたように、貪欲な人は摂理を信じていません。信頼できる天の父はおらず、自分の力しかなく、すべてが自分にかかっています。それでも私たちは、安心していたいのです……。
こうして、心配から成る貪欲は、幾つものことを同時にさせ、場所も時間も機会も無駄にさせません。祈りながら電話に出させ、頭をいつも代替案に向けさせ、同時に幾つもの仕事へ注意を配らせます。電話中に子どもが話しかけてきたり、ほかのことをしなければならないときに電話が鳴ったりします。貪欲な人は、時間も機会も失えないからです。失うことに不安があり、何にでも気を取られるので、注意力は絶えず途切れます。何も逃すわけにはいかないのです。
もう一度言いましょう。貪欲こそ、本当の無神論です。信仰から最も遠い立場です。福音が「神と高慢に仕えることはできない」でも「神と色欲に仕えることはできない」でもなく、「神と富とに仕えることはできません[83]」と言うのは、偶然ではありません。お金こそ本当の主人であり、神に真っ向から対抗するものです。
しかしこの悪魔は、たいてい露骨には現れません。スクルージ・マクダックのような型どおりの姿で、簡単に見抜けるわけではないのです。
パウロは、そして彼とともにエヴァグリオスも、貪欲はすべての悪の根だと言いました。エヴァグリオスはさらに、貪欲は悪しき茂みのようにほかの情念を養うと付け加えます。つまり、ほかのあらゆるロギスモイを支える、貪りの葉脈の役割を果たすのです。どういう意味でしょう。不安と、失うことへの恐れという特徴が、ほかの情念にもその性格を刻みます。それは、愛を欠くすべての行為が養われる考え方です。キリスト者としての行為においてさえ、損得を計算する経済的な考え方です。こうして生活のあらゆる面を計算に変え、何にでも利益を求めます。
このようにして、愛の関係までも腐らせ、選択の動機の中に、功利的な筋を残します。収支は合わなければならず、結局、人生の最も清らかな場所にも、自分の都合を守る傾向が残ります。その後、疑いが内に残り、多くの人が、これまで本当に愛したことがあるのか、利益も求めずに何かをしたことがあるのかと問うのも、もっともなことです。
仕方がありません。貪欲は、愛から最も遠いものです。愛するとは、贈り、与え、ゆるし、迎え入れることです。愛ほど、経済の勘定に合わないものはありません。
しかし、人生の収支をいつも黒字にしておかなければならないなら、どうして見返りを求めずに愛せるでしょうか。
当然、私たちの世界は、今も昔も、貪欲、つまり所有への不安に満ちた渇望によって支配されています。
教皇フランシスコは、忘れがたい一般謁見でこう述べました。世界の多くの地域に食べる物のない子どもがいることはニュースにならず、普通のことのように見えます。それなのに、どこかの都市の株価がほんのわずか動けば、悲劇になります。路上生活者が一人死ぬことより、株価の何パーセントかの方が、はるかにニュースになるのです[84]。
実際、貪欲は愛を二次的な問題にします。ただし、愛の美しさは売れるので、市場に役立つ場合は別です。しかし、無償の愛の美しさを壊し、美しさを利益に変えてしまえば、結局、すべてが愛から切り離され、すべてが商品になります。
私たちのエヴァグリオス・ポンティコスは、この悪魔が内でどう働くかを研究し、貪欲のロギスモスは、問題、危機、物不足のイメージを見せると説明しています。他者に頼ることを恐れさせ、そのために、貧しさや不自由に陥る可能性への正当な対処だという理由をつけ、蓄えることを理屈づけ、正当化します。
貪欲は色欲や暴食とともに、善の道から押し出し、善から遠ざける悪魔たちの領域にあります。しかし、単なるリビドーである色欲とは異なり、貪欲にはまったく特別な特徴があります。理性で理屈づけられたリビドーなのです。
色欲はしばしば下品であり、暴食は滑稽になることがあります。これに対し貪欲は、論理的で理性的です。貪欲な人は、薬物を使う理由をいつも無数に持ち、なぜそうするのか説明できる薬物依存者の一人のようです。貪欲である理由を、無数に持っています。貪欲な人は哲学者であり、巧みな論客なのです。
その理由はすべて、簡素さ、すなわち本質的なものだけにとどまる限界に反対します。貪欲の悪魔は、私たちは満足できる、質素に暮らせるという考えを攻撃します。この点になると、容赦なく、裁きたがり、獰猛になります。
貪欲な人の持ち物に、物質的なものであれ、それ以外であれ、手を触れてみてください。情け容赦なく襲いかかってきます。
実際、結局のところ、貪欲な人は本当は小心者です。与えたいという衝動を何度も何度も消し、心の中の愛を押さえつけるのです。
貪欲な人は、自分には現実感覚があると思っています。しかし、あなたも死ぬ、その行っていることはすべて死によって無に帰すると言ってみてください……。どれほどひどい反応をすることでしょう!
貪欲な人は、死を、身を固め、自分を守り、蓄えるための、もっともな理由としてしか考えません。この態度は原始的で衝動的ですが、理由や動機に覆われています。そしてそれらは、根本的には偽りです。
貪欲との戦いは、非常に真剣で、難しいものです。幼子が抱く最初の恐れ、見捨てられることへの恐れ、不確かなものへの恐れ、フィラウティアと同じ恐れに関わるからです。
正面から戦いを挑まなければ、貪欲はいつも逃げおおせ、さまざまな事柄の中に姿を隠します。そして別の芽を出します。その芽は、引き起こす不安と恐れによって見分けられます。
実際、エヴァグリオス・ポンティコスは、最初の一文だけをすでに引用した文章で、こう書いています。
「貪欲はすべての悪の根であり、悪しき茂みのようにほかの情念を養い、そこから咲くものを枯れさせません。情念を退けたい人は、その根を抜きなさい。たとえ善のために枝を刈り込んでも、貪欲が残っていれば、何の役にも立ちません。小さくされても、その枝はたちまちまた花を咲かせるからです[85]」。
誰も思い違いをしてはいけません。どの罪と戦いたいのであれ、すべてを巻き込む貪欲から、いつも始めるのが賢明です。
この戦いはそれほど重要なので、章の冒頭に引用した『エウロギオスへの手紙』の文章に戻り、分析してみましょう。もう一度読みます。
「貪欲は、偶像の利益、俗衆の預言、清貧の誓願、蓄積の計算、囚人の富、不正の一形態、不幸に満ちた豊かさ、長寿の予告、行動への誘い、徹夜の助言者、空腹、粗末な食事、飽くことのない狂気、落ち着きのない悪意です[86]」。
これは奥深い文章です。
最初の定義は「偶像の利益」です。つまり貪欲な人は、自分が得をしていると思いますが、実際に蓄えているのは偶像だけです。心を奪った偶像、あの不安が、貪欲な人の努力によって太り始めるのです。
貪欲は「俗衆の預言」です。つまり世間の知恵ですが、ここでは最も有害な意味です。あちらこちらで受ける助言は、根本的には貪欲であることが少なくありません。これは深刻なことです。物事を判断するとき、私たちはしばしば、安っぽい常識によるこの自然発生的な見方を頼りにするからです。しかし、その底にあるのは、結局、貪欲、つまり利益の追求だけなのです。
次に貪欲は、奇妙なことに「清貧の誓願」へ導きます。貪欲な人は、不安だから節約しなければならず、儲けていても貧しい暮らしに縛られます。貧しく暮らしながら、マットレスにお金をいっぱい詰めている人がいます。昔は、人が死ぬとマットレスを開けたものです。すると、びっくり! 私が小教区の主任司祭だったころ、貧しい人たちと食事をしていましたが、惨めな暮らしをしながら、集合住宅の部屋を幾つも所有している人がいました……。おかしな人でしたが、私はこういうおかしな人を何人も見てきました。
口座にはあふれるほどお金があるのに、傷んだ物を食べる人がいます。たとえば年を取ると、しばしば欲深くなり、所有物に爪を立ててしがみつきます。もっと穏やかに、寛大に暮らせるのに、窮屈な生活を送るのです。
貪欲は「蓄積の計算」です。つまり貪欲な人の頭は、節約するためにいつも働いています。どこへ行っても、どうすれば節約できるかと考えます。事実上、人生を楽しんでいません。背後にいつも、この思い、計算があります。貪欲な人が家を訪ねてきたときの大好きな話題は、これやあれに幾らかかったか、ということです……。
さらにエヴァグリオスは、貪欲は「囚人の富」だと言います。物は持っていますが、奴隷なのです。実際、富は、それを所有する人を所有します。貪欲な人、不安な人は、自分の安全装置に捕らえられ、それに依存し、物を喜ぶとはどういうことか分かりません。
貪欲は、物のために働かせながら、その後でそれを楽しませてはくれません。新車を買い、傷めないために車庫に入れたままにしておく人のようにです……。
それは「不正の一形態」です。所有への執着は、私たちを容赦なく、不正な者にします。どこでも自分の生存が脅かされていると感じさせるからです。しかし、実際にはまったくそうではありません。
それは「不幸に満ちた豊かさ」です。こうした不安のために、病気になり、壊し、本当の健やかさを決して持てません。確かに豊かさですが、不幸を生む豊かさです。
それは「長寿の予告」です。我らがエヴァグリオスは、貪欲を、寿命についての偽りの預言と定義します。福音は言います。「あなたがたのうち誰が、思い悩んだからといって、命の長さを一アンマでも延ばすことができますか」[87]。私たちの命は短く、いつまでも生きるのではありません。すべてを残して去らなければならないという事実と折り合いをつけることは、大切です。しかし貪欲な人は、そんなことを聞きたくありません……。
また貪欲は「行動への誘い」です。つまり決して休まず、改善すること、何か別のことをすること、別の問題を解決すること、ほかの何かを直すことへと、いつも引きつけられます。何と忙しいことでしょう……。
貪欲は「徹夜の助言者」です。私たちを眠らせない悪魔です。夜を経済的な問題の考え事で過ごし、その一方で、それにもっとよく向き合うために休むという、まったく当然の大切なことをしません。
「空腹」。貪欲な人は決して満足しません。その食欲、獲得したいという欲求は、いつも幾分、満たされないままです。
「粗末な食事」。貪欲が支配すると、食事も悪くなります……。貪欲な人は節約しなければならず、質の悪い物の常連客になるからです。何もかも安くなければならず、代用品で暮らします。
「飽くことのない狂気」。そのとおりです。現実感覚から遠ざけ、容赦なく、飽くことを知らない者にし、本人の気づかない、不合理な計算をさせるからです。
「落ち着きのない悪意」。厳しい定義です。貪欲は心に多くの心配を注ぎ込み、私たちを意地悪にします。どこにでも敵や問題が見え、どこにでも無駄が見え、そのため、さまざまなことに対して攻撃的になり始めます。
貪欲な人には、穏やかさも喜びもありません。その人生には、貧しくなることへの恐れが刻まれています。そして、恐れているとおりの暮らしを、わざわざするのです。惨めな者として。
ここでもまた、貪欲の悪魔に屈しないだけの価値があります。
神がどのように助けてくださるか、見てみましょう。
執着を離れること
「貧しさは貪欲を根こそぎにし、寛大さの根となります。愛の実り、命の十字架、苦しみのない生き方、ねたまれない宝、澄み渡る空、動かない太陽、計り知れない実質、限りない富、思いを刈る鎌、福音の実践、世から容易に離れる力、競技者の走りです[88]」
(エヴァグリオス・ポンティコス)
最初にはっきり言わなければなりません。貪欲は、正面から打撃を与えないかぎり、治められません。ひとりでに死なないからです。そもそも、どんな罪も、自然死したり、年を取ったから死んだりはしません……。罪は、力を加えて死なせなければならず、自覚的に、意図して向き合う必要があります。なかでも貪欲には、的確に狙った一撃を、ふさわしい瞬間に、ためらわず与えなければなりません。
贈与と施しによって打つのです。貪欲が挫折しないかぎり、勝つことはできません。自らを拡大する論理を持ち、すべての領域に染み込もうとするからです。しかし、打たれれば、確かにこたえます。
貪欲に従わない行動は、きわめて大きな力を持ち、思いがけなかった自由の領域を開くことがあります。
それは、より高い生き方へ、深い落ち着きと、かけがえのない自由へと導きます。その自由には名があります。「執着を離れること」です。聖イグナチオ・デ・ロヨラは、それを「聖なる無頓着」と呼びます。聖なるものではなく、個人主義である無関心と、混同してはいけません。ここで話すのは前者であって、後者ではありません。
そして怒り、悲しみ、アケディアは貪欲に依存しているので、執着を離れるということを、よく理解する必要があります。
誰も自分をごまかしてはいけません。何かに執着していれば、真に愛したり、本当に善いことをしたりはできません。その何かが、自分の行動の隠れた最優先事項になるからです。
執着にはさまざまな種類がありますが、財産への執着は、人間性を奪い、疎外を生み、人生を物にしてしまう方向へ向かいます。
貪欲は、執着の典型そのものであり、まさに執着を離れることの反対です。では、執着を離れるとは何でしょうか。
信仰の父、アブラハムの歩みの始まりを考えましょう。
「主はアブラムに言われた。『あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れ、わたしが示す土地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する。あなたの名を大きなものとする。あなたは祝福となりなさい[89]』」。
最初の文で最も繰り返されるのは、「あなたの」という所有を表す言葉です。祝福となるため、アブラハムは「自分のもの」から出なければなりません。彼の所有物は、土地、一族、心の結びつきです。物質的な所有物である土地を、自分の考え方である一族を、愛情による執着である父の家を、離れなければなりません。
つまりアブラハムは、父となるために、息子であることをやめなければなりません。神が自分のうちに働かれるために、自分の考え方、自分の文化を脇に置かなければなりません。そして成熟した愛に至るために、自分が育ってきた愛情の世界から出なければなりません。
信仰の父は、幾つもの執着を手放して生きなければなりません。最後の、息子イサクへの執着を手放すときまで、それを幾度も経験します。
ペトロも、楽ではありません。
「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩きながら、シモンとその兄弟アンデレが、湖に網を打っているのをご覧になった。二人は漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨て、イエスに従った[90]」。
よく見てください。二人はちょうど網を打っていました。ですから、単に網を置いて行ったのではありません。網を打ったばかりで、漁を途中でやめたのです。漁を終えさえしませんでした……。
招きに応えて執着を離れる例は、たくさんあります。主に従う人は、きわめて具体的なものを、たいていは、それによって暮らしているもの、生計の源を手放さなければなりません。
なぜ、このようになるのでしょうか。
なぜ、何かを断つことから始めなければならないのでしょうか。
主が、これまでのものとは違う生を与えてくださるのであれば、今ある暮らしを与えてきた、古い源から離れなければならないからです。
友人の心理療法家たちは、愛着という問題は、今日の精神力動理論の世界で中心的な位置を占めると言います。
そして、ちょうどここから誤解が始まります。聖書の男女に、何かを、あるいはすべてを捨てるよう神が招かれるとき、注目の中心は、捨てるべきものではありません。私たちは、施しや、財産から自由になることを、断念の行為だと考えます。それは、少なくとも大部分は間違いです。
はっきりさせましょう。読者の皆さんは、贈与、施し、執着を離れるという言葉を見て、二つの典型的な組に分かれたかもしれません。意志の力で突き進む人と、意気消沈する人です。前者は立ち上がり、胸に手を当て、フォルゴーレ空挺旅団の歌を歌い出し、危険をものともせず、不屈の決意で実行するつもりの断念を、すでに用意しました。後者は「やっぱり落とし穴があった……」と思い、この話題への関心が鈍い音を立ててしぼみ、うつろな目で、ほのかな吐き気を覚えました。もしそうなったのなら、どちらも、何の話かは「分かった」というわけです。
問題を正面からつかまえ、この点について福音が何を言うか、理解しましょう。貪欲のせいで、ガラスを引っかくように耳障りに聞こえる、典型的な箇所を見ます。
「地上に富を積んではなりません。そこでは虫が食い、さびつき、また、盗人が穴をあけて盗み出します。むしろ、天に富を積みなさい。そこでは虫が食うことも、さびつくこともなく、また、盗人が穴をあけて盗み出すこともありません。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのです[91]」。
イエスは、何も持ってはいけないと言われるのでしょうか。とんでもありません! 本当に豊かな富によって、大金持ちになるべきだと言っておられます。
どの情念の下にも、歪められた善いものがあります。私たちには生計の源が必要ですし、安定を与える何かに、人生を支えてもらう必要があります。ただし、それが何かを確かめなければなりません。
諦めるのですか。
何をでしょうか。
イエスは言われます。あなたが蓄えているのは、いつも奪われ、傷んでしまい、盗まれるかもしれないから守らなければならないものです。それなら、その物があなたを守っているのではなく、逆です。本当に価値あるものを蓄えなさい! 心を物にではなく、天に置きなさい。遅かれ早かれ失うものを離れ、決して失わず、誰にも奪えないものを、しっかりつかみなさい。
あなたが与えた愛を盗める泥棒は、決していません。その反対に、埋め合わせのために買うさまざまなおもちゃは、いつも壊れるか、奪われます。
繰り返します。諦めるとは、何をでしょうか。
あなたが本当に所有している財産は、人に贈るものだけです。これに対し、与えることのできないものは、あなたの所有物ではありません。それらの方が、あなたを所有しているからです。
本当に持っていると言えるのは、それから自由で、人に与えられるものだけです。与えられないなら、あなたの心がどこにあるか分かりました。それは奴隷の心です。
自分の貪欲と戦いたいなら、どこを打つべきでしょうか。とても簡単です。痛むところです。「それだけはだめ!」と言うところです。なぜでしょう。まさに、「それだけはだめ!」と言うからです。それなしでは生きられないと思っている、ということです。しかし、それは本当ではありません。
賢明な読者が、ここで次のような愚かな話を始めないことを願います。家族を養う身で、どうして物をあげられるのか、子どもも責任もあるのに……。もちろん、責任のある事柄については、愛する人たちに必要なものを、慎重に管理しなければなりません。それは当然です! しかし人生には、あなた個人だけのもの、責任の範囲には入らず、あなた自身だけに関わるものが、山ほどあります。その辺りに、たくさんの執着が見つかるでしょう。責任についても、自分は質素なのか、不安なのか、贅沢なのかを問うてください。実現できるなら、子どもたちにも、質素な暮らしはよいものです。しかし肝心なのは、ここでは断念ではなく、解放を話しているということです! さらに言えば、それさえ中心ではありません。私たちが釣り合いの取れた関わり方をしている物もあるからです。本当の中心は、何を与えるかではなく、何を受け取るかにあります。
イエスは「むしろ、天に富を積みなさい」と言われます。誰が、積んではいけないと言ったのでしょう。積みなさい、積みなさい……ただし、本当の宝を! それを積むのです。
私の初ミサの録画が、どこかにあります。会衆に発言してもらっていたとき、親しい仲間がこう言いました。「ファビオが叙階されたことを、とてもうれしく思います。彼は本当に、主に自分の命をささげたからです」。私は声を上げて遮り、そこから説教を始めました。「待って! 何を言うんですか! そんなばかなことで、このミサを台無しにしないでください! 私が主に命をささげた、とおっしゃるのですか? いつですか? どんな命を差し上げられたでしょう。私には命などなかったのです! 私が台無しにした命を、主がどうなさるというのですか。私が主に命をささげたのではありません。主が、私にご自分の命をくださったのです!」。私は三十年間、あの説教を続けています。
ここで求められるのは、自分の財産を与えるほど寛大になることではなく、本当の財産を手に入れるほど賢くなることです。
いったい何が断念なのでしょう! 主は限りなく寛大です。ほんの小さなものを差し上げるだけで、優しさと心遣いで包み込んでくださいます。
私は何度も言います。キリストが人生を変え、持ち物を取られることを恐れる必要はありません。恐れるべきは、キリストが人生を変えてくださらず、自分が自分の物とともに取り残されることです。それこそ失敗です。
貪欲との戦いすべての中心、執着を離れることの核心には、一つの知恵があります。神が父であることを思い起こす知恵です。執着を離れるとは、摂理を経験することです。
重心は、私たちの自己放棄や意志の強さにあるのではありません。預言者イザヤが言うとおりです。
「立ち帰って静かにしていれば、あなたがたは救われる。落ち着いて信頼することに、あなたがたの力がある[92]」。
だからこそ、執着を離れることは、不安の反対なのです。
神が私の父であるか……。そうでなければ、人生にある、予測も計算もできないすべてのことから、誰が私を救うのでしょうか。
父が生きているのに孤児であるような考え方に、陥ることがあります。こうした孤児は、自分で自分を救わなければならず、計画や仮説によってできた「何とかなる」という幻想と、もろさに突き当たって絶望することのあいだを揺れ動きます。
それでも、そのあいだ私たちは蓄えます。何があるか分かりませんから。こうして、実に多くの重荷を持ち歩きます……。
この章を書いている今、何度目か分からない引っ越しを終えようとしています。物の途方もない多さと無用さを、重苦しく思い知らされています。決して読まない本や、情けないほど役に立たない菓子入れ、そのほか山ほどの物に囲まれています……。引っ越しには一つの規則があります。持っていたことを忘れていた物が出てきたら、捨てること! きっと必要ありません! 「でも、大事な思い出なのです」と言う人がいます。ええ、でも、実際には思い出していませんでしたね……。
引っ越しのいちばんの友は、分別回収です。すばらしい発明です。しかし人生では、存在そのものの引っ越しを、何度しなければならず、どれほど多くの重荷を捨てなければならないことでしょう……。
何も捨てず、すべてを取っておくのを見れば、おかしな人だと分かります。
フェルモの古い精神病院の入り口の大扉には、こんな言葉がありました。「全員がここにいるわけではない。世界中に散らばっている」。
結局、「執着を離れること」というこの知恵は、何から成るのでしょうか。
エヴァグリオスが用いる言葉は、アクテモシュネーです。章の冒頭に引用した文章の訳者は「貧しさ」と訳していますが、この訳は状態だけを表し、より大切な姿勢を表していません。他の教父の文章の翻訳では、「所有への無頓着」と訳されています。実際、「所有」を意味するクテーマの前に否定のアルファが付き、性質を表す名詞接尾辞シュネーを添えた言葉です。クテーマは「所有する」という動詞クタオマイから来ています。
執着を離れることをもっとよく理解するため、あの文章を読んでみましょう。貪欲についての章で見た一節と、対になっています。
より忠実な訳を提案します。
「所有への無頓着は、富への愛を根こそぎにし、富からの自由の根となります。愛の実り、命の十字架、痛みのない生き方、壊れない宝、心配のない空、動かない太陽、計り知れない実質、限りない富、思いを刈る鎌、福音の実践、世から離れる自由、競技者の走りです[93]」。
修道士たちの貧しさは、キリストご自身の貧しさから生まれました。キリストは貧しく生まれ、貧しく死に、お金なしで歴史を変え、人類を救われます。
ですから、執着を離れることは「富への愛を根こそぎにすること」です。ほかに道はありません。そして「富からの自由の根」です。財産から自由であると感じることは、私たちの存在と別の次元ではなく、存在の真実です。私たちは貧しく、限りがあり、もろい者です。貧しさを、義務としてではなく、穏やかな暮らしと、自分の歩みを真実に読むための出発点として受け入れること。それが、ここまで描いてきた、あの恐ろしく小心な悪魔を弱らせ始めます。
それは「愛の実り」です。執着を離れることは、意志主義でも、貧困の理想化でも、けちでもなく、愛から生まれます。完全主義から財産への執着を離れようとすれば、典型的な「ヨーグルト・キリスト者」を作ります。酸っぱい性質の、珍しくもない信者です。かなりの量の道徳主義を、自家生産します。
所有への無頓着は、また「命の十字架」でもあります。命の十字架と、死の十字架がありますが、これは命へと導く十字架です。貧しさは、確かに人を十字架につけます。財産への執着を離れるには苦しみが伴いますが、新しい命へと導きます。
「痛みのない生き方」。自分を守ろうとせず、とりわけ何も守ろうとしないとき、物や自分の投影した像から離れられるとき、苦しみは成長の場、主と出会う約束の場になります。貪欲な人は、どんな問題にもすべての崩壊を見て、自分はもう終わりだと思います。一方、矛盾に遭うことで貧しくされるのを受け入れる人は、成熟し、成長します。頑なにならなければ、神との関わりに入ります。これが、最初の真福です。
「心の貧しい人々は、幸いである。
天の国は、その人たちのものである[94]」。
「壊れない宝」。物からの自由は、本当の富です。どんな泥棒にも盗めず、どんな不正にも損なえず、この宝から私たちを引き離せる被造物はありません。
「心配のない空」。興味深いことです。執着を離れると、天を見上げられます。貪欲の中では、物の上に頭をかがめています。しかし空は、頭上にあるものを表します。不安な人の空は鉛色で、未来はその人を落ち着かなくします。物から自由な人の空は澄み、未来は不安ではなく、摂理です。
「動かない太陽」。これは、敵に勝つまで戦い抜く必要があったヨシュアが、天にとどまれと太陽に叫ぶと、太陽が動かなくなった、あの戦いの太陽です(ヨシュア10・9―15参照)。エヴァグリオスがこの話に触れるのは、時間との関わりを語るためです。聖なる無頓着に導かれる人は、不安にならず、秩序を失わず、焦りに支配されません。落ち着いており、時計は絶対ではなく、すべてを行うための内なる時間があります。人生を物に左右させなければ、落ち着いて、執着せずに物事を行い、太陽はとどまります。そして結果もよくなります。焦りは、実に多くの間違いの源です。
「計り知れない実質」。ここで用いられるヒュレーという言葉は、素材、あらゆる物ができている実質を指します。貪りは、乏しい素材でできた人生を強いますが、物からの自由は、豊かな実質を持つ人生を与えます。
「限りない富」。貪欲は、いつももっと持つよう要求します。執着を離れた落ち着きは、自分がどれほど豊かかを発見させます。被造物であること、つまり自分に本来備わる貧しさを受け入れると、どれほど多くを持ち、どれほど多くのものを用いられるかに気づきます。いわば、宇宙全体の主人になるのです。大きく美しい世界に住んでいると感じます。執着を離れることは自由であり、私たちを感謝へと開きます。感謝は私たちを豊かにします。感謝しない人は、いつも不満です。
「思いを刈る鎌」。何と真実なことでしょう! 一つの断念の行為が、多くの暗い思いを根元から切り、私たちを穏やかで自由にし、闇にさらされにくくし、不平や不幸に傾きにくくします。
「福音の実践」。キリスト者らしくない、むだなおしゃべりの多いこと……。愛のための、ただ一つの断念は、この本よりも、これから書けるあらゆる本よりも価値があります。そして覚えておかなければなりません。貧しさを実践しなければ、福音を実践することはできません。
「世から離れる自由」。物に執着しない人は、脅して操れません。世から自由だからです。この世の所有には、すべて妥協が伴います。質素さと貧しさを実践する人は、世に信用を与えてもらう必要がないので、世がそれを使って何らかの脅しをかけることもできません。
「競技者の走り」。最後の定義は実に美しいものです。素人の走りと、競技者の走りとでは、まったく別物です。物への執着を離れ、主に希望を置き、貧しさを実践する人は、人生に鍛えられ、飛ぶように進みます。真理の競技者です。物事の中を軽やかに動き、重くも不器用でもなく、身軽です。重荷がないからです。物事における身軽さの多くは、本質的なものだけを保つことから生まれます。
この競技者について、イザヤの実に美しい文章があります。
「若者も疲れ、弱り、
勇者もつまずき、よろめく。
しかし、主に望みを置く人は、
新たな力を得る。
鷲のように翼を広げて上る。
走っても疲れず、
歩いても弱ることはない[95]」。
最後に、貪欲と、執着を離れることに関する、エヴァグリオスの二つの反駁を見ましょう。
『アンティレティコス』の方法を思い出してください。一つの主要なロギスモスから派生する、どんなに突飛なロギスモイも調べ、聖書の文章を対置するのです。
私たちが向き合っているのは、祈り、秘跡と兄弟的な交わりの生活、そして本当の内なる自由を真摯に求めることを必要とする、実存と霊の次元であると、改めて確認します。
悪魔との戦いは……悪魔との戦いなのです! 敵は私たちより、はるかに狡猾な者です。これは取るに足りないことではなく、真剣なことです。心の最も高く気高い次元、最も大きな自由に関わる、大人の世界なのです。
貪欲についての最初の二つの反駁を見ましょう。
第一は、これです。
「思いの中で、『あなたの親戚か、金持ちの一人を、夢の中で説得して、あなたに金を送らせよう』と勧める悪魔に対して。
『私は、天と地を造られたいと高き神に手を上げて誓う。糸一本から履物のひも一本まで、あなたのものは何一つ取らない』(創世記14・22―23)[96]」。
分かりにくく見えますが、注意深く読む必要があります。これは、自分の不安を解決するのは遺産だと、悪魔がそそのかす場合です。「いつかは遺産が入る……」。こんなふうに、幸運な仮定によって生きる人がいます。「スクラッチくじが当たる」「宝くじの番号を当てる」。おめでたい人を製造する工場です。たとえば、大当たりを待って賭け事をし、家族を破滅させるのです。
四世紀末に書かれたエヴァグリオスの例は、実に今日的です。一攫千金を追いかけ、給料の半分を賭けて、家族を空腹のままにする人がいます。これは貪欲です。お金への渇きであり、富によって人生が変わると考えることだからです。それは本当ではありません。人生は、心から変わります。
エヴァグリオスは、どんな答えを見つけるでしょうか。創世記から取り出します。アブラハムが、戦利品を差し出すソドムの王に、手を上げて誓うと言う箇所です。しかし、誰に向かってでしょう。王にでしょうか。アブラハムには王などどうでもよく、神に向かって手を上げ、王の差し出すものをすべてそのまま残します。つまり、天の創造主は、私たちが何を持つべきかを知り、与えてくださいます。必要なものは、すでに持っているのです。
マドレーヌ・デルブレルは、『私たち、街の人々』で、こう述べていました。
「私たちは、必要なものは何一つ欠けていないと信じています。もし必要なものが欠けているなら、神はすでにそれを与えてくださっているはずだからです[97]」。
大きな幸運を待つ論理は、疎外の論理、待ち焦がれる非現実の中に、頭の中で住む論理です。人生とは、経済的な大当たりだという考えです。私たちに命、本当の命を与えるのは、愛へ導く神のあわれみです。この砂漠の教父たちの考えは、何と今日的なのでしょう!
第二の反駁は、これから貧しくなり、助けもどこにも見えないと告げる悪魔に対するものです。すると、不安が始まります……。エヴァグリオスは、答えるために創世記28章を見いだします。反駁全体を見ましょう。
「つらい貧しさと、そこから生じる災いを見せ、困ったときには助けてくれる人が見つからないとそそのかす思いに対して。『主が私とともにおられ、これから行くこの旅で守り、食べるパンと、身にまとう衣を与え、父の家に無事に帰らせてくださるなら、主は私の神となる。この記念柱として立てた石は、私にとって神の家となる』(創世記28・20―22[98])」。
前のものとは反対です。ここでは幸運ではなく、不運を待ちます。貪欲は幻想と落胆のあいだを進むと、すでに見ました。貪欲な人に不安を与える未来です。しかしエヴァグリオスは、長子の権利を奪った後、兄エサウから逃げているヤコブを引用します。ヤコブは不安な夜に、天へ届く梯子を夢に見て、神の働きに自分を開かなければならないと悟ります。そして善い未来へと開かれます。
つまり、神に自分を委ねれば、物事の見え方は変わります。人生で神に働いていただくとは、こうした絶望的な思いを、単純な真実に突き当たらせることです。私たちは、自分の未来について、いったい何を知っているのでしょうか。神がどのように物事を整えられるか、いったい何を知っているのでしょうか。私たちは、頭をけがする前から包帯を巻いて、時間を過ごします。しかし実際には、神は私たちの神であり、必要なものをご存じです。
これは二つの例にすぎません。エヴァグリオスの反駁をすべて扱うことはできませんが、さらに進んでも、いつも同じ問題が見つかるでしょう。神が父であることを忘れ、愛を軽く扱うことです。貪欲は、神から私たちを引き離し、愛から私たちを引き離します。
神との関わりは、兄弟たちへの愛を通ります。貧しさは、執着からの自由と、神との関わりと、兄弟たちに開かれていることを守ります。
怒りの悪霊
「怒りは思慮を奪い、よい状態を壊し、本性を混乱させます。野獣のような振る舞い、心の炉、燃え上がる炎、短気の規範、侮辱への憤り、野獣の母、沈黙の争い、祈りの妨げです[99]」
(エヴァグリオス・ポンティコス)[100]
怒り、悲しみ、アケディアは、貪欲に依存すると見てきました。
ここで話している根本の情念は、物質に関わる情念、あらゆる種類の財産を貪り、あるいは守ろうとすることです。この情念が、三つの二次的なロギスモイを生みます。
怒りとは何でしょうか。エヴァグリオスが最も多くの紙幅を割くロギスモスです。危険で、破壊的だからです。
怒りの結果は、恐ろしいものです。
モーセの例は、注目に値します。民数記には、こうあります。
「モーセはきわめて謙遜な人で、地上の誰よりも謙遜であった[101]」。
同じ民数記の、八章先には、モーセが自制を失い、怒りに駆られて行動した出来事が語られます[102]。物語を詳しく検討する時間はありませんが、そのとき彼は神の忍耐を顧みず、民に腹を立て、言いすぎ、行動さえ怒りに任せます。神はただちに警告されます。あなたは、民を約束の地に導き入れることはない、と。
後に神は言われます。
「あなたはこれから登る山で死に、先祖のもとに加えられる。あなたの兄アロンがホル山で死に、先祖のもとに加えられたように。あなたがたはツィンの荒れ野のメリバ・カデシュの水で、イスラエルの人々の中でわたしに背き、彼らの中でわたしの聖なることを示さなかったからだ。それゆえ、あなたはその土地を遠くから見るだけで、わたしがイスラエルの人々に与えるその土地に入ることはない[103]」。
こうしてモーセは、一度の激怒によって、約束の地を失います。
このことだけでも、私たちが非常に重大なことを扱っていると分かります。
怒りは、その本質からして、楽園を失わせます。天に入るただ一つの門である、あわれみに対抗するからです。実際、メリバの水でのモーセの過ちは、まさにこれでした。神はご自分の民をあわれまれましたが、モーセはそうせず、イスラエルの人々を厳しく叱りつけました。神は、彼らの渇きを満たす水を与えるよう言われただけなのに。並外れた霊的賜物を持っていても、一度の激怒で、すべてを失うことがあります。憤りのために、最も大切で美しいものさえ、台無しになるのです。
悪魔には二種類あることを思い出しましょう。一つは道から外れさせる悪魔で、これまで検討した三つのロギスモイ、暴食、色欲、貪欲です。
もう一つは、道の内にとどまりながら、それを内側から偽る悪魔です。つまり、私たちが行う善の方法や目的を、歪めるのです。
しかし怒りは、特別な悪魔です。善から引き離すものと、逆に善を乗っ取り、内側から腐らせるもの、その両方に属する、ただ一つの悪魔なのです。
激怒すれば、たがが外れ、自制を失い、正しい道から出てしまいます。しかし怒りは、しばしば善の道の内でも働きます。たとえば、正義を利用して、憤りを強めます。
激怒は、善や信仰を支持する議論の名のもとに、人前には出せないような攻撃的で暴力的な行為を正当化します。
実際、怒りが正当化されると、もはやそこから抜け出せなくなります。
ヤコブの手紙が言うように、怒りは神のみ旨を実現しません[104]。しかし、怒りの情念に負ける主な理由は、しばしば、まさに正義なのです。
一つ覚えておくべきことがあります。この悪魔の曖昧な性質に関わることです。よい怒りもあるのです。悪徳から抜け出すには、内に幾らかの憤りがなければなりません。罪に嫌悪も反感も覚えないうちは、誰もそこから出ません。悪から離れるためには、それを憎む必要があります。
この怒りが、いわゆる聖なる怒りです[105]。すなわち自分自身の罪に抗い、不正で欺きに満ちた、あらゆる依存から解放されることです。それは生命力であり、善のために、悪に抗して働く力です。
しかしそれも、ある瞬間、誰かに向ける憤りへと堕落することがあります。たとえば、考えより人の方が大切だということを忘れ、正義がしばしば抽象論、いわゆる原則の問題になってしまうときです。
怒りには、引き起こされる特有の仕方があります。ここまで、悪魔の攻撃がどう展開するかには、触れてきませんでした。
悪魔には、ゆっくり働くものと、突然働くものがあります。どういうことか、見てみましょう。
暴食は、ゆっくり働く悪魔です。背景の雑音のように潜み、やがて満たされます。一方、色欲は突然働く悪魔で、空想や頭に浮かぶ像によって、不意に襲ってきます。
これに対し、すでに見たように、きわめて理性的な貪欲は、ゆっくりと静かに働く悪魔です。必要で適切だと思える利己的な行為や、それに類する欺きを行うよう、少しずつ説得します。
怒りは、どちらの種類の悪魔でしょうか。色欲と同じく、突然働く悪魔です。一瞬で打ってきます。しかし少し独特なところがあります。潜伏して育つ領域があるのです。
怒りは、しばしば悲しみの中で育ちます。そのためエヴァグリオスは、ある論書では悲しみを先に置き、別の論書では怒りを先に置きます。実際、この二つは互いに養い合うからです。
ヘブライ語で怒りはアフという言葉で表されます。もともとは鼻の穴という意味です。怒ったとき、私たちはしばしば、無意識に鼻の穴を広げるからです。体の動物的な反射です。攻撃の準備をしているので、酸素を多く取り込みます……。同じように、怒ると血糖値が上がり、必要なホルモンが分泌されるのも特徴的です。肉体的な衝突が迫っているので、使えるエネルギーを増やすために、体は血液に糖を多く送り込みます。糖尿病の人に、腹を立てず、高血糖の発作につながりうる激怒には十分気をつけるよう勧められるのは、偶然ではありません……。
ヘブライ語の意味に従えば、憤りは呼吸を速めます。
ギリシア語では、興奮した気質を表します。言葉はオルゲーで、動詞オルギゾマイとともに、胆汁と結びついています。
ラテン語のイラという言葉は、持ち上げる、身を起こすという行為に由来します。
怒りには、大切な特徴があります。しばしば、目に見える悪徳であることです。憤ると、私たちは猛獣のように、つまり動物になります。非常に速い情念で、暴力を生みます。
エヴァグリオスたちによれば、魂には気概と感情の部分があり、そこでは思いや感情が、知覚や情動の動きに支配されます。そのことを思い出すと、怒りの悪魔がもっとよく分かります。
ロギスモイの体系への導入で見たとおり、気概と感情の次元に属する、秩序を失った情念は、怒り、悲しみ、アケディアであり、気分に関わります。自分の気分の奴隷である人は、幼いのです。魂の気概の部分は、感情的な刺激に反応します。「感情的な」に当たる言葉は、動かす、移すというラテン語のエ・モウェーレに由来し、理屈を伴わない機械的な動きを示します。
また、怒りっぽい人は、すぐ熱くなると言われます。
つまり、すぐに爆発寸前の状態になり、物事を絶対化する動物的な部分に、いつでも引きずられるようになるのです。
実際、怒りの発作は、まさに発作であって、筋道の通った行為ではありません。「分別を失う」「我を忘れる」「理性が働かない」と表されます。
怒りのロギスモスが、突然の力で私たちを支配すれば、私たちは自分自身を失います。
この「発作」は、どう働くのでしょう。怒りのロギスモスは、一つの知覚を絶対化することです。
一つの面を見て、それを絶対化します。しかし私たちは、すべてを見ているわけでも、すべてを覚えているわけでもなく、決してすべてを知りません。それでも、知っていると思います。知覚が、過大に膨らんでいるのです。
そして、なお悪い憤りがあります。冷たい怒り、魂の中で結晶化し、恨みになる怒りです。爆発せず、ひそかな復讐の計算になる怒りです。
この冷たく結晶化した怒りは、暴力にならないかもしれません。しかし、反感、権利の主張、悪口になります。それらは解決できません。一度も取り除かれなかった、遠い昔の憤りに、深く根を下ろしているからです。
怒りは、厄介な獣です。動物的な本能と紙一重で、生き残りを懸けた戦いとして、優位をめぐる決闘に向かうからです。
この悪魔を軽く扱ってはいけません。モーセさえ欺いたのです。侮れば、ただではすみません!
きっかけは、一つの情報の絶対化だと言いました。怒りっぽい人も、ほかの誰とも同じく、いつでもすべての要素を知っているわけではありません。しかし、すべて分かったと思います。実際、怒りで恥をかいたとき、弁解はこんな言葉になります。「そのことに気づかなかった……」「そうだとは考えなかった……」「知らなかった……」。
ですから怒りは、口実を利用しがちです。その場のきっかけから生まれる傾向があります。しかし、あれほど素早く飛び出すのは、先ほど触れ始めたように、育まれる場所があるからです。つまり、奥ではすでに充電されています。だから飛び出すのでもあるのです……。
怒りは、偶然に始まるのではありません。
口実が、怒りに火をつけます。必ず何かが引き金になり、小さな反対に遭っただけで、暴力と攻撃性のあらゆる特徴が現れることもあります……。クラクション一つ、あるいは些細なことに誰かが異を唱えるだけで、内にも外にも爆発が起こります。外の爆発は、時に隠されます……。ひょっとすると、ただ臆病だからです。
怒りっぽい人のなり損ないも、大勢います……。激怒する人として輝かしい経歴を歩めたはずなのに、気が小さく、内側で爆発するのです。逆流性食道炎や歯ぎしりに悩むか、あるいはカナリアやハムスターにだけ残酷になります。犬にはしません。危なすぎますから……。
問わなければなりません。怒りはどこから来るのでしょうか。潜伏して育つとは、どういうことでしょうか。
教父たちの定義では、怒りは二つの主な源から生まれます。
第一は、得られなかった善や、味わえなかった喜びに対する欲求不満です。つまり落胆、期待が裏切られた失望に根を下ろしています。
第二は、現実のものであれ、思い込みであれ、出会った不正に対する反応です。
第一の失望は悲しみを生み、悲しみは内側で、怒りの爆発を育て、養います。実際、怒りの発作は、しばしば満足感をもたらし、こう言わせます。「言うべきときには、言わなければ!」。よく分かっておけ、というわけです。
エヴァグリオスが、時に怒りを悲しみの後に置く、もう一つの理由がここにあります。
突然、調子を崩されないため、自分の中に蓄えられた怒りに目を向けるのがよいでしょう。つまり、根本まで行きたければ、怒りの貯蔵庫を空にする必要があります。
この貯蔵庫を理解する助けになる、パウロの文章があります。
「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。怒ったまま日が暮れるようであってはなりません。悪魔に機会を与えてはいけません[106]」。
ギリシア語のトポスは「機会」と訳されていますが、この場合、新しい訳の「場所」の方が適切です。つまり、悪魔に場所を与えてはいけないという意味です。
怒りの発作は、悪魔に明け渡した場所から生じます。悪魔を住まわせてはいけない場所があるのです。
怒りは悲しみによって準備されます。しかし、後に見るように、悲しみは貪りから来ます。何かを所有したい、何かをしたい、何かを持ちたいのに、それが得られない。そこで悲しみが来て、怒りの潜伏場所になるのです。
それは、不当な扱いを受け、切り詰められ、欠乏しているという、忍び寄る感覚です。多くの人が魂の中に抱く、雑音であり、つぶやきです。うまくいっていないと思うことへの不満であり、こうして私たちは、一度も理解も受容もしていないものを内にためる、煮えたぎる釜になります。しばしば、事実を確かめさえしていません……。
しかしそれらは、内なるトポスで発酵し、しばしば、直接の関わりの中ではなく、仮定の中で作り上げた、隔たり、憤り、敵意を、少しずつ織り合わせていきます。
私たちは相手に、「これは嫌でした。なぜそうしたのですか」と言っていません。ですから相手も、説明することができませんでした……。こうして、自分だけの物事の読み方が始まり、確かめてもいない解釈、動機への断罪、存在しない行間のメッセージの解読を養います。そして、自分の頭の中で相手がなってしまった怪物を倒そうと、今にも飛びかかる用意をするのです。
悪く考えるのは、破局的な思いを育てたからです。カインの場合がそうです[107]。彼は兄でありながら、弟を殺します。悲しみを育て、一つの行為への欲求不満を養ったからです。神に何かをささげましたが、神は受け入れられませんでした。現実がカインに求めていたのは、自分の行いを調べ、ささげ物のどこが間違っていたのかを問い、神を悪く考えないよう努め、なぜ自分のささげ物がふさわしくなかったかを理解することでした。農夫である彼は、初物ではなく、ただ土地の実りをささげます。一方、羊飼いのアベルは、群れの初子をささげます。聖書の世界では、その違いは根本的です。しかしカインは被害者意識を育て、それが怒りっぽさと破壊性へ、ついには弟の殺害へと導きます。カインについては、後でまた戻ります。
このトポスが内にあるかぎり、悲しみ、不幸、潜んだ怒りの場所があるかぎり、不平を言い続けるかぎり、自分が殺人者になりうることに気づきません。肉体を殺さなくても、誰かの命を軽んじるでしょう。
だから、受け入れていないものに、十分注意しなければなりません。自分の限界、困難あるいは不条理な出来事など、拒んでいる人生の側面については、神に寛大な「はい」を語り、真に信頼する行為をしないかぎり、そこから出られません。神のみ前に立ち、人生から突きつけられた「いいえ」に対する悲しみを、正直に明るみに出すことです。必要なら神のみ前で泣き、そのみ旨に身を委ねることです。絶え間ない不平で、自分一人で何とかしようとしてはいけません。その嘆きが陰にとどまり、光の力で相対化されなければ、もはや理性で整理できないものになります。そして、私たちの考えには、真実としての確かな重みがなくなります。
激怒には、時として非常に遠い昔から残る、この苦い思いが流れ込みます。
自分の中の拒絶の場所を成すものについて、考える必要があります。時には、子どものころから育てているものです。自分の人生と和解することは、生きるうえで決定的だからです。人生の「いいえ」を受け入れなければなりません。さもなければ、その拒絶は爆発する口実を探し、人との関係を壊します。
しかし、このトポスには奇妙な面があります。拒絶のための場所なのに、ほかのどんなものの場所も占領してしまうのです……。
怒りは、記憶に意地悪ないたずらをします。人から受けた過ちや苦痛は覚え、自分が犯した過ちや、受けた恵みは忘れます。
実際、怒りに関わる本質的な主題は、自分の罪を忘れることです。
怒りに囚われた心は、受けている不正や、目にする不正に注目します……。しかし二つのことを見ません。今、自分が壊しているものと、過去にすでに壊したものです。
主に見るのは、自分が何を奪われうるかです。怒りの中に、貪欲と、正義を振りかざす姿勢が染み込んでいるからです。一つの自分の権利を守るために、すでに持っている多くのものを壊していることに気づきません。しかし何より、自分自身の不正を忘れます。
「でも、相手は私がしたこともないようなことをしていて、客観的に私より不正な場合もあるでしょう!」と言う人もいるでしょう。確かに、ありえます。
これについて、福音に、有名でありながら逆説的な箇所があります。
「なぜ、兄弟の目にあるおが屑が見えるのに、自分の目にある丸太に気づかないのですか。自分の目の丸太を見ないで、どうして兄弟に、『兄弟、あなたの目のおが屑を取らせてください』と言えますか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができます[108]」。
それでも、先ほどと同じ人は、こう言うかもしれません。「では、なぜ相手のはいつもおが屑で、私のはいつも丸太なのですか。私より大きな罪を犯した人がいます! たとえばトト・リイナを、少しくらい批判してはいけませんか。トルケマダは? ヘロデは? ヒトラーやポル・ポトに、少し文句を言ってもよいでしょう。まったく……」。
したければ、してください。ただし、イエスが幾節か前に言われたことを、心に留めてください。
「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれません。人を罪に定めるな。そうすれば、あなたがたも罪に定められません。ゆるしなさい。そうすれば、あなたがたもゆるされます。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられます。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどのよい升で、懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその升で、あなたがたも量られるからです[109]」。
最後の一文が、いちばん気がかりです。
なぜか、見てみましょう。
問いを繰り返します。なぜ相手のものはいつもおが屑で、私のものはいつも丸太なのでしょうか。私はヒトラーの罪で量られているのでも、量られるのでもなく、自分自身の罪で量られるからです。私を今も、この先も罪に定めるのは、それらです。
私の目を見えなくし、判断できなくするのは、私の過ちであって、相手の過ちではありません。
他人の罪は私を苦しめ、肉体の命を奪うほど、ひどく苦しめることさえあります。しかし、私を評価し、私が何者かを語るものには、決してなれません。自分を裏切らせ、物事を見えなくするのは、私自身の罪です。私を自分の影のようにし、自分の美しさを失わせるのは、それなのです。
イエスは、本当の自由を土台に、この話を組み立てられます。私たちの誰にも残されている自由です。たいてい私たちは、他人の罪を自分の内に取り込むことで、その自由を安売りします。
私のものはいつも丸太で、相手のものはいつもおが屑です。神が私に責任を問われるのは、ヒトラーやポル・ポトの罪ではなく、私の罪だからです。私を地獄へ行かせるのは、それらの罪です。今日すでに、地獄へ送り込みさえします。地獄とは、罪が私たちにもたらす孤独だからです。
愛することをやめ、人との関係を壊すときに生きているのは、地獄ではないでしょうか。平和も、喜びも、和解もないことは、地獄ではないでしょうか。光に満ちた何千人もの聖人の中にいても、心が頑ななら、私は地獄にいるのです。
アウシュビッツで、死を待つ独房に、拷問する者たちの中にいても、マキシミリアノ・コルベのように、愛に満ちた心を持ち、楽園にいることもできます。
私が何者なのかについて、最後の言葉を他人に語らせることは、受け入れられません。それを受け入れれば、結局、操り人形になります。キリスト者かどうかにかかわらず、人間の美しさを示したすべての男女は、いつもこの偽りに従いませんでした。
私の人生の本当の問題は、私の罪です。逆もまた真実だからです。私の人生の本当の恵みは、私の愛です。
しかし、過ちは重くのしかかります。自分の愚かさの重荷を、背負い続けなければなりません。
この重荷には、二つの解決策がありえます。怒りっぽい人の解決は、他人への憤り、他人の弱さを見つけたときの喜び、そして後で見る裁きです。必要なら、残虐さも加わります。自分より悪い誰かを探し、その人に烙印を押して軽蔑することで、重荷を下ろし、誰よりも自分が優れていると感じて、ほっとするのです。
これに対し、主イエスが天からもたらされた解決は、あわれみです。主が私たちに示されるあわれみ、そして、私たち自身のあわれみです。裁かず、裁かれないこと。罪に定めず、罪に定められないこと。ゆるし、ゆるされること。しかし、なぜでしょうか。
私たちが量るその升で、私たちも量られるからです。これが、気がかりな言葉です。少しでも真実なら、実に重大です。もし神が、私ファビオ自身が何度も示してきたのと同じ厳しさ、同じ冷酷さ、同じ理解のなさで私を量られるなら、私は救われません。どうあってもです。
私のためには、升を広げた方がよいのです。人を罪に定める余裕はありません。私はあわれみによって生きているからです。神が私の罪の勘定を請求されれば、逃げ道はありません。
誰であれ、罪に定めるという贅沢を許せるほどの蓄えは、私にはありません。それなのに、その贅沢を自分に許しています。何度したか、神だけがご存じです。
この言葉は、とても重いものです。
最後の審判がどうなるかを、告げているようです。私は裁判官の前に連れて行かれます。裁判官が顔を上げ、私を見ると、その顔は私の顔です。私の顔の、最悪の姿。人を罪に定め、厳格で、意地悪だったときの顔です。私は滅びるでしょう。救われません。
この言葉は逆説的で、真実でないことを願うしかありません。主は、正義を振りかざす私の妄想から目覚めさせ……升を広げさせるために、この言葉を告げられます。
いいえ、まさに、他人のおが屑を取りにかかるわけにはいきません。自分の丸太で手いっぱいです。私を救えるのは、神のあわれみだけです。
自分の罪を忘れるのは、賢いことではありません。記憶が神のあわれみによってあがなわれることが、解放です。しかしそれは、忘れることについて導入部で見たように、消し去ることではありません。
聖書で最初に怒りをあらわにした人、カインに戻り、その仕組みも見ましょう。彼は、自分の過ちを分析することをやめ、幼い被害者の読み方をし、殺人に至ります。
神はそれを、かなり含みの深い言葉で、はっきりと告げられます。
「主はアベルとそのささげ物に目を留められたが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。カインは激しく怒り、顔を伏せた。主はカインに言われた。『なぜ怒るのか。なぜ顔を伏せるのか。正しく行うなら、顔を上げられるではないか。正しく行わなければ、罪は戸口にうずくまり、お前を求めている。お前は、それを治めなければならない[110]』」。
すでに言ったように、カインは、神が受け入れられなかったことに理由があるのかもしれないとは、夢にも考えません。いや、神が悪いに決まっているのです。何かを許してくれない母親に向ける、子どもの理屈です……。
しかし神は言われます。なぜ腹を立てているのか、問うてみなさい。子どものように、わたしに向かって口をとがらせている。正しくしていたなら、こうはならなかった。しかし、今のように、わたしにばかり気を向けていると、お前の戸口には、獣がうずくまっている。カイン、その戸を閉じなさい。この憤りがどう終わるか、お前には分からない。どんなことでも、してしまいかねないのだ。
その戸を閉じなければなりません。
エヴァグリオス・ポンティコスが言うように、怒りは、
「思慮を奪い、よい状態を壊し、本性を混乱させるもの、野獣のような振る舞い、心の炉、燃え上がる炎、短気の規範、侮辱への憤り、野獣の母」だからです[111]。
殺人者は皆、自分を被害者として考えます。
殺人を犯した人の話を聞けば、自分がどんな苦しみを受けたかを語ります。妻を殴る男性と話せば、必ず何か責めることを持っています。いくら困惑しても、実際そうなのです。
戦争は、すべて予防戦争です。ジョージ・W・ブッシュが、新しいことを発明したのではありません。攻撃しようとしているのは相手であり、好戦的なのは相手です。だから、相手を殺さなければならないのです。
被害者意識から、暴力へと至ります。
また怒りは、被害者意識から始まり、正義を振りかざす姿勢へ変わり、残虐さに陥る循環と結びついていることも、覚えておかなければなりません。怒りっぽい人は、自分を被害者と見なし、それによって、正義から埋め合わせを受けるべきだと考えます。そして正義を絶対化すると、獰猛で残酷になることを自分に許します。
子どもは、そう振る舞います。マフィアも、そう考えます。犯罪者が犯罪を自分に許す、誤った推論は、巧妙です。順調な犯罪者の経歴の背後には、現実のものであれ、思い込みであれ、受けた不正、傷つけられた名誉、敬意を欠いた扱いの物語が、必ずあります。
怒り狂う群衆、競技場のサポーター、そのほか大勢も、同じ理屈を用います。
私たちには、怪物が必要だからです。怪物を見つければ、処刑することができます。ひょっとすると、ついには拷問して。
気分よくいるため、誰のせいかを知るために、怪物が必要です。何より、自分のせいではないとするためです。
社会は、敵を土台にして、結束を築きます。
犯罪報道は、スポーツ以上に人を引きつけます。それだけでも相当なことです。
ローマとラツィオのサポーターが仲よくする唯一のときは、イタリア対フランスの試合です。フランス人は、憎むには格好の敵です。あれほど近くにいて、あれほど自国中心なのですから……。彼らのせいです!
一緒にいるには、二つの道があります。一つは仲よくすることですが、これは簡単ではありません。もう一つは、誰かの悪口を言うことです。そうして一致が生まれます……。
怒りを静めるには、被害者意識のロギスモスを振り払わなければなりません。そのためには、自分の罪、自分の過ちを思い出し、自分が他の誰かより優れているのではないと、思い起こすのが役立ちます。
決して満足しない、正義の悪魔も退けなければなりません。国家には、自らの法を守らせる、奪われえない権利があります。それはそれとして、この地上で真の正義を実現できるのは、私たちではありません。すべてをご存じで、すべてができる神のみ手に委ねなければなりません。
さらに、自分の多くの言動の中に隠れている獰猛さ、残虐さから、おぞましいものとして逃れなければなりません。しばしば気づくのが遅れる、こうした現れを退ける必要があります。
詩編130は、こう言っています。
「主よ、あなたが罪を心に留められるなら、
主よ、誰が耐えられるでしょうか」。
聖人たちは、アシジのフランシスコのように、神のみ前で自分の罪を泣き悲しみます。一方、内的生活が浅薄な人は、自分を正しいと思い、いつも責める相手を持っています。
魂の成熟は、その柔和さによって分かります。魂の未熟さは、その不寛容によって分かります。
寛大さ
「寛大さは賢明の盾、怒りの法廷、心の薬、思い上がる者への懲らしめ、苦しむ者の安らぎ、静かな港、悩める者への善行、すべての人への親切、中傷に対する祝福、侮辱に対する喜び、不安な者への慰め、待ち望むものを映す鏡、苦難にある者の報いである[112]」。
(エヴァグリオス・ポンティコス)
貪欲は怒りと悲しみの母です。この二つは、互いを刺激し合う関係にあります。ただ、怒りに固有なのは破壊性です。そのロギスモスは正義の名において、悪を行い、どんなものでも滅ぼすことを許すからです。
怒りの反対は何でしょう。聖霊は、この悪霊からどのように私たちを救い出してくださるのでしょうか。
マタイによる福音書で、山上の説教を開く八つの真福の教えのうち、第三の教えから説明しましょう。
「柔和な人々は、幸いである。
その人たちは地を受け継ぐ[113]」。
柔和な人とは、その言葉の定義からして、暴力に暴力で応じない人です。敵意を向けられたときでなければ、その人が柔和かどうかは分かりません。何かの対立が生じるまでは、穏やかで、和を重んじるように見える人もいます。柔和な人の真価は、攻撃されたときに現れるのです。襲われたり侮辱されたりしたときに暴力で応じるなら、柔和ではありません。
私があなたを侮辱しても、穏やかに応じるなら、あなたは柔和なのかもしれません。あるいは、臆病なのかもしれません。それは確かめる必要があります。
イエスは、柔和な人々が地を受け継ぐと言われます。
どういう意味でしょう。どんな争いも、基本的には土地を奪うため、あるいは自分の場所を守るために起こるのだとすれば、これは逆説です。
真福の教えのすべてに、また福音の多くの箇所に見られるように、イエスは逆説的な言葉を使われます。逆説に自分を問い直してもらうつもりがない人は、福音書ではなく、ミッキーマウスの漫画『トポリーノ』でも読んだほうがよいでしょう……。
柔和な人が手に入れられないものがあるとすれば、まさに土地です。地を支配するのは暴力を振るう者、力ずくで押し通す者です。それを所有するのは戦争に勝った者であり、争いに加わらない柔和な人々では、決してありません。
しかし聖書では、「地」という言葉には特別な意味があります。とりわけ「受け継ぐ」という動詞と結び付くときには、そうです。
聖書の壮大な歴史は、一つの地を軸に巡っています。アブラハムが旅立った先の地、エジプトの奴隷状態から解かれた後、荒れ野を歩いて目指した地、そして捕囚の民が帰るべき、あの地です。
地を所有するうえで決定的なのは、ヨシュア記に語られる征服のときです。イスラエルの各部族は、それぞれ自分たちの領地を得ます。そしてそれは、直ちに「受け継いだもの」と呼ばれます。父から受け取る遺産のようなものです。ヨシュア記の戦いの記述に見られるように、それを与えられるのは神だけでした。
そのとき以来、各部族も、イスラエル全体も、自分たちの相続地、つまり自分たちの領地を所有します。
列王記上の第二十一章の出来事は、象徴的です。欲深い王アハブが、ナボトというイスラエル人のぶどう畑を自分のものにしようとします。しかしナボトは、次のように答えて、譲ることを拒みます。
「先祖から受け継いだ土地をあなたに譲ることなど、主がお許しになりません[114]」。
物語はその後、アハブの妻イゼベルの横暴へと続きます。彼女は偽りの告発によってナボトを殺させ、アハブがぶどう畑を奪えるようにします。
気の毒なナボトの言葉には、深い意味があります。あのぶどう畑は、ただの土地ではないのです。実際、アハブは最初、買い取るか、もっとよい土地と交換しようと申し出ていました。しかし、あのぶどう畑は土地以上のものです。ナボトの返事から、アハブは、あの土地は決して手に入らないと悟ります。この「以上のもの」とは、何でしょう。
ただのぶどう畑ではなく、受け継いだもの、すなわち主がその一族にお与えになったものです。一族の救いの歴史の場所、先祖のあがないの記憶です。一族が自由を得た場所であり、約束の地、神が約束してくださった地なのです。
それは、神のすべての約束を象徴するものになります。そして究極的には、神が私たちを生きるように招いてくださった、その目的である天国になります。
モーセが、怒りの衝動のために、まさにその地を失ったことを思い出しましょう。イエスは第三の真福の教えで、本当の「地」をどう受け継ぐかを示しておられます。
すべての男性にも女性にも、待っている相続地があります。自分のために備えられた自由の場所があり、天の国を見いだすための選びがあります。
私は、物心ついて以来、自分が本当の自分でいられる場所、ようやく家に帰ったと感じ、自分の最もよいものを引き出せる場所のために生まれた、と感じています。私はいつもそこへ向かって歩いています。キリストと出会う前は、満たされたふりをさせる代用品で妥協しながら、独りで探していました。主はその場所を示し、体験させてくださいました。それが、私の人生の方向を定める目的地です。私の自由、私の愛であり、神だけがお与えになれるものです。それは私のものです。神は私の父であるゆえに、ほかならぬ私に与えてくださるからです。
それは、私の使命、私の輝き、私の平和です。
アブラハム以来、神に属するすべての男女が目指してきたこの相続地へと歩み始めなければ、私は小さなものだけで生きることになります。
ナボトと同じように、この相続地を譲るわけにはいきません。
これこそ、本書全体で述べている私の戦い、聖パウロの言う「善い戦い」です[115]。続けるべき戦いはこれだけであり、誰も傷つけません。
イエスの言われる柔和な人は、言いなりになる人、黙って耐える弱い人ではありません。よりよい地のために戦い、恨みや口論に、約束の地を奪わせない人です。
ここで、好戦的でないことは、気が小さいことを意味しません。反対に、心が大きいことを示します。
この地上の戦いを手放すことで、天を受け継ぎます。いずれ取り上げられるもののために腹を立てるより、もっとよい、守るべきものを持っているからです。
ですから柔和さには、執着を離れることと同じ知恵があると分かります。怒りが貪欲から来るように、怒りに対する勝利は、物への依存に打ち勝つことから生まれます。
腹が立つたびに、自分に問うてください。何のために怒っているのか。何を守っているのか。それだけの価値があるのか、と。
エヴァグリオス・ポンティコスが、怒りの反対を指すために使う語は、「マクロテュミア」です。広い、長い、大きいを意味するマクロスと、気概や勢いを意味するテュモスから成る言葉です。後者は内なる動きを表す動詞テュオーに由来し、激しく、勇んで動くことをも意味します。つまり、大きく、広く、長く続く気概です。イタリア語では、マクロテュミアを文字どおりに「寛大さ」、または「気長さ」と訳します。
この態度は、決して受け身ではありません。大きなものへの願いや憧れを含んでいます。
大きく、広く、長く続く内面の生活を持つ、ということです。
これに対して、怒りっぽい人は、基本的には気が小さいのです。本人はまったくそう思っていなくても、小さなことに執着します。小さな望みを信じ、細部や大げさな言葉にしがみつき、口実を山ほど抱え、本当に大切なものを見失います。怒るとき、私たちは自分の心の小ささ、狭さをさらします。実際、気の小さい人でも、暴力の振るい方は知っています。逆説的ですが、暴力は、人間の本性の中で最も気の小さい部分に属するのです。
人間の本性は高貴です。いつでも、どんな形でも暴力を使う人は、人と関わるすべも、伝えるすべも知りません。力の言葉しか知らず、対話する勇気がないのです。
聞いて理解するには勇気が必要です。小さなものを守るのをやめ、本当の地、自分の心とその光を持ち続けるにも、勇気が必要です。
実際、寛大さは、人との関係をめぐる戦争に勝つため、一回の戦いの勝利を手放すよう導きます。物を失うよりも、兄弟を失うほうが、はるかに重大だと見抜くことです。
ここでもまた、根に貪欲があると分かります。正義を振りかざす凶暴な悪霊の欺きは、一つの喪失を絶対視し、本当に大切なものを見失わせます。
本当の挫折とは何か、問わなければなりません。財を失う挫折もあれば、平和や愛、善を失う挫折もあります。
本当の危険は何でしょう。本物のいのちを失うことです。面目のため、口論のため、筋を通すために、そのいのちを危険にさらしています。
そうです。兄弟と和解するときに心に入ってくる、あのいのちにこそ、貪欲であるべきです。
先に述べた七つの聖堂巡礼で、聖フィリポ・ネリが怒りに対置する聖霊の賜物は、孝愛の賜物です。神が自分をどう扱ってくださったかを思い起こし、そこから優しさが生まれる賜物です。実際、日常の言葉では、隣人に心を開く優しさの一つを指すようになりました。しかし、本来は神への感謝の思いを指します。
巡礼では、ティベリーナ島の聖バルトロマイ聖堂から、城壁外の聖パウロ大聖堂へ向かう道で、孝愛の賜物を願います。四キロ以上あるので、時間はあります。
私は若者たちに、アヴェンティーノの丘に着くまでは沈黙を守り、生まれた日以来、人生で頂いた賜物を思い起こすよう頼みます。丘に着いたら、いくつかの組に分けます。そして聖パウロ大聖堂まで歩きながら、一人ずつ、自分の人生の賜物、恵みを、少なくとも三つ、皆に話してもらいます。
こうして夜、若者たちは、感謝を分かち合う道を歩きます。
聖パウロ大聖堂に着くと、次の一歩を踏み出すよう頼みます。自分を傷つけた人をゆるすことです。
そして、ゆるす人は、受けた悪から癒やされるのだと説明します。どんな悪を受けたときも、二つの不正を強いられます。一つは悪そのもの、つまり、実際に受けた不正です。もう一つは、人生にその刻印が残ることです。悪が内にとどまり、苦々しさや悲しみや恨みが、その後も代償を取り立て続けます。食べたピーマンが、いつまでも胃からこみ上げるように……。
受けた悪を乗り越える、理にかなった方法は、ただ一つです。ゆるすことです。均衡、健やかさ、解放に関わる問題です。不思議なことに、自分を苦しめた人をゆるすと、その人は私たちへの力を失います。
そこで私は若者たちに、それぞれ離れたところで、自分や大切な人を傷つけた相手のために祈るよう頼みます。泣く人もたくさんいます。しかしその後、思いがけない優しさを心に見いだす人も、大勢います。
これは、まさしく感謝の働きです。神の寛大さを思い起こし、頂いた数々の賜物を忘れません。だからこそ、贈り物から、ゆるしへと至る道を開きます。「ゆるし」を表すペルドン、贈り物を超える贈り物、賜物の中の賜物へと。
ですから、怒りとは感謝によって戦います。頂いた賜物を思い起こし、そこからあわれみへと進むのです。
ここで、どうしても言っておかなければならない、当然のことがあります。でも、簡単ではありません! ゆるすのは難しいことです!
そのとおりです。本当にそのとおり。難しいのです。
どうすればよいかを理解しなければなりません。いくつか説明しますが、聖霊が私たちの心に御自分のあわれみを与えてくださる道は、数多くあります。
最も役に立たないことの一つは、頭の中だけでゆるそうとすることです。ゆるすのがよいと納得し、その理由をすべて探し、一種の「ゆるす義務」を唱え、それを実行しようとする……。どれも役に立ちません。頭から心へと移らなければ、消えてしまうものを相手にしているからです。この理性的なゆるしが無益だということは、しばしば認められません。湯気のように実体がなく、ゆるしたと言っている相手に二度目に会っただけで、存在していなかったことが明らかになるのです。
「いやいや、あの人はゆるしました。会えば笑顔で挨拶もします。でも、もう付き合いたくありません」といった、何よりも自分自身を欺く言葉を聞くのは、うんざりするものです。何をゆるしたのでしょう。敵意の度合いが変わっただけです。憎しみが、隠した嫌悪になっただけです。確かに危険は少ないでしょう。しかし、「ゆるし」という言葉を大げさに口にしないでください。そんなつまらないものではないのです。
ゆるす義務という考えは、ただの考えです。ガベルも歌っていました……。どんな歌詞だったでしょう。
「ある考え、ある概念、ある考え。
考えにとどまる限り、それは抽象にすぎない。
もし考えを食べられたなら、
私は自分の革命を成し遂げていただろう[116]」。
ゆるすという考えから、実際のゆるしへ移るには、別の何かが必要です。それでも、多くの人、しかもしばしばキリスト者が、この偽善を続けています。
受けた仕打ちをゆるそうとする、もう一つの役に立たない方法は、相手の動機を理解しようとする、高潔な試みです。相手の身になり、その限界を見ようとし、誤った態度の背後には、必ず知るべき事情があり、もっともな理由があると理解しようとします。あらゆる言い訳や逃げ道を探すのです。
悪いことではありません。しかし、それが通用するのは、受けたことが軽い場合だけです。相手の動機を分析するほど落ち着いているなら、すでに障害を越えているか、越えつつあるということです。けれども、尊厳を傷つけられ、内で血を流している人は、受けたことの言い訳になりそうなものを調べようとは思いません。ずっと後になってさえ、苦しみや痛みに息を詰まらせているからです。「理解しようとしているんだ」と言う。そう、試みてはいます。そして、かえって腹が立つかもしれません。あなたの身になったら、自分があなただったら、あなたのしたようなことは絶対にしなかったはずだからです! 怒りはさらに強くなります。理由を探せば必ず見つかるというのは、本当ではありません。むしろ逆です! 見つかった理由に、ぞっとすることさえあるかもしれません。
悪は非論理的で、無秩序です。自分自身の悪さえ説明できないことが多いのに、他人の悪なら、なおさらです。悪と戦うとき、デカルトも、明晰で判明な観念も、何の役にも立ちません。
ゆるしに向けた試みには、多くの失敗があります。しかし、特によく追い求められるのは、感傷主義です。感情に訴える手段を用いて、内面を一気に崩そうとします。できることなら、昔ながらの罪悪感も余さず使います。パセリのように、どこかで必ず使い道があるからです。
しかし、ゆるしの涙を一滴流させた、その場限りの化学反応を、いつまでも保つことはできません……。ホルモンの嵐が静まれば、よそよそしさと軽蔑に満ちた、冷たい、時には冷笑的な静けさがやってきます。それでも皆、ゆるす気持ちを起こそうとします。心地よくても、もろくて偽善的な、いい人ぶった態度を作り出すために。
ここまでにしましょう。別の本では、さまざまな種類のゆるしの手紙を、楽しんで書きました。自著ですが、注に挙げておきます[117]。
私たちには、もっと別のものが必要です。
どこから始めればよいのでしょう。何を手本にすればよいのでしょうか。
聖書で最初にゆるしが語られるのは、創世記の第三十七章から第五十章までです。第三十八章は除きます。ヨセフの、悲劇的でありながら崇高な物語です。
ヨセフは、ヤコブの十一番目の息子であると同時に、父に愛された妻ラケルの長男でもあります。母に似て美しく、聡明で、才能があり、深く、高貴で、そのほかにも、すでに十七歳で多くの長所を示しています。父は彼を特別に愛する様子を隠そうともせず、そのため、兄たちの殺意を伴う嫉妬に火をつけます。
兄たちは機会をつかみ、通りかかった商人に彼を売って、その人生を壊してしまいます。ヨセフは、やがてエジプトで奴隷にされます。
ヨセフの姿は、イエスを鮮やかに前もって示しています。しかも苦しみは、この裏切りでは終わりません。偽りの告発、投獄、忘れ去られることを経験します。ただ、彼には一つ、根本的な特徴があります。どんなことにも、正しい側から取り組むのです。
どんな苦難にあっても、ヨセフは善を探し、何かよいことをする道を探します。そして、父とのよい関係は、その後仕えるすべての主人との間で繰り返されます。初めに仕えたエジプト人、次には牢の責任者、最後にはファラオ自身です。彼は目覚ましく身を立て、ついにはファラオに次ぐ、エジプトで最も権力ある人になります。
そしてあるとき、自分を売り、裏切った十人の兄たちと向き合います。兄たちはヨセフだと気付きません。
そこでヨセフは、名乗る前に、賢明で思いがけない働きかけを始めます。それによって兄たちを真実へ、そして罪によって消し去っていた記憶へと導きます。
時が来ると正体を明かし、恨みを抱かずに兄たちを迎え入れ、老いた父を呼び寄せます。父は彼の腕の中で亡くなります。
この物語を照らし出すのは、父の死後に起こったことです。兄たちは、父ヤコブがいなくなれば、もはやヨセフの復讐を思いとどまらせるものはないのではないかと恐れます。そして、父が亡くなる前に、兄たちをゆるすように言い残したのだと、ヨセフに伝えさせます。
復讐するつもりだと思われたヨセフは泣きます。兄たちが自分を恐れており、父の遺言の話も、うそであり、無用なものだと分かったからです。
そして、その心のように輝かしい答えを返します。
「ヨセフは言った。『恐れることはありません。私が神に代わることなどできるでしょうか。あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、今日のように、多くの民の命を救うようにしてくださいました。ですから、恐れることはありません。私があなたがたと子どもたちを養います。』こうして彼らを慰め、優しく語りかけた[118]」。
ヨセフの言葉を、よく理解しましょう。
まず彼は、自分は神に代わる者ではないと言って、話の次元を変えます。痛みを前にしたときには、いつもこれが必要です。より高い次元へ移り、見方を変えることです。
しかし、最も大切なのは、そのあとに続く言葉です。すでに正体を明かしたときにも述べていたことであり[119]、彼のゆるしの土台を成しています。
ゆるそうとして失敗するのは、直接の道を進めると思うからです。「私が、あなたを、ゆるす」。モノポリーの言い方なら、スタートのマスを通らずに、です。不可能です。それは、自分だけを頼みとし、英雄的で、自己犠牲的で、力ずくの試みです。
はっきりさせておきましょう。これはキリスト者の書いた本です。怒りを抑える技法や、ニューエイジ風の心理論を教えているのではありません。ここで示そうとしているのは、キリスト者が充実へと向かう道です。技法ではなく、イエス・キリストの神との、真実の関係から成る道です。
非常に重要なことを、謙遜に受け入れなければなりません。聖パウロが言うように、神はあわれみに富む方です[120]。あわれみは神の本性であり、神のうちで、最も豊かなものなのです。
あわれみとは、神御自身です。神を通らなければ、私のできることは、小さな範囲にとどまります。
神は、私にも、私がゆるすべき相手にも、あわれみを注いでくださいます。
ヨセフは私に言います。あなたがたは悪をたくらんだ。しかし神は、別のことを考えておられた、と。
自分であなたをゆるそうとするのは、本当は、自分に求めすぎているのです。しかし、神を通ることならできます。
聖パウロは言います。
「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは、人であるキリスト・イエスです[121]」。
キリストは、私と神の間だけでなく、私と兄弟たちの間の仲介者でもあります。キリストが仲介者でなければ、私は未熟なまま出来事に向き合い、自分を傷つけます。実際、そうする人は大勢います。
どういうことでしょう。たとえば、私が中傷されたとします。最も大切な人々との関係を壊した相手と、顔を合わせることもあるでしょう。この出来事だけを見つめるなら、どう抜け出せばよいか、分かりません。
しかし神は、私の父であり、私を中傷した人の父でもあります。
キリストは、私たちの間の唯一の仲介者です。
この出来事と私の間を、キリストに通っていただかなければなりません。
私は、歴史の第一原因である神が、私たちの罪にもかかわらず、すべてを救いへ導かれることを思い起こします。そして振り返ると、あの苦難が、実は私を救ったのだと分かります。あの痛みがなければ、今の自分ではなかったと認めます。すると、分かり始めます。一方で、神が……
「誰にも不敬虔であれと命じたことはなく、誰にも罪を犯す許しを与えたことはない[122]」……のは、確かです。
ですから、あの気の毒な人が私を中傷したのは、善いことではありません。しかし、その曲がった線の上にも、神はまっすぐに書いてくださいました。神は、死からいのちを引き出すすべをご存じです。私たちの最大の罪、御子を苦しめ、殺したことから、私たちのあがないを引き出されたのです。
ここで私の頭は止まります。なぜ、どのように、という説明はできません。それでも、私の受けた悪は、私の救いの歴史の中にあります。
善へ向かう私の道は、自分が受ける悪をも通ります。神がそれを望まれるからでしょうか。違います。繰り返しますが、神は誰にも、罪を犯す許しをお与えになりません。しかし、ヨセフの中に見たように、起こることを神の名において受け入れるなら、すべてはいのちになります。
神の摂理とあわれみが、自分の罪と他人の罪から私を成長させ、死ではなく、いのちのうちを歩くことを学ばせてくださらなかったら、私のしてきたわずかな善を、誰がなし得たでしょうか。
私を傷つけた相手のために祈り始めると、そこに多くの摂理が見えてきます。しかし、私のゆるしにとって最大の敵は貪欲です。悪によって奪われたものを失うことを受け入れなければ、行き詰まってしまいます。
その出来事によって貧しくされるに任せ、神に御国へ入れていただく必要があります。そして、神御自身の豊かさ、あわれみを頂くのです。この交換は、ずいぶん有利です。相手に奪われたものと引き換えに、神の愛が私の心に入るのですから。
何度も、こうする必要があるでしょう。自分を貧しくするものを通して、神に救っていただくのです。
私たちは、いつまでも救っていただく者です。
これこそ、魂を広げ、神の働きのために内面の空間を開き、違う見方を受け入れることです。自分の痛みだけに閉じこもり、そこに固執し、態度を変えようとしない、小さな心でいることをやめるのです。
私にはゆるせません。それでも神は、相手が私にした悪から、善を引き出すすべをご存じです。それを見ると、解放され、心が静まります。しかし、失ったものに執着していれば、何の役にも立ちません。そうでなければ、ゆるしが心に入り、相手のための場所を空けてくれます。
怒りについてエヴァグリオスが挙げる反駁の一つも、この方向を向いています。誘惑をどう示しているか、見てみましょう。
「人から加えられる侮辱は、主が試練を受けることをお許しになるときに起こるのだと、理解しない魂に対して[123]」。
その魂には、神が侮辱を許されるのは、試され、摂理を経験することで、私たちが成長するためである場合もある、と分かりません。ただ侮辱だけを見て、怒りを心に迎えます。
そこでエヴァグリオスは、怒りに関わる、もう一つの重要な箇所を探し当てます。サムエル記下です。ダビデは、自分が王位を継いだサウルの子孫から、呪われています。この男は、ダビデが災難に陥った機会を捉えて、侮辱し、呪います。ダビデは、息子アブサロムが自分を殺して代わりに王になろうとしているため、逃走中でした。
そこでアビシャイらの従者は、ダビデのために報復しようとし、呪っている男を殺す許可を求めます。しかしダビデは、こう答えます。
「ダビデは、アビシャイとすべての家臣に、さらに言った。『見よ、私の体から出た息子さえ、私の命を狙っている。このベニヤミン人なら、なおさらではないか。放っておけ。呪わせておけばよい。主がお命じになったのだ。ひょっとすると、主は私の苦しみを御覧になり、今日の呪いに代えて、善いことを返してくださるかもしれない[124]』」。
自分の息子さえ私を殺そうとしているなら、この昔からの敵が何をしようとするか、想像してごらん。しかし主がおられる。主は、この屈辱に代えて、善いものを下さるかもしれない。この男は私を侮辱するが、私たちの上には神の計画がある。自分に起こることは、神の御手にある。主は、ここから何を引き出そうとなさるのだろう、と。
歴史は、ダビデが正しかったと証明します。
怒りに従わないとき、神の驚くべき業が現れます。
この章の冒頭に引用した文章をたどりながら、エヴァグリオス・ポンティコスが寛大さをどう描いているか、見てみましょう。
「寛大さは賢明の盾」。どういう意味でしょう。賢明とは何か、思い出す必要があります。八月にウールのセーターを着たり、カーブを時速三十キロで走ったりすることではありません……。ラテン語のプルデンスは、プロウィデンスを縮めたもので、これはプロウィデーレ、文字どおりには「先に見る」という動詞の分詞です。つまり、目標をよく見据え、目的に従って動く知恵です。要するに、目標を達成する能力です。実際、怒りは心の小ささとして現れます。受けた不正という、ただ一つの見方に閉じ込められるのです。それに対し寛大さは、視野を広げることで、目標に到達する力を守ります。何度でも思い出しましょう。モーセは、ある一瞬を絶対視したために、目標であった約束の地を失いました。
寛大さは「怒りの法廷」です。つまり、寛大さによって初めて、怒りを裁き、評価できます。怒りは、自分で自分を評価できず、自分のばかばかしさを認められず、誤りが見えない、ということです。寛大さは、文字どおり、大きなものに向かう姿勢であり、怒りを相対化する尺度を持っています。
「心の薬」。すでに述べたように、怒りは受けた傷から生まれます。本当に癒やされるのは、ゆるす人だけです。復讐や恨みは、自分を傷つけた人と、同じ構えで向き合い続けさせます。主は、ゆるすことで、私たちもゆるされると言われます[125]。他人にあわれみを与えるからこそ、過去の恥じていることについて、ようやく自分に対するあわれみを感じられるのかもしれません。
「思い上がる者への懲らしめ」。思い上がる者は、まさに、思い込みます。怒るとき、自分はすべてを受け止め、考慮したと思い込みます。判断を誤ったと、認めざるを得なかったことが、どれほどあるでしょう……。怒りに駆られると、状況を成すほかの要素を考えません。あとになって、相手はそれほど悪いことをしていなかった、理解できる事情でやむを得なかった、自分はもっと穏やかで忍耐強くあれた、と分かることがよくあります。寛大さは、私たちの内にある思い上がりを、たしなめるものです。
「苦しむ者の安らぎ、静かな港」。怒りは眠りを奪い、寛大さは、罰し、裁きを実現しなければならないという重荷から解放します。受けた侮辱から、平和こそすべてだという、まったく正当な思いへと注意を移せば、安らぎに近づきます。
「悩める者への善行」。相手が私たちにする悪は、その人の苦しみの実であることが、とてもよくあります。しかし、それが見え始めるのは、その悪に落ち着いて応じたときだけです。そうしなければ、先ほど述べたように、同じ構えで向き合ってしまい、平和はさようなら、です。
「すべての人への親切」。寛大な人は、えこひいきせず、善人と悪人、ふさわしい人とふさわしくない人を分けません……。自由だから親切なのであって、相手がそれに値するからではありません。
「中傷に対する祝福」。これは福音であって、行儀のよさではありません。呪う人を祝福するとは、正義を神の御手に委ね、神の業に心を開くことです。愚かさでも服従でもなく、自由であり、悪に引きずり込まれない力です。悪に善で応じるのは、受けた悪から賢く自分を守ることです。先ほど述べたように、他人の悪を自分の内に取り込まないことなのです。
「侮辱に対する喜び」。なぜ侮辱を受けて喜ぶべきなのでしょう。この表現は、アシジのフランシスコの「真の喜び」の話と響き合います。注にも記しますが、この話に光を当ててくれたのは、こうしたことを教えている、私の大切な長年の友、アルチェオ・グラツィオーリ神父です。
「同じ場所で、同じレオナルド修道士が語った。ある日、聖母マリアの聖堂にいた福者フランシスコは、レオ修道士を呼び、『兄弟レオ、書いておくれ』と言った。レオは、『はい、用意ができています』と答えた。『真の喜びとは何か、書いておくれ』とフランシスコは言った。
『使いの者が来て、パリのすべての学者が修道会に入った、と告げる。書いておくれ。それは真の喜びではない。また、アルプスの向こうのすべての高位聖職者、大司教、司教も、さらにはフランス王もイングランド王も入ったという。書いておくれ。それは真の喜びではない。また、私の兄弟たちが異教徒のところへ行き、すべての人を信仰に導いたという。また、私は神から非常に大きな恵みを頂いているので、病人を癒やし、多くの奇跡を行うという。言っておくが、これらのことの中に、真の喜びはない。』
『では、真の喜びとは何ですか。』
『私はペルージャから帰り、真夜中にここへ着く。泥だらけの冬で、冷え込みが厳しく、修道服の裾では冷たい水が凍ってつららになり、絶えず脚を打ち、傷から血が流れる。泥と寒さと氷に包まれながら戸口に着き、長い間たたいて呼ぶと、一人の兄弟が来て、「誰だ」と尋ねる。私が「兄弟フランシスコだ」と答えると、「帰れ。こんな時刻に出歩くとは何事だ。入れるわけにはいかない」と言う。なお頼むと、こう答える。「帰れ。お前は無学で何も分からない男だ。もう我々の仲間ではない。我々は大勢いて、立派な者ばかりだ。お前など要らない。」それでも私は戸口に立ち、「神の愛にかけて、今夜は泊めてください」と頼む。すると彼は、「断る。十字架会の修道院へ行って、そこで頼め」と答える。言っておくが、そのとき、もし私が忍耐し、心を乱さなかったなら、そこに真の喜び、真の徳、魂の救いがある[126]』」。
相手がよくしてくれ、感じがよく、都合がよいときにしか愛したことがないなら、あなたは一度も愛していません。
誰かがあなたを愛してくれたことがあるなら、その人は、あなたがそれに値しないときにも愛してくれました。あなたが誰かを愛したことがあるなら、その人からの侮辱を受け止め、不当なことをされたとき、間違いを犯したときにも忍耐し、あわれみを持ったはずです。ならば喜んでください。あなたは愛を知っているからです。
このような説明で何を語り、何を語らないかを超えて、一つの問いがあります。私たちは、内にある天国である、無条件の愛に至りたいのでしょうか。そうでなければ、この戦いはすべて、無意味です……。
エヴァグリオスは最後に、寛大さは「不安な者への慰め、待ち望むものを映す鏡、苦難にある者の報い」だと言います。これらの表現は、報いの確かさ、私たちが待ち望むものの確かさ、神が本当に約束してくださったものの慰めを強調しています。それは人間の不正には奪えません。神が今日あなたに与え、明日与えてくださるものを、人が奪うことはできないのです。
悲しみの悪霊
「悲しみは、有害な借家人、不吉な話し相手、根から引き抜かれることの前触れ、家族への郷愁、不安の連れ、アケディアの親族、苛立ちを募らせる嘆き、侮辱の記憶、魂を暗くするもの、道徳的な堕落、用心深い高揚、催眠性の解毒剤、形から輝きを奪うもの、肉を食う蛆、思いを苦しめるもの、民の牢獄である[127]」。
(エヴァグリオス・ポンティコス)
これまでは大まかに答えてきた、今、もっと深く考えるべき問いがあります。なぜ悲しみの悪霊は、西方の主要な悪徳の一覧にないのでしょう。答えは、行為ではなく、ロギスモスだからです。
聖大グレゴリオ教皇が、西方の倫理的な傾向に従って悪徳の一覧を整えるとき、客観的な行為に基づいて悪徳を分類しました。悲しみはそこに場所を得られません。行動ではなく、動機だからです。
暴食、色欲、貪欲、怒り、アケディア、嫉妬、傲慢は、具体的な行為だけを基に定義できます。それぞれの悪徳に典型的な、目に見える行動を指摘できます。しかし、悲しみの典型的な、目に見える行動とは何でしょう。それは行動ではなく、態度です。それでも、ほかのすべてに向かいます。肉体の情念である暴食や色欲、物質に関わる情念である貪欲、怒り、怠惰となって現れ、知的な情念である嫉妬や傲慢を活気づけます。しかし、それ自体は初めから隠れたまま、効果的に、危険な仕方で働く悪霊です。
暴食から傲慢までのロギスモイは、目に見えます。悲しみのロギスモスは、そこから推し量るのです。
この悪霊の領域を定めようとするなら、ほかのどの悪霊にも増して、思考がその戦場だと指摘しなければなりません。これが第一の特徴です。
第二の特徴は、もっと目立ちます。
それぞれの悪霊は、何か善いものの性質を変え、ゆがめるのだと思い出す必要があります。たとえば貪欲は、安全を求める健全な必要の堕落です。怒りは、それ自体は善い正義感の変質です。暴食や色欲では、生物としての欲求がゆがんだ道をたどりますが、本来は善いものです。人間の尊厳は嫉妬や傲慢へとゆがみますが、自分を大切な存在と考えること自体は健全です。
ですから、普通、ロギスモイは善を利用して、それをゆがめます。悲しみは違います。
悲しみは善を利用せず、悪や闇や無をかき回します。
好んで使う道具は、現実にはないもの、仮定、期待です。起こらなかったことや、起こるはずのことを材料に、しばしば筋書きを織り上げます。
現実に向き合うときには、起こっていることについて、暗く、混乱した、思い込みにすぎず、証明できない解釈を持ちかけます。
しかし、第三の特徴が、最悪です。
それぞれの悪霊は、善いだけでなく、心地よくもある何かを利用し、自然な喜びをゆがめて、無秩序な享楽へと駆り立てます。さまざまな領域で、悪しき思いは満足を与えようとし、快い行為への魅力を利用します。
しかし、悲しみは本当に倒錯しています。反対の方向へ引き寄せるからです。実際、快楽と結び付いていない唯一の情念です。
悲しみは、不快ささえ楽しみます。つまり、その快楽は不快さなのです。
想像を超える力を持つ、破壊的な力です。ほかの七つの悪霊は満足をけしかけますが、悲しみの悪霊は、魂を裸にします。自己憐憫を求めることであり、まさに、不幸である喜びを生むからです。
恐ろしい情念です。一見ばかげていますが、実に有害です。
ただし、悲しみの悪霊を、うつ病と混同しないよう注意しなければなりません。両者は無関係です。ロギスモスの中に、臨床的な程度の違いはあれ、うつと何らかの関わりを持ち得るものがあるとすれば、それはむしろ傲慢、すなわち限界の拒絶や、自分への過大な要求がもたらす苦しみでしょう。ただし、ここで話しているのは軽い段階であって、うつ病そのものでは決してありません。うつ病は病気であり、罪とは何の関係もありません。話を聞き、慰めてくれる人になってもらう場合を除いて、司祭によって解決するものではありません。相談する相手は、むしろ医師です。
それでも、こう問わなければなりません。これほど否定的な情念は、人間の本性のどこを出発点としているのでしょう。それは、善い悲しみも存在するという事実からです。聖パウロが言うとおりです。
「神のみ心にかなう悲しみは、救いに至る揺るぎない悔い改めを生む。しかし、世の悲しみは死をもたらす[128]」。
この二つの共通点と違いは、まもなく見ます。けれども、救いを生む悲しみと、滅びに至る道となる悲しみがあるのです。
ここで取り上げているのは、内面の悪徳です。さまざまな苦々しさや内なるねじれのもとになり、うつ病の人にも、そうでない人にも、すべての人に忍び寄ります。
すでに見たように、怒りと結び付くことの多い情念ですが、嫉妬とも結び付き、その背骨を成しています。
ところが現代は悲しみをたたえ、憂鬱で、虚無的で、破壊的な態度を高く評価します。そして、根本的には子どもじみたこの災いを、人格の特徴とまで見なさせ、はやらせさえするのです。
これはメランコリーと結び付いています。その語源は、黒を意味するギリシャ語のメラスと、胆汁を意味するコレー、つまり「黒い胆汁」です。内側から闇を分泌するものです。よく理解していただきたいのですが、この黒さは外から来るのでなく、内で生じます。この黒い胆汁によって、目は物事の最悪の面にとどまり、それが見当たらなければ、探し出します。
それは、意図的に理性を破壊することになります。不条理なこと、解決できないことを考え、行き止まりを探すのが好きだからです。こうして、英雄的な不幸の谷底へ落ち込みます。最初の何度かは、単なる好奇心からそこに入ることも、よくあります。
この最後の点について、初めてこの悪霊を迎え入れたころを、思い出してみる必要があります。普通、それは、習慣や考え方になる前、子どものころに起こるからです。
悲しみの悪霊との最初の出会いは、たいていこんな場面です。薄暗い寝床で、たまたま独りになったとき、思いがやって来ます。「でも……ぼくのこと……誰も愛してくれない……」。涙が浮かび、落ち着かなくなり、ロマンチックな孤独が広がります。少し立ち止まっていると、暗い喜びという奇妙な感覚を味わいます。誤った真実なのに魅力があり、悲劇的な気分に引き付けられるのです。
そこで繰り返します。「誰もぼくを分かってくれない……」。すると、このような考えを繰り返し、ほじくり返すことに、喜びを感じると分かります。これで決まりです。中に入りました。もう離れてくれません。十万回も、憂鬱な被害者意識へと誘うでしょう。そしてあなたは、悲しい、子どもじみた思いを、とても大切なものとしてしまっておくのです。
これは、司祭になって間もないころの、驚くべき発見の一つでした。自分自身がこの悪霊に満たされていると気付くより先に、他人の中に認めたのです。人々は、元気でいることよりも、気分が悪いことを楽しんでいるのだと分かりました。
悪い知らせは、よい知らせよりも信じられやすいと気付きました。聞き手の注意を引きたいなら、誰かの悪口を言うか、相手の苦しみを気の毒がるか、不正の被害者の話をすればよいのです。一言も聞き漏らさないことが分かるでしょう。
前にも述べましたが、視聴率でスポーツを上回るのは、事件や犯罪の報道だけです。
悲しい歌は売れ、悲しい物語は人を引き付けます。
読んだ人は告解に行くべき本がある、と私はいつも言っています。F・モンゴメリーの『誤解された子』です。自分を理解しない大人たちに囲まれた子どもの話です。すっかり古びた本ですから、読者の大半が知らないことを願います。それでも私の世代は、あの英雄的な悲しみを養分にしました。取り返しのつかないことを衝撃的にたたえる映画『ある愛の詩』のような、とても不運な物語によって。
現代の例には立ち入れません。被害者意識にあふれた現代文化にそぐわないとして、この本が引き揚げられる危険があるからです。
政治は被害者意識から成り、敵対者を怪物に仕立て、盲目的で激しい要求によって生きています。
子どものころは、かわいらしく唇をとがらせて同情を誘うしぐさとなり、思春期には、権威ある人の前でいつも自分を正当化するための切り札となります。大人になれば自分の罪の言い訳となり、老年には苦々しさとなります。
悲しみはロマンチックです。女性たちは何度も、苦しんできた男性に恋をするという過ちを犯します。しかも、それを口にするのです。それが成熟だとでも……。
「ぼくがどれほど苦しんだか、君には分からない……」。こんな求婚者への最善の答えは、「知りたくありません!」です。いったい何を探しているのでしょう。愛する女性ですか、それとも看護師ですか。私のためにいのちを差し出すつもりだったのか、それとも自分の悲劇の観客を探していたのか。少なくとも一部は、きっとそのつもりで語っているのでしょう。
自分を笑わせてくれる相手を探す女性たちのほうが、ずっと健全です!
男女の結び付きの土台が、幸福ではなく悲しみだったために、不幸な結婚がどれほどあることでしょう。二人だけで世界と戦おう。少なくとも、あなたの両親とは戦おう、というわけです。
被害者として要求する、この論理の上に、一生を築くことさえできます。
不正や苦しみは存在しない、と言いたいのでしょうか。もちろん存在します。しかし、何が最も健やかな道でしょう。傷を調べ続け、その上に人生を築くことでしょうか。それとも、解決へ、成長へ、建設的なものへと歩くことでしょうか。何かが壊れたら、同じ間違いを繰り返さず、避けるべきことを避けるために、どう壊れたかを理解することは、確かに重要です。しかし、ある時点で最も大切なのは……修理することです。私に言わせれば。
成長し、見極め、痛みから出発して善へと歩くこと。築くことです。
難しいでしょうか。確かに難しい。実際、実行しない人は大勢います。それでも、悲しみや、その満たされない楽しみよりは、ずっと充実したものです。
では、悲しみという情念の源は何でしょう。
エヴァグリオスは、ためらわずに答えます。
「悲しみとは、現在、あるいは未来の快楽を奪われることである[129]」。
根に貪欲があるのは、得られなかった快楽への不満が、その快楽の表す、想定した所有への不満だからです。実際、この悲しみは、満たされなかった貪りと一致します。
だからこそ、二つの悲しみがあるのです。どんな所有と快楽を望むかによって、違ってきます。
キリストのように愛したい、人々の善を願いたい、教会と社会を築きたい、と望んでいるなら、間違いを犯し、その志を裏切ったときには、強くても建設的な痛みを覚えます。それは、もっとよく行うよう私を動かし、ゆるしを求め、償い、やり直そうとするよう導きます。
逆に、願いが善ではなく、肉体的、物質的、知的な対象へ向かっていれば、想定した所有がかなわないことから、今述べている、あらゆる有害なものが生じます。
この仕組みは、とりわけ倒錯しています。ある瞬間に、願いを権利にすり替え、被害者意識と要求の循環が始まるからです。報道を見れば、悲劇的なまでに今起きていることです。ある女性を欲しがり、その女性を所有する権利があると思い込む男性を考えてみてください。女性の殺害にまで至るつきまといは、こうして始まります。
欲求が権利へと遺伝子変異を起こすと、正義の悪霊が生まれます。そして暴力が始まります。
こうして、怒りと悲しみの循環が説明できます。悲しみ、つまり、想定した所有への願いがかなわないことが怒りを生むとき、怒りは、目指している目的を本当には決して達成しない、と考えなければなりません。望んだ正義を求めて手にしたとしても、思い描いたとおりにはならないからです。達成したときには、あまりにも破壊的な方法を使ったため、手に入れたかったものを壊しており、死の静けさに入ります。実際、怒りを爆発させてしばらくすると、悲しみが取って代わります。そして悲しみは犯人を探し、その相手に対して、また別の怒りが生まれるのです。
エヴァグリオスは言います。
「悲しみは魂の落胆であり、怒りの思いから形作られる。復讐の願いは怒りに属し、復讐の失敗は悲しみを生む[130]」。
つまり、悲しみは欲望の挫折から生まれ、今度は悲しみが、新たに傷つきやすい状態を生み、怒りへ導きます。破壊的な循環です。実際、エヴァグリオスは、今引用した文章の続きをこう述べます。
「悲しみは獅子の口であり、悲しむ者をたやすく食い尽くす。悲しみは心の蛆であり、それを産んだ母を食い尽くす。母は子を産むとき苦しむが、産み終われば痛みから解かれる。しかし悲しみは、生まれるとき長い痛みを起こし、その苦労の後も生き残って、劣らず大きな苦しみをもたらす[131]」。
それだけではありません。悲しみは、自分を迎え入れた心を食い尽くし、凍り付かせ、他人の問題を感じ取れなくします。そして、何事にも無関心な被害者意識に閉じこもります。
自分の悲しみを育てる人は、他人の痛みに冷笑的になります。悲しみが満足させるのは、それを育てる当人だけです。愛することではなく、苦々しくなることへ導くからです。
どうしようもありません。これほど愛に反する態度はないのです。
現代の悲劇の一つは、生きようとする意志がないことです。それは、内側から人生の意味を空洞にします。すると私たちは戦えなくなり、自分を定めることもできなくなります。悲しみがブラックホールのように魂をのみ込むので、自己が定まらないのです。同時に、何にも満足できず、何にも飽きています。もう何も面白くなく、何も十分ではありません。
見かけや、暗く、無分別で、節度を失った目立ち方から成る世界では、最悪のものが、危険な模倣を生みやすくなります。悲しみの華々しい成功が実らせるのは、しぼみ切った世代です。自分の目標を達成できない、とりわけ目標そのものを失った世代です。
今、若者と接している人なら、この悪霊と白兵戦をしなければならないと知っています。いのちの拒絶、自分自身への、隣人への、いのちそのものへの無関心と、戦う必要があるのです。
不運と被害者意識のこの叙事詩の中で、一つ問うてみましょう。被害者意識に生きる人は、いったいどんな父、どんな夫になれるでしょう。人生を居心地悪く感じる男性は、どんな冒険の仲間になれるでしょう。自己憐憫の深淵へ降りてしまった人が、どんな人生の師になれるでしょうか。
私たちの文化が危険にも悲しみをたたえる今、悲しみに対する嫌悪を育てることは、いのちに関わります。十分に注意しなければなりません。それは、魂にウイルスを侵入させる思考の型だからです。最も暗いウイルス、戦争や大量虐殺、絶滅を引き起こしてきたものです。
すばらしいゲルマン文化を考えてみましょう。輝かしく、気高く、高貴な文化です。それでもヒトラーは、哲学者、音楽家、作家を生んだ民を、少数派のユダヤ人に抑圧されていると思い込ませることに成功しました。ナチズムが実行したショアーは、ヒトラーの育てた被害者意識から力を得ました。彼は、世界的な経済危機を、怪物と見なされた少数派による抑圧へと読み替えたのです。そうです。被害者意識から、民を丸ごと殺そうとするところまで行き着くのです。
歴史上、この仕組みによって行われた残虐行為は、数多くあります。
悲しみは、ますます内面を空洞にします。不満を崇拝するものなので、さらに不満を生むからです。郷愁の中で、失ったもの、実現しなかったものの記憶の中で身をすり減らすとは、何よりも、過去の人質であり続けることを意味します。
悲しみの悪霊は、すべてを壊します。論理的な理由ではなく、情念に基づき、同時に自分自身を正当化する理由しかないからです。ですから、内側から抑えることはできません。悲しみという情念をつかんで手なずける「取っ手」はありません。何か善いものを土台にしていないからです。
悲しみは、所有への欲望がかなわないことから生まれます。どんな情念であれ、その支配下に入った人は、自動的に、いつもさらに先へ進みます。情念には底がなく、期待を裏切るからです。依存を抱える人は、誰も満足を知りません。つまり、悲しみは、ほかの悪霊が生むものです。ほかの悪霊が不幸を生み、不幸は自分自身を育てます。
もちろん、この悪霊は、思いどおりにいかないこと、つまり人生が私たちに告げる「いいえ」につけ込みます。しかし「いいえ」は、成長の時、成熟するための特別な機会となるはずです。
「いいえ」を拒むことで、悲しみは自動的に、時間とのゆがんだ関係を生みます。失った物や人、果たせなかった目標を惜しんで過去を嘆くか、未来へ飛んで、仮定を理想化します。こうして幸せは、もう届かない過去か、どこか別の理想郷に、いつも置かれています。
実際、不幸のもとにあるのは、具体的な出来事の客観的な姿ではありません。その出来事のある解釈、あるいは具体的な出来事が満たしてくれない、要求や仮定です。出来事は、そもそも摂理の御手にあります。しかし解釈は、悪しき者の影響を受け得ます。神は全能で、天地の造り主です。物事は神から来ます。しかし、それを解釈するとき、私たちの中に聖霊が働かれることもあれば、悪しき者が働くこともあります。
こうして悲しみは、仮定や後悔や投影を弄びます。反対せず、立ち向かわなければ、よくない結末になります。
ゆっくりしたロギスモイと、突然来るロギスモイの区別を思い出してください。悲しみは、ゆっくりした悪霊です。ここで読点一つ分を奪い、文末に悲しい顔を置き、あそこで小さな句点を打ちます。そのうち少しずつ、心配がますます強まり、かなわなかった願いへの苦々しさを育てるのです。
ですから、悲しみという子どもじみた情念を、笑い飛ばすことを学ばなければなりません。主イエスを見つめながら、苦々しさの海の上を歩き、自分をユーモアをもって見て、たびたび自問することです。この思いは、本当に大切なものを愛するよう導いているのか、と。自分の悲しみを笑ってみましょう!
そこから離れてみましょう。暗い思いで自分をあやすのを、どうすれば避けられるでしょう。無害だと見なすのをやめることです。無害ではありません。そして、悲しみは、私たちを壊すまで離れないのだと、思い出すことです。
世俗への愛、物への過大な愛、自分の仮定への愛、自分の期待への愛、自分の悲しい時間への愛は、ほかの情念と同じく、たいてい、ある受け止め方を絶対視することです。その結果、客観的な状況のほかの部分が、すべて失われます。もう一度思い出しましょう。これが悪魔の典型的な手口です。一つのものを絶対視し、別のものをつまらないものにします。
不正への鋭敏な意識、育て上げた悲しみ、不幸、そして似たようなものは、不幸な思いへの依存になります。しかし、人の心を変えるのは、愛だけだと覚えておく必要があります。
何かを失ったそのとき、愛はそれを贈り物に変えさせてくれます。不正を受けたなら、愛はそれを、兄弟の貧しさを前に、あわれみを示す時に変えさせてくれます。
愛だけが、本当の平和を与えます。愛だけが、心を悲しみから解き放ちます。
エヴァグリオス・ポンティコスが、悲しみについて何と言っているか、見てみましょう。
冒頭の文章に戻ります。
「悲しみは、有害な借家人、不吉な話し相手、根から引き抜かれることの前触れ、家族への郷愁、不安の連れ、アケディアの親族、苛立ちを募らせる嘆き、侮辱の記憶、魂を暗くするもの、道徳的な堕落、用心深い高揚、催眠性の解毒剤、形から輝きを奪うもの、肉を食う蛆、思いを苦しめるもの、民の牢獄である[132]」。
エヴァグリオスは、鋭い定義から始めます。「有害な借家人」。借家人であって、持ち主ではありません。自分を悲しみと同一視してはいけません。それは借家人であり、やって来た思いです。神から来ていません。建設的な見通しに結び付かないなら、聖フィリポ・ネリと同じく、こう言うに限ります。「小心も憂鬱も、私の家から出て行け!」。
「不吉な話し相手」。人はしばしば、ほじくり返し、自分の心の最も暗い部分に閉じこもるのを好みます。そして、その親密さに閉じこもり、ようやく理解され、同情されたと感じます。この親密さは、不吉で、破壊的です。
「根から引き抜かれることの前触れ」。悲しみは、破壊を、いのちから根を引き抜かれることを準備します。最後には、私たちはこの世から引き抜かれます。しかし悲しみは、まだ生きている今、いのちの源に根を下ろさずに生きさせます。
「家族への郷愁」。それは、自分の家族への郷愁でさえないことも、よくあります。あるいは、家族の架空の、懐かしい英雄物語を、今へのよそよそしさや失望に変え、現実の生活を奪うこともあります。家族を愛することと、郷愁の中で生きることは、別です。後者は、今と波長が合っていないことを意味します。
「不安の連れ」。悲しみは、決められない、行き止まりだという感覚を生みます。解決などない、と考えさせます。
「アケディアの親族」。混乱した思いは、無活動へ導きます。しても無駄なので、何もしません。すべてが空っぽにされるのです。
「苛立ちを募らせる嘆き」。つまり、希望を奪う涙です。
「侮辱の記憶」。受けた不正を繰り返し眺める、悲劇的な喜びです。こうしていれば、いつまでも成長せず、どんな欲求を満たすにも、言い訳が立ちます。
「魂を暗くするもの」。自分の最も光に満ちた部分とのつながりを失うこと、本当の心を失うことです。
「道徳的な堕落」。善が味気なく見えるなら、道徳的な堕落は避けられません。
「用心深い高揚」。悲しみのロギスモスには、高揚しているのに用心深い、という矛盾を作り出す力がある、ということです。不快さを楽しむことに中心を置いていなければ、大したことではないでしょう。しかし、悲しむ人は、苦々しさの喜びを巧みに管理します。その戦略は狡猾です。実際、悲しみと手を組んだ人を助けようとすると、途方もない苦労をします。相手は狡猾な高揚感を抱き、提案するどんな出口も、あざ笑いながら壊すことを楽しむからです。
「催眠性の解毒剤」。これも驚くべき定義です。痛みを取り去りますが、催眠性であって、ただの暗示です。問題はまったく解決していません。悲しみに浸ると、ある意味、楽になった印象を持ちます。初めは解毒剤のように見えても、問題はそっくり、その場所に居座っています。
「形から輝きを奪うもの」。もはや物事を、ありのままには見ません。不幸な先入観があって、見るものの上に、その覆いを広げます。
「肉を食う蛆」。混乱した思いを育てる人は、自分の体との関係がよくありません。体を粗末に扱い、いっそう悪く見ます。
「思いを苦しめるもの」。この霊的な頭痛によって、どんな状況でも、精神が苦しめられます。
「民の牢獄」。先にショアーを例に挙げた、集団の被害者意識を、エヴァグリオスは真に預言的に描いています。歴史上、ほかにもあったように、民全体が、被害者意識に根差した残忍さの中へ閉じ込められたのです。
お世辞を言う人や、同情してくれる人には、用心が必要です。普通、その人は、たとえ無意識であっても、友ではなく敵です。
喜び
「喜びは悲しみの破壊であり、逆境の中での感謝、祈りに支えられるまなざし、修徳への取り組みの喜び、善を行う満足、放棄の根、人を迎える場所、希望の避難所、修徳者の糧、悲しむ者への励まし、涙への慰め、苦難の中の助け、愛の支え、寛容の伴侶である[133]」。
(エヴァグリオス・ポンティコス)
悲しみは、ほかの悪しき思いの動機となる悪霊だと述べました。内なるすべての動きを、暗い気分の色で汚そうとするからです。
したがって、道の上で働く悪霊と、道の外で働く悪霊の区別で言えば、悲しみは両方の働きをします。ただし、主として道の上で影響を及ぼします。
つまり、このロギスモスは、善い実践を中断させることもありますが、もっと多くの場合、すべての活動を、その苦い添加物入りで行うよう求めます。こうして、健全な環境にとどまったまま、心を汚染され、不幸を楽しみます。そうなると、すべてをつまらないものにし、最もよい環境さえ醜く見せます。
善を見られなかったとき、批判し、反対し、不平を言う態度で、自分の生活を台無しにしたときを、思い起こす必要があります。苦々しさに捕まった機会を、忘れないことも役立ちます。たいてい私たちは、神が下さる数多くの恵みを、困るほどたくさん無駄にしています。理由はさまざまですが、最大のものは、悲しみが善を信じられなくし、光に嫌悪を覚えさせることです。痛みを伴いますが、これを認めなければなりません。
貪欲についてすでに述べたように、罪は決して自然死しません。自分から立ち去らず、魔法のように消えもしません。ある朝目覚めたら、もうわなに陥らなくなっていた、ということはありません。
解放された悪徳に対しては、私たちはそれを憎み、退ける必要がありました。罪を嫌わなければなりません。罪を否定しないで、そこから抜け出すことはできません。
実際、私は読者の皆さんに、悲しみを嫌い、友ではなく敵として見てほしいと思っています。迎え入れるべきものではなく、離れるべきものとしてです。それでも私たちは、苦い感情を育てるのがよいと考えることが、よくあります。反対に、この健全な嫌悪を生かして、本来好きになるべきもの、善、愛、喜び、いのちへと導いてもらい、それらを心から願う必要があります。
しかし、悲しみという感情自体は、神の賜物であるはずです。愛において、欠かせない役割を持つはずなのです。
これが、悲しみの建設的な側面です。
パウロが定義する二つの悲しみには、すでに触れました。もう一度、文章を見ましょう。
「神のみ心にかなう悲しみは、救いに至る揺るぎない悔い改めを生む。しかし、世の悲しみは死をもたらす[134]」。
二つの道です。一方はいのちの道、もう一方は死の道です。
悲しみの中に、役立つものはあるのでしょうか。救いの道にさえ、なり得るのでしょうか。
もちろんです。
その過ちに本当に心を痛めることなしに、過ちから完全に抜け出せる人はいません。問題は、私たちがこれを罪悪感だと見なし、台無しにしたことです。実際には、まったく別のものです。
ここで話しているのは、人の心の中で真実を実現する働きです。聖霊の賜物であり、本物の、実効ある変化を生みます。
パウロは、とても重大で、決してありふれてはいないことを、重要な言葉で語っています。「救いに至る、揺るぎない悔い改め」です。
ギリシャ語本文で、「取り消すことのない」と訳される形容詞アメタメレトスは、後戻りせず、考えを変えないものの性質を示します。一方、「悔い改め」と訳されるのは、重要な言葉の一つ、メタノイアです。回心、考え方を変える力を示す言葉で、文字どおりには、自分の考え方を超えて行くことです。
最も古い福音書、マルコによる福音書で、キリストは最初の言葉から回心を告げられます。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい[135]」。
また、ルカによる福音書の終わりで、使徒たちに与えられた使命の内容も、これです。
「そして言われた。『こう書いてある。キリストは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって、罪のゆるしを得させる悔い改めが、あらゆる国の民に宣べ伝えられる[136]』」。
福音、救い、罪のゆるし。すべてが、回心というこの行為に結び付いています。自分の思いを超えて行くことが、新しいいのちの門です。この言葉の含む内面の変化の技、自分を絶対視するのをやめて新しさへ心を開く美しさ、自分の歩みを引き返して誤りから離れるすべ、発展、よりよく変わることについてなら、何冊も本が書けるでしょう。誰もが、成長でき、考えを改め、自分の罪から離れられる人に、そばにいてほしいと望んでいます。相手もまた、その人に同じことを望んでいるのですが……。
人生を変えようとして、しばしば多くのものを変えます。しかし役に立ちません。本当にすべてを変えるのは、思いと感情が変わることだけだからです。頭が変わらなければ、生活が変わっても無駄です。
これは、とても重要なことです。実際、パウロはこれを救いと呼びます。しかし、それは、聖霊の働きである痛みと結び付いています。
価値ある痛みがあります。ヨハネによる福音書の最終章で、イエスはシモン・ペトロの心に、それを求められます。復活した御姿を三度目に現し、御自分を愛しているかと三度問い、ペトロを苦しめられます。そして目的を果たされます。
「ペトロは、三度も『わたしを愛しているか』と尋ねられたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたはすべてをご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはご存じです[137]』」。
三度、主を知らないと言ったのですから、三度、愛していると言わなければなりません。痛みを覚え、「あなたはすべてをご存じです」と言うまでに。まさにその痛みの中に、過ちからの解放があります。その痛みは、変化を、以前の態度から離れたことを示します。どんな態度でしょう。ペトロの場合、自分はほかの人とは違い、優れていると思い込む確信でした。第十三章で、イエスは御自分の行くところに、弟子たちはついて来られないと言われ、ペトロはこう応じていました。
「『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスは答えられた。『わたしの行くところに、今はついて来ることができないが、後でついて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言うだろう[138]』」。
ペトロは受け入れず、第十八章では主について行き……失敗し、三度、知らないと言います。しかしイエスは、「後でついて来ることになる」と言われていました。「後で」とは、いつでしょう。最終章に戻ると、ペトロが悲しんだ後、イエスは言われます。
「『はっきり言っておく。あなたは若いとき、自分で帯を締め、行きたい所へ行っていた。しかし年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。』ペトロがどのような死に方で神の栄光を現すことになるかを示して、こう話されたのである。その後、イエスは、『わたしに従いなさい』と言われた[139]」。
ようやく、従うことができます。今はもう、子どもじみた振る舞いや、勝手に動き、勝手に服を着ることをやめ、成熟した者として生きられます。身を委ねる人、祈る人のように両手を伸ばし、服装も行き先も、神に決めていただけます。成熟した人として、自分のものではない歩調に合わせ、もうお一方の栄光を現しながら、いのちを差し出すすべを学んだのです。あの悲しみを通る必要がありました。愛に行き着く悲しみです。「主よ、あなたはすべてをご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはご存じです」。
今こそ、本当に愛しています。過ちの後に、痛みの後に。
こういう仕組みなのです。完璧主義や意志の力、義務感によって、偽りの愛から抜け出すことはできません。幻想と真実の間には、解放する痛みがあります。痛みを伴う光が心に入り、それによって自分をふさわしい大きさに見直すのです。
それは、自分の欠点に耐えられない自己陶酔が生む、自己拒絶の悲しみではありません。回心の痛みです。ようやく愛し始め、愛さなかったことに心を痛めるのです。
回心は、とてもよく、これまでの態度を崩し、やり直す用意をさせる痛みから始まります。
自分の過ちを誰にでも語らなければ気が済まず、結局いつも自分の話ばかりしている、霊的な裸族の不毛な後悔ではありません。愛そうとし始め、できるように愛し、手を伸ばし、助けを求め、もう自分を弁護しない人の悔い改めです。それは建設的で、新たに始めさせます。
しかし、この痛みは門にすぎず、それ自体が目的ではありません。道であり、到着点ではありません。そして、これが「正しい」悲しみの中にいるかどうかの確かめにもなります。私を動かし、外へ出させ、改めさせるか、ということです。
実際、過ちに対する悲しみや恥と、自分を同一視するのは間違いです。よくなかったことを認めたなら、そこから出なければなりません。しかし、そこに悪魔のわながあります。過ちを欲求不満に変え、さらなる違反を許すのです。
悲しみは、本来、喪失を知らせる仕組みのはずです。それがゆがみ、喪失を崇拝するようになります。そして、悲しみの理由は違反そのものではなく、同じ違反をもっと上手に、もっと激しく追い求めるべきなのに、できていないことだ、とまで考えるようになります。たとえば色欲では、こうなります。もはや底がなく、人は、十分には得られない快楽を求めて情念を育てます。色欲の行為の後の欲求不満から学び、「道を間違えている」と考える代わりに、「もっと深く進むべきだ」と考えます。そして好奇心が、さまざまな罪へと、さらに堕ちていく原動力になります。
悲しみの使い方には、注意が必要です。
過ちに結び付く悲しみは、最悪の道を選ぶこともある分かれ道です。すべての親や教師は、叱責の度合いに気を配らなければなりません。行き過ぎてはいけません。いつも励まし、善を示す必要があります。何を失い、何を取り戻せるかを示さずに、決して叱ってはいけません。教育では、建設的であることが、いのちに関わるからです。
喪失感が役に立つのは、神や隣人との関係へ、そして物事の本当の重みを、より均衡よく受け止めることへと導く場合です。
問題は、悲しみが、幸福を阻まれたことに対する自然な仕組みだという点です。しかし、それは真実のために使うべきで、自分のために使うべきではありません。人の論理の中心にはなれません。
では、善い悲しみの目標は何でしょう。自己憐憫の味から、喜びの味へと、好みが回心することです。
意外かもしれませんが、喜びには勇気が必要です。
見てみましょう。パウロは、フィリピの信徒への手紙で言います。
「主において、いつも喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの寛容が、すべての人に知られるようになさい。主は近くにおられます。何事も思い煩ってはなりません。あらゆる場合に、感謝を込めて祈り、願い求め、必要としていることを神に申し上げなさい。そうすれば、人のすべての理解を超える神の平和が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスにおいて守るでしょう[140]」。
ここで問題があります。パウロがフィリピの人々に向けた動詞、とりわけ最初の「いつも喜びなさい」は、どれも命令形です。断定的な指示によって、誰かに喜べと言うことができるのでしょうか。喜びを、どう命じるのでしょう。
これは、イエス御自身の、もう一つの命令と響き合っています。
「互いに愛し合いなさい。これが、わたしの命令である[141]」。
愛を、どう命じられるのでしょう。喜びを、どう強いることができるのでしょうか。
喜びや愛について、私たちは怪しい考えを持っています。衝動的で、自然に起こる状態だと考えています。感じるときは感じる。そうでなければ……。
あったかと思えば過ぎ去り、また戻ってくる……。関係ははかないものとなり、生体リズムの支配を全面的に受けています。
しかし、仕事には行きます。気が進もうと、進むまいと。
愛や幸福のような大切なことより、仕事のほうと、ずっと組織立った関係を持っているのです。それでよいのでしょうか。
まず言っておきます。「自然に出る」ものなど……存在しません[142]!
「自然に出た」と呼ぶ行為は、実は、最も機械的な行為です。そうしたくなったから、そのまますることは、自動的にすることです。まさに、その自然な行動に、習慣が現れます。そうしようと思い付くから、そうするのです。ですから、自然な行為の背後にあるのは、驚くほどの創造性の爆発ではなく、ちょうどその欠如、つまり自動性です。慣れているから、そのまま流されるのです。
自然に出ることと、本物であることを混同してはいけません。最も本物の反応が、自然に出ると誰が言ったのでしょう。出てくるのは自動的な反応、最も意識されず、いつもの傾きを示す反応でしょう。
実際、自然に出た不適切な反応に、私たちは深く傷つきます。それが、相手の隠れた態度を示すからです。言い間違いなら、なおさらです。それは、私たちの最も本当の部分ではなく、最も機械的で、考えていない部分です。
パウロは、自分の過ちを照らす光に目をくらまされ、別の生き方へ歩み出した日、自分の考え方から引きずり降ろされた人です。今日の、自然な成り行き任せの宿命論とは、違う知恵を持っています。
しかし、「喜びなさい」というこの命令を、どう理解すればよいのでしょう。
悲しみが、ある日、入れてほしいと言って来て、私たちが戸を開けたものなら、喜びと愛については、なおさらそう言えます。
愛も喜びも、魂の深い選択です。選ぶものです。喜びに、愛に、私たちは心を開きます。悲しみに生きる運命に定められているわけではありません。霊感に身を委ね、聖霊に心を開くことができるからです。
神の愛は、私たちの存在を動かすことができます。神の愛ですが、私たちの愛になります。そこにある光に従うからです。その光は、いわば優しく、私たちを尊重しながら、ゆっくり、しかしはっきりと輝きます。私たちはそれを信頼し、そこに心を開けます。
最もひねくれた、心の狭い人の胸の底にも、この優しい物乞いがいて、聞いてくれと頼んでいます。ほほ笑みながら、こう言うのです。「ずいぶん大げさな話をしているね。なんて泣き虫なんだろう。自分で作り上げていると分かっているね。君が言っていることは、全部本当ではない。ほかの人はだませても、私には通じないよ……」。すると人は、身構えるか、力を抜くかします。しかし、その優しいユーモアの前で、自由であり、深く自由です。それが真実だと分かり、居心地悪く感じるのですが……。
そして、その居心地の悪さ、喜びへの嫌悪は、小さなことではありません。
悲しみの悪霊を説明したときにも述べましたが、司祭になったとき、私は一つのことを認めなければなりませんでした。人々は、元気でいることを好みません。つらい状態を好むのです……。
よい知らせは悪い知らせほど人を引き付けず、誰かを眠らせずにおきたいなら、別の誰かの悪口を話せばよい、と、すでに述べました……。被害者意識は人の心を打ち、売れ、文化を作ります。
しかし、喜びには、不思議な歩みがあります。
キリスト教霊性の伝統は、喜びを、全人的で、複雑で、勇気を備えた態度として認めます。それは、ほかならぬキリスト者の生活の到達点です。
列聖によって聖人と宣言される前に、必ず列福が行われることを考えるだけでも十分です。列福とは、永続する幸福と喜びの状態にあることを認めることなのです。
喜びは、一連の選択の結果として生じる態度です。一つの生き方です。
パウロによれば[143]、本来、喜びは聖霊の結ぶ実です。ですから、出発点ではなく、到達点です。ある過程の終わりに現れます。歩みの結果です。では、喜びとは何でしょう。
聖パウロは「カラ」という言葉を使います。喜ぶ、楽しむという動詞カイローから来ており、ヘブライ語では名詞シムハーに当たります。このヘブライ語の語根は、槍の穂先や、抵抗する壁を突き破るものという意味を示します。実際、喜びの爆発、歓喜とは、自分の外へ飛び出すようなものです。外へ出ることです。喜びは、湧き出すものなのです。
このヘブライ語は、もっと大きな語群に属します。いずれも、芽を出し、生い茂り、花開くことを表す言葉です。
イタリア語で、喜びを表すレティツィアは、レターメという言葉から来ることを思い出すと、興味深いでしょう。花を咲かせ、土地を肥沃にする肥料のことです。
ルカによる福音書では、真福の教えに特有の強調があります。それと対を成す否定的な宣言が置かれ、悲しみが二つあるように、喜びも二つあることを示します。
「イエスは目を上げて弟子たちを見、言われた。『貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。人の子のために、人々に憎まれ、追い出され、侮辱され、名を悪いものとして退けられるとき、あなたがたは幸いである。その日には喜び、躍り上がりなさい。天では大きな報いがある。彼らの先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたは、もう慰めを受けている。今満腹している人々は、不幸である。あなたがたは飢える。今笑っている人々は、不幸である。あなたがたは悲しみ、泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。彼らの先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである[144]』」。
本当の喜びと、偽りの喜びは、どちらでしょう。
キリストの語られる喜びは、不幸の宣告と向かい合います。興味深いことに、その宣告は、笑っている人々に向けられます。今泣いていて、明日笑う人と、今笑っていて、明日泣く人とが対比されます。
ですから、二つの喜びは、正反対の道をたどります。一方は直ちに現れ、もう一方は結果であり、未来であり、出口であり、実りです。
前者は、楽しくなる機会を逃さないことから生じる、一瞬の喜びです。福音の文章は言います。
「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたは、もう慰めを受けている。今満腹している人々は、不幸である。あなたがたは飢える。今笑っている人々は、不幸である。あなたがたは悲しみ、泣くようになる」。
笑顔で満たされた現在が、苦く、しかも決定的であるため取り返しのつかない未来を、準備することがあります。
それは、チューインガムのようにはかない喜びです。二分間は味がしても、その後は味がありません。わらの火のように燃え尽きる幸せとは、こういうものです。流行していたのに、少し後にはリサイクルのごみ箱に入っているものです。
キリスト者の喜びは、貧しさや飢えや涙を通った歩みの結果です。
東方のキリスト者たちは、過越の喜び、死から出てきた人の喜びを語ります[145]。
結果としての喜びもあれば、始まりとしての喜びもあります。
この世の喜びは前提であって、その後に欲求不満が続きます。多くの満足が空っぽになるようにです。反対に、荒れ野を通ることが変容となり、成長の果てに見いだす幸せもあります。
たとえば、愛の行為は、自分の喜びを決して目的とせず、相手の喜びを目指します。そして結果として、ずっと深く、長く続く喜びになります。神への従順、神への信頼も同じです。そこにはいつも、過越を体験するうえで障害となる、最初のつらい瞬間があります。その否定を通らなければ、肯定、実り、結果には至れません。
人生で、私たちの行動に価値を与えるのは、始まりそのものではなく、結果です。イエスは言われます。
「あなたがたは、その実によって彼らを見分ける。茨からぶどうを、あざみからいちじくを採るだろうか。善い木は皆、善い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。善い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が善い実を結ぶこともない。善い実を結ばない木は、みな切り倒され、火に投げ込まれる。だから、その実によって彼らを見分けるのである[146]」。
前提が重要なのは、結果の土台となるからです。それ自体を絶対の尺度にはできません。旅の始まりがすばらしくても、結末が悲劇なら、その旅は悲劇でしかありません。行動するときには、いつも問わなければなりません。これは、どこへ導くのか、と。
どれほど多くの喜びを味わい、その後すぐ忘れてしまったことでしょう……。一瞬の喜び、自分に禁じた満足。実際には、問題を元のまま、あるいは以前より悪くしたまま、解決せずに残したものです。
安定した状態として訪れる喜びがあります。それは、初めは味気なく、目先の楽しみを越えるよう求める選択の結果です。
喜びの源、愛や信頼、人を築くこと、そしてあらゆる善い選択が生む、健やかな行為の源へ、絶えず戻る必要があります。それは、明日豊かになるため、今日貧しくなることかもしれません。
本当の喜びは、安定し、長く続くものです。聖霊への、小さな、また大きな、一連の従順から生まれます。
従うべき善の直感があります。すべての心の底にある、光への招きのこだまです。
キリスト者の喜びは、荒れ野を通って、約束の地に着く歩みです。暗く、不幸で、濁ったものに魅了された人間を捨て、洗礼によって内に生まれた新しい被造物に従うことを含みます。
喜びは選択です。それは、たとえ楽しませてくれるように見えても、自分によくないものを手放すことを前提とします。
ですから喜びは、ただ起こるものではありません。選び、従い、聞き従い、その後には守るものです。パウロは正しかったのです。喜びは、従うべき命令です。従わない人は、人生を台無しにします。
結局は単純です。これまで悲しみを愛したように、今度は喜びを愛するのです。いつもの、放棄に見えるものの問題です。一つの罪のために、どれほど多くのものを放棄したか分かるなら、恵みを選ぶために必要な放棄は、少しも苦にならないでしょう。
自分の罪によってどれほど多くを失うか、男性も女性も知っていたなら、もう二度と、一度さえ罪を犯さないでしょう……。
さて、悲しみの反対についてのエヴァグリオス・ポンティコスの格言に戻りましょう。
「喜びは悲しみの破壊」。受け身どころか、喜びの光は、悪霊に直接立ち向かい、悲しみのくびきを砕きます。どのようにでしょう。次の定義が説明しています。
「逆境の中での感謝」。悲しみから喜びへ、決定的な一歩を踏み出す、急所となる瞬間があります。ここでは紙幅の都合で、リジューの聖テレーズの『ある魂の物語』の二ページを、全文引用して解説することはできません。そこでは自分の体験から、この一歩が完璧に描かれています。
核心だけ見ましょう。深夜の降誕祭ミサから、家に帰ったときのことです。小さなテレーズ自身が、次の言葉で語り始めます。
「一八八六年十二月二十五日、私は幼い状態から抜け出す恵みを受けました。一言で言えば、完全な回心の恵みです[147]」。
テレーズは、もうすぐ十四歳になります。四歳半で母を失い、母が産んだ九人のうち、生き残った五人の娘の末娘でした。ほかの四人は、幼くして亡くなっていました。娘たちの教育を独りで担わなければならない父のもとで育ちます。
降誕祭のその晩、父は疲れて帰宅します。家の末娘への贈り物の恒例行事が近づいていました。習慣に従って、暖炉の前に置いた靴に贈り物を入れるのです。そのとき、気の毒な父は、うっかり言ってしまいます。「やれやれ、これも今年で最後でよかった……!」。
娘はそれを聞き、「その言葉は私の心を貫きました」と言います。
階段を上って、自分の部屋へ向かいます。これこそ、例の悲しみの悪霊の出番です。一生心に刺さったままの、苦い記憶を残し、あらゆる被害者意識を正当化する、あの瞬間です……。しかし彼女は、まさにそのとき、心を占領しようとする悲しみを退けて、母の死以来、自分を人質にしていた影から解放された、と言います。
姉が、慰めようと部屋に入ります。父のまずい態度が、この繊細な娘を傷つけたことを、家族は皆、見ていたからです。ところが……驚いたことに! とても敏感なテレーズは、泣いていません。涙を抑えて、彼女自身がこう語ります。
「私は急いで階段を下り、胸の鼓動を抑えながら靴を取り、父の前に置き、女王のように幸せそうな様子で、贈り物を一つずつ、楽しげに取り出しました。父は機嫌を取り戻して笑い、セリーヌは夢を見ているかと思いました……。幸い、それは美しい現実でした」。
そして、自分について、三人称でこう述べます。
「小さなテレーズは、四歳半で失った心の強さを取り戻し、それを、もういつまでも持ち続けることになったのです……!」[148]。
見たとおり、彼女は、あの日、子ども時代が終わり、大人になったと言います。
さらに続けます。
「あの光に満ちた夜に、私の人生の第三の時期が始まりました。何よりも美しく、天の恵みに最も満ちた時期です。十年かかっても私にできなかったことを、イエスは、私の善意だけで満足され、一瞬で成し遂げてくださいました」。
テレーズは、カルメル会の修道女として、わずか二十四歳で亡くなります。回想録『ある魂の物語』は、文学上の大きな出来事となります。死の百周年に当たる一九九七年、ヨハネ・パウロ二世は、彼女を教会博士と宣言しました。間違いなく最も若い信仰の師ですが、決して重要性の最も低い師ではありません。
彼女は、数え切れない人々の信仰と救いに、深く関わってきました。すべては、あの瞬間にかかっていました。思春期の悲しみを、退けたのです。
あの夜、テレーズは、見かけこそ小さくても、並外れたことが起きたと悟ります。それは、あの回心に関わっていました。そのときから、罪からの回心とは何かを理解し、こう言います。
「罪人の回心のために働きたいという、大きな願いを覚えました。それまで、これほど強く感じたことはありませんでした……。一言で言えば、愛が心に入ってくるのを感じました。他の人を喜ばせるために、自分を忘れる必要を感じたのです。そして、それ以来、私は幸せでした……!」[149]。
そのときから、物事に正しい側から取り組めるようになります。あの日から、不幸から解放されているのです。
それは選択です。探すべき分かれ道であり、主イエス・キリストが、私たちの内に開かれる分かれ道です。主との関係の中に、この分かれ道があります。自分だけでは見つけられません。この本を読んでいる人の中には、まさにそれを見つけるために読んでいる人も、いるかもしれません……。
悲しみのひとときは、途方もない可能性を、その内に隠しているからです。
エヴァグリオスが言うように、逆境の中で感謝する日こそ、悲しみを破壊する日です。
そして、幼稚さから抜け出す日です。
エヴァグリオスのほかの定義も、少なくとも一覧の初めのほうだけでも、手早く見てみましょう。
「祈りに支えられるまなざし」。神との対話から、ある見方、摂理への気付きが生まれます。それは、はかなく消えない喜びを注いでくれます。
「修徳への取り組みの喜び」。修徳への取り組みとは、悪から善へ上っていく活動です。悲しみを退けると、この喜び、この実り豊かさが訪れます。解放の行為に伴う喜びです。
「善を行う満足」。誰かによいことをする以上に、喜びを与えるものはありません。これを愛と呼びます。長い間喜びを感じていないなら、自己分析に沈む代わりに、周りに、何か奉仕できる人はいないかと問うてみるとよいでしょう。悲しみと手を切りたいですか。病気の人を訪ねてください。悲しみが消えていくのが分かるでしょう!
「放棄の根」。聖なる放棄の根にあるのは、盲目的な苦行ではなく、喜びを選ぶことです。そして、喜びの後に、実行される放棄が続きます。
「人を迎える場所」。先ほど引用した、フィリピの信徒への手紙で、パウロは言っていました。
「主において、いつも喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの寛容が、すべての人に知られるようになさい[150]」。
自分を面白い人に見せるため、悲劇的な姿を示さなければならない人には、この言葉は、肌に刺さるとげでしょう。それに対して、温かく迎え、気さくな人に会うのは、なんとうれしいことでしょう。ここで「気さく」と訳した言葉は、文字どおり、話しかけられる人を意味します。ラテン語のファリ、言葉を発すること、ギリシャ語のフェーミ、話すことに由来します。悲しむ人は、しゃべりすぎるか、黙り込むかします。自分のとりこなので、たいてい、こちらの話を聞きません。反対に、悲しみの未熟さから出た人とは、なんと気持ちよく話せることでしょう!
『アンティレティコス』から、悲しみへの反駁を二つほど見てみましょう。
大切なのは、独りではないと思い出すことです。どの悪霊にも言えることですが、悲しみには、神の助けなしに勝てません。そこでエヴァグリオスは、夜の夢がもたらす、苦い誘いのささやきを取り上げます。
「悲しみに陥り、そのために夜の幻におびえる魂へ」。
どう答えるのでしょう。
「目覚めよ、目覚めよ、デボラ……目覚めよ、目覚めよ、歌をもって語れ!」(士師記5・12)。
これは、聖書で最も古い箇所の一つ、士師記第五章から取られています。当時イスラエルを治めていた女性の士師デボラが、戦いの歌を歌い、恐るべき敵シセラを打ち負かす場面です。聖書は男性優位だという思い込みにもかかわらず、女性が治めていたのです……。
この歌は、祈りの姿を示します。
不幸な誘いのささやきが、深く入り込んできますか。手綱を放してはいけません。降参してはいけません! 目を覚まし、夢を信じないことです。自分と戦う相手や、襲ってくる悪霊を恐れ、それで悲しくなるときには、詩編第二編を思い出しましょう。
「天に座す方は笑い、主は彼らを嘲られる[151]」。
悲しむ人は、痛みを絶対視するので、笑えません。しかし私たちは、神の笑いで笑うべきです。神はこれをどうお考えになるのか。神の前で、この誘惑はいったい何なのか。あるいは、自分が弱くて倒れたとして、神はどのような目で御覧になるのか、と考える必要があります。すると、神の愛の広大な海の前で、すべてが相対化されます。
同じ主題について、もう二つの反駁があります。
「過去の罪を思い起こさせ、目の前に見せ、私に悲しみを忍び込ませようとして、魂を襲う悪霊に対して。『私の敵よ、私の運命を喜ぶな。倒れても、私は起き上がる。闇の中に座っていても、主が私の光となってくださる』」(ミカ書7・8)[152]。
さらに先では、こうあります。
「若いころの罪を思い起こさせる悪霊に対して。『キリストのうちにある人は、新しく造られた者である。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなった』」(コリントの信徒への手紙二5・17)[153]。
悪霊は、自分の罪の記憶に悲しみを押し付けます。それに対して、預言者ミカ、そしてコリントの信徒への手紙二の、なんと美しい言葉でしょう。神はいつも優しく接し、助けを求めるなら、私たちがどんなところに倒れていても、起こしてくださいます。ゆるしを思い出さずに、過ちだけを思い出しては、決していけません。罪の問題には、神の現存のうちでだけ向き合います。独りでは、絶対に、決して向き合ってはいけません!
パウロは、キリストのうちにあることが、悲しみとの戦いの秘訣だと思い起こさせます。主の視点から、距離を取って物事を見、人生のどんな喪失も、成長のために役立つと考えるのです。
そして、神のあわれみは、私たちのどんな罪よりも大きいのだと。
アケディアの悪霊
「アケディアは、実体のない友、そぞろ歩き、勤勉への憎しみ、静寂(ヘシュキア)の中の争い、詩編唱和の嵐、祈りの先延ばし、修徳の緩み、時ならぬ眠り、押し寄せる眠気、独房への憎しみ、修徳への取り組みの敵対者、寛容の敵、黙想の妨げ、聖書への無知、悲しみの同僚、空腹の時計である[154]」。
(エヴァグリオス・ポンティコス)
すでに知っているように、西方では、アケディアは悲しみを含むものと理解され、混同もされています。実際、この二つには、下へ引きずる一種の重力という共通点があります。アケディアは、存在がしぼむことです。それが始める内なる戦いを、つまらないものと見なす過ちを犯してはいけません。
エヴァグリオス・ポンティコスと、東方修道制の伝統全体によれば、最も戦いにくい悪霊だということだけでも、考えてみてください。意外に思えるかもしれませんが、破壊的で、最もしつこい悪霊です。しかし、教父たちによれば、これに打ち勝つと、魂は言いようのない平和に至ります。
アケディアという語は、名詞ケードスに、否定を表すアルファを付けたものです。ケードスは「心にかける」という動詞ケードマイから来ています。ケードスが熱意、努力、労苦、仕事、配慮を意味するなら、アケディアは「不注意、投げやり、無関心、無気力」を意味します。物事を気にかけず、労苦を逃れる人を指す名です。
アケディアの悪霊は、怠惰の悪霊です。それは一種の麻痺であり、無関心や無秩序の仲間です。そして、中途半端で投げやりなあり方への依存を生みます。
本来、アケディアは続けられないことであり、単に何もしないというよりも、とりわけ、するべきことをしないことです。
大切なことを先延ばしし、くだらないことに長居し、二次的なことにとどまり、急ぎで、適切で、必要なことをする時を、際限なく後回しにさせる悪霊です。
ですから、アケディアの問題は、何もしないこと、つまり暇でいること自体ではなく、何かを避けることです。実際、その定義には、否定を表すアルファがあります。「しない」ことなのです。
したがって、アケディアは、意識から締め出す働きです。何かをすると思うだけで、居心地が悪くなります。するべきことは、考えるだけで疲れます。締め出せば締め出すほど、嫌悪が膨らみます。その土台はノエーマ、つまり、締め出すことが生んだ空想です。
こうしたすべては、健全な切迫感への憎しみになります。するべきことを後回しにし、忘れようとする意志です。破綻するまで、取り返しのつかないところまで、そうするのです。
アケディアに陥る人は、善を行う時を逃し、手の中にある善を台無しにしがちです。果てしない不満、物足りなさ、悲観、退屈でいっぱいです。
怠け者だけの話ではありません。怠け者は、アケディアに陥る人々の一部にすぎません。
実際、過度に活動的な人の多くも、アケディアに陥っています。すべきこと以外は、何でもやり続けるからです。熱に浮かされたような活動や、ある実務面への過剰なこだわりは、その人が向き合いたくない、別の何かのしるしであることが、とてもよくあります。
退屈の問題です。客観的には重要で単純な、ある事柄に対する倦怠です。たとえば、繰り返しで、平凡で、当たり前に見えることがあります。アケディアに陥る人は、責任を伴うものに縛られたがりません。束縛への不安のように、この悪霊は、問題を解決することへの嫌悪を植え付けます。
ですから、その人の底には、不満があります。満たされていない、不愉快だ、整っていないという、絶え間ないささやきです。そして、本当は自分自身に向いたその不満を、悪口や不機嫌として吐き出します。アケディアに陥る人は、他人の悪口を言い、すべてに不平を言い、口数は多くても行いは少なく、あるいは、してはいけないことをする人です。
注意が必要です。この人物は、決して建設的ではありません。それでも、何となく好感を持ってしまうことがあります。深刻というより、滑稽な態度のように見えるのです。怠け者も、悪口を言う人も、不満な人も、それほど害がなさそうに見えます。
しかし、非常に危険です。アケディアの態度は破壊的で、人間の人生の最も美しいものを台無しにします。
実際、経済の仕組みは、アケディアの態度を育てています。この状態の人は、すばらしい消費者だからです。不満なので、何かを買い、食べ、し、持ちたいという必要が、隠れてもいないほど強くあります。
実際、この人が意気消沈しているのは、周囲に無関心だからです。すべてへの悪口を楽しんで、現実の美しさを捉えません。冷笑のとりこになり、苦々しく人を責める怠け者となります。内面の生活では、一種の霊的な抑うつ状態になります。
ただし、もう一度、区別を思い出しましょう。臨床的なうつ病は、精神の病気であり、その分野の専門家と取り組む必要があります。付随する症状が重なっても、霊的な抑うつと混同しては、絶対にいけません。司祭であれ信徒であれ、薬物治療中の兄弟姉妹に、「信仰がすべてを解決する」のだから薬をやめてよいなどと、権威ある立場からであっても、言い出すキリスト者は困りものです! 控えめに言っても不正確であり、たいてい危険です。
信仰は十字架を取り除きません。イエスは十字架から降りられませんでした。信仰は、非常に重い十字架である抑うつ状態を受け入れる行為に働き、治療にも大いに役立ちます。しかし、専門家の治療を要する、現実の病気を避けさせることは、信仰の役割ではありません。医師の意見に反するそんな指示をする人は、法的に責任を問われ得ますし、それは当然です。
霊的な抑うつは別のものです。病気ではなく、罪や選択のゆがみに関わります。少し違うものなのです。ときに、うつについて、本人に罪のあることのように語られるのを聞きます。霊的な見地では、そういう場合もあるでしょう。しかし、臨床や心理の見地では、絶対に違います。病気なのであり、それだけです。この区別には、いつも注意しなければなりません。
しかし、この悪霊に話を戻しましょう。アケディアとは、霊的な抑うつです。それによって人は、物事がすっかり空っぽになるに任せます。祈りや、自分の人生の美しく大切なものへの健全な心遣いにとって、最大の敵です。
この悪霊の典型的な症状は何でしょう。
まず、障害への過剰な恐れです。問題を絶対視するため、障害は怪物になります。すべてが大げさな悲劇になり、ふさわしい大きさに見直したり、緊張を解いたりできず、困難を巨大にする傾向があります。悲劇に仕立てるのは、典型的なアケディアの態度です。
さらに、このロギスモスには、苦労を伴うことすべてへの嫌悪と、絶え間ない近道探しという特徴があります。そこで、物事はいつも、何らかの形で避けられるという考えが定着します。危険な態度です。実際、内面も体も関わることを要求しないものは、私たちが手にしたものでも、自分のものでもなく、受け身で得たものであり、成長させてくれないからです。
もう一つの典型的なしるしは、規則に対する無頓着、秩序や定められた決まりを怠ることです。限界も、柵も、規則もなしに、そのまま進もうとします。これは、自分を壊す効果的な方法です。
一方、たとえば子どもの教育で、明確な規則を与えることを軽く見るのも有害です。今日、幼い子の教育には、浅薄で、少々奇妙な、議論の余地のある考えがあります。自然な成り行きや行動の自由を育てるのがよいとされます。それは真実ですが、絶対ではありません。確かに、子どもの無邪気さはとても大切で、守らなければなりません。同時に、幼い子には、しっかりした指示も必要です。子どもなのですから、限界や確かさが要るのです。
規則は子どもにとって重要です。実体がなく、頼りなく、不必要に不安定にする世界に放り込まれないために、必要です。規則を排除する教育は、非現実的で、有害です。
規則を絶対視してはいけませんが、取り消してもいけません。規則は現実の一部だからです。その存在を否定するのは、宇宙や自然、体などの物理的な現実を否定することです。規則とうまく付き合えない人は、現実とうまく付き合えないのです。
アケディアのもう一つの特徴は、誘惑に抵抗できないことです。そのため、どんな突拍子もない誘惑も、開け放した戸から入ってきます。配慮の否定であるアケディアによって、ほかのどんなロギスモスにも、もはや抵抗しなくなります。無秩序が内面を略奪しているのです。
この態度は、内なる戦いも、したがって成長もない霊性という、奇妙な考えと隣り合っています。ある衝動や誘いのささやきについて、自然に誘惑を受けなくなり、感覚の平穏を手にしたときに、罪に打ち勝ったのだ、という奇妙な期待に至ります。しかし、そんなことが、いったい、いつ……。
普通、そんなことは起きません。もし起きるなら、危険です。その人が死ぬか、少なくとも萎縮するのと、大して違わないからです。
まったく逆です。私たちの自由と責任は、あまりにも貴重です。主は、善を決して強制なさいません。いつも、私たちがそれを選ぶ必要があり、おそらく何かを支払うことになります。実際、アケディアに陥る人は、自分の低い衝動と対決するすべを知りません。ですから、しばしば堕落へ向かいます。
もう一つの典型的な面は、善を行う人、物事を大事にし、善いものに打ち込む人への嫌悪です。アケディアの思いは、一種の隔たり、反対したい願い、建設的に振る舞う人を妨害したがる悪意を生みます。働き、善を行う人は、生きた非難のように見えるからです。しかしその人は、ときに脅され、嫌がらせを受けながら、ただ、自分のすべきことをしているだけです。
もう一つの典型的な現れは、時間と集中力を失い、善いことを続けず、行き当たりばったりに進む傾向です。ここで、エヴァグリオスやほかの教父の文章には、ロギスモスの一種、「放浪する悪霊」が登場します。何も根気よく行わず、活動から活動へと移り、どんな作業も絶えず中断します。チャンネルを替え、コーヒー休憩をし、わざわざ携帯を確かめ、くだらないことや、スポーツのニュース、うわさ話に、いつでも気を取られ、仕事を途切れさせる生き方です。物事をやり遂げず、中断してばかりいます。こうして悪霊は、感覚、好奇心、楽しむ喜び、何でも使い、何でも話す喜びに、無秩序な自由を与えます……。実際には、とても表面的です。アケディアの犠牲になる人は、地に足が着かず、物事のうわべだけを扱います。
この恐ろしい一覧の、もう一つの現れは、自分の立場の主要な務めを怠ることです。それは、自分自身や、築いてきた善いものすべてを、壊すことになり得ます。
怠け者、アケディアに陥る人は、自分の立場の務めを果たさずに済むなら、どんなことでもし、無数の霊的体験を実践します。教区のあらゆる催し、少しでも名の知られた企画に姿を見せ、考えられる限りの巡礼や旅行にはすべて行くのに、癒やしへの一歩を決して踏み出さない人たちがいます。
この悪霊は、空間とのゆがんだ関係を強いる、と考える必要があります。そのため、その人は、いつも別の場所にいたくなります。今いる場所、摂理が置いてくださった場所は、逃げ出すべき場所です。アケディアに陥る人の根本的な性質は、逃避です。現実を忘れることへ、暇へ、活動へ逃げる。いずれにせよ逃げます。逃亡者なのです。目標はありませんが、避けるものはあるのです。
アケディアを扱うなら、『実践論』の第十二章を読まないわけにはいきません。『反駁の書』と対を成す書物です。そこでは、細部を味わいながら、エヴァグリオスが、アケディアに陥る修道者を、滑稽さに届くほど見事に描き出します。次の文章です。
「アケディアの悪霊は、『真昼の悪霊』とも呼ばれ、すべての悪霊の中で最も重苦しい。第四時ごろ修道者を襲い、第八時まで、その魂を包囲する。初めは、太陽の歩みが遅く、止まってさえいるように、一日が五十時間もあるように見せる。次に、何度も窓を見、独房から飛び出し、第九時まで太陽があとどれだけ動くかを確かめ、兄弟の誰かが来ないかと、あちこち眺めるよう駆り立てる……。さらに、住む場所、自分の生活そのもの、手仕事への嫌悪を呼び起こす。兄弟たちの間から愛は消え、慰めてくれる者などいない、という考えを植え付ける。そのころ、誰かに悲しい思いをさせられていれば、それも使って嫌悪を増す。そこでこの悪霊は、必要なものを簡単に見つけられ、もっと楽で、収入のよい仕事のできる別の場所を望ませる。また、主に喜んでいただくことは場所にはよらない、と説得する。『神は、どこでも礼拝できる』と言うのである。その上、家族や以前の暮らしの記憶も付け加え、修徳の労苦を目の前に置いて、長く続く人生を思い描かせる。いわば知恵の限りを尽くして、修道者に独房を捨てさせ、競技場から逃げさせようとする[155]」。
「競技場」、つまり競技する場所を捨てさせようとする悪霊の攻撃には、容赦がありません。四世紀の修道者に向けたこの描写の中に、自分自身や、周囲にある多くのことを、認めることができるでしょう。
読書する修道者についての描写も、エヴァグリオス以上のものはありません。解析学Ⅱや民法の試験に備える学生のようです。
「読書するとき、アケディアに陥る者は、よくあくびをし、簡単に眠気に身を任せ、目をこすり、伸びをする。本から目をそらして壁を見つめ、また少し読むが、語の終わりを繰り返して、むなしく疲れる。ページを数え、段落を計算し、文字や装飾を軽蔑する。ついには本を閉じて枕にし、浅い眠りに落ちる。しばらくすると、空腹が、その心配事と共に魂を目覚めさせる[156]」。
これらすべての源が何か、このロギスモスがどう働き、どうこれらを生むかを、突き止める必要があります。
この悪霊は、明らかに悲しみと隣り合っています。ただし、原因と結果というより、血縁の関係です。両方が同じ種類のロギスモイに属することを、忘れてはいけません。
この二つは、一次的な悪霊ではありません。いつも思い出しましょう。善い戦いに有効に取り組むには、その根までさかのぼる必要があります。すでに見たように、色欲が暴食に依存するなら、怒り、悲しみ、アケディアは、貪欲に依存します。
ですから、そう見えなくても、アケディアの源には、物質的な心配にとらわれ、所有を貪り、喪失を恐れる思いがあるはずです。
貪る人は、「存在すること」を「所有すること」に置き換えるので、所有を必要として捉えるのだと、思い出しましょう。では、怠惰との結び付きはどこにあるのでしょう。怠ける人は、根本的には、節約を考えています。出し惜しみするのです。
怠ける人は、たいてい自分を賢いと思っています。避けられることがあり、皆がしているなら、自分はしなくてよいと考えます。身を与えることの正反対である、貪欲の衝動によって、求められる苦労を減らす近道を見つけ、時間と労力を節約できると思うからです。
まさにこの考え方のため、逆説的にも、反対の結果に終わることがあります。千ものことに手を付け、何一つ終えられないのです。続けず、忍耐せず、気がそれ、脇道の何かを見つけると、それを避けられません。午前中勉強して、読めたのは十ページだけ。でも、メールは八通送り、メッセージ十一件に返事をし、通知七件を確かめ、二回ほど休憩し、電話五本に答えました。そのうち一本は、間違いなく長電話……。そう、あれさえなければ……。
アケディアに陥る人の内に潜む緊張は、喪失を避けようとするものです。基本的には、労苦を避けることです。
もちろん、これは快適さの専制と隣り合っています。こうして、暴食と、その快楽への執着の領域に足を踏み入れます。手をこまねいていること自体は、アケディアに固有ではなく、その道筋の結果の一つです。つまり、一つの悪霊から別の悪霊へ移るため、暴食に行き着くのです。実際、貪りを扱ったときも、似たことをいくつも見ました。別の何かから逃げるため、埋め合わせに陥ります。否定を表すアルファの性格を、見失ってはいけません。アケディアとは、することではなく、しないことです。
実際、悪霊の働きがどこに位置するか、魂をアケディアへそらす、固有の地点はどこかに、焦点を合わせる必要があります。
急所となる、決定的な瞬間があります。一ミクロンほどの隙間です。労苦や退屈に伴う空虚さを感じるとき、とどまり、続けるべきときです。動きの止まる点であり、先へ進むためには、失い、重荷を引き受けなければなりません。そこで、進む代わりに、それるか、止まるのです。その瞬間こそ分かれ道です。悪霊はノエーマ、欺きの像を使って、行動への勢いを妨げます。実在しない壁を前にしたようになり、その障壁が勢いをしぼませるからです。
そのとき、貪欲の衝動は自己防衛になり、自分のいのちにしがみつきます。
しかし、一つ思い出しましょう。この描写では、また怠け者の話をしていると思うかもしれません。違います。そういうことではありません。
アケディアが支配するのは、すべきことを怠る世界です。
ですから、今の描写は、たとえば、病気の家族を見舞いに行かなければならないその日に、車庫の掃除やカーテンの洗濯を始める、あの瞬間に当てはめるべきです。内面の場面は同じです。
あるいは、子どもと過ごすべき日に、ちょうど仕事の見直しのために居残らなければならなくなるときです。ほかにも、できる日がいくらでもあるのに、なぜ、まさに今日なのでしょう。
実際、パウロには、この状態をとても明晰に照らす、驚くべき描写があります。
「あなたがたの中には、無秩序に暮らし、何も働かず、あれこれと余計なことをしている者がいると聞いています[157]」。
この文章は、私たちの旅にとって、とりわけ鋭く、豊かです。パウロは、文字どおりに訳せば、「無秩序に暮らし、何も働かず、しかし……」という人がいると言います。面白いのはその先です。「あれこれと余計なことをする」と訳された動詞は、「働く」に使うエルガゾマイと同じものですが、接頭辞が意味を変え、ペリエルガゾマイとなっています。その意味は、「むなしく忙しくしている、何かに過剰な配慮をする、いたずらに苦労する、自分の仕事を散漫にする、無駄な仕事をする、他人に属することに干渉する」です。
するべきことを怠り、的外れな活動として現れる、まさにこれが、アケディアのロギスモスの作る定番料理です。
しかしパウロは、その後、根本的な指示を与えます。
「このような人たちに、主イエス・キリストにおいて命じ、勧めます。落ち着いて働き、自分で得たパンを食べなさい[158]」。
問題は、まさにここです。自分のパンを食べること。アケディアに陥る人の罪は、自分のパンを食べないことです。主の祈りを唱えるたびに願う、私たちのパン、自分に与えられ、父が下さるパンです。創世記第三章では、アダムとエバは自分のパンを食べず、別のものを食べます。アケディアの悪霊は、別の糧を見せて、自分の成長、糧、仕事、行いから引き離します。こうして、私たちの大きさを奪います。私たちは目標を外れ、目的地を失って、無秩序に歩きます。
ところで、この最後の文章には「落ち着いて働く」という表現があります。ここで「落ち着いて」に当たる語は、エイレーネーではなく、ヘシュキアです。ありふれた言葉ではありません。静けさ、休み、平和、休戦、落ち着き、穏やかさ、沈黙、騒ぎを離れた状態、独居を意味します。それは、私たちがこれらすべてを学んでいる修道者たち、ヘシュカスト、つまり静寂の祈りヘシュカスモスを実践する人々の固有の呼び名でもあります。エヴァグリオス・ポンティコスも、その一人です。
アケディアのロギスモスが注ぎ込むうそについて、まだ、根本的な点に焦点を合わせなければなりません。ほかの箇所で繰り返し説明したように[159]、その典型的な手口、ノエーマ、つまりイメージと結び付いています。
アケディアは、神のみ旨を抑圧的なものとして描き、心をその暗示にかけます。
それは、神の求められることの表象であり、実際には、神御自身についての考えです。神は、抑圧的で、厳しく、過酷で、疲れさせ、難しく、不快な要求をする方だという考えです。神のみ旨は拷問だ、というのです。
すると私たちは、神のみ旨を果たすことを恐れます。それを刑罰、宗教上の義務が設けた、いわれのない拷問のように見ます。祈りはうんざり、人の世話は吐き気がする、といった具合です。
そして、それをするとき、どれほど幸せかを忘れます……。しかし、先ほどの分かれ道を越え、拒絶という想像上の壁の向こうへ行けば、真実に戻ります。
アケディアの悪霊が与える神の像は、まったくの冒瀆であり、悪魔的です。
そもそも、神はこれ以上、何を求める必要があるのでしょう。私たちが与えられるもので、神が御自分で取れないものがあるでしょうか。何かを求められるなら、それはいつも、ただ私たちのため、私たちの解放と幸せのためです。そうでなければ、それは神ではなく、自分の要求の強さや、人間関係の質の投影です。
神のみ旨が拷問ですって。牢獄なのは、私たちの意志のほうです! フィラウティアの奴隷状態、自分の自我への不安。これこそ、私たちの悲劇です。
誰かを真剣に愛したときに、最大の喜びを味わったのではありませんか。神が何をさせようと望まれる、と考えているのでしょう。聖なるみ旨によって、どこへ連れて行きたいとお考えなのでしょう。光へ、平和へ、自由へ。愛へ、です。
神のみ旨は厳しいのですか。厳しいのは罪のほうです。それも、どれほど厳しいことか!
自分のことだけしているのは、よいことですか。つまり……独りぼっちは、よいことですか。
何もしないのは、よいことですか。つまり……空虚さは、よいことですか。
誘惑のあの瞬間に、神とその聖なるみ旨についての、ばかげた像が現れます。そして私たちは、神が求めすぎるのではないかと恐れます。
いつも、こうです。いつも、神は父ではないと考えています。
あなたの代わりに死ぬために、御子を送られる方の、何が怖いのでしょう。あなたのために死ぬことを自由に選ばれる主イエスに従うことに、どんな危険があるのでしょうか。
父なる神と主イエスについて、私たちは、あと何度、考えを改めなければならないのでしょう。
なんと忍耐強い方々でしょう……。
次は、その忍耐について話しましょう。
忍耐
「忍耐はアケディアを断つこと、思いへの歯止め、死を心に留めること、十字架の黙想、恐れにつながれること、鍛えられた金、苦難の規範、感謝の書、ヘシュキアの胸当て、修徳の務めの鎧、尊く熱心な働き、諸徳への署名である[160]」。
(エヴァグリオス・ポンティコス)
アケディアのロギスモスを甘く扱ってはいけません。それがもたらす現実は、破壊的で、不幸なものだからです。
どうすればよいのでしょうか。
まず、根本の治療は、宣戦を布告することです。アケディアは、平和に付き合うことのできない悪霊です。ともに暮らすことはできません。何もかも壊すため、何とも共存しないからです。ほかの悪霊なら、私たちの人生のある部分を放っておくかもしれません。本当にそうするものとしてですが。しかし、これは違います。すべてを内から空にしてしまいます。
アケディアこそ、戦う気を失わせ、熱意を盗み、活動を奪うものですから、宣戦を布告するだけで、すでに……勝ち始めているのです!
アケディアとの戦いの難しさは、戦闘を始めることにあります。ただ、一つ覚えておく必要があります。この悪霊はきわめて手ごわいのに、突然消えるのです。
アケディアは、攻撃すると崩れ去ります。
行動に移り、宣戦を布告すると、驚くべきことにアケディアは消えます。それまで無気力に過ごしていた人が動き始めると、勝利の速さに気づきます。ただ、その前に、無人地帯を越えなければなりません。善い行いを始めるときに訪れる、せっかちさの地です。アケディアへの勝利は、諦めさせようとする苦さの荒れ野を通って初めて得られます。問題に向き合いたくないという、抑えがたい思いに耐えなければなりません。
何も起きていない、戦いはうまくいっていない、解決などないと思うかもしれません。しかし、必要なのは、ただ「持ちこたえる」ことです。耐えなければなりません。しかも、そう長くはありません。不思議ですが、アケディアにはそれほど時間は要りません。ノエーマタを糧にしていますが、紙の怪物なのです。
攻撃に出ると、悪霊の力が抜けていくのがわかります。なぜでしょうか。簡単です。善いことをするのは、よいことだからです。
すべきことをし、整えるべきものを整え、正しい道を進み始めると、気分がよくなり、満ち足りて、人生に感謝し始めます。
実は、アケディアに陥った修道者についての長い描写の結びを、引用こそしませんでしたが、すでに示唆していました。悪霊が生み出す、落ち着かず、ばかげた状態を描いた後、エヴァグリオスは意外な言葉を添えます。
「この悪霊の直後に、別の悪霊が続くことはない。戦いが終わると、平穏な状態と、言い表せない喜びが魂に訪れる[161]」。
「お前にはできない。やってみても無駄だ」という誘惑に、耐えなければなりません。反対に、取り組む価値はあるのです。誘惑は、現実の、具体的な成果から私たちを引き離そうとしているのですから。
降参しないためには、どうすればよいのでしょうか。
悪霊の影響のもとで、逃げようとしている事柄への嫌悪が優勢となり、アケディアが勝つ、あの典型的で決定的な瞬間を見ました。
しかし、別の選択肢、分かれ道のもう一方があります。無気力への誘いのささやきに、エヴァグリオスが対抗させる勧めです。
彼の使う言葉は、「忍耐」と訳されます。
それは、どういうことでしょうか。
主が残してくださった最も重要な教えの一つ、ヨハネ福音書の中に、ふさわしい手がかりがあります。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結べないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結べない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながり、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない者は、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。人々がそれを集め、火に投げ入れて焼いてしまう[162]」。
キリスト者の生活の実りや成果は、主のうちにとどまり、つながり続けることにかかっています。
キリストのうちにとどまることです。
ラテン語ではスタビリタスと呼ばれるあり方です。多くのつながりを持ち、内にも外にも及び、善、光、真理のうちにあります。
これは救いの根本的な釣り合いであり、変化や不安定さとも、無理なく共存します。その人を確かにする力を表すため、ペレグリナティオ、旅することと、意味深い一対にされます。キリスト者の生活は、旅の中の安定であり、同時に、安定の中の旅なのです。少し簡単に言えば、変化を排除しない安定があり、安定を保ちながら変わるすべを知ることです。
個人の資質や性格の特徴と思えるかもしれませんが、まったく別のものです。神との関係から生まれるからです。
キリスト者のあらゆる行為の根にある、確かさなのです。
ある詩編は言います。
「わたしは切に主を待ち望んだ。
主は身をかがめて、
叫びを聞いてくださった。
滅びの穴から、
ぬかるむ泥から引き上げ、
岩の上にわたしの足を立たせ、
歩みを確かなものとしてくださった[163]」。
沼の泥のような滑りやすい足場から離され、安全で、安定した場所に置かれることを語っています。
これは信仰の経験です。ヘブライ語の信仰という語には、支えという意味もあります。不確かな自分という滑りやすい地面から、父である神のもとへ移ることを可能にします。
別の詩編は言います。
「主に信頼する人はシオンの山のよう。揺らぐことなく、とこしえに座る[164]」。
エヴァグリオスの語る忍耐を理解し、地上の力だけに頼る、選ばれた人だけのストア主義に陥らないためには、天の御父との関係と、私たちが持ちこたえる力との結びつきに、目を留めなければなりません。これは、驚くべき、見事な人にだけ許されるものではないのです。
私たちが語っているのは、すべての人のためのものです。むしろ、もろい人や意志の弱い人にこそ、ふさわしいかもしれません。
説明しましょう。万有引力の法則は、物理の法則であるだけでなく、存在の法則でもあります。存在が不安定でもろい私たち人間は、倒れず、空虚に沈まないために、どこかによりかかり、支えと守りを見いださなければなりません。
たった一日を迎えるにも、よりどころが必要です。人生はいつも不確かさにさらされているからです。普通は「手の届くところ」に探すので、物や自分の資質、あるいは安心できる何かの確信に頼り、それを自分の安定の土台にします。
フィラウティアの説明ですでに扱ったこの考え方は、私たちの存在の多くの面に当てはまり、不安定さ、より正確には、偽りの安定の原因になっています。
実際、私たちの確かさが偽物であることは、頼っているものを誰かに脅かされると明らかになります。そうなると、暴力的になったり、落ち込んだりするからです。たとえば、自分の力や知性を頼りに生きているなら、これはよくあることですが、自分より強いものや理解できないものに出会った日に、崩れ落ちるか、怒り狂うことになります。
一般に、自分や物に頼ることから主への信頼へ移れないのは、まさに強い人や恵まれた人です。反対に、すでに失敗し、自分の限界を経験した貧しい人のほうが、主へ重心を移しやすいのです。
時には、健全で徹底した屈辱を経験して初めて、よりどころを変えることができます……。詩編が言うとおりです。
「苦しめられたことは、わたしにとってよいことだった。あなたの掟を学ぶために[165]」。
私たちの冒険に関しては、アケディアのロギスモスに対して、とどまること、神をよりどころにすることが何を意味するのか、理解すると役立ちます。説明を試みましょう[166]。
エヴァグリオスが用い、忍耐と訳される語から始めましょう。ヒュポモネーという語で、非常に広く使われ、主に「下に」を意味する前置詞ヒュポが、ここでは特別な含みを持って用いられています。これに動詞メノーの名詞形が組み合わされています。メノーは、ヨハネ福音書でイエスが用いておられる、まさにあの動詞です。「とどまる、続ける、存続する、動かずにいる、変わらずにいる」という意味です。
ですからヒュポモネーは、持続、堅忍、忍耐を意味します。ただし、ここでの含みは、道徳的というより、場所にかかわります。一つの場所にとどまること、動かないことです。
では、具体的にどうアケディアと戦うのか、理解してみましょう。
エヴァグリオスは、悪霊があらゆる武器を使い、修道者に「庵室を出て、競技場を去らせようとする」と述べました。また、アケディアの章の初めに挙げた定義の一つに、「庵室への憎しみ」がありました。なぜ場所がそれほど大切なのでしょうか。真昼の悪霊が、あらゆる手段でヒュポモネーの場から遠ざけようとするからです。まさにそこが、質的な飛躍の起きる場所なのです。
ヒュポモネーは、客観的な器によって表されます。それは、神がアケディアに勝つ恵みを与えてくださる空間です。つまり、境界を持った枠組みが必要になります。自分の気分に左右されず、感覚や印象、表面的な衝動に逆らって行うべき、そういう種類のことです。
堅忍の賜物を願うとき、その賜物を受けるために自分で定める、小さな、あるいは大きな規則を守らなければなりません。繰り返しますが、器の問題なのです。
量り売りで何かを手に入れるとき、買うものを入れる箱や瓶などを持っていかなければならないのに似ています。恵みを入れる袋を持っていく必要があるのです。その袋は、私たちが用意しなければなりません。
これは、とても大切です。アケディアの人は、何の規則も持たず、ある朝目覚めたら、突然物事をする気になって、この戦いに勝てるのを待ちます。しかし、そうはなりません。反対に、助けを受けられる状況を作り、育てなければなりません。
そこで、自分の生活で今アケディアがどう現れているかを見定めます。一つだけだとしてですが……。そして、こう問わなければなりません。怠っていることを始めるには、どんな条件が必要だろうか。そして、それを具体的に定めるのです。
たとえば、アケディアの人が勉強できないなら、身体的には、本に向かっていないからにほかなりません。勉強に戻る、あるいは始めるには、机の前に座って、そこにいる必要があります。それで、勉強を続ける賜物を神に願います。では、どうしますか。立ち止まり、賜物が届くのを待つのでしょうか。いいえ。それでは届きません。神に堅忍の賜物を願うのですから、こうするのです。主に願い、それから勉強を始める前に、昔からある接着剤のヴィナヴィルを手に入れます。椅子の座面に薄く塗り、少し乾くのを待ち、ズボンのお尻の部分も刷毛で塗って、それから体重をかけ、お尻をしっかりつけて座ります。そして、そこから動かないのです。
三時間たつと、神が勉強の堅忍を与えてくださったと気づくでしょう。
死んでいないことに気づきます。勉強で死ぬのは難しいことです。文献にも、そうした副作用は報告されていません。そして、予想しなかったことが起きたとわかります。机から離れないよう自分に強いることで、座ったままネット経由で逃げることもせず、堅忍という峠を越えたのです。平和を感じます。勉強の楽しささえ、感じ始めています。
エヴァグリオスなら、こう言うでしょう。庵室を出ず、神のみ旨が求める場所にとどまることを自分に課したので、ヘシュキアを再び見いだしたのだ、と。これが、堅忍を入れる袋、器なのです。
先ほど言ったように、三時間たって初めて、神が堅忍を与えてくださったことに気づきます。それ以前にはわかりません。勉強し、そこにとどまり、やり遂げました。しかし、その前に、そこにとどまることを自分に課さなければなりません。
アケディアへの勝利は、私たちの自由に逆らって来るのでなく、私たちの協力とともに来るからです。客観的で、自由な同意がなければ、いかなる霊的な行為も決して生じません。
ですから、アケディアの悪霊のさまざまな攻め口に対し、具体的にどんな器が必要かを理解しなければなりません。初心の修道者として、とどまるべき「庵室」は何か。ただし、喜びは後から来ると、いつも覚えておきましょう。アケディアとの戦いは、勝利から出発するのでなく、勝利に至るのです。
アケディアに戦いを挑む人は、最初の感情や好みを無視しなければなりません。
心が動くのは、アケディアに勝ったときであって、その前ではありません。実際、アケディアの人には、心が無断欠席しています。ここでいう心は、ヒュポモネーに逆らうあらゆる感覚や知覚より、ずっと奥深い領域です。
心へ、深みへたどり着くためには、アケディアの妨害策に逆らわなければなりません。自分に逆らう必要があるのです。より正確には、本物に見えて本物でない、自分の一部分に逆らうのです。
アケディアの人が自分自身の破滅を生み出すのなら、何かを築き始めるには、自分自身に逆らわなければならないのは明らかです。
大切なことを思い出しましょう。アケディアの中心は、すべきことを怠ることにあります。今示した、アケディアに勝つ恵みへの道は、最も重大なものを含め、あらゆる怠りに当てはまります。
2006年、当時ヴェネツィア広場のサン・マルコ大聖堂の主任司祭だったアンジェロ・デ・ドナティス神父とともに、月に一度の講座を行いました。今は、教皇代理としてローマ教区を司る枢機卿であり、私の上長です。講座の主題は、怠惰に対する伝統的な治療法でした。この霊的な伝統を私に教えてくれたのは、彼です。
これらは、アケディアへの勝利を受ける、典型的な器です。伝統では七つとされています。どれも貴重な治療法です。
善い戦いの仕方を身につけるために、手短に見ておく必要があります。
第一は堅忍です。それだけなら、すでに述べたことの繰り返しに見えますが、ここでは、別の不可欠な面を示しています。アケディアとの戦争では、一度の戦闘では足りず、善い実践を繰り返すことが根本なのです。初めてヒュポモネーを実践するときは、つらいものです。しかし、それによって最初の勝利を得ます。ここで、堅忍の出番になります。やめてはいけません。続けると、二度目の戦いはもっと易しく、三度目はさらに易しいとわかり、そのように進みます。やがてハビトゥス、習慣に至り、大きな平和を感じ始め、それが育っていきます。
ヨシュア記の約束の地の征服の物語では、最初の戦いは輝かしいものです。忘れがたいエリコの征服です。しかし、二度目のアイの戦いでは早くも、イスラエルの人々は受けた指示に背き始めます。そして、負けるのです[167]……。
第二の治療法も、名はすでに知っています。時間における堅忍から、空間における堅忍へ移るもので、スタビリタスと呼ばれます。ただし、少し違う意味合いです。同じ行為を辛抱強く続けるだけでなく、その挑戦を始めたのと同じ条件で、戦い続ける必要があるのです。さすらう悪霊のずる賢い誘惑は、もっとよい場所や時間を探すなど、方法に変更や改良を加えさせようとします。しかし、最初の段階では、それは誘いのささやきです。理想の場所や空間があるのではなく、どこであっても、今ここで戦い始めることに対する誘惑があるのだと、覚えておかなければなりません。今ここで、私は自分のアケディアと戦い始める必要があります。この場合、神が与えてくださるはずの恵みは、私が長い間、同じ場所にいることを求めます。次の段階、健全な習慣を身につけた後なら、改良もできます。しかし、それは状況が変わってからなのです。
アケディアに対する第三の根本的な治療法は、すべてに優先する祈りです。ヒュポモネーが、主へ重心を移さない、自分だけの行為なら、人間の意志と同じく、届く範囲の狭い意志主義にすぎなくなることを忘れてはなりません。その人間の意志は、キリストご自身も放棄しなければならなかったのです。私たちは、なおさらです……。はかない自分の意志の力を行為の土台にすることから、どう神の力へ移るのでしょう。祈りは、この中心の移動を実践し、願う場です。第一部では、基本的で、初歩的な手引きを示しました。一つ確認しておきましょう。それが簡単に見えるのが、もう、もっとよく祈ることを学んだからであれば、とても結構です! あのページで私が述べなければならなかったこと以上に、誰もが祈っていてくれたら、どんなによいでしょう。ですから、より成熟した、実りある祈りを知っている読者は、ためらわず、すでに知っているとおりに祈り直してください。大切なのは、実際に祈ることです。
第四の根本的な手段は、目を覚ましていることです。自分の節度を守り、混乱させ、酔わせる要素を取り除くことです。まず、しらふにならなければなりません。
アケディアとの戦いは、しばしば断食、つまり何かを控えることから始まります。この時間はテレビを見ない、一日のうち数時間は電話を切る、この時間はあちこちで無秩序に食べない、と始めます。というのも、当然ながら、アケディアと暴食は愉快な仲間同士です。実によく気が合い、愚かさやくだらないことで宴会をするからです。
目を覚まし、節度を保つことは、恵みが入ってくるのに心を開く、すばらしい手段です。はっきりさせましょう。アケディアに勝つのは、警戒そのものではなく、恵みです。しかし、目を覚ましていることは、その恵みを受ける条件なのです。
第五の治療法は、非常に真剣なものです。いわゆるメモリア・モルティス、死を覚えることです。陰鬱なほうへ進むように見えますが、懸かっているのは、真実を見抜く感覚です。被造物としての自分の限界、自分の終わり、自らの力で存在するのではない自分を覚えることです。私の時間は、与えられているだけです。神は機会を与え、扉を開いてくださいます。それを生かすほかに、私の救いはありません。身体の死そのものにおびえるのでなく、いのちの重みを理解するのです。毎日が最後の日です。この日と同じ日は、もう来ないからです。今日という日は、今日だけなのです。
がん患者である私は、こう言います。よく生きるための時間は、あまりありません。この本を今書かなければ、きっと二度と書けないでしょう[168]。若いころには、いつまでも時間があるという妄想がありますが、これは非常に危険な欺きです。一般に、物事をするための時は一度きりで、機会は多くありません。時間は本当に貴重で、浪費してはならないのです。
アケディアと戦う最後から二番目の手段は、エクサゴレウシスという、変わった名を持っています。打ち明けることという意味です。広場を意味するアゴラに、外へ出る動きを示す接頭辞エクスがつき、内にあるものを広場へ持ち出す行為を表しています。どういうことでしょう。自分に起きることを皆に話すべきだという、すでに触れた霊的な裸体主義でしょうか。まったく違います。それは何の役にも立たず、たいていは言葉の不節制です。そうではなく、霊的指導において心を開くことなのです。
アケディアを断ち切りたければ、どんな暮らしをし、何に時間を失っているか、霊的指導者に話してみてください。虫のように恥じ入るかもしれません。虫は恥じ入るのでしょうか。しかし、これは実に強力な治療法です。アケディアに対する、極限スポーツのようなものです。
一つ助言しましょう。一般に、同じ聴罪司祭のもとに戻るのがよいことです。いつも同じ罪を告げるのが恥ずかしいからと、そのつど司祭を替えないことです。同じ聴罪司祭に戻り、神に身を委ねるように、どう生きているかを話せば、その司祭は、さらによく考えた助言をすることができます。近くに司祭がいなければ、戦いで自分の先を歩み、信頼できる男性か女性のキリスト者がいるでしょう。知恵ある友と、助言を求めて行う聖なる会話は、祝福です。
アケディアの最後の、そして主要な敵であり治療法は、手仕事です。世の中で最も当たり前のこと、するべきことを始めることです。アケディアの人は、何もしないか、もっと多くの場合、すべきでないことをしています。すべきことを始めるのです。アケディアとの戦いは、とりわけ始まりにあることを、覚えておかなければなりません。ここまではすでに述べましたが、この勧めが加える意味は、手を動かさなければならないということです。これは、つまらないことではありません。
アケディアとの戦いは、体を通ります。体を通らなければ、欺きです。実際、ロギスモイとの戦いは、すべて体を通らなければなりませんが、とりわけこの戦いはそうなのです。
ですから、どこからでも、体を使う活動、器から始めましょう。始めると、その後に、ほかのすべてがついてきます。堅忍、安定、祈り、目を覚ましていること、死を覚えること、霊的指導において心を開くこと……。どれもすばらしいことですが、体で実行し始めなければ、いつまでも新しいページへ進めません。
これらが、アケディアに対する古典的な治療法です。繰り返しますが、今回の戦いだけでなく、あらゆる善い戦いを特徴づけるものです。
アケディアの章の終わりまでに、各章の冒頭に置いている『エウロギオスへの手紙』の文章を分析しなかったのは、定義が十分明瞭で、説明するのが衒学的に思えたからです。
しかし、いつものようにこの章の冒頭ですでに引用した、ヒュポモネーを描く文章には、ごく手短に目を通しておきましょう。
「忍耐はアケディアを断つこと、思いへの歯止め、死を心に留めること、十字架の黙想、恐れにつながれること、鍛えられた金、苦難の規範、感謝の書、ヘシュキアの胸当て、修徳の務めの鎧、尊く熱心な働き、諸徳への署名である」。
ヒュポモネーを忍耐と訳すと、小さくない一つの意味を強調できます。忍耐を表すパツィエンツァは、苦しむという意味のパティーレに由来し、サペール・パティーレ、すなわち、苦しみに耐えるすべを知ること、人生の困難に向き合うすべを知ることです。問題に耐えられず、人生の難しさを消化する力のない人が、どう生きるのか、考えてみてください。その人には、この世に平和がありません……。
ですから、エヴァグリオス・ポンティコスにとって、忍耐は「アケディアを断つこと」です。アケディアは断ち切らなければならず、交渉はありえないことを思い出しましょう。妥協すれば、あちらの勝ちです。
「思いへの歯止め」。『聖ベネディクトの戒律』の、善い業の道具を扱う章に、貴重な指示があります。その一つは、こうです。
「心に浮かぶ悪しき思いを、直ちにキリストに打ちつけて砕き、霊的な長老に打ち明けること[169]」。
アケディアは頭から始まり、体を支配します。ロギスモイ、つまり思いや感情を糧にします。ですから、心の中には、従ってはならないものがあります。アケディアの思いに限らず、気をそらし、いのちの道筋から遠ざける思いがあります。ついていってはいけません。無視する必要があります。たいていは、ひとりでに消えていきます。
「死を心に留めること」。これは、死を覚えることとして見ました。
「十字架の黙想」。苦しみの中で完全に目に見えるものとなったキリストの愛を見つめると、あれほど恐れている苦痛についての、自分の見方を絶対化しない助けになります。
「恐れにつながれること」。道を見失う恐れや、自分を破滅させる恐れといった、健全な恐れをつなぎ留めておくことです。
「鍛えられた金」。なんと美しい定義でしょう! 金ですが、鍛えられています。つまり、忍耐は貴重ですが、集中的な働きかけを伴い、鍛えていかなければなりません。
「苦難の規範」。苦難の中には、多くの知恵を見いだせます。戦い始める人は、まさに忍耐を通して、本当に生きるに値する生活の、貴重な規範を発見します。
「感謝の書」。アケディアの人は恩知らずですが、忍耐する人は善を覚え、受けた善いものを忘れません。
「ヘシュキアの胸当て」。忍耐は、平和、執着を離れること、内的生活、神との親しさを守ります。
「修徳の務めの鎧」。成長したいのに、この章で述べた規律に入ろうとしない人は、運動靴でエベレストに登ろうとする人のようです。ふさわしい装備が必要です……。
「尊く熱心な働き」。ヒュポモネーの規律は、尊厳をもたらし、それは、することすべてに映し出されます。
「諸徳への署名」。この言葉は、善いものの一覧の下に署名することを示しています。よい契約に署名した、ということです。
魅力的な話について、「それなら署名する」と言います。
ヒュポモネーの生活には、署名する価値があるのです。
虚栄である嫉妬の悪霊
「虚栄は、出会いの空想、勤勉さのふり、真実の反対、異端の始まり、上席を占めたいという願い、呼称の誇張、称賛への隷属、さまざまに姿を変える霊、多くの牙を持つ獣である[170]」。
「嫉妬は、傲慢の習慣であり、謙遜を脱ぎ捨てること、悪口の根、幸いを見られなくする目の病、友情のふり、信頼への欺き、愛への憎しみ、評価される者への妬み、確かに立つ者を動揺させること、評判のよい者への非難、目の乱れ、好奇心の友である[171]」。
(エヴァグリオス・ポンティコス)
この章の課題は、興味深いものです。同じ悪霊の二つの面を、結び合わせることです。エヴァグリオスは『エウロギオスへの手紙』で、それを詳しく分析し、ちょうど二つに分けているので、ロギスモイの数が九つに増えたように見えます……。しかし実際には、ほかの著作では八つという数を保っています。悪しき思いの内的な仕組みを説明したときに見た、『実践論』の序文もそうです。
今回はエヴァグリオスが、ロギスモスの二つの顔を、とりわけ豊かに示しています。
それだけではありません。
冒頭の引用では、虚栄の定義の末尾を省きました。そこでエヴァグリオスは、最後から二番目の悪霊の二つの面と、最後の悪霊である傲慢とのつながりを明るみに出し、こう述べているからです。
「虚栄は、傲慢と嫉妬の間にあり、両者と絡み合う。これらは互いにかかわり合い、互いに争う情念であり、悪徳の三重の鎖、情念の三重の毒の混合、異端者たちの三重の舌である[172]」。
この三つの情念は、互いにかかわり合うため、絡み合い、対立しながらも一緒に働きます。
私たちは最後のロギスモイまで来たことを、覚えておかなければなりません。人間の霊の部分にかかわり、あらゆる方向に働き、すべての面に触れるものです。最も悪質な悪霊です。悪の根、すべての下にあるフィラウティアに、ますます近づいています。それは、これらの誘いのささやきの中で、自分の「最高」の力を発揮します。
実際、これらの悪霊は、最も人を欺き、最もずる賢いものです。善を利用でき、ほかの悪霊に対して果たした進歩さえ、欺きの手段にできます。
エヴァグリオスが言うとおりです。
「実際、善を行うことで貪りの思いを脱ぎ、節制によって腹の乱れを脱いでも、その後、虚栄や陰口という別の思いを身に着けるなら、何の役に立つだろうか」[173]。
そのとおりです。ほかの悪霊に勝っても、その後、すべてが虚栄に変わるなら、何の役に立つのでしょう。自己陶酔と尊大さだけで織り上げた、生活の改めもありうるのです。
ここは避けられません。私たちの冒険の最後の部分は決定的ですが、曲がりくねった性質のロギスモイを扱います。ですから、複雑な話の中で、道を見失わないよう努めなければなりません。
虚栄と嫉妬を結びつける説明を、どのように組み立てればよいでしょうか。
後に見るように、虚栄の性質は、自分のイメージを認めさせることに向かいます。一方、嫉妬の実体は、隣人との競争です。
傲慢には、さらに多くの領域がありますが、傲慢な人は無意識のうちに、奥に隠れた一人の敵を持っています……。神ご自身です。
したがって、エヴァグリオスの明かす絡み合いは、三つの根本的な関係のゆがみとして説明できます。虚栄は自分のイメージとの関係を変質させ、嫉妬は隣人との関係を壊し、傲慢は神との関係を傷つけます。そして、そこから至るところに広がります。
三つが密接に結びついているのは明らかですが、エヴァグリオスが、これらの情念は「互いにかかわり合い、互いに争う」と述べたことを、忘れてはいけません。
確かに、これらは互いに戦います。しかし、私たちの益のためでなく、私たちをさらに破滅させるためです。すでに述べたように、欺きに満ちた領域なのです……。
これらの悪しき思いの曲がりくねりは、フィラウティアから始まります。それが、はっきりした一つの色合いを与えます。恐れの色です。これらのロギスモイをつなぐ赤い糸は、警戒、内なる恐怖、そして矛盾したその動きです。究極の根を考慮せずに、こうした情念を説明するのは、話を道徳主義的に、とりわけ、役に立たないものにしてしまうことです。
虚栄の悪霊の名は、ケノドクシアです。二つの語から成ります。一つは「空の」を意味する形容詞ケノスで、単に人のいない空間というより、欠如という意味合いがあります。もう一つは、栄光、また意見を意味する名詞ドクサで、性質を表す語尾イアがつきます。この名詞に二つの意味があるのは、ドケオーから派生しているためです。この動詞は多様な意味を持ち、自分の意見を持つこと、すなわち「信じる、思う、そう思われる」から、外から自分について持たれる意見、すなわち「そう見える、現れる、そう評価される、用心深い」まで広がります。これによって、「ある評判を引き起こしていると思う」といった、意味の短絡が生じます。同時に、名詞ドクサは、主に評判を示すために用いられるようになります。
ケノスとドクサを合わせると、文字どおりには、空虚で実体のない評判という意味になり、慎みのなさ、自慢、虚飾という意味で使われます。中身のなさ、尊大さ、もったいぶること、誇大妄想などの類義語も、この意味につながります。
何を語っているのでしょうか。一種の自賛、自分の行いや仕事によって自分の偉大さを示そうとする衝動、自分の資質を自慢し、栄光、ドクサを得ようとすることです。
しかし結局、その努力はむなしくなります。その栄光は、後にはかなく消えるからです。
ケノドクシアは、霊的な観点から見て、最も破壊的な思いの一つです。空虚で自分を満たすことです。空虚な評判を糧に生きること、つまり、自分の行動が、認めてもらえるかどうかに左右されることです。そこから生じるのは、他者の評価への依存です。
興味深いことに、ヘブライ語で「むなしさ」に当たるヘベルは、「蒸気」を意味します。正確には、寒いときに息が凝結して、はかなく見える白い息です。コヘレトの書全体で、最も繰り返される言葉です。
「なんという空しさ、コヘレトは言う。
なんという空しさ、すべては空しい」[174]。
蒸気の蒸気、すべては蒸気。コヘレトはこう始まります。そのまま読み進めると、人間のあらゆる業、つまり人が思い煩うあらゆる事柄の分析に出会い、すべてが消え、過ぎ去るとわかります。人間の労苦が、浪費であり、消散であるという感覚です。
一瞬のもの、白い息、消え去るもののために生き、無益な浪費のために骨を折ることです。
「太陽の下に起こるすべてを見たが、すべては空しく、風を追うようなことだった[175]」。
終わった途端、もう存在しない拍手。一分で変わる評判です。
虚栄は、人々を捕らえる大きな罠です。一瞬だけ、今ここにあって、何の確かさもない役割によって、生きている気にさせます。
善いことも含め、することすべてが、ごみになる運命にあるような生き方です。
虚栄の不気味な一面は、活力を与えることです。虚飾は、信じがたい犠牲や英雄的な行いの、きわめて効率のよい原動力になりえます。
エヴァグリオス自身が言います。
「虚飾は、病人に力を取り戻させ、老人を若者より強くする。ただし、出来事を見ている証人が大勢いることが条件である[176]」。
よい印象を与えるためなら、一分前には疲れ果てていた人が、たちまち力を全部引き出します。虚栄の霊は熱に浮かされていて、あらゆる問題を帳消しにし、同時に働くほかの衝動を弱めます。
他者の評価を目当てに生きると、想像もできない重荷さえ引き受けることがあります。
虚栄の人は、自分のした善に満足します。鏡の前にいるかのように行動し、語り、自分のイメージに隷属しています。他者の評価のために生きているからです。
虚栄には、普通の虚栄と霊的な虚栄の二種類があることを、考えておく必要があります。普通の虚栄は、名誉や社会的なイメージへの執着です。
私たちの時代は、イメージ、美しさ、外見へのあらゆる熱望によって、虚栄に病んでいます。美しく見えるためなら、犠牲、食事制限、苦労、運動、何でもします。他者によい評価を得るために、休息も、最も親密で個人的な時間も犠牲にします。虚栄のために自分の心を忘れ、全世界を得るために、自分の魂を失います。
第二の、いっそう有害な虚栄は、霊的生活にかかわるものです。
だからこそ、この悪霊は、とりわけ、道の中で働く悪霊なのです。善を内から堕落させ、世俗の領域にも、宗教の領域にも及びます。その崇拝は宗教的でも世俗的でもなく、ただ自我に向けられています。虚栄のロギスモスは、最も清いものも含め、あらゆる行為を、ひそかに自分の自我へ帰するよう促します。
虚栄は、善の中に隠れる虫です。ほかの悪徳が入り込めない畑に生える、見えない雑草です。そこで、ほかの悪霊と戦い、たとえば貪りに断食で、貪欲に気前のよい行いで対抗しても、すべてが自分のイメージのため、ということが起きるのです!
色欲と怒りは、明らかに悪い思いです。激怒は目に見え、色欲の行為には客観的な形があります。しかし虚栄は、実に巧みに隠れます。
別のところで見たように、ある悪霊は速く、勢いよく押しつけ、攻撃的で、素早く行動して初めて打ち負かせます。
反対に、別の悪霊は遅く、少しずつ忍び込みます。ゆっくりと物事を手中に収める、アケディアのようにです。
ところが虚栄は、分類しにくいものです。すでに見たように、すさまじい活力を持っていますが、根本的には遅い悪霊なのです。
自分の自我に尽くしていると、初めから気づくことは、めったにありません。当初、他者の尊敬は、善を行った副次的な結果にすぎないように見えます。しかし最後には、虚栄が少しずつ、本当の、認めたくない動機になっていたと気づきます。エヴァグリオスの示す、見事なたとえそのものです。
「つたは木に絡みつき、頂まで達すると根を枯らす。同じように、虚栄は徳の中に生まれ、その力を食い尽くすまで離れない[177]」。
木は育ち、高くなりました。しかし、つたも周囲に育ち、あるとき、つただけしか見えなくなります。そして木は、窒息してしまうのです。
パウロは、コリントの信徒への第一の手紙の愛の賛歌で、最も気高いことを、わずかな愛もなく行う可能性を考えています。
「たとえ人々の言葉、天使たちの言葉を語っても、愛がなければ、鳴る銅鑼、響くシンバルにすぎない。たとえ預言する賜物があり、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じ、山を動かすほどの完全な信仰があっても、愛がなければ、わたしは何ものでもない。たとえ全財産を分け与え、自分の体を炎に渡しても、愛がなければ、何の益にもならない[178]」。
鳴る銅鑼であること。何ものでもなく、何の役にも立たないこと。それでいて、信じがたいことを成し遂げているのです。
この偽りの悪しき思いは、どこから力を得るのでしょう。その目標、切望は何でしょうか。目標は、外見、見えるものです。見た目への不安から、逆説的な状態に至ります。正しい戦いを、誤った動機で戦うのです。つまり、一つのことをしている間に、別のものの奴隷になってしまいます。
なぜ隷属するのでしょうか。すぐには意識されない、一つのことのためです。理想化です。
虚栄の病んだ核心に近づくにつれ、問題が、想像世界、自分についての仮定にあるとわかります。実際、ほかの悪霊と同じように、虚栄も、ノエーマタ、空想の大海原を航海します。
この理想化への衝動は、どう働くのでしょう。その下には、どんなロギスモスがあるのでしょうか。
私がケノドクシア、空虚な栄光の渦に陥るのは、それを求める強い、必死の欲求があるからです。
栄光に当たるヘブライ語、カボードの語源を見ると役立ちます。名誉、輝き、栄光、価値、豊かさ、尊厳、評判と訳されるのは、語根のkbdが、重要である、重みがあるという、持続状態を示す動詞だからです。人の実質、その人固有の重みを表します。たとえば聖書で、神の栄光を見るとは、華々しく驚くべき視覚効果を目にすることではありません。それをはるかに超えて、本当に神を経験し、神の真実を知り、神が真にどのような方かを理解することなのです。
実際、聖書では、人の栄光は外見的なイメージではなく、本当の価値、重みです。現代の言語でも、重さという語が価値、通貨を指すことが多いのは、偶然ではありません。スペイン語のペソや、英語のポンドがそうです。
栄光に渇く人は、何を求めるのでしょうか。確かさ、重み、価値、実質を得ようとしています。切望しているのは、超越性と、存在の土台なのです。
問うべきは、栄光を求めるのは間違いなのか、ということです。答えは明らかです。いいえ、間違いではありません。本質的な要求です。私たちは貧しく、確かさに欠け、自分のもろい存在のはかなさを感じるので、本当に尊厳と、自分固有の重みが必要なのです。
ここでも、ロギスモスが善いものをそらして働くのがわかります。すべての男性と女性は、栄光を求めるべきです。本当の栄光、自分に価値、実質、確かさを与える栄光をです。
問題は、何が本当の栄光かです。悪霊の名が示しているのは、栄光一般の追求ではなく、むなしい栄光の追求なのです。
主イエスは、この態度について語るとき、健全な求め方と悪い求め方を区別されます。
四旬節の始まり、灰の水曜日に読む箇所です。
「人に見てもらおうとして、人の前で善行をしないよう注意しなさい。そうしなければ、天の父から報いを受けられない。だから、施しをするときには、偽善者たちが人々からほめられようと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。あなたが施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを隠れたものにするためである。すると、隠れたことを見ておられるあなたの父が、報いてくださる[179]」。
本文はそのまま続き、祈りと断食についても、同じ主題を繰り返します。人から栄光を得るのか、天の御父から受けるのか、ということです。
そして、いつも外見と隠れたことを対比します。人に見られることか、それとも、隠れたことを見ておられる御父のもとに隠れることかです。
自分がした善いことを誰にも知らせない。その考えだけで、神の人とされる多くの人は、耐えがたい欲求不満を覚えます。少しは我慢しても、その後、何かをしたと誰かに言わなければいられなくなります。
自分の前でラッパを鳴らして施しをし、目立つ場所で祈り、断食していると見てもらうために顔をやつれさせる偽善者の姿は、正気を失った、滑稽で、痛ましい姿です。
した善を自慢するのは、愚かなことです。それは、善そのものには美しさがなく、ただの損失なので、埋め合わせが必要だということです。そうしなければ、耐えられない出費になってしまうのです。
病人を訪ねることを知らせずにいられない、施しをするたび、その情報を広めなければならないなら、愛に動かされたのではないということです。そうしたことを、手間のかかる、重いものとして経験しているからです。愛のために行っていれば、心は満ちているはずです。ところが、心は空です。自分のする小さなことを語りながら求めている、栄光と同じように。
虚栄は、何も残らない報いのために行動させます。だから、実にしばしば、悲しみの前触れとなります。
虚栄には欲求不満が伴うことを、考慮しなければなりません。成功が空虚なので、それだけでは足りないのです。その欲求不満を埋め合わせなければならず、虚栄は暴食や色欲を伴いやすくなります。歴史の中で、とりわけ有名な人が、最も猥褻な性的習慣を持つ人でもあるのは、かなり典型的です。内奥で満たされていないため、ゆがみを持っているのです。
同時に、虚栄は高慢への扉を大きく開きます。成功を手にしたと思うと、その自己肯定の感覚が、自分自身を理解する鍵になるからです。
このロギスモスは、はびこり、しばしば潜んでいる性質なので、徴候を挙げておくのがよいでしょう。悪いものであり、軽く見てはいけません。
――冷たさ。内面の感覚としては、他人事のように振る舞い、とても善いことでさえ、認めたくない心の冷たさで行います。氷のように冷えています。虚栄が、心を食べてしまったのです。
――冷笑。苦い理屈が、あらゆる分析に先立って入り込み、分析を悪意あるものにし、どこにでも悪を見せます。虚栄を他者に投影し、誰もが虚栄で生きていると思い、他者の善ささえ冷笑して受け取ります。こうして無感覚になります。物事を理解するのに、いつも理性だけを働かせなければならず、直感や感情からの動きがなく、自分がすることに、人格としてかかわれなくなります。すべてが遠くなり、愛の喜びまで、まねごとを演じざるをえません。真の目的を抜き取られた善は苦くなり、もはや中心的な価値を持ちません。ここでは、本当の「私」ではなく、「自我もどき」の中で生きます。その自我は養われることを要求し、真実のうちにいないため、満たされなさの中であがきます。善は名声への欲求に格下げされ、最後の、最も醜い徴候、次のものに至ります。
――慎みの喪失。注意を引き、自分のイメージを守るためなら、神の戒めを破ることも恐れず、無慈悲になります。見栄えのために善を行うと、それが持つ、関係における真実が奪われます。ですから、相手が愛され、助けられたという事実によって満足するのでなく、その行いがよく知られ、行っているときに皆が見ていることによって満足するのです。
虚栄が、物乞い、惨めな人を生むのは明らかです。評価を頼りに生きると、いつも街角で何かをねだることになります。絶えず脅かされ、苦しむには、誰かが眉をひそめるだけ、何か一つ「よくないね」がつくだけで十分です。間違った評判を広めるのに、何が要るでしょう。人を中傷するには、一瞬で足ります……。こうして虚栄の人は、人から見られていると感じる必要があり、たいてい、「いいね」を糧に生きます。
虚栄は神への畏れを殺します。つまり、神との関係を失う恐れを追い払います。無慈悲になり、他者の痛みは何の重みも持ちません。心を乗っ取られると、別の罪を犯すことなど、どうでもよくなります。犯しても犯さなくても同じです。重大な罪も、コップ一杯の水を飲むのと同じで、ぽんと投げ捨て、それでおしまいです。
虚栄の人は、攻撃を攻撃として感じません。愚かなことや汚らわしいことをしていても、心は動きません。反応するのは自我にかかわることだけで、愛は喜びをもたらさないからです。
虚栄の人の状態は、恐ろしいものです。他者を感じ取れません。善にさえ、自分の自我を詰め込んだからです。
そして、永遠の罰を軽く見て、いつか決算し、線を引かれる日が来るとは考えません。聖ヨハネ・パウロ二世が、1993年、アグリジェントでマフィアに語ったようにです。そのマフィアは後に、返答として教区代理庁とサン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロに爆弾を仕掛けました。実際、マフィアにとって大切なのは、何でしょうか。
名誉、それだけです。殺すことは何でもなく、赤ん坊を酸で溶かすことも何でもありません。自分の名誉が、すべてだからです。
虚栄によって、無感覚になり、真鍮のようなまがい物になり、何も気にしなくなります。結婚を壊しても、どうでもよく、何も感じません。子どもが泣くのを見て、「いつ終わるのだろう」と考えます。
エヴァグリオスの、エウロギオスに宛てた文章を見ましょう。
「虚栄は、出会いの空想」。虚栄の人の思考は、空想し、仮定し、企てます。「あの人や、この人に会えるかもしれない。物事を動かせるかもしれない……」。そして、それは善い目的のため、善のため、家族、教会、世界のためだと、自分に言い聞かせます……。すべて偽りです。
「勤勉さのふり」。見せかけで物事をすることです。大切なのは働くことでなく、働いていると見られることです。
「真実の反対」。虚栄は評判の問題ですから、真実ではありません。真実は評価を必要とせず、それ自体で立ち、深いものだからです。真実は愛です。そして虚栄は、それと両立しません。
「異端の始まり」。多くの分裂は自我から始まります。自我が中心にあるため、神学や神の言葉まで、自分の軌道に回し始めます。そして、聖なるものを欺きのうちに道具として使い、党派心や断絶を生みます。実際、兄弟愛より重要とされた真理は、まったくの偽りになります。異端は、それ自体は偽りの事柄でなく、文脈から切り離された真理の一部であり、元は真理だったものを偽りにするのだと、思い出しましょう。不完全な真理だからです。
「上席を占めたいという願い」。それは、世界のさまざまな場所に、他者と出会うためでなく、追い越すためにいることです。ここで、まだ語らなければならない嫉妬が姿を現し始めます。虚栄は、おのずと競争に陥るので、自然に嫉妬になります。
「呼称の誇張」。伝達という観点から、興味深い定義です。人を操るように伝える人は、形容詞を誇張します。文章で試せます。形容詞を抜いても、伝達内容の全体的な意味が失われないなら、その形容詞は、情報の意味を暗示で誘導する操作なのです。形容詞や修飾語であふれた文章や発言に出会うと、話し手が私たちを操っていると、直感的にさえわかります。誠実な関係を結びたい人の伝達は、節度があり、効果的です。
「称賛への隷属」。評価してもらうためなら、人は何をしないでしょうか……。
「さまざまに姿を変える霊」。どういうことでしょうか。裏表があり、カメレオンのような霊だということです。虚栄の悪霊は、衝動を混ぜ、目的を混乱させ、善と悪を共存させるのを好みます。結局、善さえ行いますが、曲がりくねった霊によってであって、まっすぐで、素朴な霊によってではありません。
「多くの牙を持つ獣」。虚栄は貪欲で、力ずくですべてを奪います。喉を鳴らす小猫ではなく、引き裂く虎です。
嫉妬の悪霊も、劣らず破壊的です。コヘレトの書は言います。
「すべての労苦、仕事のあらゆる成功が、人と人との嫉妬をかき立てるのを見た。これもまた空しく、風を追うようなことだ[180]」。
地上での人間の、あらゆる巧みな業が、嫉妬にすぎない! 人々が仕事に注ぐあらゆる熟練も、ただ競争にすぎないということです! 誰かを追い越す。これが嫉妬の中心です。そして、それは白い息であり、風を追うことです。何の役にも立たず、どこへも導かない努力……。これを、どう説明すればよいでしょう。
嫉妬の思いへの導入として、人類学者ルネ・ジラールの見事な整理以上のものを、私は知りません。そのすばらしい洞察を、簡単にまとめてみましょう[181]。前世紀のこの並外れた天才を、人生のいくらかの時間を割いて深く読むことは、自分と、自分の内なる光に与えられる、大切な贈り物の一つです。ジラールは、学習の過程を分析することから始め、当たり前でありながら重要なことを指摘します。それが、ミメーシス、すなわち模倣の過程と、欲望によって織られているということです。子どもは、兄が物を持っているのを見て、自分も欲しくなります。これは、単に対象へ向かう欲望です。兄が持つおもちゃや物を、どう手に入れるのでしょう。簡単です。まねをするのです。兄が自分の欲しいものを持っているなら、自分も持つために、兄のすることを始めます。しかし欲望は、自然な結果として、兄との競争へ導きます。兄を追い越さなければ、欲しい物はいつまでも兄のもので、決して自分のものになりません。手本を超えなければ、切望するものは決して手に入らないのです。こうして欲望は、もはや対象へのものではなく、模倣的なものになります。学習の手本が、競争相手になりました。あらゆる手本が、競争相手になります。原始的で幼い仕組みによって、誰かを追い越さなければ物は持てないと感じ、自分のあらゆる欲望が、多かれ少なかれ意識された競争になります。どの欲望も、競争という傾斜面に乗るのです。
十戒の最後を考えてみましょう。
「隣人の家を欲してはならない。
隣人の妻を欲してはならない。男の奴隷、
女の奴隷、牛、ろば、
また、隣人のものを何一つ欲してはならない[182]」。
鋭く簡潔な、十戒の人間理解は、人の心の悪の源である悪しき欲望を語るとき、それを模倣の欲望、他者の物や、その人生を手に入れたいという欲望として描きます。競争こそ、この世のすべての悪の実体なのです。
また、聖書全体によれば、模倣の欲望は悪の起源にあります。創世記3章の、原型となる木の物語での、蛇のそそのかしに見られるとおりです。
「それを食べると目が開け、神々のように善悪を知る者になることを、神はよく知っているのだ[183]」。
ここに罠があります。神のようになること、神に劣らないことです。具体的には、優越と、存在における成功が目標になります。一つ分析すべきことがあります。なぜ神のようになりたいのでしょう。神は、どのような方なのでしょうか。根源的な偽りの、隠れた核心はここにあります。神が、その本質において、自立した勝利者の独裁者として理解されているのです。聖書の神とはまったく異なる、ヘレニズム的なゼウスとしてです。
その神のようになろうとする価値はある、つまり勝利者となり、あらゆる力、知識、美しさを持つべきだと考えます。実際、エバは木の実を「食べるによく、目に美しく、賢くなるには好ましいもの[184]」と見ます。これは、善さ、欲望、知識の投影です。その内には、歴史の中で人々が互いを殺し、何度となく暴力を解き放つ理由の実体が、すべて含まれています。もっと美しく、もっと欲しがられる存在となり、自分をもっとよい者、何においても、なれるかぎり最高の者だと宣言するためです……。「もっと」という副詞で大切なのは、比較という面です。美しいだけでは足りず、もっと美しくなければなりません。これも、尽きることのない創世記3章の物語の、すばらしい一面です。浅い文化は、これを神話的な作り話と見ますが、そこには神の言葉しか生み出せない知恵が含まれています。
競争の魅力は何でしょうか。存在すること、何よりも、より大きく存在することです。どんな面であれ、誰かに勝つことです。そこで、存在するためには、何らかの優位を持たなければならなくなります。私ほど上手にコーヒーをいれる者はいない、と。他人が手にしたスポーツの勝利まで頼りに生き、敵チームのファンと殴り合います。では、なぜ私たちは、あらゆる優位をめぐる容赦ない争いで、完全に互いを破壊し合うところまで行かなかったのでしょうか。ここでもジラールは、非常に鋭く答えます。いにしえからの、効果的なスケープゴートの仕組みによってです。競争は、一人の敵ともう一人の間だけでなく、複数の競争者を、一人の敵に対して結び合わせることができます。身近な例を挙げましょう。私の町ローマで、ローマとラツィオのファンは、心から、激しく互いを軽蔑します。しかし、一つの場合には一致します。代表チームが、たとえば歴史上の競争相手であるフランスと対戦するときです。そのとき、団結を作るのは共通の敵であり、勝てば、一緒に祝います。
ですから、職場で仲よくするには二つの方法があります。心から愛し合い、尊重し合うか、誰かの悪口を言うかです。たいていは、その場にいない人の悪口です。
エクレシア・マリグナンティウム、同じ敵がいるために結びつく、悪人たちの集会があります。一般に、世俗的な団結は、いくらかこのように、誰かに対抗して作られます……。イタリア政治を少し見れば十分です。積極的に何かを打ち出すことはまれで、たいていは反対です。他者こそ問題だというのです。私が善いことをできるからでなく、対立候補よりましだから投票すべきだ、と。なんと恐ろしいことでしょう。
そこで、エヴァグリオスの定義に基づき、嫉妬の悪霊の活動領域を整理してみましょう。もう一度、全体を見ます。
「嫉妬は、傲慢の習慣であり、謙遜を脱ぎ捨てること、悪口の根、幸いを見られなくする目の病、友情のふり、信頼への欺き、愛への憎しみ、評価される者への妬み、確かに立つ者を動揺させること、評判のよい者への非難、目の乱れ、好奇心の友である[185]」。
なぜ二度も、病んだ目、乱れた目について語るのでしょうか。
もともとラテン語から来た、嫉妬を表す言葉を考えましょう。インヴィデーレに由来し、見るという動詞ヴィデーレに、否定の意味の小辞インがついたものです[186]。悪いまなざし。悪く見ることです。その悪い見方は、魔術的、迷信的な感覚を呼び起こします。邪視という類似の言葉にも、それが現れています。たいていは競争によって生じる、目に見えない悪影響があるという想定です。しかし、すべてはまなざし、見ようとする切望から始まります。ヨハネの第一の手紙が「目の欲[187]」と呼ぶものです。それは一つの見方、競争する視点です。だから、エヴァグリオスは、まなざしの病について語ります。嫉妬する人は、競争にかかわる細部に目を凝らし、順位、勝ち負け、肯定や否定を示す、細かな事柄を一つずつ記録します。
こうしたまなざしは、幼年期、兄弟愛、家族や社会の団結を壊し、やがて反論不能になる確信へと先鋭化します。自分は放っておかれ、顧みられなかったというのですが、たとえそれが事実でも、その判断は他者の受けた利益を測る比較を土台にしています。こうした思いや確信から遠からず、他者の善さ、贈り物、資質、よい成果を、不正と感じるようになります。こうして、恵まれた人が、この世界が本来のあり方をしていない証拠に見えます。皆が同じ特権を持つべきだというのです……。怒りを底に抱え、現実感覚をまったく誤った、徹底した平等主義です。誰もがアインシュタインの知性を持つべきなのでしょうか。誰もがモーツァルトの音楽の天才を持つべきなのでしょうか。結局、嫉妬する人は、どんな世界を望むのでしょう。立体感のない、均一で退屈な世界、妬みによる正義で一様にされた世界です。それは、神が被造物を「それぞれの種類に従って[188]」造られた、現実の世界とは正反対です。
嫉妬の悪霊が、自分についての考えに及ぼす破壊的な影響は、言うまでもありません。自分自身についての多くの不幸は、競争の基準から始まります。それが、自分を失わせる一連の模倣的な期待を、考え方に刻み込みます。人は決して他人と同じにはなりません。そうでなければ、人格を持つ人ではなく、複製でしょう。しかし大勢の若者が、決して得られない体、生まれつき与えられていない資質、他者のものであって自分のものではない条件を、持ちたいと願います。そして苦しみます。しかし、間違っているのは基準であって、その人たちではありません。商業的な土台に立ってメディアが手本を作り出すことは、若者への拷問の連射にすぎません。しかし、若者だけの問題ではありません。どの年齢も、メディアの手本による偶像崇拝的な拷問を受けています。家、体、車、休暇、その他多くのものが、果てしなく、欲求不満を生む、想像上の神々の殿堂に入ります。嫉妬の殿堂です。
この不幸な競争の渦から出る道を見いだすことは、かつてなく急を要します。社会の次元でも、競争するのでなく、互いを築く論理へ向かい、別の動き、別の学び方、別のよりどころとなる手本を生み出すことが、どれほど待ったなしなのか、考えなければなりません。
交わりである慎みと善意
「慎みは、謙遜の業、自己満足から離れること、称賛への無関心、知の観想、世への対抗、魂のよい感受性、単純さの教え、労苦を隠すこと、あらゆる賛美の祭典への敵意、朽ちる体に隠された宝である。調和は、謙遜への導き、悪口への憎しみ、幸いの友、関係の誠実さ、思いを明かす際の明瞭さ、関係の調和、評判のよい人への喜び、悪い行いの取り消し、確かさを支えるものである[189]」。
(エヴァグリオス・ポンティコス)
虚栄とは、どう戦うのでしょうか。すでに述べたように、虚栄とその罠からの解放への道は、徹底した控えめさです。労苦の実りを、沈黙で封じることです。虚栄の人に、したがって私自身にも、何度も尋ねなければならなかった問いがあります。最後に、何か善いことをして、誰にも言わなかったのは、いつですか。ただ愛のためだけに、神だけにささげたのは、いつですか。誰にも気づかれずにした、最後の善いことは何ですか。そうやって世界が支えられていると、知っていますか。多くの善い人が、何も言わずにしている、一連の小さなことによってです。家庭も、そうして立っています。それなのに、多くの怒りっぽい人は、自分がすることをすべて勘定につけ、怒りの悪霊に魂を乗っ取られている間に、している善を失うことに気づきません。エヴァグリオス・ポンティコスによる、虚栄の定義の一つを挙げなければなりません。それは「穴のあいた袋[190]」です。善を取り、その袋に入れます。しかし、善は落ち、何も残りません。それを自慢すると、報いは善そのものでなく他者の評価になり、それとともに自分の心を失うからです。
人間としての成長のためにも、善いことをし、誰にも気づかれないようにし、誰にも知られず、自分と神との間だけにとどめるのは、賢明なことです。そうすれば、自分の心を再び見いだすでしょう。心は隠れたものであり、神は隠れた方だからです。愛は、その性質からして隠れたものです。愛は広告ではありません。心のもので、内から始まり、内に属するものです。真実な人生は、心から生きる人生、すなわち、自分の秘めたことを育む人生です。興味深いことに、マタイ6章は「隠れたことを見ておられるあなたの父」と言います。隠れたところは、目に見えない神の場なのです。
しかし、姿を見せず、姿を見せられたときには、十字架につけられた一人の人として、人々が顔を背け、私たちが顧みなかった者として現れた神とともに、どう虚栄を育てられるでしょう。イザヤが預言した、その方です。
「見るべき姿も、威厳もなく、
わたしたちは見たが、慕わしい姿はなかった。
人に軽蔑され、見捨てられ、
痛みの人、病を知る者であった。
人が顔を背けるほどであった[191]」。
キリスト者の生活は、隠れた業でできています。祈りは隠れ、施しは隠し、断食も隠さなければなりません。十分に注意を払い、この手段を用いる必要があります。何としても評価されるために、何かを話したくなっても、舌をかんでこらえる価値が、しばしばあります。それによって内面が成長し、少しずつ安定し、強くなり、より本物に、より真実になり、外側への浪費でなく、内なるものに従って生き始めることができます。
誰にも話す必要のない善いことをする、隠れた、親密で、深い人生を生きる技法を、学ぶのです。
虚栄についての文章で、エヴァグリオスは驚くべき細部を強調します。
「過越の小羊の肉を、夜に食べなさい。隠れた節制を人々に見せず、昼に大勢の証人の目にさらしてはならない。隠れたことを見ておられる御父が、明るい光の中で報いてくださるためである[192]」。
ここで語られるのは、過越の儀式の小羊です。一つの民の解放の典礼であり、旧約聖書の物語の中心、ヘブライの民のあがないです。民は過越の小羊を食べ、その夜、解放されました。あの夜の儀式は、家の奥の、隠れたところで行われました。
「朝まで、誰も家の戸口から外へ出てはならない[193]」。
家の中、戸口の柱のこちら側で食べ、誰にも見られません。私たちの方法は、救いの方法と正反対です。悪を隠し、善を見せようとしますが、すべきことは、おおむねその逆、流れに逆らい、善を隠して悪を認めることです。ところが私たちは、ようやくできた、数えるほどの正しいことを見せびらかしながら、間違って行い、痛みを与えたことについては、長いことゆるしを願っていないかもしれません。誰もが、意図せずとも、そうしたことをするのです。
何について語っているのでしょうか。エヴァグリオスは、虚栄の反対を描くために、虚栄を表す語そのものに、欠如を示すアルファをつけた言葉を用います。ア・ケノドクシアです。文字どおりの意味は後で見ますが、私たちの西方の言葉では、肯定的に「慎み」と訳します。ただ、この語は意味をいくらかすり替えられています。多くのキリスト教の表現も、二つの動きによって醜くされてきました。一つは、不幸で規則ずくめ、あがなわれず、生気もないキリスト教によって、それらが誤って具体化されたことです。その結果、どの語も、最も人を卑しめ、弱める意味を帯び、慎みも、息苦しさ、制限、否定の同義語になります。本当は、節度と均衡の同義語なのです。他方、限界を憎み、境界を受け入れない文化が、神の子たちの生活のあらゆる柱に砲口を向けないはずがあるでしょうか。御父に信頼し従う神の子たちの生活は、現実に伴う「否」を受け入れない人の、不節制な生き方に対する、生きた告発だからです。この幼く、反抗的な文化は、キリスト者のあらゆる徳を、つまらなく見せ、信用を失わせようとするだけです。だから、快楽主義的で、浮かれた、子どもじみた潮流は、慎み、節度、適度であること、沈黙を語られると、怒りで真っ赤になるしかありません。
しかし、控えめさも適度さも知らない、この下品な主流に、なぜ逆らうのでしょうか。虚栄の壊滅的な破壊力を見た今、基本的に必要なのは、理由以上に、支点とばねです。理由は前の章で十分に見ました。必要なのは、この手ごわい悪霊に耐え、勝つことを可能にするものです。
虚栄との戦いの一面には、虚栄自身が、善を控えることで自分と戦わせようとする、ということがあります。自分は虚栄心が強く、善さえ虚栄から行うのだから、これ以上虚栄を養わないよう、善をやめる、というのです。まさにこれが虚栄の罠です。欠点や不完全さを持つことを認められないほど、自分のイメージの奴隷になっているからです。反対です。虚栄のために、善を行うことをやめてはいけません。
まったく仕えないより、下手にでも仕えるほうがよいのです。虚栄から行っていても、奉仕は奉仕です。善には、それ自体の内なる力があります。
最近の脳卒中で、病院で助けてくれた医療従事者たちが、虚栄からしているのではと恐れていたとしても、あるいは、私は名の知られた患者で、多くの人が消息を尋ねていたので、ただ虚栄からしていたとしても、正直なところ、私にはさほど関係ありません。大切なのは、その熱心な働きで命を救い、実際に細やかに世話をしてくれたことです。そのうえ、それを自慢していたとしても、私はここで、彼らと、治療してくれたすべての人に、深く感謝して書いています。
問題があるとすれば、愛によって行わなかったということです。愛だけが、人生で喜びを持つことのできる道です。皆に善い人だと思われた夕方に家へ帰ることと、助けた人々を愛する一日を過ごして家へ帰ることは、同じではありません。大きな違いがあります。
実際、恐れるべきものがあるとすれば、知られないことでなく、認められること、人間の栄光です。それは、破壊的な仕組みです。枝の主日のような、歓呼される日曜日の夢は、聖金曜日の悪夢に終わります。同じ群衆が、初めは歓呼し、その後は不幸をあおり、転落を喜ぶのです。初めに、目立つことや成功のためにまなざしを引き寄せる好奇心と、後に、どんな中傷でも信じ、以前は絶頂にあった人を初めから断罪しようとする、病的な関心とは、同じ原動力を持っています。虚栄と嫉妬の間にある、避けがたい短絡のためです。
天国では、多くの驚きに出会うと言われます。世間で失墜した聖人が、中傷や悪意の犠牲者であったと知るでしょう。この世界は、その人たちに正しい裁きをしませんでしたが、神はそうされたのです。
灰の水曜日の箇所に戻り、償いの業、祈り、断食、施しに取りかかるとき、報いには二つの側面があることを、覚えておかなければなりません。何の価値もない人々からの報いと、それに対する御父からの報いです。神との親しさは、神との関係を経験した喜びであり、まったく別の種類の報いです。大切なのは、断食や祈りや施しをやめることでなく、神のみ前で行うことです。
ですから、虚栄と戦うための根本の「ばね」は、原初的で、ほとんど初歩的なほど単純です。まさに、沈黙です。控えめであり、伝えるときは慎重で、自分のすることを語らないことです。多くの人にとって、不可能な断食です。何かするたびに見せびらかし、あちこちに知らせずにいられない、伝達の不節制な人が、なんと多いことでしょう。多くの領域、教会の世界でも、そのように生きています。マタイ6章で、イエスが吟味される例が、ちょうど祈り、断食、施しという宗教的な業であるのは、偶然ではありません……。世界に知らせ、新聞に知ってもらうために生きるのです。なんと多くの言い訳でしょう! 自分に語る、なんと多くの愚かな話でしょう。ただの虚飾なのです! 沈黙は、虚栄に対する第一の解毒剤です。
しかし、この善い戦いの支点は、アケノドクシアという語を十分に理解することに隠れています。文字どおりには、「非・空虚・栄光」。簡単に言えば、空虚でない栄光、本当の栄光です。真に懸かっているのは、この本物の栄光です。なぜ口を閉じ、世俗や教会の虚飾から身を引くのでしょうか。安物の栄光より、もっとよいものがあるからです。経験すべき、別の実質、別の重みがあるのです。
私たちは確かさに欠けるため、人間の栄光の偽りの魅力に引かれます。ヨハネ福音書の、イエスのある言葉が、考えさせてくれます。
「互いに栄光を受けながら、唯一の神から来る栄光を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか」[194]。
どうすれば安定を得られるのでしょう。ヘブライ語では、「信じる」という動詞と同じ意味を持ちます。自分と同じく確かさに欠ける人々から得る栄光で、安定できるのでしょうか。なんと悪い投資でしょう……。
栄光は、ヘブライ語で「重さ、価値」を意味すると述べました。私たちには、本当の価値、自分固有の重みが必要です。虚栄との戦いもまた、放棄でなく、獲得であり、利益であって、損失ではありません。すでに言ったように、心を散漫から守り、自分の心を見いだすことが問題なのです。そのためには、沈黙と、内に向かうことが必要です。互いに栄光を奪い合うのは、深さも価値もない生き方であり、もう一つの面、競争と嫉妬へ導きます。自分の心と内なる重みを大切にしなければ、内にある愛を失い、自分を認めさせたいという欲求や、重要さを得るための状況の利用によって、人間関係が壊されるのは当然です。こうして、この不安によって愛は汚され、人生の最も聖なる、繊細な面まで、飢えた、自分のイメージという神に仕えなければならなくなります。
こうなれば、兄弟の交わりとは、お別れです。党派心、他者のイメージを組織的に壊すこと、病的な好奇心、空虚さが哀れな、味気ない会話を糧にすることへ、門が大きく開いています。
なぜ虚栄と戦うのでしょうか。この戦いが、兄弟姉妹を見いだし、嫉妬の主な実りである孤独に勝つための、主要な道だからです。
しかし、この戦いを支えるには、人間の栄光の魅力から逃れようとするやいなや、生じる感情に向き合い、打ち勝つ必要があります。空虚への恐怖、認められないことへの恐れです。その空虚は、恐れる無であるだけでなく、私たちが自由になる場でもあります。そこで、世の栄光に逆らい、自分を縛る隷属を打ち砕くことができます。他者からの評価のない空間に入ると、神の救いを経験し、イエス・キリストの語る、人を自由にする真理を知ることができます(ヨハネ8・32参照)。
その空虚は、実際には、父である神の懐です。そこで神は私たちを新たに生み、私たちの確かさ、重みとなり、安定させ、あらゆる依存から解放してくださいます。世の成功と世俗的な好みを避けることは、私たちの真のあがないの手順に含まれています。
エヴァグリオスと同じく、砂漠の最も重要な修道者の一人であるアルセニオスの格言が、「逃れよ、沈黙せよ、退いて生きよ[195]」、すなわち「逃れよ、口を閉じよ、一人でいよ」であったのは、偶然ではありません。逃れ、沈黙し、静けさを育まなければなりません。そこで自由になるのです。空虚とは、別のものです……。
慎みについてのエヴァグリオスの文章に、手短に目を向けましょう。慎みとは何でしょう。「謙遜の業」、小ささから出る業です。
「自己満足から離れること」。自己満足がないわけではありません。それは訪れ、いつも影響を与えます。距離を取り、結び目を切らなければなりません。
「称賛への無関心」。十分な注意が必要です。称賛は、しばしば災難を用意します。大いにほめられるときは、いつも何かが近づいています。打撃、敵、自分を恨む人、内側でもう制御できていない悪徳です。称賛は内的生活の麻薬なので、お世辞には十分に注意しなければなりません。
「知の観想」。知が物事の深みをとらえることである以上、実体のない栄光を避けると、実体のあるもの、現実の深みを感じ取れるようになります。むなしいものに心を引き寄せられず、二次的な次元に迷い込まないからです。
「世への対抗」。世は、もう主人ではありません。ですから、世を失望させてもよいのです。「あなたには関心がない」と、世に言えます。
「魂のよい感受性」。虚栄の徴候の一つが無感覚であることを、思い出しましょう。しかし、本物の栄光へ向かうと、内なる感覚は、とても強くなります。霊的な目、耳、嗅覚などを持つのが、魂の感受性です。
「単純さの教え」。つまり、まっすぐであること、多くの目的を見る二心でなく、一つの目的だけを見ることを教えます。
「労苦を隠すこと」。経験しなければならなかった困難を、自分と神の間に保つことです。愚痴をこぼす人には、なんと困ることでしょう!
「あらゆる賛美の祭典への敵意」。清い心には、反応する真実が少しあるので、人々が自分をよく言うと、不快になり、何か腑に落ちません。むしろ、そこに隠れた罠が少し怖いのです。
最後に、慎みは「朽ちる体に隠された宝」です。私たちは誰も、いつも弱く、多くの攻撃を受け、虚栄に陥ります。しかし宝があります。内に残り、むなしいものから自由にする、真実の記憶です。
これらすべては、兄弟愛と、嫉妬という災いからの解放へ向かう最善の道、競争の拷問から抜け出す道です。実体のない嫉妬と戦い始め、本当の栄光を求めると、愛が見つかります。そこで今、嫉妬の反対に目を向ける価値があるのです。
エヴァグリオスは、それも否定の形で定義します。嫉妬を表す語の前に、欠如のアルファを置き、性質を示す語尾イアをつけます。嫉妬がフトノスなら、反対はアフトニアです。それは、気前がよく、惜しみなく、けちけちせず、実り豊かで、寛大な人の態度と訳されます。
物事を勘定せず、順位をつけない人です。嫉妬、フトノスは、動詞フトネオーに由来します。この動詞には、嫉妬や悪いまなざしという第一の意味だけでなく、破壊性の意味もあることを、強調しておきましょう。すると、欠如のアルファをつけた語のギリシア語での用法が、気前よさの、身を与える、建設的な意味を持つ理由がわかります。実際、語っているのは、気前よく、築くことへ傾くまなざしです。
相手を築き、支え、守る道を探すまなざしです。これが、嫉妬の本当の反対です。嫉妬するまなざしは、どう相手を壊すかを探します。嫉妬しないまなざしは、根本的に、善意に満ち、建設的です。
そこで、嫉妬の反対を表すために、「善意」という語を用います。
的確な描写を探すなら、コリントの信徒への第一の手紙の、パウロの愛の賛歌を使えます。
「愛は忍耐強い。愛は親切である。愛は妬まず、自慢せず、高ぶらない。礼をわきまえ、自分の利益を求めず、いらだたず、悪を根に持たない。不正を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える[196]」。
二つの語が、はっきりと続けて出てきます。この訳では、「愛は親切である。愛は妬まない」です。パウロの用いる語は異なりますが、私たちが探すものと、同じ意味で対応します。ここでは善意が、肯定的な動詞クレステウオマイによって表されています。そこから、善い、好意的、好ましい、役に立つ、使える、適したという意味の形容詞クレストスが生まれます。役に立とうとし、解決を探し、助ける方法を見つけようとする、そういう態度を表します。
誰もが、そういう人にそばにいてほしいでしょう。
この宝のような態度を、エヴァグリオスはどう描くのでしょうか。今の訳語の整理を反映させて、もう一度文章を見ましょう。
「善意は、謙遜への導き、悪口への憎しみ、幸いの友、関係の誠実さ、思いを明かす際の明瞭さ、関係の調和、評判のよい人への喜び、悪い行いの取り消し、確かさを支えるものである」。
最初の性質は、「謙遜への導き」であることです。謙遜は、後で落ち着いて見ますが、これからわかるように、現実感覚です。その感覚へは、善意の道、競争しないまなざしを通して至ります。自分自身についての本当の認識は、競争や、自分が認められるという仮定への投影をやめることから始まります。嫉妬が、感覚の暴君になる心的イメージ、ノエーマタを盛んに使うことを、思い出してください。したがって、これは、欺きから目覚め、まとっているものを脱ぐ働きです。それには、真実という、小さくない報いが伴います。それだけでも、ノエーマタの表面的な語りを放棄する理由に、十分でしょう。
「悪口への憎しみ」。おしゃべりやひそひそ話への、健全な嫌悪です。悪口とは、他者について偽りを語ることではありません。それは中傷です。重大な理由もなく、他者の弱点についての情報を広めることを言います[197]。必要なのは、節度ある伝達、自分や愛する人に対して、誰もがしてほしいと思う伝え方です。間違いありません。重大で緊急の理由もなく、誰かの秘密を話してくる人がいたら、嫉妬深く、人を操る人を前にしているとわかります。あなたがいないときには、あなたについても同じように話します。その人に、私的なことを話してはいけません。これで憎しみに至らなくとも、少なくとも、この態度に対する、聖なる嫌悪を抱いてもらえたならと思います。
「幸いの友」。実際、嫉妬は眠りを悪くし、暮らしをさらに悪くします。
「関係の誠実さ」。エヴァグリオスは、繰り返し迫ってきます。嫉妬する人は隠し、操り、欺きます。誠実な関係は、美しく、満足を与え、照らし、知恵があり、善に大いに役立ちます。これも、幸いの理由です。
「思いを明かす際の明瞭さ」。率直さとも言います。かつてローマ教区の副教区代理、その後サレルノ大司教となり、今は名誉大司教であるルイジ・モレッティ大司教は、教会の問題の80パーセントは、人々がはっきり話さないことから来ると言っていました。司祭としての私の人生の、ある繊細な事情の中で、本当に力になってくださったことに、心から感謝します。そして、この非常に厳しいご自身の言葉を、勇敢に体現されました。これは、教会だけでなく、家族、友人関係、そしておおよそ、あらゆる関係にかかわると、私は思います。
「関係の調和」。だから、この章全体の題には、「交わり」という語があります。交わりとは調和です。意味をはっきりさせましょう。調和には、声の違いが含まれます。それぞれ違っていても、一つの音の織物に合わさるのです。これは、違いという善です。押しつけられた型に人を押し潰す、画一性の反対です。他者の賜物が自分たちの賜物と調和し、一致を生む喜びです。人間のあらゆる合意の真の目的、違いの豊かさの喜び、有機的な多様性です。
この次元を表す詩編があります。133編です。
「なんと恵み深く、なんと快いことか、
兄弟が皆ともにいることは。頭に注がれた、よい油のよう。
ひげを伝い、アロンのひげを伝って、
衣の縁にまで滴り落ちる。
ヘルモンの露が、
シオンの山々に滴るよう。
そこに主は祝福を、
とこしえのいのちを与えられる」。
全体を注解できれば、とてもよいのですが、この冒険に役立つことだけを見ましょう。兄弟は、一緒に「暮らす」のでなく、一緒に「座る」のです。「兄弟」という言葉の、宗教的な意味を十分に帯びた、食卓や典礼の姿です。これが、美しく、快い、文字どおりには「心地よい」とされます。
何について語るのか、すなわち兄弟がともにいること、兄弟の交わりを示した後、詩編はたとえを用います。この状態は、頭に注がれ、ひげを伝う、よい油、聖香油のようだと言います。しかし、それはアロン、つまり最初の大祭司のひげです。描いているのは、神の名を汚さずに唱えられる、イスラエルで最も聖なる人の奉献の儀式です。したがって、イスラエルで最も聖なる人が聖別される瞬間は、兄弟たちがともにいる瞬間に対応することになります。
この兄弟の交わりは、シオンの山に降りるヘルモンの露のようです。シオンは、イスラエルの南、ユダの荒れ野の境にあることを、思い出してください。エルサレムは、実際、雨の少ない乾いた町です。一方、ヘルモンは北、レバノンとの境にあり、肥沃で草木の豊かな山です。どうして、ヘルモンの露が乾いたシオンに降りられるのでしょう。兄弟がともにいるとき、それが起こります。一人の賜物が、他方の賜物にもなるのです。兄弟が協力すれば、皆が皆の功績を持ちます。互いに差し出すからです。交わりは、なんと美しいことでしょう! 実際、詩編は、交わりを祝福の場、とこしえのいのちとして語り、永遠への言及で終わります。
兄弟の交わりは、永遠を味わうことです。天国で最も大切なのは、私たちがともにいて、互いに調和することです。誰かと協力でき、誰かとともにいられるとき、天国を味わいます。地獄は、「破門」、交わりからの排除なのです。
「評判のよい人への喜び」。喜べることがこんなにあるのに、なぜ他者の幸運を嘆いて、一生を過ごすのでしょう。なぜ、怒りにそれほど好意を持つのでしょうか。人々の中には、これほど美しさがあります。他者を応援し、成功を願う権利を、自分に認めることは、解放なのです。嫉妬で壊された家庭の、なんと多いこと。職場の不幸、無駄にされた人生の、なんと多いことでしょう。
「悪い行いの取り消し」。私たちは皆、どれほど悪を行い、どれほど間違えてきたでしょう! 少しでも現実感覚があれば、取り返しのつかなさ、苦いエントロピーのように存在の底を満たすものを感じるはずです。してしまった悪を、どう逆転させられるのでしょう。治せそうにないこと、浅薄さや悪意から、自分の最悪の部分を外へ出して、自分の心や他者の人生に残した傷痕を、どう償えるのでしょうか。交わりへ自分を開くと、悪い行いは覆され、人生の極性が逆転します。してしまった悪を償いたいですか。交わりの行い、兄弟愛の行い、受け入れる行いをしてください。これが、聖書の言う、多くの罪を覆う愛です[198]。
「確かさを支えるもの」。安定は、本物の栄光を求めることから来ると、すでに見ました。嫉妬からの解放と、関係における善意、つまり交わりを大切にすることは、いわば一本の背骨となり、心に大きな確かさをもたらします。嫉妬との戦いを始める価値は、本当にあるのです!
傲慢の悪霊
「傲慢は、神への反抗、悪魔的な空想、悪意ある嫉妬、濁った盲目、尊大な意図、肉的な思考、栄光への偽りの切望、悪しき思いへの依存、悪霊との友情、思い上がった魂、敵による明白な包囲、破滅の警告である[199]」。
(エヴァグリオス・ポンティコス)
最後は、最も危険なロギスモスです。
傲慢は、内なる動きのうち、最も否定的なものです。外からの要求や、さまざまな心理の仕組みから生まれるのではなく、それ自体が一つの仕組みです。自分の自我、存在の根との関係に結びついた、全体を動かすための方策なのです。
病的なほど、偉大さを急いで求める形で現れます。
傲慢から、すべての罪が芽生えます。しかし、すべての罪は、根底では傲慢から出て、最後には傲慢そのものへ至ることに、注意しなければなりません。つまり、傲慢は悪しき思いの起源であり、結果です。
傲慢は、フィラウティアの最愛の娘です。その動きから見れば、内に、埋める必要のある空虚を作り出す思いです。傲慢な思いは、呼び求める空間です。空虚によって、ほかの悪徳を引き寄せます。聖大グレゴリオ教皇は言います。
「傲慢は、心を手中にすると、それを悪徳に引き渡す[200]」。
これは、思う以上に重要です。私たちのあらゆる過ちの背後に、少なくとも、わずかな傲慢があるということです。人生のどの過ちにも、その始まりに、絶対化し、真に受けすぎた思いがあります。自分の印象や推論を大切にしすぎ、相対化できず、傲慢な人の救命具となる言葉、「いや、そうとは限らない」と言えなかったのです。
傲慢が頭の中に解き放つ悪夢に、のみ込まれないために必要なのは、自分の自我に同調しきらないことです。これは、精神の健全さと均衡のしるしです。すべてを理解したとは限らず、正しく考えたとも限りません。正しく見聞きしたとは、決して言い切れません。読み違えたのかもしれず、別の見方があり、そこまで確信する前に、まだ別の要素が出てくるべきなのかもしれないのです……。
傲慢の引き起こす災いは、どこから来るのでしょうか。霊性の諸流派が一致して語る、その実体は、根本的に、被造物である自分と、それに伴う、本性上、従う立場にあることの拒否です。自分のもろさの拒否が、私たちが罪と呼ぶ、すべての行いの根にあります。
もっと説明しましょう。それは、自分の重要さ、存在感を広げることで、もろさから自分をあがなおうとする欲望です。根本には、徹底した暗い孤独があります。傲慢な人は、自分以外のよりどころがあると信じません。したがって、自分を大きくし、自分の存在に重みを与えようとします。自分の成功を頼りに生きるため、自分を認めさせなければならないと確信しています。さもなければ、無の恐怖があるからです。そこで、どんな限界、どんな敗北も、耐えがたい悲劇として生きます。現実の通常のあり方である限界を、悲劇的で受け入れがたい不正と感じるので、それを否定することが、生き延びる基本的な技術になります。その結果、どの間違いも苦い悲劇になり、奇妙なことに、その感情を、ほかならぬ謙遜と取り違えます……。実際には、自分の弱さへの怒りと拒否なのです。
傲慢な人の妄想は、完全な自立という、滑稽な蜃気楼です。その心には、危険な等式があります。自分の思いは、真理に等しい、と。これには、病的なところがあります。
傲慢にかかわることは、すべて精神病理との境目にあります。
自分のイメージは、傲慢な人にとって根本的に重要です。ですから、どんな善い業にも投影されます。明らかに、「道の中」で実践されるロギスモスです。どんなあわれみの業も、傲慢から行えます。自分を崇めていながら、愛していると思えるのです。しかし、相手がこの態度に気づくと、深く傷つきます。
傲慢は、とりわけ、大きな労力です。内に潜む緊張で、生活につきまとう背景の雑音のようなものです。自分の役割、思いの実現、目標の達成への気遣いです。自分が考え、自分の実現と見なした方向へ現実を進めようと、人生を現実との綱引きにしてしまいます。
古代ギリシア語では、傲慢をどう言うのでしょうか。いくつかの語がありますが、傲慢を理解するのに興味深いのは、よく知られたヒュブリスです。今は別の領域、別の意味でも使われますが、師父たちは傲慢を表すのに用います。それは何でしょう。横暴、力、尊大さです。自我にかかわる衝動、つまり、自分を高め、思い上がらせる衝動です。ラテン語では、スペルビアです。意味が曖昧になりやすい語です。形容詞スペルブスは、尊大さや無礼を持つものにも、物事の並外れた、立派で、壮麗な性質にも用いられます。「見事な演奏」という表現を考えるだけで十分です。演奏者の態度が悪いのでなく、並外れた演奏をしたという意味です。この語は、意味のよくわかるスペル、すなわち「上に」と、ブス、あるいはボスという語根の結合から生まれます。後者は、存在するという動詞の一部で、上る、育つ、現れる力にかかわり、さらに力強い暴力とも結びつくとされます。したがって傲慢は、ある力によって、上にいることを意味します。結局、傲慢は、抜きん出、立ち上がり、上へ、スペルへと育つすべを持つ人の特徴です。上にいるために、力を行使する人です。傲慢な人は、内なる暴力と活力を持つ尊大な人で、それによって業を行い、自分を高めます。善の領域でもそうして、自分のイメージを築き、自分を持ち上げることができます。
すでに述べたように、傲慢に下される刑は、孤独に至る主要な道であることです。傲慢は、孤立への本道です。師父たちは、傲慢の姿を、バベルの塔の物語に見ます。住む場所を求めて移動していた人々は、平野を見つけ、こう言います。
「さあ、天に届く塔のある町を建て、名を上げよう。全地に散らされることのないように[201]」。
建設の目的に、注目する必要があります。名を上げるために、町と塔を建てる。これが目標です。本当の目的は、自己の確立です。自分の行為、自分の技量や能力で、自分自身を築くことです。
今引用した創世記11章の出来事が、創造性、能力、際立つ工夫によって始まるのは、興味深いことです。
「『さあ、れんがを作り、火で焼こう』。こうして、れんがを石の代わりに、アスファルトを漆喰の代わりに用いた[202]」。
これほど勤勉でも、計画は失敗します。孤独の前触れだからです。自我、自分の名を求めることから始まり、他者と話す言葉がわからなくなる、つまり、他者の名を知らなくなるところに至ります。確かに、自分のことでいっぱいの人は、隣人を顧みません。最後には、そばにいる人との間に深い溝ができます。意思が通わないという溝です。バベルの塔に、それが劇的に現れ、同じ言語を話せなくなるため、ついに計画を放棄しなければならなくなります。
そして、散っていきます。主ご自身が降りてきて、その業を見、意思の疎通を混乱させるのはなぜか、後で理解しなければなりません。一見すると、下の住人がテラスに囲いを取りつけているので、上の住人が腹を立てているようです。もちろん、懸かっているのは、まったく別のことです。後で見ましょう。
一般に、傲慢は、サタンの根本的な罪です。被造物として従う立場を受け入れず、神と同等になろうとするからです。古典的な箇所、イザヤ14章を読めます。
「なんと、お前は天から落ちたのか、
明けの明星、曙の子よ。
地に倒されたのか、
国々を征服した者よ。
お前は心に言っていた。
『天に上り、
神の星々より上に、
自分の王座を高く置こう。
集いの山に座ろう、
北の果てに。
雲の頂にまで上って、
いと高き方のようになろう[203]』」。
このイザヤの箇所に、サタンの企ての根、神の位置につくことが見えます。サタンはエバを、この行為に巻き込もうとします。実際、蛇はエバに言いました。「それを食べると目が開け、神々のように善悪を知る者になることを、神はよく知っているのだ」。この問題が、すべてを説明する傑作、創世記3章に現れています。
もう一度確認しましょう。問題は、自分が有限であることの拒否です。それは、ほかのすべての悪しき思いへ移り、自分の限界を拒む傲慢な行為を繰り返します。限界の拒否は、人間の悲劇です。エバの場合、一つの限界があります。人はすべてを理解できない、ということです。頭蓋骨という器には限りがあり、すべて、つまり現実の全範囲という意味での「善悪」を入れることはできません。すべては理解できないと、受け入れなければなりません。蛇は言います。「すべてを理解しようとせよ。神のようになるべきだからだ。否を拒め」。人生は「否」を突きつけます。あの木の限界は被造物としての限界であり、エバ、すなわち人類は、その限界を越えるようそそのかされます。肝心なのは、限界こそ人間の本性だということです。人生の言う「否」に逆らうと、生来の限界に衝突し、自分の本来のあり方と対立します。その対立は、自分を壊す仕方でしか解決できません。実際、エバは自分自身でなく、別の者になり、神格化され、高められ、自分を超え、自分の限界を否定する夢の中で、自分を疎外するよう駆り立てられます。しかし、その限界は、否定できない現実として残ります。誰もが、人生のあるとき、「否」である何か、自分の手の届かない何かと戦います。その「否」、その限界の拒否が傲慢です。そして、自分を破滅へ導きます。いのちの限界を飛び越えさせるからです。その限界は現実の限界であり、向こうには死があります。実際、神は「これをしてはならない。死ぬことになるからだ」と言われますが、蛇は反対に、「こうすれば、自分を確立できる」と言います。どちらかが偽りでなければなりません。負っている限界は、自分が絶対ではないことを裏づけています。しかし、限られていて、どの方向にも自由には進めないとわかると、傲慢が内に作った偽りの期待のために、苦しみ、そうした事実に耐えられなくなります。結局、人生そのもののためでなく、内なる要求の大合奏が、人生は別のものであるべきだと思わせるために、苦しむのです。人生についての考えを問い直す代わりに、人生を問い直します。しかし、人生はありのままです。これは、理由もなく自分に苦痛を与える、実に優れた方法です……。
ここ数世紀の文化そのものも、私たちを逸脱へ導いてきました。根底の標語は、「何かを破らなければ、私は存在しない」です。そこから、隣人との関係が生じます。そのため、直前に扱った罪は、虚栄でした。すぐ前に位置するからです。
最初に壊れるのは、自分との関係です。それは実際には、暗黙のうちに神との関係です。つまり、自分が神でないことを受け入れないのです。したがって、何かが自分より優れたり、同等であったりすることを受け入れません。ここに嫉妬が生まれます。そして、別の問題が生じます。権威を受け入れなくなるのです。ここ数世紀は、権威の拒否と、それに対する暴力的な再主張の歴史でした。振り子のように、こちらからあちらへ揺れてきました。そして今、いわば権威の最ももろい時期にいるのは確かです。権威が憎まれ、文化的に拒まれているからです。外の権威の拒否と、内の限界の拒否の先に、私たちの悲劇の土台があります。
傲慢な人には、師がいません。形式的なことを除いて、教えられることを拒みます。学びたがって見える人は多くいますが、それは自己陶酔的に自分を築く行為で、本当の学びではありません。実際、傲慢な人は、あらゆることの中でいのちを得ようとし、自我を主張しようとしますが、すでに自我を失っています。これは、覚えておくべきことです。傲慢な人の善い戦いは、すでに自分を失ったと気づくことから始まります。つまり、追い求める目標は確実に破滅的です。自分の心を失い、自分の限界を健全なものとしてとらえていないからです。したがって、偽りの自我、限りがないと仮定された自我の中で生きています。傲慢な人には、キリストの言葉がよく当てはまります。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか。自分のいのちを買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」[204]。
マタイのこの箇所は、とても興味深いものです。ギリシア語本文には、いのちという語でなく、しばしば魂と訳されるプシュケーという語があります。全世界を得ようとして、魂を失った人のことを語っています。繰り返しましょう。根は、神との関係、神が私たちについて決められたことを受け入れないことです。神が主人で、私が主人の存在に耐えられなければ、課されているすべて、現実の所与を問いただし始めます。所与、データは、与えるという動詞ダーレの過去分詞ダトに由来します。所与は、置かれたもの、言うなら押しつけられたものです。そこで、自分の体、色、機能、特徴を受け入れないことから始まり、あらゆる領域で自分の本来のあり方を拒んだり、自分の歴史や人生で経験した限界を拒んだりすることになります。この下り坂では、すべての現実を厳しく裁き、何もうまくなく、すべての出来が悪く見え、いつも不満を言います。問題は、誰も信頼できないことです。自分の思いしか信じないからです。自分を持ち上げるものを必死に求めるため、とりわけ自分自身に満足できなくなります。ただ、傲慢な人は、自分をそうは考えないことに注意しましょう。その傲慢さには、本人以外の皆が気づきます。傲慢の徴候は、他者のすることに絶えず批判的でありながら、自分は謙遜だと思うことです。他人を盛んに批判し、頭の中で、批判を受けられる自分の能力と対比し、自分は批判を受ける余地があると考える一方、他者は批判を受けつけないと強調するなら、おそらく、非常に巧妙に自分を欺いています。最後に、本当は何が残るのでしょう。傲慢な人が気に入るのは、自分がすることだけなのです。霊的な落ち込みは、しばしば、自分についての幻想の第二章です。完璧で、好ましく、自分で満足できる者であるべきだという要求と、筋の通った、自分への幻滅です。マニフィカトに、「心のおごり高ぶる者を散らされた」とあるとおりです。傲慢な人を描くギリシア神話は、ナルキッソスです。誰も愛さないため、結局、自分だけを、それも誤って愛します。より正確には、水鏡に映る、自分の架空のイメージ、偽りの自我を愛し、自分の姿の中に溺れて死ぬのです。
1900年ごろの、反キリストについての非常に有名な物語で、比類ないロシアの霊的な師、大ソロヴィヨフは、反キリストを、並外れ、普通以上に恵まれた人として、こう描きます。
卓越した才能のおかげで、三十三歳には、偉大な思想家、作家、社会改革者として知られていた。大きな霊的な力を持つと自覚し、一貫して霊の実在を確信していた。その鋭い知性は、信じるべきもの、善、神、メシアの真理を、いつも示していた。それを信じていたが、愛していたのは、自分自身だけだった[205]……。
霊的なものを愛するキリスト者です。それでも、キリストを最後まで愛するかを選ばなければならないとき、愛せません。自分を愛しすぎているからです。神の愛にとどまることができません。ソロヴィヨフによれば、「この自己愛は、無意識の本能でも、狂った思い上がりでもなかった」のです。さて、私たちは皆、この戦いの中にいます。自分を愛するのか、真理を愛するのかを選ばなければなりません。この二つから選ぶなど、不合理に思えます。しかし、自我は関係的であるか、破綻しているか、どちらかです。自我は「あなた」に開かれるか、さもなければ真実のうちにいません。これはキリスト者以前に、人間の領域のことです。自我、人間の人格とは、関係です。愛の外では、私たちは存在しません。愛の外では、自分の影、自分の戯画です。中心にいることを失って、交わりに入るために心を開かなければ、人生は、果てしなく、響きもなく、冷たい孤独に向かうのです。
少し変わっていますが、かなり的確な一覧によって、傲慢に結びつく徴候を見ましょう。傲慢を正確に描くこの一覧が、どこから取られたかは、後で見ます。傲慢に結びつく徴候は、次のとおりです。
――自分についての誇大な考え。特別な扱いを受けるに値する、特別な力や独自の才能がある、優秀で魅力的である、同じように特別な人や高い地位の人と付き合うべきだ、という確信に集約されます。
――無限の成功、権力、魅力、美しさ、理想の愛についての空想。
――自分の価値が、十分に評価されず、認められていないという感覚。
――成功することがあっても、空虚で無気力な感覚。
――自分の資質を、過度に称賛してもらおうとすること。
――他者を利用する傾向。
――共感の欠如。それゆえ、他者の感情や必要を認め、身をもって感じることができないこと。
――軽蔑、恥、嫉妬の感情と、尊大で思い上がった態度。
これらを言い換え、強調してみましょう。「自分についての誇大な感覚」、つまり、自分の重要さを誇張して感じることです。また、無限の、壮大な、快い成功など、自分の成功についての、小さな、あるいは大きな空想に、しばしば心を奪われることです。第三の徴候は、自分は特別で、わずかな人、おそらく特別な人にしか理解されないという確信です。「誰も自分をわかってくれない」と言うときは、気をつけましょう……。
この段階には、称賛への渇きがあり、誰かに感心されると、格別に喜びます。
さらに、自分の権利への強い感覚が現れ、それが尊重されないことを、宇宙的な重大事と確信します。それ自体は不合理ではありません。他者に歯止めをかけ、自分を尊重させることを学ぶ必要のある人もいます。しかし今語っているのは、踏みにじられた権利が、果てしない怒りと、身体的なものさえ含む暴力の許可を引き起こす場合です。これは正義感でなく、暴力です。別の徴候は、時に他者を利用し、操る傾向があり、良心の呵責を感じないことです。そうしておきながら、内心「まあ、必要だったのだから……」と言い、平然と通り過ぎます。
別の点は、共感の不足です。しばしば、他者の感情に触れられないことです。
また別の徴候は、誰かに対して競争心を感じ、他者が自分を妬んでいると確信することです。他者が突然、妬ましい目で自分を見、邪魔をしようとしていると思います。しかし、他者は気づいてさえいません……。
第九、最後の点は、相手を食い物にしがちな愛情でありながら、同時に、他者の感情には純粋さを要求し、自分の感情がどれほど純粋かを、あまり見ないことです。
このような現象から、どこにでも広がる多くの態度を、見分けられるかもしれません……。
問題は、今読んだのが、アメリカ精神医学会による、自己愛性パーソナリティ障害を見分ける症状の一覧、つまり、DSM-5の「自己愛性パーソナリティ障害の診断基準」の表だということです[206]。実際、それらは傲慢に当てはまる現象で、ぞっとします。これが実情です。こうした態度と隣り合わせになる危険を、心に留めるのは有益です。
もう一度繰り返しましょう。いくらか誇大な自己感覚、少数の人にしか理解されないという考え、成功の空想、称賛への欲求、やや攻撃的な自分の権利への感覚、他者を利用しても呵責を感じない傾向、他者の感情を理解する際の困難、他者が自分を妬むという考え、そして自分はあまり律していない愛を与えながら、本物の愛を要求することです。
自分の限界を拒んだ傲慢な人は、問題のある人物です。劣ることを恐れるため、非常に傷つきやすいのです。表に出さなくても、傷つきます。そして他者の悪口を言って喜び、誰かの欠点など、何かを言えると満足します。傲慢な人の典型的なたとえは、ファリサイ派の人と徴税人のたとえです。そこでファリサイ派の人は、自分そのものを描くのでなく、「私はほかの人々と違い、ほかの人より優れている。他者は不愉快で、悪い」と言います。イエスは、福音記者ルカを通じて、見事に描かれます。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人であった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこう祈った。『神よ、わたしはほかの人々のように、奪う者、不正な者、姦通する者でなく、また、この徴税人のようでもないことを感謝します。週に二度断食し、すべての収入の十分の一を献げています[207]』」。
このたとえでよくわかるように、傲慢は、修道者や、教会の事柄にずっと深くかかわる人、宗教の問題に詳しい人に、容易に忍び込みます。
例を挙げましょう。貞潔を、他者の汚れに対する優越として生きることです。すると、気高さを装いながら、もっと悪い罪になります。他者への軽蔑は、肉の弱さより重大だからです。もちろん、肉の弱さも深刻であることを、よく覚えておきましょう。また貞潔は、自分の道徳的なイメージの崇拝でなく、自由、平和、清さの道です。自分の性を、愛への招き、清さへの招きとして理解することなのです。それでも、傲慢な人は、弱くもろい、哀れな罪人より、はるかに悪いことが、しばしばあります。同じたとえに現れるとおりです。
「ところが、徴税人は遠くに立ち、目を天に上げようともせず、胸を打って言った。『神よ、罪人のわたしをあわれんでください』」。
そして、イエスは付け加えられます。
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あの人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、自分を低くする者は高められる[208]」。
こうして傲慢な人は、自分だけで足りる者の、取り返しのつかない、地獄のような孤独に沈みます。助けを求めず、自分の欠点を一人で直せると思い、自分の自我を治められると思う人の孤独です。傲慢が作った偽りの自我と、もろく、謙遜で、愛され、助けを求める必要のある本当の自我とを、一人で見分けられると思う人の孤独なのです。
強迫的な自己愛の人の障害の一覧を離れ、エヴァグリオスが傲慢をどう描くかを、もう一度見ましょう。二つの一覧が、いくつかの点でどう似ているかも見てください。
「傲慢は、神への反抗、悪魔的な空想、悪意ある嫉妬、濁った盲目、尊大な意図、肉的な思考、栄光への偽りの切望、悪しき思いへの依存、悪霊との友情、思い上がった魂、敵による明白な包囲、破滅の警告である[209]」。
エヴァグリオスは、空想、妬み、濁った盲目、尊大な意図、肉の弱さという主題を繰り返します。この肉の弱さから、非常に有名な霊的な格言、「隠れた傲慢には、露わな色欲」が生まれます。
自分の姿を過大評価していると、自分の弱さという、へりくだらせる真実が現れ、傲慢な人の自己像を傷つけます。最も汚らしく、認めがたい情念によって、化けの皮を剥がされるのです……。
傲慢は、破滅に先立ちます。破滅の警告だと、エヴァグリオスは言います。箴言も言うとおりです。
「高慢は破滅に先立ち、
高ぶる霊は転落に先立つ[210]」。
すでに見たように、傲慢な人の現実との関係は、偽られています。何者でもないことへの恐れでゆがみ、偉大さの仮定から成る、病んだ空想へ行き着きます。この点で、ある伝記的な記述によれば、アドルフ・ヒトラーの死の冒険の発端が、次のようなものだったと思い出すと、衝撃的です。雨の日、地元の美術アカデミーから、芸術の才能が十分でないとして拒まれ、苦い思いでいた彼は、ウィーンの雨を避けるため、神聖ローマ帝国の博物館に入りました。そこで、伝承によれば、キリストの脇腹を刺した兵士、聖ロンギヌスの槍を目にして、目を奪われます。無敵になれるという考え、空想を抱いたため、内面が変わりました。それは、王の王の胸を貫いた道具として、神聖ローマ帝国の長の象徴的な持ち物でした。その道具を所有することは、アドルフ・ヒトラーの執着の一つでした。心をあまりに強く占められたため、オーストリアが第三帝国に併合されると、本人が槍を取りに行きました。戦争の終わりに、連合国の工作員がその品を持ち去ったことが、彼の不均衡な精神の最後の崩壊の原因になったと言う人もいます。自己の構築についての空想が、どれほど危険かに気づくのは、悲劇的です。20世紀前半のウィーンの、三流の画家もどきの願望から、何百万人、何百万人もの破滅と死へ至ったのです。一つの空想から、一つの魂、そして、その成功の投影に結びついて支持した、すべての魂の、破壊的な全能の妄想が始まりました。
神の敵である傲慢は、神の助けの拒否と、自分の努力の称揚で頂点に達します。エヴァグリオスは、別のところで傲慢を、「魂の体液で満ちた腫れ。熟せば破裂し、大きな不快をもたらす[211]」と定義します。内で膨れ、隠されていても、ある日破裂して、悪臭を放つ何かです……。
エヴァグリオスは、また、「傲慢な人の魂は高く上り、そこから深淵へ落ちる[212]」と言います。実際、自分の業という台座に上るのですが、それは蜘蛛の巣の上に上るようなものです。自分を糧に生きると、蜘蛛の糸の上にいます。やがて切れ、自分にも他者にも、苦痛をもたらしやすいのです。
なんという惨事でしょう! どう抜け出せるのでしょうか。この罠から、人間の本性をどう救えるのでしょうか。
謙遜な思い
「謙遜とは、神に喜ばれる結びつき、一人ひとりの本性を真実に認めること、自らの弱さを力強く告白すること、愛を強めるもの、憎しみからの避難所、揺るがぬ岩、悪魔の猛攻が砕け散る場所、敵のわなを越えて舞い上がる飛翔、サタンをおのずと無力にするもの、喜ばしい生活、敵からの称賛、神から与えられた生き方、知恵との真の友情である。[213]」
(エヴァグリオス・ポンティコス)
傲慢に対する根本的な解毒剤は何でしょうか。人類のこの悲劇と、どう戦えばよいのでしょうか。犯人は執事でした、というくらい、おなじみの答えです。傲慢の反対が謙遜であることは明らかです。ただ、それには、考え方を根本から変えることを、忍耐強く身につけなければなりません。自負と傲慢とは別のあり方へ踏み出すには、その転換が必要なのです。
自負と戦おうとするとき、すぐそばにどんな欺きが待っているか、見てみましょう。傲慢の中心には、自分だけでやっていけるという主張があります。しかし、傲慢な人の逆説は、傲慢を使って傲慢と戦おうとすること、つまり、自分で自分を正そうとすることです。たまたま、ほんのわずかでもうまくいき、少し謙遜らしい態度を示せたとすると、それが自動的に、自己愛の思い上がりをさらに加速させます。自分は謙遜で、自負を抑えられる人間だ、と見るようになるからです。自分を高める妄想に傾くだけでなく、それを制御するすべさえ心得ていると思ってしまうのです。
ここで、前に保留しておいたことに、ぜひ戻る必要があります。バベルの塔にまつわる謎です。神ご自身が人間の仕事を見に降りて来られ、人々の言葉を混乱させ、互いに通じ合えないという災いを引き起こされます。創世記がどう語っているか、見てみましょう。
「主は、人の子らが建てた町と塔を見るために降って来られた。主は言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話している。これが彼らの仕事の始まりである。これからは、何を企てても、妨げられることはないだろう。さあ、降って行き、そこで彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられなくしよう。』[214]」
私たちは、バベルでは神が脅威を感じて人間に制限をかけたのだ、という滑稽な印象を抱きがちです。しかしそれは、私たちの対抗意識を神に投影する、逆説的で人間になぞらえた読み方です。実際、この本文には底知れぬ知恵があります。神は町と塔を見るために降って来られます。人間の行く末や努力を、無関心に放っておかれないのです。人が何をしているかを見て、これは彼らの仕事の始まりであり、彼らにとって不可能ではなくなる、と考えられます。つまり、人間が自分のばかげた計画のために生きることは、不可能ではないのです。なんと真実なのでしょう。人は計画を立て、自我が建てた愚かな塔のために生きることができてしまいます。男が幼稚な万能感に従って一生を過ごすことも、不可能ではありません。女が自分について抱く一つのイメージを押し通すために生き、自分を壊してしまうことも、不可能ではありません。何もかもを自己賛美に従わせることも、不可能ではありません。このとき、主はどう助けてくださるのでしょうか。言葉を混乱させるために降りて来られ、孤独の苦さを通して私たちを訪れ始めます。それが、私たちを正す働きの贈り物なのです。
謙遜が傲慢の反対であることは明らかです。では、一つ問いを立てて、少し考えてみましょう。謙遜でない人が謙遜になるには、何が起こればよいのでしょうか。難しいことではありません。低くされる必要があるのです。[215] 謙遜は小さな妹で、大人の姉である屈辱と手をつないで入ってきます。その姉も、もう一人の小さな弟、自分を実際の大きさに戻すことを連れているのです。
愚かな塔を建てているとき、私たちは正される必要があります。自分に任せておけば、意味のない計画を追いかけ、ついには自分を壊してしまうからです。
摂理の秘密は、多くの場合、大人にならなければわからない秘密です。それによって正されることを受け入れないために、わからないままでいることが少なくありません。
私、ファビオが若いころ、死ぬほどの悲しみに訪れられなかったとしたら、誰が私の心を福音に開いてくれたでしょうか。心と頭を埋め尽くしていた、あの山のようなばかげた考えを、誰が問い直す気になったでしょうか。新しい生き方を、誰が素直に教えてもらったでしょうか。今日の使命へと私を備えてくれた青春の苦さのゆえに、主が幾重にもたたえられますように。私の行いに共感があるとすれば、私の人生にほんのひとすじでも愛が本当に輝いたとすれば、それは主が救いのために与えてくださった、あの苦い経験による身の丈への立ち返りが贈ってくれたものです。バベルの人々のように再び歩き始め、あわれみをもって私を愛し、育ててくださった御子イエスに出会うためでした。
これまで私は、大きな苦しみ、大きな失望、人生から受けた大きな戒めを経て、初めて耳を傾け、教えを受けられるようになった男女を、どれほど見てきたことでしょう。幸いにも神は、私たちのバベルの塔を、ただ眺めてはおられません。降りて来て、苦しみの善い側面を生きられるようにしてくださいます。ここで、痛みとは何かを理解しなければなりません。痛みは、本来、人間を守る仕組みです。先日、脳卒中のあとで入院したとき、同じ病院にいた人々が、感覚が鈍くなったため、手足に刺激を加えても痛みを感じないという、深刻な状態にあるのを見ました。痛みは贈り物であり、いのちの一部です。痛みなしには治ることもなく、医師のところへも行きません。受診したら、症状、痛み、困っていることを話さなければなりません。それが病を見つける手がかりになるからです。
鎮痛薬が、痛みという症状を取り除くことで、診断を遅らせる場合もあります。ただし、苦しみはそれだけではありません。人間の悪意によって不当に負わされる苦しみもあれば、自分から求め、執着してしまう苦しみさえあります。今話しているのは、それらではありません。存在の病を知らせてくれる、健やかな痛みのことです。耳を傾け、よく見つめ、受け止める必要のある、そういう苦しみです。
私たちが今考えていることにとって、これはとても大切です。
ある詩編には、こうあります。
「低くされる前、私は道をそれていました。
しかし今は、あなたの約束を守ります。[216]」
同じ詩編の別の箇所には、こうもあります。
「低くされたのは、私にとってよいことでした。
あなたの掟を学ぶために。[217]」
では、この謙遜とは何でしょうか。何より、自分のもろさと健やかにかかわることです。実際にそうである小さく、傷つきやすく、弱い自分と、共に生きるすべを知ることです。ごく短く言えば、謙遜は真理と一致します。
傲慢な人には、何が欠けているのでしょうか。もっと大きな愛とのかかわりです。心を鎮め、穏やかにし、慰め、自分の恐怖と内なる空虚に、確かに立ち向かってくれる愛です。神に生きる人と悪を行う人を分けるのは、前者が神の愛を知っているという、ただその一点です。それ以外に、大した違いはありません。
それが私たちを変えます。傲慢によって、勝ち誇る自分という仮の姿を目指し、自分の人間性を退けようとすると、その道で神の優しさ、父としての慈しみ、迎え入れてくださる愛を失ってしまいます。そこから多くの恐れが生まれます。傷つきやすさがひどく恐ろしくなり、悪い可能性を際限なく膨らませて、正気を失ってしまうからです。つまり、成功の空想として始まったものが、容易に恐怖の空想になります。自分だけで生き、独力ですべてを賄う夢を見ているため、もはや誰にも守られていないと感じるのです。これが、孤独と、傷つきやすさの緊張に陥った人の状態です。こちら側にいるのは自分一人で、守ってくれる人はいない。何かに気を取られれば、盗まれ、負かされ、奪われてしまう、と。
霊的な戦いは、決して、一人きりの、個人だけの戦いではない。このことを、人生の中で少しずつ見いだすのは、とても大切です。ここに注意してください。悪に対する善い戦いは、自己支配の訓練ではありません。それもまた傲慢の領域に属するからです。むしろ、神とのかかわりへと開かれることです。傲慢をはじめ、あらゆる悪徳と戦おうとしても、結局、根底では一人きりのままでいることができます。反対に、あわれみの神を求めることもできます。傲慢で虚栄心が強く、アケディアに陥り、悲しみ、自己憐憫の思いに恋している、そのままの自分で、神の前に出るのです。怒りっぽく、貪欲で、色欲と暴食に傾く、そのままの自分で、神の前に出るのです。大切なのは、神と共にいることです。悪しき思いがほどけていくのは、そこからだからです。
霊的生活の初めのころ、私たちは一般に、よりよい自分になろうとします。成熟した段階になると、神にしがみつこうとします。善い人間でいなければという思いは要らなくなり、「転びたくない」から、「もう神から離れていたくない」へと移るのです。砂漠の師父たちの、こんな美しい言葉があります。
「罪を犯さないための努力と心配りには、ただ一つの目的がある。魂に住んでおられる神を、そこから追い出さないことである。[218]」
ですから、傲慢に対する根本的な解毒剤は、謙遜そのもの、すなわち自分の限界を受け入れることだと、覚えておく必要があります。限界は、神にしがみつく助けになります。そこで傲慢が打ち負かされ、謙遜が生まれます。自分は尊厳ある者でありながらもろく、気高い存在でありながら、明らかに未完成なのだと受け止めることです。
この未完成さは、不当な扱いでも、間違いでもなく、私たちの真実です。私たちは関係のために造られ、助けられるために造られています。自分より偉大な方を認め、助けを求めるためです。傲慢な人には、厄介な考えでしょう。私たちの招きは、キリストのように、愛されている子として生きることです。ふだんの私たちの考え方にある、見捨てられた孤児として生きることではありません。根本的な解毒剤は、もはや自分を出発点として、自分のために生き続けることを許さない光です。そして、傲慢と戦うのは自分ではなく、現実を通して、人生に起こる出来事を通して、神が戦ってくださるのだと示します。ここでも、ほかの多くの場合でも、問題は、どれほど強くなって、自分の人生に何らかの変化を押しつけ、悪徳や誤りを正せるか、ということではありません。神の知恵である人生に、正してもらい始めることです。何ができるかと頭をひねるところから、神が私たちのためにしてくださることに身を委ねるところへ移るのです。もっと言えば、すでにしておられること、過去にもしてくださったことに、身を委ねるのです。
自分の過去には、まだ向き合っていない教えが、どれほど多くあることでしょう……。
福音書で聖母マリアに帰される最も長い言葉、マニフィカトの歌には、とてもよい知らせがあります。神が傲慢な者を倒し、へりくだる者を高めてくださる、その歴史の意味を告白しているのです。
「主はその腕をもって力を振るい、
心の思いの高ぶる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
へりくだる者を高められます。
飢えた人をよいもので満たし、
富める者を何も持たせず追い返されます。[219]」
まさに、キリストが繰り返し語られたとおりです。徴税人とファリサイ人のたとえの結びでも、すでに見たことです。
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ人ではない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。[220]」
この心を揺さぶる受け身、「自分を高くする者は低くされる」。誰によってでしょうか。神によってです、と、信仰の最も偉大な師である聖母マリアは告げます。心の思いの高ぶる者を打ち散らし、権力者をその座から引き降ろし、富める者を手ぶらで追い返されるのは、神なのです。
難しいのは、神にそうしていただくこと、そして、神が今そうしておられると気づくことです。つまり、人生が自分に問いを投げかけ、歩んできた歴史が自分を正していると認めることです。私たちは生涯、どれほどの戒めを拒んできたでしょうか。神は出来事を通して、何度、私たちの思い違いを示し、思い上がりから抜け出せるよう、身の丈に戻そうとしてくださったでしょうか。正されることを拒むのは、愚かな者のすることです。
もう一つの解毒剤は、自分の善い行いを、神の贈り物として認め始めることです。感謝を育てることは、傲慢と戦うための基本の一つです。誰かに感謝を示し、自分には値しないものを受け取ってきたと認め、恵みの働きを認めることが、欠かせないからです。
第三の解毒剤は、正当か不当かを問わず、自分が低くされる経験を、薬として受け入れることです。
批判されましたか。言われたことが本当なら、なぜ怒るのでしょう。本当でないなら、なぜ怒るのでしょう。そもそも、人から見た自分の姿が、どれほど大事なのでしょうか。その姿のために逆上することが、ふさわしいのでしょうか。
もう一つの解毒剤は、言い訳をするとき、自分を疑ってみることです。自分の行いを説明するのに千もの弁明が必要なとき、自分の選択の理由を、あまりに複雑に説明しなければならないとき、何かがおかしいのです。自分の動機を疑わなければなりません。おそらく、それは偽りです。
私たちは自分のカリスマを育て、あれが得意、これが不得意と、自分の力を磨いています。しかし、誰もがまだ初心者でしかない、ただ一つの本当のカリスマは、愛です。「もう愛しすぎた、十分に愛した」と言える人がいるとは思えません。誰もが、まだ少ししか愛していないと知っています。もっと、よりよく愛する必要があり、周りの人たちには、まだ多くの愛を返さなければならないと知っています。私たちは自分を、まだ愛の学校で学んでいる者と考える必要があります。ほかのことでは優れているように見え、自信をもてるかもしれませんが、愛については、いつも私と笑い合ってくれる人がいて、その人に耳を傾けなければなりません。愛については、いつも誰かが、「あなたは私を愛してくれなかった。もっと、よりよく愛してほしい」と言うことができます。これは、傲慢と正面から戦う、聖なる思いです。
到着点か、それとも出発点か
エヴァグリオスは、ロギスモイとその対処法についての説明を、どのように結んでいるでしょうか。最後に、次の言葉を添えています。
「これらを知り、実際に行うことは、心を清める。神の掟を破り、守らず、ないがしろにしたことについて、自らを責める必要のない、心の清い人が、いったい誰かいるだろうか。[221]」
なぜこのように結ぶのか、理解しなければなりません。到着点は、終わりであってはなりません。むしろ、新たな始まりとなることが大切なのです。
悪しき思いについての文章にエヴァグリオスが添えた、この結びから旅を始めても、少しもおかしくありません。
エヴァグリオスは、ごく素直に一つのことを言っています。ところが私たちは、そのことになると、たいてい話をややこしくします。つまり、私たちの誰にとっても、どのロギスモス一つとして、自分には無関係なものはない、ということです。
こうしたわなに欺かれたことを、自ら責めずに済む人がいるでしょうか。これを書いている私には、確かに無理です。
この邪悪な仕組みも、あの邪悪な仕組みも、自分には縁がないと証明しようとするのは、愚かな戦いです。
八つの悪しき思いを巡るこの旅を結ぶ、最後の考察は何でしょうか。私たちを救えるのは、あわれみだけだということです。善に至りたいなら、神のあわれみを覚え続けることを育まなければなりません。では、何ができるでしょうか。それぞれの悪しき思いを取り上げる中で、読者が自分の姿を見いだしてくださったことを願います。旅の初めにも述べたように、いちばんよい反応は、「幸い、これは自分にはない」ではなく、「これも自分にある」と言うことです。「暴食の話では、自分はそれほどむさぼってはいないと思った。ああいう大食いではないかもしれない。でも、もっと深いところで、自分もむさぼっていると気づいた。」色欲にも向き合いました。私たちのように感覚に流され、表面的な世代なら、あまり苦労せず、自分の姿を認められたかもしれません。ほかも同じです。
治療が効き始めたしるしは、まさにこの態度です。それが真実、すなわち謙遜だからです。自分の限界を認めることです。傲慢が限界を拒むことなら、この旅のすべては、自分の限界に向き合い、助けを求める立場を少し親しく受け止められるようになる、そのためにあったのです。
私たちの冒険は、どこへ行き着くのでしょうか。祈りへです。主に助けを求め、主にしがみつき、神のみ前にとどまり、あわれみに生かされることが、いかに切実に必要かを悟るのです。
この目標に、根本的な補足を一つ付け加えなければなりません。逆説的な言い方ですが、一つの原則です。こういうことです。
「一人の聖人を生み出すには、一人の罪人が必要である。」
この旅の終わりに、一つの肝心なことを認めなければなりません。罪は、私たちの悲劇であるだけでなく、道を誤った神の贈り物でもある、ということです。罪という言葉の語源を忘れてはなりません。ヘブライ語ではハッタート、ギリシア語ではハマルティアです。どちらも、的を外すこと、狙いがそれることを表します。実際、今では使われなくなった罪の呼び方にも、「欠けること」に当たるものがありました。
「罪を犯す」という動詞にも、「謙遜が足りない」「慎重さに欠ける」といった表現では、この意味が残っています。いったい、どんな罪なのでしょう。そのような罪は、聞いたことがありません。この表現が言っているのは、謙遜や慎重さが欠けている、ということです。あるべきものが、ないのです。ですから罪とは、届かなかった目標、つまり、求めるものを誤った場所で探すことなのです。
人間の悪は、多くの場合、道を誤った善です。私たちの罪や、悪しき思いによって、道を誤ってしまいました。本来なら、それは恵みなのです。
なぜ、暴食の幼さ、色欲の表面性、貪欲の不安、怒りに隠れた恐れ、悲しみを動かす被害者意識、怠惰の無気力と自己疎外、嫉妬の対抗心、傲慢に隠れた苦悩を、見ておくことが大切だったのでしょうか。
明らかなことを、心に留めなければならないからです。聖人を生み出すには、罪人から出発しなければなりません。ほかの材料など、これまで一度も手元になかったのです。最近始まったことではありません。
今のように造られた私たちでよいのです。私たちは間違いではありません。救いは、人間の本性に暴力を振るうことではありません。怒りっぽい人を、何があっても動じない人に変えなければならない、といったことではないのです。人間の弱さの中にも贈り物があります。神はすべてを、その時にかなって善く造られたからです。
これとは逆の考え方は、なかなか変わりません。良心を育てようとして、義務の枠にはめ、型に押し込み、こうしなければならない、とする人がいます。存在そのものに暴力を加えるような過程を通して、自分を枠からずらし、作り直し、変えるのです。ところが、それはたいてい、実りを失わせ、要領よく立ち回る態度へと導きます。少し偽善的で、しおれたキリスト者たちが、教会を出入りする光景になります。型にはまって意思を伝え、あらかじめ決められた言葉遣いをする人々です。その姿からは、受肉、つまり人間の肉が本当に神の栄光と出会ったのだとは、信じにくくなります。神がこの世に置こうとしておられる美しさに自分がなることも、私たち一人ひとりが大切な存在であることも、忘れてしまった兄弟たちなのです。
愛は、自己軽蔑を土台にはできません。
愛は幸せを土台にし、豊かさを土台にします。否定を土台にすることはできません。そうでなければ、本当の行為も、ほとばしる力も、真の愛も、決して生まれないでしょう……。
聖人を生み出すには、むさぼる人が必要です。なぜでしょうか。本当の喜びを求め、簡単には満足しない人が必要だからです。快適さの奴隷になった人は、生気を失い、依存し、幼く、未熟で、未完成で、満たされていません。欲求の奴隷として、取り込み、手に取り、確保し、体を喜ばせることばかりに生きるのは、問題から逃げて生きること、自分を保つすべを知らないことです。ついには、すべてを食べられるものに変える必要に迫られ、現実を乱用します。そうなれば、子どもは親の都合のための存在になります。恋人は快楽の道具になります。仕事は奉仕のためではなく、自己実現だけのためにするものになります。いつも自分を満たさなければならないので、恋人を愛することも、子どもを育てることも、惜しみなく働くこともできません。では、そこにいのちはあるでしょうか。ありません。本当のいのちには、もっとよく食べるすべが必要だからです。聖人を生み出すには、本当にむさぼり求める人が必要です。いちばん大きな喜び、愛を求める人です。食欲は挫くのではなく、満たし、その極みへと導く必要があります。預言者イザヤが言うように、滋味豊かなおいしいものを食べたい人が、聖人になるためには必要なのです。
「さあ、渇いている者は皆、水のもとへ来なさい。
銀を持たない者も来なさい。
銀を払わずに、買って食べなさい。
代価を払わずに、ぶどう酒と乳を買いなさい。
なぜ、パンではないもののために銀を払い、
満たしてくれないもののために労苦の実りを費やすのか。
私によく聞き従い、よいものを食べなさい。
豊かなものを味わって、喜びなさい。[222]」
それだけではありません。詩編にも、同じようなことを述べる表現がいくつもあります。
「味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いか、主に身を寄せる人は。[223]」
満たされるのが好きですか。それなら、いちばんよいものを食べ、いちばん大きな喜びを求め、本当の満足を得なさい。
聖人を生み出すには、嫉妬する人が必要です。「聖なる嫉妬」とも言いますが、どういう意味でしょうか。最も幸せな人たちが持っているものを、自分も持ちたいと願う人が必要なのです。それは競争を意味しません。学ぶことを、生き方の原理にするのです。この冒険で見てきたことはすべて、情念から自由になる道を示す、砂漠の師父たちの知恵に近づくことでした。私たちは信仰の宝にあずかりたいと願い、彼らから学び始めます。ここで見てきた事柄は、私のような貧しい一人のキリスト者の知恵ではありません。多くのほかのキリスト者の知恵、多くの人々から聞き、受け取ってきたことです。ある友人の言うように、一人のキリスト者の顔には、多くの顔が浮かびます。見えるのはその人の顔だけでなく、その教会を導いた教皇たち、出会った聖人たち、福音へと心を開き、信仰を励ましてくれた人々の顔です。その人たちの中に見た姿によって、教えられてきたのです。そして、愛することを教えたすべての人の顔もあります。その人の内には、アッシジの聖フランシスコ、ヌルシアの聖ベネディクト、聖フィリポ・ネリ、そのほか多くの人々がいるのです。
これが、キリスト者の嫉妬です。教会では、まねることは罪ではなく徳であり、伝承と呼ばれます。聖人になるには、多くの人から学び、多くの人から受け取り、そのあとで多くの人に与える必要があります。なんと美しいことでしょう。
誰からでも学べます。誰からでも受け取れます。多くの人からです。一人ひとりに、美しいものがあります。すばらしく、繰り返せない、唯一で、輝かしいものです。それを大切にしなければなりません。
聖人を生み出すには、怒りっぽい人が必要です。悪を憎まなければ、誰も悪から離れられないからです。依存から抜け出すには、それを憎む必要があります。自分の魂のために戦うには、怒らなければなりません。福音を告げるとき、人々の魂のために戦うには、自分の男性としての力を解き放つすべが必要です。イエスをヘロデから守るために、聖ヨセフが示さなければならなかった力です。女性としてのエネルギー、女性ならではの粘り強さも必要です。それは、小さなことに絡め取られると愚かな怒りになりますが、すばらしいものにもなりえます。自分の子を守り、守るべきものをすべて守れる、見事な雌ライオンのようになるのです。言うべきことを言い、するべきことをし、外の敵と内の敵に立ち向かう力になります。正しい憤りをもって、善をつかんだ手を離さずに。聖性への道を歩むには、怒りが必要です。
しかし、血肉を備えた敵に怒りを向けるのは、実に滑稽なことです。今日の一部のカトリック信徒に見られる、徹底抗戦の論争的な態度と、これを混同してはなりません。彼らは、本来なら驚きを与え、福音を告げるべき世界と戦っています。ここでいうのは、誰かに敵対する戦いではなく、誰かのための戦いです。イエスが神殿を清められるとき、敵対して戦っておられるのでしょうか。それとも、誰かのためでしょうか。
「『これらをここから取り去れ。私の父の家を、商売の家にしてはならない。』弟子たちは、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。[224]」
私の父の家を商売の家にしてはならない。父の家だからです。大切な、行うべきことだからこそ、その家を清めておられるのです。
私たちの怒りは、しばしば誤った戦いへ向けられます。善い戦いを戦いなさい。戦うべき敵と戦いなさい。戦争の恐怖、人間同士の対立の残虐さに変わってしまったものも、本来は必要な衝動でした。憎しみさえ、福音の中には場所があります。ある詩編は、「主は、悪を憎む者たちを愛される」と言います。[225] そしてイエスは、「私のもとに来て、自分の父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、私の弟子にはなれない」と言われます。[226] ここで「いのち」と訳される言葉は、プシュケーです。つまり、またしても、自分の肉的で幼い心理の仕組みです。それを失ってこそ、大人になり、新しいいのち、キリストが復活によって得てくださったいのちを受け取るのです。
私は、自分で憎みもしない過ちから抜け出せたことは、一度もありません。しかし何より、罪よりも愛すべき何かが現れるまでは、罪から抜け出せませんでした。ただ完全であろうとするだけの問題であるかぎり、出口はありません。悪に飽き、愛に心を開くことで、罪から出ていくのです。もっとよいことがあるとわかったとき、悪によってどれほど多くを失い、どれほど時間を無駄にしているかに気づいたとき、私たちは誤ったことをしなくなります。
悪魔は、その本性上、小さなことに時間を浪費させます。いのちにかかわることが懸かっているのに、どうでもよいことに時間を費やさせるのです。間違った敵を憎ませ、はるかに大切な戦いがあるのに、小さな戦いをさせます。火事が起きているのに、水まきのホースにどちらが先にたどり着いたかで、誰かと口論して立ち止まるようなものです。問題は、どちらが先だったかではなく、とにかくその水をかけるかどうかです。はるかに大きなものが懸かっているのに、原則論を持ち出して、どれほど時間を無駄にしていることでしょう。
あなたは誰を憎んでいますか。憎むべき敵を憎みなさい。本当の敵と戦いなさい。
聖人を生み出すには、貪欲な人が必要です。そもそも、所有することが間違いだと、誰が言ったのでしょう。実際、私は、自分の内に住まわれる父と子と聖霊を自分のものとし、その住まいとなるように定められています。聖パウロも、「すべてはあなたがたのもの」と言います。[227] 最後の晩餐でイエスは、「これは、あなたがたのために渡される、私の体である」と言われます。私たちのもの、私たちのためのものだから、お与えになるのです。ご自分を与えてくださる、その目指すところは、私たちなのです。
あなたは何を持っていますか。小さなものばかりです。イエスは言われます。
「古びない財布を作り、天に尽きることのない宝を蓄えなさい。そこには盗人も近づかず、虫も食い荒らさない。[228]」
本当の富において、豊かでなければなりません。最高の盗難よけと虫よけがあり、腐敗も盗みも及ばない富です。本当に貪欲な人なら、この指示に耳を傾けるはずです。ここにあるのは貧しさではなく、富、それも最上の富だからです。
奉献生活者が貧しくあるのは、天の国を自分のものとするためです。貪欲でしょうか。本当の貪欲です。激しい貪欲です。本当に価値のあるものへの貪欲です。その富は、手放してはなりません。価値のあるものを手元に保ち、価値のないものを手放すことを、私たちは何度、学ばなければならないでしょう。
福音のたとえに、多くの人が理解できない箇所があります。十人のおとめのたとえです。[229] 十人のおとめが、花婿に付き添って婚宴へ行く準備をしています。結婚の取り決めが進められているので、待っているのです。そのうち五人は愚かで、五人は賢い。賢いおとめたちは、ともし火とともに、器に油を入れて持っていきます。愚かなおとめたちは、ともし火を持っても、油を用意しません。つまり、器は持っていくのに、中身を持っていかないのです。うわべだけの人に典型的な行動です。
さて、どうなるでしょうか。皆、眠ってしまいます。真夜中になって、待っていた声が響きます。「花婿だ。迎えに出なさい。」付き添って行く時が来ました。皆、ともし火をともそうとします。賢いおとめたちは、ともし火を取り、油を満たします。待ち時間に耐えるだけの油を持っているからです。そして火をともします。ところが愚かなおとめたちには、それができません。「あなたがたの油を分けてください。私たちのともし火は消えそうです。少ししかありません。出発するときに入っていた油だけで、ともし火を持ってきたので、待つうちに消えてしまいました。」今や、ともし火は役に立ちません。油なしで芯に火をつければ、芯が燃えて、ともし火は消えます。下から補給し、芯が油を吸い上げなければ、消えてしまうのです。すると、どうなるでしょうか。賢いおとめたちは、断ります。「私たちとあなたがたの分に足りなくなってはいけません。店に行って、自分の分を買うほうがよいでしょう。」なんということでしょう。この感じの悪さには、がっかりします……。
ここが、誰にも理解されない箇所です。このおとめたちを不愉快に感じますが、実はそうではありません。感じが悪い、と捉えるのは正しくないのです。これは福音です。ですから、いのちの言葉です。人生で取るべき、賢い方策なのです。誰にも渡せないものがあります。私の祈りの時間は、渡せません。ともし火を満たすものを手放すには、よほど重大な理由が必要です。私は、青ざめた司祭、内実も色も美しさも失った修道女たちを見てきました。いろいろな理由で、祈らなくなった人たちです。多くの奉仕に心を奪われ、座って主に聞く機会を失うマルタのようです。そのままでは、いつか、与えるものが何もなくなってしまいます。
貪欲にならなければなりません。油は渡さないのです。「いいえ、私たちにもあなたがたにも足りなくなってはいけません。」どういうことでしょうか。あなたがたにもなくなり、私たちにもなくなる、ということです。すべきことを、きちんとしなさい。築くべきものは、築くべきときに築くのです。
受け取った油を、守りますか。聖書において、油は聖別に用いられるものです。聖なるものに、しっかりとしがみつきますか。貪欲であるべきところで、貪欲でいますか。
キリスト教は、ほとばしる力であり、願いであり、意志であり、食欲であり、所有なのです。
聖人を生み出すには、色欲に傾く人が必要だ、とも言うべきでしょうか。確かに私は、使命のために、色欲が奪おうとしていたもの、すなわち男性であることを否定する必要はありませんでした。むしろ、それを成就させる必要がありました。司祭職のために、男性としての存在の奥深くにあるもの、男性としての力、配偶者としての愛への招き、生物学的には性的な愛への招きを、放棄したのではありません。それどころか、それこそが使命のエネルギーであり、私を突き動かす理由なのです。
司祭になるには、父としての心が必要です。福音を告げる者になるには、配偶者としての心が必要です。一つの心に語りかけ、一つの教会を愛して世話をし、支え、慰めるには、男性であることが必要なのです。
神は、私を男に造って、間違われたのではありません。ある奉献生活者が偽善的にも想像したがるように、司祭になるには、性のない存在に造られたほうがよかった、ということではありません。そんなことは、まったくありません。
驚かせるすべ、贈り物をするすべ、気遣い、理解し、導き、守るすべを、どこで得るのでしょう。男性であるという贈り物の包みの中には、どれほど多くの美しいものがあることでしょう。愛するすべ、実りをもたらすすべ、神が人々の心に置かれた種を、そこに残すすべです。
女性の奉献生活者が、どれほど豊かな女性性と母性を備えるよう招かれているかは、言うまでもありません。
しかし、罪から自由になるとは、満たされない人間になることだと、誰が言ったのでしょうか。問題は、男であること、女であることによって、神がどんな広い道を開いてくださるかを理解することです。失ってはならない宝なのです。
色欲という誤った道を進んでいた人にとって、それは自分を壊し、判断力を鈍らせる道です。考えなくなり、自分とのつながりを失い、愛するのでなく、自分を満たして生きるようになるからです。しかし実際、色欲はその人から、巨大ですばらしい贈り物を隠しているのです。
どんな罪の中にも、ひどく扱われ、裏切られ、忘れられた何かがあります。それでも、その何かは確かに存在しています。
聖人を生み出すには、アケディアに陥った人が必要でしょうか。聖なる怠け心、罪に対して覚える退屈と倦怠があります。罪は疲れさせ、消耗させるからです。傲慢はとても骨が折れます。自我を守るのは、ひどく疲れることです。怒りも消耗させますし、論争を続けるのも退屈です。嫉妬から生まれた悪意や競争を、すべて覚えておくのも疲れます。あるとき、そうしたことに対して怠け者になり、罪を控えるようになります。もう、むなしく自分を痛めつける気がなくなるのです。これ以上、力を使い果たすべきでない、無益な苦労は、たくさんあります。
聖人を生み出すには、悲しみが必要でしょうか。確かに必要です。すでに見たように、聖パウロは、悲しみは二種類あると言います。この世に従う悲しみと、神のみ心にかなう悲しみです。この世の悲しみは死へと導きますが、神のみ心にかなう悲しみは、いのちへと導きます。[230]
悲しみは、どこから来るのでしょうか。それを扱った章で、私たちは、悲しみは所有が妨げられることから、つまり、願いがかなわないことから生まれると学びました。人々がふだん悲しむのは、肉的で自己中心的な願いのためです。その願いが、挫かれる運命にある要求に、人を縛りつけます。
しかし、神のみ心にかなう悲しみもあります。それは、どのようなものでしょうか。『フランシスコ会史料』は、アッシジのフランシスコの涙を伝えています。
「ある日、彼はポルツィウンクラのサンタ・マリア聖堂の近くを一人で歩き、大声で泣き、すすり泣いていた。それを聞いた信仰深い人は、何かの病か痛みに苦しんでいるのだろうと思った。そして、あわれに思って、なぜ泣いているのかと尋ねた。
彼は答えた。『私は、私の主の受難を思って泣いています。その主のためなら、世界中を大声で嘆きながら歩いても、恥じるべきではありません。』すると、その善良な人も、彼と一緒に、大声で泣き始めた。[231]」
この文章を言い換え、フランシスコの答えを次のようにまとめる著者もいます。
「愛が愛されていないので、私は泣くのです。[232]」
フランシスコがよく泣いたのは、確かです。根本において悔い改めの人であり、その歩みの魂が、実り豊かな「悲しみ」だったことも確かです。十分に愛していないと感じること、つまり、もっと愛さなければならないと感じることです。
スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』の終わりには、悲しみの実に美しい姿があります。多くのいのちを救った主人公が、もう一人くらいは救えたかもしれないと、最後に気づいて泣くのです。成し遂げた多くの善を眺めるのではなく、まだできたはずの善を思って悲しみます。
祈りに変わる悲しみがあります。兄弟の痛みを自分のものとし、泣く人と共に泣き、人々の痛みを自分の心に迎え入れる、そういう悲しみがあります。協力者であるカミロ会のシスター・ジェンマが、ときどきやって来て、一人の若い女性や男性のことを話してくれます。「この人は、助けを必要としています」と言って、祈りを頼むのです。「何ができるでしょうか。」その悲しみは、愛です。
愛とは、こう考えることです。まだ何か、あなたにあげられるかもしれない。あなたのために、もっとできたかもしれない。その悲しみに心を貫かれるのは、気高さです。いえ、聖性です。
この悲しみの恵みを、願わなければなりません。旅のよい備えであり、必要なものです。どこかに到着したと思い込むことから、私たちを救ってくれます。まだしなければならないと思うこと、できたはずのこと、すべきだったことを数え上げると……、いつも、自分はまだほんの少ししか愛していないと感じます。
そして、聖人を生み出すには、傲慢な人が必要です。「そうだ、神は、まさに私に語りかけておられる。キリストは、私のために死んでくださった。私のために」と思う人が必要だからです。「お父さんは、僕をとても愛してくれている」と言う子どもの誇りが必要です。すばらしい父を誇りにする子どもであることです。
なぜ私は福音を告げるのでしょうか。自分には語るべき言葉がある、と思う傲慢さがあるからです。キリスト者の生活では、神が一人ひとりと歩んでこられた歴史を、真剣に受け止めればよいのです。この本を読み始めたのは、心にとても真剣な何かがあり、本当に大きないのちを生きたいと願っているからだ、と考えればよいのです。その願いは、間違っていません。罪としての傲慢は、誰もが持つべき、深く健やかな尊厳の感覚が、道を誤ったものです。ですから、善い戦いに取り組むのは、まったく健やかなことです。そして、間違った戦いを避けることも。取り組むだけの価値があります。
結びに、あわれみの恵みを願う、簡単な祈りを添えます。あわれみこそ、キリスト者として、また人間として生きる、本当の目標だからです。
善い戦いのための祈り
主よ、あわれんでください。
私の暴食と、むさぼる心を。
自分を治める力をお与えください。
主よ、あわれんでください。
私の色欲を。
清く健やかな思いをお与えください。
主よ、あわれんでください。
私の貪欲を。
物への執着を離れる心をお与えください。
主よ、あわれんでください。
私の怒りを。
あなたご自身のあわれみをお与えください。
主よ、あわれんでください。
私の悲しみを。
感謝の心をお与えください。
主よ、あわれんでください。
私のアケディアを。
善を行い続ける力をお与えください。
主よ、あわれんでください。
嫉妬でもある、私の虚栄を。
兄弟姉妹との交わりをお与えください。
主よ、あわれんでください。
私の傲慢と自負を。
真理である謙遜をお与えください。
これらの恵みの中でも、とりわけ、あわれみのうちにへりくだる心をお与えください。
自分の一つひとつの罪から学び、
あなたの忍耐と優しさをもって、兄弟姉妹に接することができますように。
私があわれみに心を開かないなら、
どうしてあなたに、あわれみを願えるでしょうか。
私に愛がないなら、
悪しき思いに打ち勝っても、何の役に立つでしょうか。
アーメン。
謝辞
すべてのキリスト者は、自分を教え導いてくれたすべての人に、知恵の恩を負っていると述べました。ですから、ほかの兄弟からいただいた贈り物を、できるかぎり、少なくとも意識の上では、認めるのがふさわしいでしょう。ここで感謝を表したいと思います。この本を含め、私のすべての著書で述べていることは、確かに、親愛なる友人カルロ・ストリアーノに負っています。彼は妻のマリアンジェラとともに、天から私を見つめ、今も助言してくれていると私は思います。神について語るすべを教えてくれたのは、彼とその奥さんです。私がうっかり語るかもしれない、驚きや慰めをもたらすことは、すべてカルロのおかげです。彼との友情が恋しくてなりません。
親愛なるカルロ、あなたがいなくて、本当に寂しい。あなたのような友を失って、その不在を生涯感じずにいることはできません。あなたがいなくなって、もう十八年です。あなたが天に入ってから、私の心には一部が欠けています。あなたが私にとってそうであったような存在に、私も誰かにとってなれたらと願っています。
とりわけこの本の執筆では、親愛なる兄弟であり友である、ルチャーノ・コンディーナ神父が、欠かせない助けとなってくれました。ラジオ放送の資料を出発点にするのを助けてくれ、おかげで、この尽きることのない主題に、扱う範囲を定めることができました。
もう一人の親愛なる友、今はローマの主任司祭であるフリオ・ラビン・デ・テサノス・ピント神父の助けも、忘れることはできません。小教区の若者たちのために彼が行った、八つのロギスモイについての研究を役立てさせてもらいました。宣教を共にする交わりの中で、2014年のサン・マルコでの公開講座のころから、これらの主題について、私たちの間には実に実り豊かな浸透と交流がありました。
草稿を忍耐強く、丁寧に読んでくれたフランチェスコ・マチナンティにも、恩があります。彼は私の甥でもあります。彼と、すばらしい妻エレナ、そしてすてきな二人の娘、ゾエとイレーネに、あふれるほどの幸せを祈ります。二人の娘の名は、預言的な意味をもつ名前です。
ほかの本と同じく、ファブリツィオ・フォンターナの意見にも助けられました。彼からの信頼と友情を、光栄に思います。
そして、最初の霊的指導者、マルチェッロ・ピエラッチーニ神父を忘れることはできません。並外れた知恵と力量で、霊的生活と内なる戦いの骨組みを教えてくれた人です。混乱していた二十三歳の青年の中に、本書に書かれているすべてのことの種を育ててくれました。
今は天から私を見つめてくれています。私のために、そして内面の数多くの弱さのために、取り次いでくれることを願っています。私が彼の司祭としての務めの実りであることは、間違いありません。
本書の直観や内面を見つめる洞察の多くは、彼のものでした。導き手として彼をいただいたことは、なんという祝福でしょう。
また、兄弟でもあり幼なじみでもあるファビオ・トッリエーロが、示された意見や疑問を、並外れた伝達の力量と細部への厳密さで直してくれなかったら、この本は今の姿にはなっていなかったでしょう。
この冒険で、いちばん近くにいて支えてくれた兄弟もいます。まず草稿を見直し、脳卒中のあと、もう執筆には戻れないと感じていたときにも励ましてくれました。ただ、名前を明記してほしくないとのことなので、その望みを尊重します。確かに、沈黙は虚栄の薬です。その願いは理解できますが、沈黙の中にあっても、私の感謝はいささかも減りません。
出版社の、忍耐強く、心遣いに満ちた支えを通して受けた、兄弟としての助けにも、触れずにはいられません。San Paolo社のシモーネ・ブルーノ神父とピーノ・オッキピンティです。編集者であるとともに、真実で誠実な、キリストにおける兄弟です。彼らなしには、この本も含め、一冊も書けなかったでしょう。神が報いてくださいますように。
最後に、本書の初めですでに触れましたが、先日の脳卒中の際に助けてくださった医師や療法士の皆さんに、どうして感謝せずにいられるでしょうか。サン・ジョヴァンニ病院の神経科の皆さんは、私の容体を知ろうとし、病棟に入ろうとする大勢の人々に耐えてくださいました。そのため、医師や医療従事者の皆さんには、少なからぬご不便をおかけしました……。私の前にこれからの人生があるのは、皆さんの優れた技術のおかげなのに、それにふさわしいお返しにはなりませんでした。脳卒中を患ったと気づかれないのは、皆さんの迅速で巧みな処置のおかげだと、どうすればすべての人に伝えられるでしょうか。
非常に効果的なリハビリを担ってくださったサンタ・ルチア財団にも、大きな恩があります。職員の皆さん、とりわけ理学療法士の皆さんが、細やかな配慮と優しさをもって接してくださいました。皆さんとのかかわりは、本当に喜ばしいものでした。神が報いてくださいますように。特にパオラ・コイロ先生に感謝します。ちょうどよいときにかけてくださった短い言葉が、脳卒中のあとに落ち込んでいた暗い気分から、私を引き上げてくれました。あのような衝撃のあとでは、落ち込むのは普通だと言われます。しかし、私に起こったように、あっという間に立ち直ることが普通だとは思えません。すべては神の恵みであり、同時に人の善意です。その二つが力を合わせるなら、人生はとても美しいものになります。
神がたたえられますように。
著者紹介

ファビオ・ロジーニ。1961年、ローマ生まれ。1991年に司祭叙階。現在、ローマ教区の召命部門の責任者を務める。教皇庁立聖書研究所で聖書学のリチェンツィアートを取得。1993年、十戒についての信仰教育の取り組みを始め、国際的に広く普及した。十年以上にわたり、バチカン放送で主日の福音を解説している。教皇庁立聖十字架大学の教員として、聖書、信仰の伝達、説教について講義を行う。著書には『再出発の技法』『健やかに生きる技法』『愛だけが創造する』などがあり、複数の言語に翻訳されている。
注
[1] エヴァグリオス・ポンティコス, Sentenze. Gli otto spiriti della malvagità, Città Nuova. Roma 2010, p. 72. 本文へ戻る
[2] なぜ、この信仰の師についての映画が作られないのか、不思議です。本人の意に反して修道院から連れ出され、ローマの司教とされた人です。教皇としての時代も含め、その生涯は大冒険なのですから。 本文へ戻る
[3] 参照:E. ムーニエ, L’avventura cristiana. Libreria Editrice Fiorentina, Firenze 1990. p. 52. フランス語原著のイタリア語訳: L’Affrontement chrétien, パリ 1945 [スペイン語訳: E. ムーニエ, «El afrontamiento cristiano», 『Obras Completas』第III巻所収, Ediciones Sígueme, Salamanca 1990, p. 53]. 本文へ戻る
[4] 参照:エヴァグリオス・ポンティコス. Contro i pensieri malvagi, Qiqajon, Magnano (BI) 2005. [スペイン語訳: エヴァグリオス・ポンティコス. Tratado de las réplicas, Ediciones Ríalp, Madrid 2021]. 本文へ戻る
[5] 参照:テモテへの手紙一1・18; 6・12; テモテへの手紙二4・7. 本文へ戻る
[6] エヴァグリオス・ポンティコス, Tratado de las réplicas, 前掲書 p. 53. 本文へ戻る
[7] イザヤ26・7. 本文へ戻る
[8] テサロニケの信徒への手紙一5・23. 本文へ戻る
[9] ジークムント・フロイトによる自由の否定については、A. ランベルティーノ「Freud e la teoria psicoanalitica della libertà」、『Rivista di Filosofìa Neo-Scolastica』、Vita e Pensiero — Pubblicazioni dell’Università Cattolica del Sacro Cuore、第77巻第3号(1985年7―9月)、pp. 411―438を参照。 本文へ戻る
[10] ルカ15・11-18. 本文へ戻る
[11] 参照:ヨハネ8・44. 本文へ戻る
[12] 『Apoftegmi del manoscritto Coislin 126』所収、箴言第65。F. Nauにより『Revue de l’Orient chrétien』(1907―1913年)に一部刊行。 本文へ戻る
[13] 同書、箴言第2。 本文へ戻る
[14] たとえば、ここ数年来の政治的な発信は、まさにこのように機能しています。絶対化し、怪物を作り出し、党派的で、退屈です。したがって、偽りがあり、信頼できません。しかし、この役割分担の芝居は、伝達の効果が強いのです。一方、客観的な分析は一瞬ではできず、何より、大騒ぎにはならないでしょう……。こうして、節度を知らない、今のような政治家たちが生まれるのです。 本文へ戻る
[15] 『Vita e detti dei padri del deserto』、L. Mortali編、Città Nuova、ローマ、1971年、第II巻、pp. 67―68。 本文へ戻る
[16] このすばらしい人間であり司祭である人との友情、その知恵がなかったら、私はどうなっていたでしょうか。神は二人に共に、どれほど多くの恵みを与えてくださったことでしょう。二人組で福音を告げながら、どれほど楽しい時を過ごしたことでしょう。この兄弟のゆえに、神がたたえられますように。 本文へ戻る
[17] 『カトリック教会のカテキズム』1750、1751、1755、1756項。 本文へ戻る
人間の行為の道徳性は、次のものによって決まります。
- 選ばれた対象。
- 目指す目的、または意図。
- 行為を取り巻く状況。
選ばれた対象は、意志が意識して向かう善です。それが人間の行為の素材となります。理性がその対象を、真の善にかなうものか、かなわないものかと認識し判断することに応じて、選ばれた対象は、意志の行為を道徳的に規定します。客観的な道徳の規範は、良心が証しする、善と悪の理性的な秩序を言い表しています。
悪い目的は、行為の対象がそれ自体として善くても、その行為を損ないます。
したがって、人間の行為の道徳性を、その動機である意図や、行為の枠組みとなる状況〔環境、社会的圧力、強制、行為の必要性など〕だけで判断するのは、誤りです。状況や意図とはかかわりなく、その対象のゆえに、それ自体で、つねに重大な悪となる行為があります。たとえば、冒瀆、偽誓、殺人、姦淫です。善を得るために悪を行うことは、許されません。
[18] コヘレト10・1. 本文へ戻る
[19] 申命記6・4. 本文へ戻る
[20] エヴァグリオス、 Antirrhetikós, p. 38. 本文へ戻る
[21] 参照:ヤコブ5・13. 本文へ戻る
[22] 創世記3・3-5. 本文へ戻る
[23] エヴァグリオス・ポンティコス, Antirrhetikós, p. 38. 本文へ戻る
[24] 同書 本文へ戻る
[25] ルカ11・34-36. 本文へ戻る
[26] ヨハネ1・16. 本文へ戻る
[27] 参照:ヨハネ3・17. 本文へ戻る
[28] T. シュピドリーク『La spiritualità dell’oriente cristiano』、Pontificio Istituto Orientale、ローマ、1985年、p. 228に引用。〔スペイン語訳:T. Spidlik, La espiritualidad del Oriente cristiano, Monte Carmelo、ブルゴス、2004年。〕 本文へ戻る
[29] 証聖者マクシモス『Quaestiones ad Thalassium』、PG 90, 257b。 本文へ戻る
[30] ルカ19・10. 本文へ戻る
[31] ビニャーミは、卒業資格試験に備える学生たちが広く使う学習資料です。本当にありがたく、試験前の復習に役立ちます。小さなポケット判で、学校の学習課程で扱うすべての内容と主題を収めています。学校で学んだあらゆる主題を、図式的、簡潔にまとめて収録してしまう、この小さな本の便利さと実用性には、注目すべきものがあります。〔スペイン語訳者注〕 本文へ戻る
[32] この主題をすでに学んでいる方のために、冒頭の注でエヴァグリオス・ポンティコスの原典を挙げました。ただ、読者への親切として、一言しておかなければなりません。信仰講座を行ったとき、多くの人が急いで本を買いに行きました。その本には、偉大なガブリエル・ブンゲの見事な序文があり、これは心からお勧めします。しかし、いざ反駁の本文を読み始めると……何もわからなかったのです。予想できたことでした。文章はあまりに密度が高く、そぎ落とされているので、講座では、たった七つか八つの反駁を説明するだけで、少なくとも一時間かかりました。そのため、ラジオ放送では扱えず、本書でも例として、ごくわずかしか見ません。すべてを扱うには、膨大な紙幅が必要でしょう……。ですから、『アンティレティコス』を買っても、まるでわからなかったとしたら、前もって申し上げたとおりです。 本文へ戻る
[33] ルカ4・3. 本文へ戻る
[34] エヴァグリオス・ポンティコス, Trattato pratico, Qiqajon, Magnano (Biella) 2008, p. 79. [スペイン語訳: エヴァグリオス・ポンティコス, «Tratado práctico», 『Obras espirituales』所収, Editorial Ciudad Nueva, Madrid 1995, p. 138]. 本文へ戻る
[35] 同書 p. 138. 本文へ戻る
[36] ほかで書いたことを本文には入れず、ここに簡単に振り返っておきます。アッシジのフランシスコは、自筆の遺言のラテン語で、「cum essem peccator」ではなく、「Quia cum essem in peccatis nimis michi videbabur amarum videre leprosos」と言います。「私は罪の中にいたので、ハンセン病の人々を見るのが、ひどく苦く感じられたからです」という意味です。なぜでしょうか。フランシスコにとって、人間は美しい存在です。罪人であるのではなく、罪の中にいるのです。罪から出るとき、本来の自分になります。 本文へ戻る
[37] ルカ10・21. 本文へ戻る
[38] エヴァグリオス・ポンティコス, Sentenze. Gli otto spiriti della malvagità, 前掲書, p. 79. 本文へ戻る
[39] 同書, p. 127. 本文へ戻る
[40] コヘレト1・8. 本文へ戻る
[41] 「エドム」は、ヘブライ語では、物語にあるレンズ豆の色のように、「赤みがかった」という意味になります。この取り違えのため、エサウは「レンズ豆の男」と呼ばれることになりました。 本文へ戻る
[42] 創世記25・29-34. 本文へ戻る
[43] ルカ6・25. 本文へ戻る
[44] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, San Paolo, Cinisello Balsamo (Milano) 2006. p. 127. 本文へ戻る
[45] マタイ4・4. 本文へ戻る
[46] ヨハネ4・31-34. 本文へ戻る
[47] 申命記8・3参照。実を言えば、ヨハネ4・32で弟子たちに答えられるときにも、イエスは同じ章を引用しておられます。 本文へ戻る
[48] マタイ27・33-34. 本文へ戻る
[49] マタイ27・34についての『エルサレム聖書』の脚注は、簡潔で示唆に富んでいます。「苦しみを和らげるため、情け深いユダヤ人の女性たちが処刑される者に差し出す習慣のあった、酔わせる飲み物。ルカ23・27以下参照。実際、このぶどう酒に混ぜられたのは、むしろ『没薬』であった。マタイ15・23参照。マタイの『苦いもの』は、詩編69・22の記憶による〔アンティオキア系本文で『ぶどう酒』が『酸いぶどう酒』に訂正されているのも同様〕。イエスはこの麻酔の飲み物を拒まれる。」 本文へ戻る
[50] ルカ23・34. 本文へ戻る
[51] ルカ23・43. 本文へ戻る
[52] ヨハネ19・26-27. 本文へ戻る
[53] マルコ15・34. 本文へ戻る
[54] ヨハネ19・28. 本文へ戻る
[55] ヨハネ19・30. 本文へ戻る
[56] ルカ23・46. 本文へ戻る
[57] マタイ6・6参照。「あなたが祈るときは、自分の部屋に入り、戸を閉めて、隠れたところにおられる父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、報いてくださる。」 本文へ戻る
[58] 「観想は、ある汚れた思いを徳の実践の道の上で、またあるものを道の外で捉える。神の掟を行うのを妨げるものは皆、道の外に陣取っている。これに対し、掟を行わないよう説き伏せるのではなく、人に見せるために行うよう勧めるものは、皆、道の上で見いだされる。」エヴァグリオス・ポンティコス『Sui Pensieri』、前掲書、p. 86。 本文へ戻る
[59] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 127. 本文へ戻る
[60] 参照:マルコ5・9 または ルカ8・30. 本文へ戻る
[61] コリントの信徒への手紙一6・18-20. 本文へ戻る
[62] 司牧憲章『現代世界憲章』(Gaudium et Spes)、14項。 本文へ戻る
[63] 聖ヨハネ・パウロ二世の崇高な教えについての優れた要約は、ヨハネ・パウロ二世『Compendio della teologia del corpo』、Yves Semen編、Ares、ミラノ、2017年に見いだせます。 本文へ戻る
[64] 奢侈と脱臼の語源的なつながりを見つけられたのは、友人ダリオ・ブレッサンのような医師ならではです。その後、さまざまな語源分析の資料によって、両語が同じ起源をもつことが十分に確認されました。 本文へ戻る
[65] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 127. 本文へ戻る
[66] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 127. 本文へ戻る
[67] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 127. 本文へ戻る
[68] はっきりさせておきましょう。教皇フランシスコでも、聖ヨハネ・パウロ二世でも、パウロ六世でもありません。1930年に〔!〕、貞潔であると同時に実り豊かな結婚について語る回勅『カスティ・コンヌビイ』を書いたのは、ピオ十一世です。しかも、何か新しいことを言っているわけではありません。なんという無知でしょう……。 本文へ戻る
[69] 『カトリック教会のカテキズム』2337項参照。「貞潔とは、性が人格の中に正しく統合され、それによって身体的、霊的存在である人間の内的一致が実現することである。」 本文へ戻る
[70] 参照:ルカ19・1-10. 本文へ戻る
[71] ルカ15・13. 本文へ戻る
[72] エヴァグリオス・ポンティコス, Contro i pensieri malvagi. Antirrhetikós, 前掲書 本文へ戻る
[73] 同書, p. 59. 本文へ戻る
[74] エヴァグリオス・ポンティコス, Sentenze. Gli otto spiriti della malvagità, 前掲書, p. 83. 本文へ戻る
[75] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 129. 本文へ戻る
[76] エヴァグリオス・ポンティコス, Sentenze. Gli otto spiriti della malvagità, 前掲書, p. 85. 本文へ戻る
[77] Oratorio Secolare di S. Filippo Neri, La visita alle VII Chiese, Tip. A.G.A.P.、ローマ、1962年、p. 40。 本文へ戻る
[78] ルカ16・10。この翻訳には、ひとつうめかせてください。はい、おしまい。もう気が済みました。 本文へ戻る
[79] 『列福・列聖調査の教会法上の手続きについての覚書』〔2001年3月11日改訂〕、p. 4。 本文へ戻る
[80] 知らない方への注です。第六戒は「姦淫してはならない」、第七戒は「盗んではならない」です。基本が恋しくなります……。 本文へ戻る
[81] テモテへの手紙一6・8-10. 本文へ戻る
[82] 参照:マルコ10・17-22. 本文へ戻る
[83] マタイ6・24、またはルカ16・13。実際の語は「マンモン」で、ヘブライ語の語根アーマンに由来します。「何かに身を寄せる、誰かを信じる」という意味で、もう一つの信仰、もう一つの支え、神の代わりとなるものを表しています。 本文へ戻る
[84] 2013年6月5日の一般謁見参照。 本文へ戻る
[85] エヴァグリオス・ポンティコス, Sentenze. Gli otto spiriti della malvagità, 前掲書, p. 85. 本文へ戻る
[86] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 1. 本文へ戻る
[87] マタイ6・27; ルカ12・25. 本文へ戻る
[88] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 129. 本文へ戻る
[89] 創世記12・1-2. 本文へ戻る
[90] マルコ1・16-18. 本文へ戻る
[91] マタイ6・19-21. 本文へ戻る
[92] イザヤ30・15. 本文へ戻る
[93] エヴァグリオス・ポンティコス『A Eulogio』、前掲書、p. 128。ここにあるギリシア語本文を、私はあらためて訳し直しました。その価値はあります。 本文へ戻る
[94] マタイ5・3. 本文へ戻る
[95] イザヤ40・30-31. 本文へ戻る
[96] エヴァグリオス・ポンティコス, Tratado de las réplicas, 前掲書, p. 109. 本文へ戻る
[97] マドレーヌ・デルブレル『Noi delle strade』、Gribaudi、トリノ、2000年、p. 65。〔スペイン語訳:Madeleine Delbrêl, Nosotros, gente de la calle, Estela、バルセロナ、1971年。〕 本文へ戻る
[98] エヴァグリオス・ポンティコス, Tratado de las réplicas, 前掲書, p. 109. 本文へ戻る
[99] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, pp. 129-131. 本文へ戻る
[100] エヴァグリオス・ポンティコスは、その著作で、貪欲のあとに、悲しみの悪徳を置くこともあれば、怒りを置くこともあります。どちらが先なのでしょうか。実際、この二つのロギスモイは、かなり深く結びついています。本書では、この箇所で怒りを扱う『アンティレティコス』の順序に従います。 本文へ戻る
[101] 民数記12・3. 本文へ戻る
[102] 参照:民数記20・1-13. 本文へ戻る
[103] 申命記32・48. 本文へ戻る
[104] 参照:ヤコブ1・2. 本文へ戻る
[105] ルカ14・25―27参照。甘く言い換えていない1974年訳によります。 本文へ戻る
[106] エフェソ4・26―27。怒りの罪を犯さずに済むよう、冒頭の言葉がより適切だと考える1974年訳を選びました。 本文へ戻る
[107] 参照:創世記4・1-8. 本文へ戻る
[108] ルカ6・41-42. 本文へ戻る
[109] ルカ6・36-38. 本文へ戻る
[110] 創世記4・4-7. 本文へ戻る
[111] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, pp. 129-131. 本文へ戻る
[112] エヴァグリオス・ポンティコス『A Eulogio』、前掲書、ギリシア語原文p. 130。 本文へ戻る
[113] マタイ5・5. 本文へ戻る
[114] 列王記上21・3. 本文へ戻る
[115] 参照:テモテへの手紙一1・18; 6・12; テモテへの手紙二4. 本文へ戻る
[116] ジョルジョ・ガーベル「Un’idea」、Alessandro Luporini / Giorgio Gaberscik作、© Curci Edizioni S.r.l. 本文へ戻る
[117] 「……偽りのゆるしの章を開こう。職務上のゆるし、思い上がったゆるし、一時的なゆるし、選り好みするゆるし、感傷的なゆるし、力ずくのゆるし、義務としてのゆるし、要求されるゆるし、教会的なゆるし、頭ではゆるしても心ではゆるさないゆるし……。まだ続けようか。きりのない一覧だ。ゆるしは、トゥフェッロのザッハトルテや、コーラ・グイッツァに少し似ている。出回りすぎて、ありきたりになった商品だ。()交わりとは、顔の筋肉を巧みに動かすことだと思い込む、教会的な作法。歯ぎしりすれすれの笑顔である。脅かされていると口にするのは、体裁が悪いからだ。だが、別の場では、振り子の揺り戻しのように、必要な塩酸の量を取り戻す。(……)大半の人は、ゆるしの実践を果たしたいと願い、自分の力量を測って、できるものを生み出す。これはゆるすが、あれはゆるさないというゆるし。ホルモンの波が引くまでしか続かないゆるし。胃食道逆流のようなあわれみ。汗まみれで、内臓を本来の場所から飛び出させる、いわゆるヘルニアをもたらすもの。」ファビオ・ロジーニ『Solo l’amore crea』、San Paolo、チニゼッロ・バルサモ〔ミラノ〕、2016年、pp. 140―141。〔スペイン語訳:Fabio Rosini, Solo el amor crea: Las obras de misericordia espirituales, Rialp、マドリード、2018年。〕 本文へ戻る
[118] 創世記50・19-21. 本文へ戻る
[119] 参照:創世記45・5. 本文へ戻る
[120] 参照:エフェソ2・4. 本文へ戻る
[121] テモテへの手紙一2・5. 本文へ戻る
[122] シラ15・20. 本文へ戻る
[123] エヴァグリオス・ポンティコス. Tratado de las réplicas, 前掲書, p. 157. 本文へ戻る
[124] サムエル記下16・11-12. 本文へ戻る
[125] 参照:ルカ6・37. 本文へ戻る
[126] 『フランシスコ会史料』278。少し詳しく説明します。これは私の思いつきでも、私自身の知恵でもなく、親愛なるアルチェオ・グラツィオーリ神父からいただいた知恵です。この出来事は一般に「完全な喜び」として知られていますが、広まっているのは、フランシスコが本人だとわかってもらえない、穏やかにした版です。しかし、『史料』の注が強調するとおり、ここに引用したものが原型です。そこでは、フランシスコだとわかっていながら、兄弟は明確な理由で戸を開けません。「出ていけ。お前は単純で、無学な人間だ。もう私たちと一緒には来るな。私たちは大勢いるし、立派な者もそろっている。お前は要らない。」フランシスコが、初めとは異なる組織の要求に合わせず、あまりに福音的な道を守り続けたため、兄弟たちがもうそばにいてほしくないと望んでいた、悲劇的な時期でした。ラ・ヴェルナで聖痕を受けるころが近づいていました。そこでフランシスコは、弟子たちに見捨てられ、十字架につけられた、愛する主イエスと、身体においても同じ姿になります。しかし、それは『いと高き神への賛美』(FF 261)の時でもあり、フランシスコの喜びが最高の頂点に達する時でもあります。 本文へ戻る
[127] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 129. 本文へ戻る
[128] コリントの信徒への手紙二7・10。 本文へ戻る
[129] エヴァグリオス・ポンティコス, «Tratado práctico», 『Obras espirituales』所収, 前掲書, p. 144. 本文へ戻る
[130] エヴァグリオス・ポンティコス, Sentenze. Gli otto spiriti della malvagità, 前掲書, p. 88. 本文へ戻る
[131] 同書 本文へ戻る
[132] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio. 前掲書, p. 129. 本文へ戻る
[133] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 129. 本文へ戻る
[134] コリントの信徒への手紙二7・10. 本文へ戻る
[135] マルコ1・14-15. 本文へ戻る
[136] ルカ24・46-47. 本文へ戻る
[137] ヨハネ21・17. 本文へ戻る
[138] ヨハネ13・36-38. 本文へ戻る
[139] ヨハネ21・18-19. 本文へ戻る
[140] フィリピ4・4―7、1974年訳。 本文へ戻る
[141] ヨハネ15・17. 本文へ戻る
[142] ヴィクトリア・ルッリ先生に感謝します。航空機の操縦士や宇宙飛行士の養成、また豊かな臨床経験をもとに、見事な講義でこの誤解を説明してくださいました。精神力動の観点だけにとどまらず、この広く見られる誤解に結びついた、教育、人間関係、社会のさまざまな側面を深めてくださいました。 本文へ戻る
[143] 参照:ガラテヤ5・22. 本文へ戻る
[144] ルカ6・20-26. 本文へ戻る
[145] 参照:T. Spidlik, La spiritualità dell’oriente cristiano, 前掲書, p. 158. 本文へ戻る
[146] マタイ7・16-20. 本文へ戻る
[147] 『Manoscritti autobiografici di Santa Teresa di Gesù bambino, Storia di un’anima』、Áncora、ミラノ、1986年、p. 121。〔スペイン語訳:リジューの聖テレーズ『Historia de un alma』、San Pablo、マドリード、2007年、p. 70。〕 本文へ戻る
[148] 同書, p. 71. 本文へ戻る
[149] 同書, p. 71. 本文へ戻る
[150] フィリピ4・4―5。ここでも1974年訳。 本文へ戻る
[151] 詩編2・4. 本文へ戻る
[152] エヴァグリオス・ポンティコス, Tratado de las réplicas, 前掲書, p. 146. 本文へ戻る
[153] 同書, p. 152. 本文へ戻る
[154] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 131. 本文へ戻る
[155] エヴァグリオス・ポンティコス, «Tratado práctico», 『Obras espirituales』所収, 前掲書, pp. 140-141. 本文へ戻る
[156] エヴァグリオス・ポンティコス, Sentenze. Gli otto spiriti della malvagità, 前掲書, p. 92. 本文へ戻る
[157] テサロニケの信徒への手紙二3・11、1974年訳。 本文へ戻る
[158] テサロニケの信徒への手紙二3・12。ここでも厳密に1974年訳によります。2008年訳の創造性については、慈悲深く口をつぐんでおきましょう。 本文へ戻る
[159] 「欺きの入り口」の章参照。 本文へ戻る
[160] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 131. 本文へ戻る
[161] エヴァグリオス・ポンティコス. «Tratado práctico», 『Obras espirituales』所収, 前掲書, p. 141. 本文へ戻る
[162] ヨハネ15・4-6. 本文へ戻る
[163] 詩編40・2―3、1974年訳。異論のありうる私見ですが、2008年版の詩編の翻訳は、翻訳史上の最高傑作とは、必ずしも言えません……。 本文へ戻る
[164] 詩編125・1. 本文へ戻る
[165] 詩編119・71. 本文へ戻る
[166] 神を信じる技法を学ぶ、ということです。それ自体が体験であり、道のりであって、議論ではありません。本書は、存在のよい秩序についての三部作の第三巻です。今度は、神がお望みなら、信仰の師であるおとめマリアに学び、祝福された信仰の技法を身につけるのが、ふさわしいでしょう。実現できるかどうかは、わかりません。 本文へ戻る
[167] 参照:ヨシュア6・1―7・26. 本文へ戻る
[168] 校正しながらこの言葉を読み返し、それを書いたのが、脳卒中のほんの数日前だったと思うと、強く胸を打たれます。その脳卒中によって、この言葉は悲劇的にも真実になりました。今、この注の一語一語を書くことに苦労しながら、その言葉がどれほど的確かを、強調したいと思います。摂理を軽くあしらえるなどと、誰も思わないでください。神が機会をくださるなら、無駄にしてはなりません。恵みは決して浪費すべきものではなく、人生は真剣なものであり、私たちの時間には限りがあるのです。 本文へ戻る
[169] ヌルシアの聖ベネディクト『戒律』第4章50。 本文へ戻る
[170] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 131. 本文へ戻る
[171] 同書, p. 13. 本文へ戻る
[172] 同書, p. 131. 本文へ戻る
[173] エヴァグリオス・ポンティコス, Contro i pensieri malvagi, 前掲書, p. 87. 本文へ戻る
[174] コヘレト1・2. 本文へ戻る
[175] コヘレト1・14. 本文へ戻る
[176] エヴァグリオス・ポンティコス, Sentenze. Gli otto spiriti della malvagità, 前掲書, p. 94. 本文へ戻る
[177] 同書, p. 92. 本文へ戻る
[178] コリントの信徒への手紙一13・1-3. 本文へ戻る
[179] マタイ6・1-4. 本文へ戻る
[180] コヘレト4・4. 本文へ戻る
[181] 偉大なルネ・ジラールについて、どうすれば短い言葉で何かを語れるでしょうか。身代わりのいけにえの仕組みの分析や、模倣的欲望の研究は、洗練された展開を伴いながら、彼の著作の全体に散りばめられています。基礎となる『Cosas ocultas desde la fundación del mundo』、Sígueme、サラマンカ、2021年から、ベストセラー『El chivo expiatorio』、Anagrama、バルセロナ、2006年へ。さらに、尽きることなく光と驚きを与える著作群へと続き、『Clausewitz en los extremos: política, guerra y apocalipsis』、Katz、ブエノスアイレス、2010年の総合に至り、ほかにも多くのものがあります。2015年に彼が亡くなって以来、世界は貧しくなりました。 本文へ戻る
[182] 出エジプト記20・17. 本文へ戻る
[183] 創世記3・5. 本文へ戻る
[184] 創世記3・6. 本文へ戻る
[185] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 133. 本文へ戻る
[186] 否定の意味で用いられる in については、injusticia〔不正〕、inimaginable〔想像できない〕、irrefutable〔反駁できない〕、enemistad〔敵意〕、inopinable〔予想できない〕、incumplimiento〔不履行〕、irreparable〔修復できない〕といった語を考えるとよいでしょう。 本文へ戻る
[187] ヨハネの手紙一2・16. 本文へ戻る
[188] 参照:創世記1・11-12.21.24-25. 本文へ戻る
[189] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 133. 本文へ戻る
[190] エヴァグリオス・ポンティコス, Sentenze, 前掲書, p. 93. 本文へ戻る
[191] イザヤ53・2-3. 本文へ戻る
[192] エヴァグリオス・ポンティコス, Sentenze, 前掲書, pp. 94-95. 本文へ戻る
[193] 出エジプト記12・22. 本文へ戻る
[194] ヨハネ5・44. 本文へ戻る
[195] 元老院議員の家系に生まれたローマ人アルセニオスは、四十歳までビザンツの宮廷に住み、テオドシウス帝の子ホノリウスの教育係を務めました。「まだ皇宮にいたころ、彼は神にこう祈った。『主よ、私の魂が救われる生き方へ導いてください。』すると、『アルセニオスよ、人々から逃れよ。そうすれば救われる』という声が聞こえた。隠修者となってから同じ祈りを繰り返すと、『アルセニオスよ、逃れよ。沈黙せよ。独り静かに過ごすことを実践せよ〔hesychaze〕。それが、罪のない生活の根である』という声を聞いた。」『砂漠の師父たちの生涯と言葉』、前掲書、p. 97。アルセニオスは、ヘシュカスト、すなわち静けさを求める独住の修道者たちにとって、最も重要な模範です。彼らはエヴァグリオスの仲間に当たります。 本文へ戻る
[196] コリントの信徒への手紙一13・4-7. 本文へ戻る
[197] 『カトリック教会のカテキズム』2477項。「客観的に正当な理由もなく、他人の欠点や過ちを、それを知らない人々に明かす者は、中傷の罪を犯す。」 本文へ戻る
[198] 参照:ペトロの手紙一4・8. 本文へ戻る
[199] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 133. 本文へ戻る
[200] 聖大グレゴリオ教皇『Moralium in Librum B. Job』、XXXI, 45:PL 76, col. 620。 本文へ戻る
[201] 創世記11・4. 本文へ戻る
[202] 創世記11・3. 本文へ戻る
[203] イザヤ14・12-14. 本文へ戻る
[204] マタイ16・26. 本文へ戻る
[205] V. S. ソロヴィヨフ『Il breve racconto dell’Anticristo』、G. Piovesana — M. Tenace『L’Anticristo, con traduzione del saggio di Solv’ëv』、Lipa、ローマ、2019年、p. 40。〔スペイン語訳:ウラジーミル・ソロヴィヨフ『Los tres diálogos y el relato del Anticristo』、El Buey Mudo、マドリード、2016年。〕 本文へ戻る
[206] American Psychiatric Association, Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders〔第III版、III-R、IV、IV-TR、5〕、Washington: APA Press、1980、1987、1994、2000、2013年。訳して掲載した本文は、まさに『精神疾患の診断・統計マニュアル』最新版の表です。世界保健機関も、これを参考にしています。 本文へ戻る
[207] ルカ18・10-12. 本文へ戻る
[208] ルカ18・13-14. 本文へ戻る
[209] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 133. 本文へ戻る
[210] 箴言16・18. 本文へ戻る
[211] エヴァグリオス・ポンティコス, Sentenze. Gli otto spiriti della malvagità, 前掲書, p. 94. 本文へ戻る
[212] 同書 本文へ戻る
[213] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, 前掲書, p. 133. 本文へ戻る
[214] 創世記11・5-7. 本文へ戻る
[215] 教皇フランシスコ、サンタ・マルタでの説教、2018年1月28日。「低くされることなしに、真の謙遜はありません。この恵みを願いましょう。そして、勇気のある人なら、聖イグナチオが教えるように、主にさらに似るため、自分に屈辱をお送りくださるよう、願うこともできます。」 本文へ戻る
[216] 詩編119・67. 本文へ戻る
[217] 詩編119・71. 本文へ戻る
[218] 『Detti e fatti dei Padri del Deserto』、C. Campo、P. Draghi編、Rusconi、ミラノ、1975年、p. 32。 本文へ戻る
[219] ルカ1・50-54. 本文へ戻る
[220] ルカ18・14. 本文へ戻る
[221] エヴァグリオス・ポンティコス, A Eulogio, p. 135. 本文へ戻る
[222] イザヤ55・1-2. 本文へ戻る
[223] 詩編34・9. 本文へ戻る
[224] ヨハネ2・16-17. 本文へ戻る
[225] 詩編97・10. 本文へ戻る
[226] ルカ14・26。2008年の、信じがたいほど甘く言い換えた訳ではなく、より忠実なイタリア司教協議会〔CEI〕1974年訳によります。 本文へ戻る
[227] コリントの信徒への手紙一3・21以下 本文へ戻る
[228] ルカ12・33. 本文へ戻る
[229] 参照:マタイ25・1-13. 本文へ戻る
[230] 参照:コリントの信徒への手紙二7・10. 本文へ戻る
[231] 『Leggenda dei tre compagni』より、FF 1413。スペイン語版『La leyenda de los tres compañeros』:www.franciscanos.org/fuentes/leyendatrescom01.html 本文へ戻る
[232] イグナシオ・ララニャガ『Nostro fratello di Assisi. Storia di un’esperienza di Dio』、Messaggero、パドヴァ、2012年は、このように表現しています。〔スペイン語訳:Ignacio Larrañaga, El hermano de Asís. Historia de una experiencia de Dios, San Pablo、マドリード、1998年。〕 本文へ戻る